第51話

「ここらでもういいよ」

 

 かいはそう言って車を止めさせた。

 雑木林の陰、その向こうは何処までも田圃が広がっている。

「いいのか? 村はまだ先だぞ?」

「大丈夫。ここまで来たらもう歩いて行ける。それに、あんただって、その方がいいだろ?」

 例によって少年は悪戯っぽく笑った。

「この目立つ車であんまりこの辺りを走りたくはないはずだぜ?」

「別に、今更、僕は構わないが――」

 そう、今更……

 前にこの道を走った時、隣りに座っていた女学生の姿を思い出した。

 ゴブランの帯をお太鼓に結んで、その大人ぶった様子が逆に可憐さを溢れさせていることに気づかないとは! 少女のあどけなさについ微笑んでしまう。

 (結局、俺は彼女を守りきれなかったわけだな……?)

「ねえ、興梠こうろぎさん」

 真剣な声で呼びかけられて興梠響こおろぎひびきはハッと顔を上げた。

「〝永遠に救うことのできない種は絶滅させなければならない〟……」

「え?」

 N市を出る道で買い求めたサイダーの栓を抜きながら少年は言った。

小栗虫太郎おぐりむしたろうって、去年デビュ―した探偵小説作家が書いてるんだ。《完全犯罪》でさ。傑作だよ。読んだ?」

「いや」

「そりゃ残念だな! この作家、今年の四月からもっと凄いの〈新青年〉に連載してるからぜひ読んでみてよ。それにしても――ううーん! やっぱドライブの途中で飲むサイダーはサイコーだな!」

 おどけて見せた後で少年は低い声に戻った。

「この新進作家が言ったんだ。〝犯罪、淫乱……悪徳を代々伝える血統〟が確かに存在するって。それが〝救いようのない種〟なんだってさ」

 少年は濃い睫毛に縁られた瞳を伏せてサイダーを持つ自分の手を見つめている。

「どう思う? 血ってさ、拭えないもの……逃れられないものなんだろうか? 血に溶け込んだ親の因子……〈悪の種〉は確実にその子供たちに植えつけられるの?」

それを俺に聞くのか・・・・・・・・・? 殺人者を父に持つ俺に?」


 どこまでも、阿修羅め。


「答えてよ、興梠さん? 賢い帝大生なんだろ?」

「だから――それが答えだよ。俺に・・聞くな・・・。昨夜、見ただろう? それで十分なはずだ」

「――」


 興梠はフロントボックスからキリシマを取り出すと火を点けた。

 窓ガラスを大きく開けて煙草を吸い始める。

 田圃を吹き抜けて来る風が心地よかった。梅雨の雨を吸って稲の葉波はいよいよ青く燦いている。


 ああ、美しいな?


 原風景というのか? 

 西洋人たちが小麦の穂に胸を撞かれるように、自分たちは稲の海に心奪われる……

 

 尤も、今日までこんな風に田を見渡したことはなかったが。

 この青い波の果てにあのがいるせいだろうか?

 『もう二度と会いません!』

 肩をいからせながら、杏子きょうこさん、そう言って車を降りたっけ?

 まあ、こっちも、二度と会えなくなっちまったけど……


 俺は会いたいのだろうか?

 呪われた夜の後で、なお? 味わい尽くした狂宴の末に、まだ?


「?」


 一瞬、船が見えた気がした。水田の海を分けて進む平船……

 乗っているのは誰だろう?

 

 娘たち? 

 長い髪を風に靡かせた裸の娘たちがこちらに向かって手を振っている……

 

 その幻視に総毛立った。

 ウォーターハウスやドレイパーのセイレーンの絵を見過ぎたかな?

 その影響でこんな白昼夢を?

 

  ( ったく…… )


 美しいものほど恐ろしい。

 昨晩、嫌と言うほど味わったではないか?

 五百木帆こいつで。


「あのさ、僕たちはちょっと似ているよね?」

 サイダーをラッパ飲みしていた帆が、また唐突に口を開いた。

 流石に吃驚して興梠は訊き返した。

僕たち・・・って――誰と誰のこと?」

「僕と……」

 ちょっと言い淀んでから、

「興梠さんだよ、勿論!」

「よしてくれ。一体、何処が似てるって言うんだ? おまえと俺とで?」

 青年の唇から漏れる引き攣った笑い。

「それを言うならむしろ――蒼眞そうまとおまえの方が似ている……」

この言葉を少年は無視した。

「うーん、僕とあなた・・・・・が似てるところは、例えば、寂しがりやなとこ。でも、一番似てるのは――」

 秘密を打ち明けるような調子で少年は囁く。

異常アブノーマルなとこ!」

 飲みかけの瓶を床に置くと、青年の指から煙草を奪い取って揉み消した。

「あーあ、絶望を絵に書いたような顔しちゃって! 見てらんないから、最後・・にもう一度慰めてやるよ?」

 少年がすり寄ってきた。

 それで――

 その時になって漸く何故こんな人目を避けた場所に少年が車を止めさせたのかを理解した帝大生だった。

 勿論、興梠は抗わなかった。

 白魚のような少年の指だけを見つめていた。




 

