第3話

「そんなに自分を責めるなよ、杏子(きょうこ)。全てお前のせいってわけじゃないんだから」

 兄の直哉(なおや)が真剣な顔で諭した。

「ううん、兄さん、私のせいだわ」

 激しく首を振る杏子。

「あの時、やっぱり止めるべきだった。もう遅いからって、何が何でも引き止めて、枕を並べて眠ればよかった。今までいつもそうしてたみたいに」

 布団に包まって、恋の話をする。まだ見ぬ憧憬のあれこれ。

 でも、ダメ。紫(ゆかり)ちゃんは拒否した。

 現実に〈恋する相手〉と巡り会ったから? 

 そんな子供っぽいお伽話は卒業。

「そりゃ、お前の気持ちはわからないでもないけど。だからって、村中飛び回って〈怪しい奴〉を探し出そうなんて。そんな非常識で非現実的な事はもうやめろ」

 兄は妹の腕を掴んだ。

「さあ、家へ帰るぞ!」

「ほっといて!」

「ほっとけるもんか! 今度お前がいなくなったら――お前の身に何かあったら死んだ母さんに俺が顔向けできない」

 力づくで連れ帰ろうとする兄。

 その腕を振り払おうと身を捩った時、杏子の目に飛び込んできたもの――

「あら? あれは誰?」

「え?」

 道の向こう。川縁りでスケッチブックを広げている人がいた。

「帆(かい)君だろ?」

「違う。その隣にいる人よ」

 川縁りには二人いた。

 二人とも大きなスケッチブックを広げて、お互い覗きあっては何やら熱心に語っている。

 と、一人が腰を上げた。まだ幼さの残る少年の方。

 中学の制帽を被り直すとスケッチブックを小脇に抱えて足取りも軽やかに歩き出した。

「帆君!」

 ちょうど、こちらへやって来たところを捕まえた。

「わ! 吃驚した! なんだ、杏子さんと……直哉さんも? 一体、何さ?」

 目を見張る少年に構わず、息急き切って杏子は尋ねた。

「あの人、誰?」

「ああ? 蒼真(そうま)さんだよ。角田蒼真(すみだそうま)さん。あれ、知らなかった? もう一週間もウチに滞在してる」

 目を輝かせて、得意げに少年は続ける。

「御祖父(おじい)様の友人のお孫さんさ。何が凄いって、パリ帰りなんだ!

 蒼真さんはパリで絵を勉強してて……今、帰国中なんだ。

 それで、いい機会だから、僕も絵をみてもらってる。見てよ、褒められたんだ! デッサンがしっかりしてるって――」

 杏子は聞いていない。既に走り出していた。



 草を飛ばして土手を駆け下りると杏子は一気に言った。

「スケッチブックを見せてください!」

「は?」

 答えも待たずに、青年の手から奪い取ると頁ページを繰った。

「こ、こら、杏子!」

 追いついた兄が代わりに頭を下げる。

「すみません、こいつ、一本気なもので、思いつめると見境がつかなくなる――」

「何なんです、一体?」

「この人だわ! 紫ちゃんを連れ去ったのは、この人よ!」

 杏子はスケッチブックの頁を押さえて叫んだ。

「これが証拠よ!」

 そこに描かれていた少女の肖像。

 セーラー服に、項(うなじ)で一つに纏(まとめ)た長い髪。揺れる大きなリボン。

 紛れもなく、紫だった。

 だが。

 本当は、スケッチブックを見るまでもなかったのだ。

 だって、その人は、紫の言った〈男の人〉そのものの風貌をしていたから。

 長身痩躯、浅黒い肌。肩まで伸ばした漆黒の髪。


『とても素敵な人。魂が震えるくらい……』




 昭和九年。

 その年がどんな年であったか?

 既に前年、独逸ドイツではナチスが政権を獲得している。八月には、第一次大戦でドイツ軍司令官としてロシアに大勝し国民的英雄となったヒンデンブルク大統領が死去。アドルフ・ヒトラー首相が大統領も兼務の〈総統〉として全権を手中にするのである。

 亜細亜においては三月、満州で愛尖閣羅溥儀が皇帝に即位していた。


 明らかに世界に不穏な黒雲が湧き出したこの年。

 だが、大概の若者はそのことに気づきもしなかった。

 春はいつも通りに燦いて、緑の風を吹かせ、

 古都に近い長谷部杏子(はせべきょうこ〉の住む小さな村は例年と変わらない長閑(のどか)さの中にあった。


 いや、違う。

 遠くて現実味のない戦争などより、もっと生々しい恐怖がゆっくりと這い寄っていたのだ。





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