第17話
タマトリ池は、小さな池が点在する村の中で最も大きく、形の整った池である。
ほぼ楕円形。周囲の長さは約1、5km。一番深いところで水深6m。
それが池の中央部で、柩が沈められていた場所に当たる。
慎重に引き上げられた柩は、同じように慎重に池の岸辺に下ろされた。
帝都より前日から帰省していた議員の五百木晋平(いおきしんぺい)翁。
本来ならそれどころではないはずだった。
帝人株を巡る贈収賄疑惑の記事が〈時事新報〉に掲載されたのが一月。
二月になって検察は捜査に乗り出した。
先月、疑惑の中心人物、文部大臣の鳩山一郎は辞任。
だがこれで収まらず、四月十七日、遂に斎藤内閣は総辞職に追い込まれた。
後に呼ばれるところの、我が国の政界を揺るがした大疑獄事件〈帝人事件〉の真っ只中に翁はいたのである。
実は、盟友、角田玄眞(すみだげんま)もこの帝人株に関わったと名指しされた政治家の一人だった。
自身は身の潔白を訴え続けているが、心労から体調を崩し、現在箱根の某所に逼塞(ひっそく)……というより、療養生活を余儀なくされていた。
支持者の間ではこの機会に玄眞を引退させ娘婿にその地位を引き継がせようという声が出始めている。 五百木翁が蒼眞(そうま)を引き取ったのも、一つにはこのような事情があったせいだ。
母が溺愛する〝特別の次男坊〟は、難しい問題を抱える角田家にとってけっして目立って欲しい存在ではなかった。
とはいえ、今日ばかりは、五百木晋平は自身の個人的な問題でここに佇立している。
翁は、柩が引き上げられ岸に運ばれるまでの一部始終をトレードマークの杖(ステッキ)を握り締め、直立不動で眺めていた。
紋付袴姿。長身痩躯。銀髪をオールバックに撫で付け、口髯を蓄えている。
この髪型も髭も欧州で習い覚えた風俗である。年を経て老齢の身となった今も彫りの深い容貌によく似合っていた。
こうまで壮健で若々しいというのに、夫人を結核で早くに亡くし、一人息子も母と同じ病で失った。天の配剤とは誠に皮肉なものである。
その五百木翁の横に連なる人物が数名――
車椅子の麗人。角田玄眞の娘、淡紅子(ときこ)。
彼女も、当時を知る者として、是非にもと立会いを希望したのだ。
介添え役として、息子の蒼眞も付き添うことになった。
この他には、柩を沈める際、手伝ったと言う下男の河野斉三(こうのさいぞう)。そして、警察関係者。
これ以外の人間を遠ざけて、遂に、柩の蓋が開けられた。
十四年の時を経て、陽の下に曝される、それ。
中身は――
「あ!」
声を上げたのは淡紅子だった。
柩の中、たった今閉じられたかの如く、全く褪色していない瑞々しい深緑の天鵞絨(ビロウド)。
その褥(しとね)に眠るもの。
それを目にするなり、夫人は喉を震わせて失神した。
「淡紅子さん……?」
素早く、息子が抱きとめる。
五百木晋平は身動ぎもしなかった。
そこには――
ぎっしりと衣類――
ほとんどが着物と帯。その他は数点のデコルテ、アフタヌーンや舞踏用の夜会服。
そして、宝石類が剥き身のまま、バラバラと投げ入れられていた。
「中身は衣類だと、何故、早い段階でおっしゃってくださらなかったのですか?」
警察側の特捜班班長・大坪要(おおつぼかなめ)――長谷部誠司の上司である――の問いに五百木翁はきっぱりと答えた。
「私が何を言ったところで、君たちは、実物を見るまでは信じなかったであろう?」
「――」
五百木翁はまた、こうも言った。
「十四年前のその日、もうこれを最後に二度と邸へ近づくなと元嫁である女を送り出した後で、私は決心したのだ。柩を特注し、邸に残されたままだった女の衣類、所持品の全てを、出来上がった柩それに詰めて廃棄しようと、な」
淡紅子に詰(なじ)られ、引き回され、激しく折檻されて、流石に佐保子(さほこ)も未練を断ち切ったらしく、それ以降、二度と邸にはやって来なくなった、とのこと。