 指が固まって動かない――


「……何よ?……これ?……」

 

 ページを開いたまま杏子は喘いだ。


「これ……これって……」


 帆の部屋。

 書棚の奥の暗い裂け目に隠されていたスケッチブック。

 そこに描かれていたのは――

 女たちの裸体画だった。

 

 鉛筆によるラフスケッチ。

 だが、顔を見極めることができるほど丹念に描き込んである。

 その証拠に、描かれている者の名前を杏子は言うことができた。


 一頁目が小西こにしハツ。村内の親戚宅へ花嫁修業を兼ねて手伝いに来ていた娘。

 二頁目が井上元太いのうえげんたの若妻、和恵かずえ

 三頁目は、ちょっとわからない。知らない人。

 二頁目の和恵と思われるそれには花模様のような痣が浮き上がっている…… 

 

 ここまでページを繰ってきて、杏子が気づいた重要な〈共通点〉がある。

 だが、杏子は敢えてそのことを考えまいとした。

 四頁目を確認するまでは――


「――」


 ここまで来た以上、もう後へは引けない。逃げて帰ることは許されないのだ。

 そう自分を鼓舞して、サッと次の頁を開く。


 一番見たくないものがそこにあった。


ゆかり……?」


 秘密のスケッチブックの四頁目に描かれていたのは幼馴染の島田紫しまだゆかりの姿だった。

 誰が見たって、紫、その人だ。

 全裸のスケッチ。

 少年は黒子ホクロの位置まで正確に描写している。

 

  ( ハッ……親指は? )


 古刹こさつの十一面観音像の前で、感嘆の息を吐きながら少年が言った言葉。


 ―― 指先までしっかり写し取らなきゃならないんだよね? あの時、僕はそうしたかな?


 勿論、引き攣って捻れた足の親指まで克明に描かれていた。

 

 だが、杏子に一番衝撃を与えたのは、その足の指や、くびれた腰、蕾のような胸、などではなかった。

 先の三人の女たちも全てそうだったが、敢えて回避した、触れずに来た恐ろしい部位――


 目。


 友の目は両目とも・・・・・・・・固く閉じられていた・・・・・・・・・

 

 明らかに紫は死んでいる。

 五百木帆いおきかいは死体を《・・・・・・・・》描いているのだ・・・・・・・……!


 これで、何もかも決定的となった。

 この絵は、〈証拠〉になる。


 


 

 スケッチブックを抱えて床に腰を落としたまま、どのくらいそうしていたのだろう?

 最初の衝撃が静まると杏子は混乱する心をどうにか押さえて次に自分の取るべき行動について考えた。

「父さんに見せなけりゃ……!」

 持ち帰って直ちに父に連絡して、これを見てもらうのだ。

 はやる心を押さえて、杏子は慎重に自分の持ち物――座卓に並べていた英語のテキストやノート、筆箱を通学鞄に戻すと、問題のスケッチブックを小脇に抱えて立ち上がった。

 紅茶の盆はどうする?

 気になったが、流石にそれを厨房まで返す勇気はなかった。一刻も早く邸を出たい。

 杏子は部屋を後にした。

 そのまま階段へ行く――

 つもりだったのに。


 帆の部屋の扉を静かに閉めた時、ふと目の端に入ったのは、その先、廊下の突き当たりにあるもう一つの扉。

 帆の部屋と同種の、重厚な樫材オークの扉は薄く開いていた。


「?」

 

 まるで、見えない手に引き寄せられるように、杏子はそちらへ足を向けた。

 ひんやりした廊下。

 ソックスの足先に伝わる冷気は水の上を渡るような錯覚を少女に与えた。

 

 シャルロットの乙女……

 或いは、オフィーリアの辿った道……

 

 娘たちは、何故、こうも冷たい道を行きたがるのか? 

 破滅に向かって?

 

 杏子は滑るようにして進んで行った。


 その扉の向こう。

 部屋の中で杏子を待っていたもの。それは――






 ☆ 《完全犯罪》は昭和八年〈新青年〉七月号に横溝正史急病のため穴埋めとして急遽採用された小栗虫太郎第1作。

   翌、昭和九年四月から、

これまた行き詰った江戸川乱歩の代役として同誌に連載が開始された作品こそ我が国の推理小説史上に燦然と輝く名作黒死館殺人事件です。

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