第11話

ドン、ドン、ドン、ドン……


 翌日の早朝。

 玄関の引き戸を叩くけたたましい音。

「杏子(きょうこ)さん! 杏子さん!」

「?」


 寝巻きのまま、急いで開けると、犬を連れた帆(かい)だった。

「蒼眞(そうま)さんがおかしな行動とったら、即、知らせろって約束させられたから――」

「何かあったの?」

「蒼眞さん、水着持って、出かけた! 僕、散歩のふりして途中までつけたんだ」

「ああ、だから、犬?」

 飛びついて顔を舐めようとする大型犬に少々迷惑顔の杏子だった。

「タマトリ池の方へ行ったよ! その先は一本道だから、もう間違いないと思って、僕は引き返して来たんだ」

「待ってて、着替えてくる!」

「って、僕も一緒に行かなきゃダメ? 密告したみたいで、なんか、嫌だな」

 大急ぎでスカートをはきブラウスのボタンを止めながら杏子は言った。

「気にすることないわよ。だって、疑われて当然の怪しい振る舞いをしてるんですもの」




 果たして。

 杏子と帆がタマトリ池に着いた時、蒼眞の姿はなく、畔(ほとり)に下駄とタオル、脱いだシャツとズボンが置いてあった。

 きちんと畳んでひとところにまとめられているそれら衣類を見て、一瞬、杏子はいなくなった娘たちのことを思い出した。

 彼女たちもこうして、身につけていたものを、たった今脱いだみたいにして、置いて行ったのだ。

 その先は全裸で?

 若い娘が裸のまま赴くとしたらそこは何処だろう?

 私だったら?

 服をこう一枚一枚脱いで……ブラウスにスカート、ソックスは履いてないから、シュミーズ、次はブラジャー、そうして、最後はズロース。そうだ、リボンも解かなけりゃ。

 そうやって、生まれたままの姿になって、何処へ行く?

 何処へ行きたい?

 そんな恥ずかしい姿で、行きたい場所は一つしかない。

 恋人の腕の中――


 パシャ……

 (水音?)

 杏子は我に返った。

 見ると、蒼眞が池から上がって来た。




 蒼眞は畔に杏子たちがいるのを知ってもさほど驚かなかった。

 むしろ、ちょっと面白そうに笑って、

「やあ?」

「あ、蒼眞さん、僕ね」

 慌てて言い訳しようとする帆を遮って、

「別に構わないさ」

 水滴を滴らせて蒼眞は二人の目の前まで戻って来た。

(へえ? 着痩せするんだ。もっと、華奢かと思った……)

 薪割りで袖抜きしていたこの前より、更に近くに蒼眞の裸の身体がある。

 浅黒くて、しなやかな肢体。

 想像していたより、筋肉質で、逞しかった。

 目のやり場に困る。

 でも、わざと平気な顔をして、挑むように顎を上げ、その裸体を直視し続ける杏子。

 私は〈シャルロットの乙女〉じゃないんだから。

 何を直接見たって構わないのよ。それとも――


  《 鏡は横にひび割れて その身に呪いが降りかかる 》


「何をしてたんですか、そんな格好で?」

 果敢にも杏子は問い質した。

「ご覧の通り」

 青年は胸を反らせた。逆光。乳首に溢れる一雫(ひとしずく)。

「潜ってみたのさ。ひょっとして、底に何か沈められていないかと――」

 少年が素っ頓狂な声を上げる。

「凄い! 水泳、得意なんだ!」

「セーヌ川で泳いだこともあるよ。尤も、流されて、もう少しで溺れるところだった。川は危ないな? その点、池はいい。水が流れず留(とどま)っているから」

「ここ、人が入っちゃいけないんですよ。この前、そう教えましたよね?」

「だからさ」

 澄ました顔で蒼眞。

「僕は人じゃないもの」

「あ」


 ……阿修羅(あしゅら)?


「嫌だな、そんなに驚くなよ。つまり、僕の言ってるのは、〝村人〟じゃないってこと」

 固まってしまった女学生に、微笑みながら蒼眞は説明した。

「君たち、村の住人には禁忌(タブー)は破れないだろ? その点、異邦人(エトランゼ)の僕なら平気だから、やってみようと思ったのさ」

 感謝しろよ、という風にウィンクしてみせた。

 パリ仕込みの小粋な、本物のウィンク。

「――」

 ああ、また! 頬が赤らむのが自分でもわかる。でも、どうしようもない。

「そ、それで、何か見つかったんですか?」

「残念ながら、池の周囲には何もないみたいだ。もっと奥の方、中央辺りはわからないけど――何?」

 それは無意識の行動だった。

 杏子は一歩踏み出して、蒼眞の腕にハンカチを巻きつけた。

「蒼眞さん、血!」

「え? ああ? 気づかなかった。水中の岩場で引っ掛けたかな? ありがとう」

 覗き込むようにして、真っ直ぐに瞳を捉えて長身の青年は礼を言った。

「それにしても――用意がいいんだな?」

「べ、別に」

 嬉しくて、余計にぞんざいな口調になる。

「こんなの当然です。女の子は皆、常にハンカチくらい持ってます」

 やっぱり! 見た目以上に腕が太い。胸が厚い。

「あ!」

 突然響いた帆の声。

 少年の視線は寄り添う二人を素通りして、池を取り巻く木々に向けられていた。

 その仄暗い根元にあるもの。あれは何だろう? 

 畳まれた衣類?

「あれ、まさか――?」

「……嘘、紫(ゆかり)ちゃん?」

 走り出そうとした杏子を後ろから制す両腕。まだ濡れた、冷たい蒼眞。

 さっき自分の指で結んだハンカチが蝶々のように杏子の耳の辺りで揺れた。

「落ち着いて、杏子さん!」

 蒼眞は杏子を抱きかかえながら、少年に指示した。

「帆! 犬は縛っておけ! 何処も荒らしちゃダメだ。ここは、そのままにして――すぐ警察に連絡だ!」

「う……うん」

「嫌……紫ちゃん……!?」





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