第38話
―― 大丈夫? 痛くない?
自分で手首を掴んでおいて?
―― 静かに。目を瞑ってごらん。見えるだろう? ほら、菖蒲の花園が……
天上の天使が地にまみえる瞬間。
或いは、虹の橋を渡って
死と同じくらい甘美な闇の到来……
私は素直に目を閉じる。
すると出現する一面の青。
でも、何? この耳障りな音は?
―― 泥の音だよ。菖蒲は湿地帯に咲く花だからね。踏み入れば……仕方がない
違う。
「え? 何て言ったんだい、
「音よ。 シッ……」
カタリ。
階下で音がした。
続けて、玄関で声――
「
「……あいつめ!」
途端に蒼眞は爆笑した。
「と言うことさ、杏子さん」
手首を放すと蒼真は言った。
「せっかくいい感じだったのにな? 残念だよ」
相変わらずの悪戯っぽい微笑。全然、残念がってはいなかった。
「あーあ、みっともない、みんな酔い潰れてら!」
少年の声が近づいて来る。
階段を軋ませて帆は二階まで上がって来た。
「何やってんだよ? 女学生の部屋で、電灯もつけず?」
襖に手を置いて帆は意地悪く呟いた。
「こんなことだろうと思ったんだ。ホント、女って邪悪で貪欲だよな?」
闇の中でも際立つ柘榴のような唇を舐めながら、
「
「――」
「帰ろうぜ、蒼真さん。そんなネンネに手を出すほど飢えてるの? だったら、帰ってから、僕が……」
少年はゆっくりと言い直した。
「僕と……」
誰がなんと言おうと、
「ねえ、
玄関先で、学帽を被り直している兄に杏子は尋ねた。
「姿が見えないけど。二日酔いで寝てるの?」
「いや。あいつならとっくに出てったよ。おまえも学校だし、今日は一人で精力的に飛鳥の方を見て廻るそうだ――何だ? 駅まで一緒に行かないのか、杏子?」
「先に行っていいわ、兄さん。私、忘れ物に気づいたから――あとの電車で行く」
「そうか。じゃ」
拘らずに歩き出す
遠ざかるその後ろ姿を杏子は二階の自室の窓から、着替えをしながら確認した。
一度着た制服を脱いで、スラックスとブラウスに着替える。
鈍感な兄はこういう時、都合がいい。騙し易くて。
杏子は、今日は女学校へ行くつもりはなかった。
もし天気が雨でなかったら、ズル休みをして、〈菖蒲が沢〉へ行ってみようと計画を立てたのだ。
昨夜、帆に蒼眞を連れ去られた後、悶々として眠れない布団の中で。
一体、昨夜は、何処から何処までが〈現実〉だったのだろう?
酔い潰れていた男たちの間で、
その、未だ曖昧模糊とした頭で考える。
手首を掴まれたのは〈現実〉だ。
そして、一気に引き寄せられた男の胸の中、心地良い闇の中で聞いた言葉。
―― 泥の音だよ。菖蒲は湿地帯に咲く花だからね。踏み入れば……仕方がない
あれは〈現実〉?
本当に蒼真さんはその場所に行ったの?
転げ落ちた泥の中、ポキポキと押し潰される花たち。
(皮膚を焼いた毒の液は、あれは花たちの復讐なのだ……!)
花園を
蒼眞と
《菖蒲が沢》で愛し合っただなんて――
「いけない! 急がなきゃ」
タマトリ池の一件で杏子は痛感した。
〈
井上家の〈菖蒲が沢〉も、ダメだと言われていたから、敢えて行ってみようとしなかっただけで――
大体の場所の目星はついていた。
勿論、もう花は終わっているだろうけど、この目でその地を見てみよう。
井上家の人々は警察に秘密の沢の話はしただろうか?
まだだとしたら、ひょっとして、そこに、行方不明の和恵さんの
(……死骸?)
杏子が想像したのは湿地に浸かる女の図。
奇しくも蒼眞が教えてくれたラファエル前派のオフィーリア。
勿論、そんなはずはないけれど。
若妻の失踪はもう一年も前のことなのだ。
だけど、白骨くらいなら――
枯れた花床の中のそれを思って、一瞬、杏子は身震いした。
そう言うわけで、兄を見送って数分後、杏子は玄関を摺り抜けた。
駅ではなく、反対の方向、村の奥へと歩き出した。
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