第49話
全て夢だと思いたかった。
だから、目醒めたくなかった――
のろのろと目を開けると、古い家屋の低い天井……若草山の緑……
見慣れた風景に異質なものが一つ。
窓の手摺りに凭れて座っている裸の少年。
「――」
最悪の朝にも拘わらず、一瞬、見蕩れてしまう、美に反応する自分を呪った。
その性癖のせいで昨夜も――
あの奈落へ自ら滑落したのだ……!
美に惑溺して醜態を演じるとは何という皮肉。
本当に夢ならよかった。
「目が醒めた? フフ、よぉくお休みだったねえ? もうお昼だよ」
手摺りに肘を引っ掛けたまま少年が振り返る。
隅の小机に視線を走らせて言った。
「いつもそんなに熟睡できるなら
バラバラと無造作に置かれた錠剤の山のことを少年は言っている。
「ベロナールだろ? あんたも不眠症なんだ?
「
枕から顔を上げて
「初めから……俺をハメるために来たのか? 全て……
「誰の策略か、なんて、そんなことどうでもいいさ!」
青年の方へ向き直ると、足を組み替える。
明るい陽射しの中で、自らの肢体を誇示するかのように少年は何処も隠そうとしなかった。
「僕は警告に来たんだ。最初に
今、相手が自分の美に見惚れているのを少年は充分に知っている。
紅潮して先に目を逸らしたのは青年の方だった。
「そう言うわけで――言っとくね? 今後、僕らのことに首を突っ込むのはよせよ?」
少年は付け足した。
「あんた、目障りなんだよ。とっとと
「……どんなことになるんだい?」
「今度こそ、僕は一直線に警察へ行くよ」
興梠は戦慄した。少年の言葉ではなく笑い方に。
「そして、されたこと全て、洗い晒し、包み隠さず、訴えてやる。勿論――」
ここで、言葉を切って唇を舐めた。
その舌の味を興梠は知っている。昨夜自分を蕩けさせた口唇。
だから、見せつけているのだ。わざと。
「クソッ」
快楽の悲鳴を上げた自分が呪わしい。
「これをやったのは
痣の浮いた部分――首、胸、腰。太腿から、クルッと反転して、臀。
それらを順に自分の手で撫で回しながら少年は言った。
「見ろよ! ここも、ここだって――この酷い体を見たら、さぞかし、怖いお巡りさんたちも皆、同情してくれるだろうな? そして、こんなこと平気でする
少年は丸い肩を揺すった。
その姿を見て興梠は思った。
昨夜も、思ったのだが。
夢中になって我を忘れたのは事実だ。
俺は嬉々として……
存分に……思う様……味わったさ!
終いには、歯止めが利かなくなって――
本当にあんなおぞましい真似まで自分がしたんだろうか?
一夜明けた今、立場は逆転している。
少年は容赦しなかった。
「いや、もっとかな? あんたの場合はやっぱりこう書かれるだろうな?《悪魔の父子》《受け継がれた淫靡の血》……!」
いたぶるように言葉を重ねた。
「父親が〈標本人形〉なら息子は〈少年人形〉か?」
「貴様……」
「あ―、僕、嘘は言ってないぜ? 昨夜、散々僕で遊んだじゃないか? あんなことや……こんなこと……」
また舌なめずりをした。
「僕、驚いちゃったな! あそこまでやるとは思わなかった――」
「やめろ、誘ったのはおまえだ! 俺は――」
「ふふん?」
少年はせせら笑った。
「なんとでも言えばいいや。 とにかく――僕は、昨夜のあんたとのこと、全部、泣きながら警察の人たちに訴えるからね? 紛れもない事実なんだから。それが嫌なら消え失せろってことさ!」
地の底から染み出すような声で興梠は言った。
「杏子さんが言っていた通り――おまえは本当に阿修羅だな?」
実際、地の底にいる気分がした。
「そりゃないよ! 何、その一方的に傷ついた言い草? あんただっていい思いしたくせに?」
「なんだと?」
「むしろ感謝しろよ? 僕のおかげで、女の子は人形でなきゃ無理でも、男の子なら生身で大丈夫だってわかったんだから! 大いに今後の展望が開けた――」
傍にあった灰皿を青年は投げつけた。すんでのところで少年は
灰皿は窓を
すかさず顔を出して下を確認する
「気をつけろよ! もう少しで鹿に当たるとこだったじゃないか! 可哀想に……」
「出て行け!」
布団を被って興梠は倒れ込んだ。
今は何も考えられない。
浮かび上がるのは絶望の二字。それ以外にあるとしたら――
甘美な夢の名残り、狂楽の
あの絵は何て言ったっけ? 後ろから天使に抱かれている聖フランチェスコ。
あれは法悦……究極の
昨夜の俺もあんな顔してたんだろうか?
「嫌だ、出て行かない」
窓から離れると少年は傍らに戻って来た。
「だって、あんた、あの素敵な愛車で僕を家まで送ってくれるって約束したじゃないか? そこまではやり遂げてもらわなきゃ」
「どうせもうこの時間だ。学校は休むことにしたよ。お腹もすいたしさ、最後に何処かでお昼、ご馳走してよ? 洋食がイイな! 但し、Nホテルは御免だよ? あそこはウンザリだ!」
だって、あそこは……
気のせいか少年の顔が翳ったように見える。
尤も、布団を被っていた帝大生にはその表情は見えなかったが。
悪夢を払拭するように首を振って、殊更明るい声で少年は
「僕はハンバーグが食べたいな? 興梠さんは何にする? なんなら――」
布団を剥ぎ取る。
「もう一回、僕を味見してもいいぜ? あれっきりにするには……あんた悪くなかった……フフ」
「お断りだ! おまえは蒼眞の犬だ!」
嬉しそうに帆は声を上げて笑った。
「杏子さんも同じことを言ったっけ!」
膝を折って両手を突く。
「そうさ、僕は犬さ!」
四つん這いになって少年は囁いた。
「ワンワン!」
「犬は何処よ……?」
思わず口をついて出た言葉だった。
女学校からの帰り道。
少々遠回りになるものの
今日も生垣から首を伸ばして、グルッと見回して、犬舎が空っぽなのを発見した杏子だった。
「散歩に出てるってことよね? 誰と? 帆君? 蒼眞さん? それとも、二人一緒?」
「杏子さんじゃありませんか!」
杏子は跳び上がった。
花を抱えた
「キャア! ご、ごめんなさい! わ、悪気はないんですっ!」
反射的に身を翻して逃げようとしたその腕をガッシと掴む養育係兼家政婦だった。
「ダメです! 今日は放しませんよ! お覚悟を!」
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