第54話

「薬物?」

 最初、直哉なおやは眼前の医師の言葉の意味が全く理解できなかった。

「何ですか、それ? 薬物って?」

「俗に言うベロナール――正式な成分名はバルビタール。脳幹性眠剤……睡眠薬ですよ」

 直哉は一層困惑した顔になった。

「睡眠薬? しかし、そんなもの飲んで運転する人間などいないでしょう? それこそ、自殺行為だ!」

「その通り。ですから、警察もそう見ています」

 直哉は目をみはって首を振った。

「有り得ない。何だってあいつ――興梠こおろぎが自殺しなきゃいけないんです?」

「まさに、それ、興梠だからではありませんか?」

 ちょっと皮肉っぽい顔になって医師は鼻をクスンと鳴らした。

「私の同僚に興梠医師の後輩がいるんですが、彼なんか残された一人息子を指して『絶望の申し子』と呼んでいましたよ。勿論、多大の同情を込めてです」

「?」

「え? まさか――ご存知ない? 興梠君の友人なのに?」

 宇宙から来た生物でも見るように医師はまじまじと直哉を見た。

 根が善良なこの医師は言い直した。

「いや、だからこそ、友人に選んだのかな?」

 椅子を回転させ、改めて真正面から直哉に対峙すると医師は言った。

「この入院患者、君の友人の興梠響こおろぎひびき君は、あの・・興梠覚こおろぎさとる医師のご子息でしょう?」

「はあ?」

 この時、看護婦が飛び込んで来た。

「先生、興梠さんの状態が急変しました! 危険です! 直ぐに来てください!」

「や! こりゃ、いかん! わかった!」

 慌てて立ち上がる医師、直哉を振り返って、

「そういうわけだ。君は暫く待っていてくれたまえ」






 ここは何処だ?


 オースチン7の車内?

 運転席の下の暗がりに蹲った少年の瞳が猫のように燦いている。


 ―― 最後・・に、もう一度慰めてやるよ……


 最後・・だと?

 この阿修羅め……!


 だが、俺は拒めなかった。

 少年の誘う甘美な夢の世界。

 その快楽に身を委ねる。


 人形のようなほっそりした指……

 花弁のような口唇……


 ほら、すぐそこ。

 見えてくる天国。

 高まって行く……昇り詰める……

 白く爆ぜた刹那 奈落の底へ墜ちて行った――


 


 何がどうなったのか思い出せない。

 

 放り出された闇の中で興梠は目をすがめた。


 やられた・・・・


 だが、捕まえなければ……!

 何としても、あいつ、阿修羅を!

 でないと、大変なことになる。

 俺はいい。

 俺にはこの闇が似合いだ。永遠に閉じ込められても構いはしない。

 だが、あいつを止めないと、俺の大切な人が――

 その人までこの闇に引き込まれてしまう……! 


 肺が焼けくように痛い。

 体中の骨という骨が軋む。

 それでも、少年の姿を探して闇の中を駆け出す。

 

 見つけた! あそこだ! 

 あの後ろ姿には見覚えがある……

 黒い上着と黒のズボン、黒の長靴ブーツ。黒ずくめの格好の少年。


「待て!」

「怒らないでよ?」

 少年は肩まで零れた長い髪を揺すって微笑した。 

「ねえ? 僕たち・・・似てると思わない?」

「何が似ているものかっ! 待てったら!」

 少年は身を翻して暗闇の中を逃げて行く。

 螺旋状に続く――

 これは階段?


 カッ、カッ、カッ、カッ、カッ……


 少年のあしおとを追って駆け昇る。

 永遠に続くかと思われる階段。


 だめだ、足がもつれて力が入らない。

 息が続かない。

 心臓が張り裂ける。

 苦しい……

 俺はここで死ぬ――

 

「?」


 頭上、鳴り響いていた靴音が突如、止んだ。

 少年が足を止めたのだ。

 興梠は片側の壁に手を置いて息を整えた。

 それにしても、ここは一体何処だろう?

 冷たい石の手触り――


「ハッ、塔か?」

 

 そうだ、それだ……!

 俺はなんて馬鹿だったんだろう……!


 〈塔の中・・・〉……!