「淡紅子さん、だから、僕は言ったんだ。あんなもの見るべきじゃないって。貴女には刺激が強過ぎますよ?」
五百木邸の客間。意識を取り戻した母の手を摩りながら、蒼眞は言った。
「ええ、でも、私、見たかったんですもの。一体、あの柩の中に何が入っているのか……」
「五百木の御祖父様は、中身について淡紅子さんにも話してなかったんですか?」
「もちろんよ。柩を沈めたことだって、知りませんでしたよ。だから、私、てっきり」
「てっきり、何です?」
探るような息子の眼差し。
「嫌です。何でもありません。それより、蒼眞さん?」
母は息子の黒髪が被る耳に唇を寄せると囁いた。
「私、とっても冷や汗をかいてしまったわ。お風呂に入れてくださらないこと?」
息子は白い歯を見せて、クスクスと笑った。
「全く、淡紅子さんは、困ったものだな!」
「我儘で?」
「放埒で。その上」
「その上?」
「××××で」
「あ、帆(かい)坊ちゃま? 今はそちらへ行かれない方がよろしゅうございますよ」
珍しく養育係兼家政婦に制されて、学校から帰ったばかりの帆は怪訝そうに眉を上げた。
「何故さ? 僕、手を洗いたいんだけど――」
「それならばサキがおしぼりをお持ちしましょう。今は洗面場の方へは行かれませんように」
不満げに口を尖らせる少年に養育係は目配せした。
「淡紅子様がご入浴中でございます」
「!」
そう言えば――
洗面場から渡り廊下で続く浴場の方より、やたらに水の跳ねる音や桶の響く音がする。
あんなに賑やかしく、しかもこんな時間に風呂に入る人間がいるとは……!
「淡紅子様は他人にご自分のお体を見られたくないそうで、このサキでさえ気をつけて遠ざかっておりますよ」
「〝他人〟ねえ?」
皮肉っぽく笑う帆。
「だから? 息子の蒼眞さんに洗ってもらってるのか? 信じられないよ、あの母子!」
流石にサキは窘(たしな)めた。
「そんなことおっしゃってはいけません。ご一緒の入浴はお小さい頃からの習慣だとか。ほら、帆坊ちゃまはお母様がいらっしやらないから、いえ、その、つまり、ああいうことを不自然にお感じになるのでございましょう」
「母親がいたってさ、サキ。僕の周りでは中学生でさえ母親と一緒に風呂に入ってる奴なんていやしないぜ。絶対おかしいよ! サキだって――じゃ、僕が一緒に入ろうと言ったら入るのか? 入らないだろ? ほら見ろ」
「入ります!」
「え?」
ギョッとして目を瞠る少年に養育係は堂々と胸を張って、
「サキは帆坊ちゃまが望まれるなら、喜んでご一緒しますよ!」
更にきっぱりと言い切った。
「なんなら、この後、続けて入浴いたしましょうか? サキが坊ちゃまのお背中を流して差し上げます!」
「け、結構だよ! 誰がサキなんかと入りたいものか!」
「おやまあ! それではどなたとならよろしいんでございます? まあ、赤くなって……お可愛らしい!」
「か、からかうのはいい加減にしろよ、サキ?」
「はいはい、わかりました。それではサキはお風呂の代わりにおやつをご用意しますね? ホホホホ……」
明朗に笑って去って行く養育係だった。
「チェ、子供扱いして。僕が誰と入りたいか、お前は何にも知らないくせに」
―― どなたとならよろしいしいんでございます?
そんなの、決まってるだろ?
それにしても――
今日の風呂の音はやけに耳障りだ。
帆は振り返って、自分の家の見慣れた浴場の扉を凝視した。
中から漏れてくる声。
聞きたくないのに聞き耳を立ててしまう。
『そこ、そこよ、蒼真さん……ダメ、ちゃんと、洗ってくださらなきゃ……』
『全く、言った通りでしょう? 困ったもんだな、淡紅子さんは、貪欲で……ここですか?』
『あ』
『それとも、ここ?』
『……』
『こう?』
『……』
『……こうだろう?』
『……』
何だよ? 沈黙の方が、耳障りだ――
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