第31話
「?」
照り渡る夕映えの中、納屋から出てくる人影を
間違いない。
だが、こんな時間、納屋なんかに画学生が一体どんな用事があるというのだろう?
蔵ならまだしも、あそこ、納屋には農機具しかない。その他には、例の船――田舟。
とにかく、農作業を任されている
好奇心を抑えられなくて、杏子はすぐさまそっちへ足を向けた。
幸い、見咎める者はいなかった。
裏木戸を抜けて、静かに、素早く納屋の前へ。
引き戸を開けて、中へ滑り込む――
「きゃ!」
思わず、叫び声を上げた。
そこには、帆(かい)がいたから。
裸体の帆が。
少年の方が落ち着いていた。
シャツを引き寄せながら、言う。
「あのさ、普通、叫ぶのは僕の方だろ? しかも、そっちが勝手に入って来たくせに」
「な、な、な……」
言葉が出てこない。
「何をしていたかって?」
ゆっくりとシャツの
やっぱり! この子が阿修羅だ! この子が……!
「聞きたい? 教えてやってもいいよ、杏子さんになら。但し――」
帆は鎖骨の上で手を止めると、そのまま人差し指を唇へ持って行った。
「シーッ」
妖しげに微笑む。
「今はダメ。あの人がいるから。そうだな――明日、改めて訪ねて来てよ。時間は、4時。それまでに僕も、学校から帰って来て、待ってるからさ。じゃ」
それだけ言うと、呆然として身動きできない杏子を残して、さっさと納屋を出て行ってしまった。
翌日の4時。
実際そこに至るまで、どうやって一日を過ごしたのか、杏子はほとんど記憶になかった。
休み時間のたびに上級生の
終業のベルとともに鞄を抱えて女学校を飛び出した。
そして――この場所、
「まあ、まあ! よくいらっしゃいました! 帆坊ちゃまがお待ちかねですよ!」
玄関で
サキは深々と頭を下げた。
「英語を教えてくださるそうで、ありがとうございます。もう、帆坊ちゃま、それはそれはお喜びで。ご兄弟がいらっしやらなくなってお寂しい思いをしてお育ちですからねぇ。さ、さ、こちらへ」
座敷へは上がったことがあるものの、帆の自室は初めてだった。
サキに導かれるまま二階へ向かう。
階段を上りながら、できるだけさりげない口調で杏子は訊いてみた。
「あの、蒼眞さんは?」
「蒼眞様は、今日は朝早くから外出なさっております。高等学校時代のご友人が神戸までやって来たそうで、久しぶりにお会いになる約束をされたとか――」
昨日の納屋での少年の言葉を思い出す。
―― 今日はダメ。あの人がいるから。
「……」
「こちらです」
洋室の扉。
形ばかりのノックをして、サキは真鍮のドアノブを回した。
「お連れしましたよ、帆坊ちゃま、杏子さんです!」
満面の笑顔の帆がいた。
「ようこそ! ああ、サキはもう行っていいよ。それから」
養育係兼家政婦を追い出しながら、言い添える。
「お茶とかお菓子とか、気が散るから、僕がいいって呼ぶまで持って来なくていいからね?」
「はい、承知しております。それでは、坊ちゃまのこと、よろしくお願いしますね、杏子さん」
「いいから、もう行ってよ!」
「ホホホホホ……」
あの養育係は失格だ、と杏子はつくづく思った。
少年の本質を見誤っている。
「さてと」
既に豹変した、10秒前とは全く違う顔。
目を
「昨日、何故、納屋で僕が裸だったか、それを知りたいんだろ、杏子さん?」
杏子の言葉を待たずに少年は続けた。
「いいよ、用意しといたよ。こういうのは、あの場でああだこうだ言うより、百聞は一見にしかずだからさ。そう、僕らの御祖父さまがタマトリ池でやったみたいに……」
見ると、洋風の勉強机の前、バンクチェアの上に立てかけてある〝何か〟――
帆はクルリと椅子を回転させた。
「――」
納屋での時と同じく、またしても杏子は身動きできなくなった。
どのくらいそうして突っ立っていたことか。
帆の声に我に返る。
「どう思う?」
少年は訊いてきた。
「僕は、傑作だと思うんだけど?」
キャンバスには全裸の少年が描かれていた。
物凄く明るい
何処も彼処も光が眩しく踊っている。
それ故、少年自身が光のようで、
不思議なことだ。
これだったら、納屋の薄暗がりの中でチラリと見ただけの、昨日の帆の方が遥かに
しかも、気のせい?
この感じ、何処かで見たことがあるような……
「気づいた? そう、これは有名な絵画の模写だよ」
さも可笑しそうに少年は笑う。
「蒼真さんは言ってた。絵の勉強のためとはいえ、名画を丸写しにするんじゃ面白くないからさ、〈様式〉だけ取り入れるんだ、って。だから、僕も協力したんだ。僕だって、一応、絵を描いてるから。僕も美術を専攻したいって思っているからね」
だから? モデルを引き受けたの?
全裸のモデルを?
何と答えていいか、杏子にはわからない。
「……」
少年は目を細めて杏子を見つめた。挑発するように胸を反らせて訊く。
「元絵――手本にした名画の方、見る?」
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