 

 そこにいるのは……






「君……君?」

 

 揺り起こされて直哉は目を開けた。

 病室の前の廊下、その長椅子の上でいつの間にか眠ってしまっていた。

 夜が明けたらしく、昨夜は常夜灯の明かりだけでいかにも物悲しげだった院内に朝の光が溢れている。

 病室から出て来た医師は眩しげに目を瞬いている直哉に言った。

「今、興梠君の様態は安定しています。私たちはできることはやった。さっき、意識を取り戻してね、それで、どうしても君に会いたいと言って聞かない」

 白衣の肩を竦めて冗談なのか本気なのか区別のつかない言い方を医師はした。

「特別に許可します。遺言を伝えそびれたとあの世で恨まれては適いませんからね?」

 とはいえ釘を指すことを忘れなかった。チラリと腕時計を見て、

「但し、長くはいけません。五分。それ以上はだめです」


 


 病室の寝台の上。

 包帯でぐるぐる巻きにされたそのかたまり興梠響こおろぎひびきだと直哉が気づくのに暫く時間がかかった。

「興梠……?」

「間に合った……」

 そう言ったのは興梠の方。

「あのまま一人で死んだら……死にきれないところだった……」

「おい!」

「僕の失策ミスだとつくづく後悔してるよ。もっと早く気づいて――この線で警告すべきだった」

 包帯の中で唯一露出している箇所――双眸を僅かに動かして興梠は直哉を見た。

「普段の僕だったらこんな失策はしなかった。僕が迷走したのは……恋のなせる技だな?」

「おい?」

「僕が杏子きょうこさんに恋をしてしまったせいだ」

 まだ、意識が錯綜しているんだな? 直哉は苦笑した。普段のこの男なら間違ってもこんなことを言うはずがない。

「だが、今はそんな悠長なこと――恋の告白をしている暇はない。わかってる、僕には時間がないようだから――」

「バカ、何を言うんだ。気をしっかり持て! おまえは大丈夫、すぐ良くなるよ」

「聞いてくれ。そして、僕ができなかった分はおまえがおぎなってくれよ?」

 直哉が椅子に座るのも待ちきれないというように興梠は喋りだした。

「最初の直感に僕は従うべきだった。〈塔の中の王子〉と聞いて違和感を持ったあの時に……」

「な、何の話だ、興梠? おまえは何を言ってるんだ? 俺には全く意味が――」

「だから、これから、それを説明するから聞いてくれ」

 痛みをこらえているのか、美学専攻の青年は天井を睨みながら言葉を継ぐ。

「〈塔の中の王子〉……あれはやはり、意図的な言い換えだったのだ。そして、そこに、今回の諸々の事件の全容が暗示されている……」






「おはようございまーす! どなたかいらっしゃいませんか――?」


 その朝、五百木いおき邸はいつにもまして森閑としていた。

 豪壮な邸である。そこに数名しか住んでいないから常に静まり返っているのだが、邸を守る女毘沙門天の如き若竹わかたけサキまでいつまでたっても現れないとは――

「変だわ? この時間、誰もいないなんて……」

 

 まんじりともせずに夜を明かした杏子だった。

 電話すると言った兄から今に至るまで何の連絡もない。とはいえ、知らせのないのは良い知らせと思って、八時になったのを確認して出て来たのだ。

 この時間ならかいは登校した後だから、鉢合わせする心配はない。忘れ物をしたので取りに来た、とサキに告げて邸へ上げてもらう魂胆だった。何としても例の秘密のスケッチブックを持ち出さなくてはならない。

「イヤだ、皆、出はからってるの? 何かあったのかしら?」

 蒼眞そうまの姿も見えない。

 昨日あんなことがあって――

 今日どんな顔で会えばいいのかわからなかったので、蒼眞の不在はむしろ杏子には嬉しかった。

  ( 蒼眞さんの顔を見たら、私…… )

 きっと、また、その胸に頽れてしまいそう。

 裏庭へ廻って、犬舎を覗く。

 犬はいた。

 もう一度、玄関へ戻ると、納屋へ入ろうとしている男衆を見つけた。

「あら! 斉三さいぞうさん!」

 小走りに杏子は駆け寄った。

「サキさんはどちら? 姿が見えないけど?」

「おう、長谷部はせべ様のお嬢様! それが、大変なことが起こりましたんです」

 腰を屈めて斉三は早口に言った。この男がこんなに動揺している様子を杏子は初めて見た。

「昨日、村道で事故を起こして崖下に転落した車、その近くで、血だらけの帆坊ちゃんの通学鞄が見つかったって、今朝、警察から電話がかかってきましたんで」

「え?」

「それで、皆様、慌てて警察の方へ向かわれました――」

「そんな――」

 よりによって? 

 興梠さんの同乗者・・・・・・・・って……帆君だったの?

 

 そう言えば、昨日、いつまで経っても少年が帰って来なかったことを今になって杏子は思い出した。 

 

 

 

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