第48話
同日の同時刻。
N県警〈X村連続婦女行方不明事件〉特捜班本部室。
箱を掲げて特捜班副班長でもある
「もう返却してもよろしいでしょうか?」
「ん?」
積み上げられた報告書から顔を上げる特捜班班長の
「
遺留品という言葉は
「親族の者が引き取りたがっているのですが……」
「ああ。一通りの調べは済んでいるのだろう? 返してやってくれ」
被害者が誠哉の友人の一人娘だったことを思い出しながら
「特に奪われたものや紛失していた物などはなかったんだよな?」
「ええ。親御さんの知る限り――特に母親に念入りに確認してもらいました。やはり、こういうことは女親でないと」
険しい顔で誠哉は答える。
「それによると、全て揃っているそうです。失くなったものは何もない、と」
「それが何かゾッとしますよね?」
若い刑事が口を挟んだ。
「制服はもちろん、シュミーズやズロース、ソックスやリボン、腕時計に至るまで、その日身につけていたものは
もう一人の刑事も、
「戻っていないのが本人だけ、とは……!」
特捜班の刑事たちは異口同音に声を上げた。
「一体何処へ行ってしまったんだろう?」
「或いは、何処へ隠してあるんだろう?」
言うまでもないが、殺人事件で殺人者が一番苦慮するのは殺害後の遺体の処遇なのである。
刑事たちは皆そのことを知っていた。
「今回、同一犯なら……そして、殺害が実行されていると仮定するなら……」
あくまでも慎重な口調で班長・大坪は言った。
「計4名もの身体を犯人は何処へ隠しているのだろう? もちろん、一箇所ではなく分散している可能性もあるが」
「隠していない可能性もありますよ」
若い刑事、
「何らかの方法で処理したのかも知れません」
「と言うと?」
「例えば薬品を使用する。ちょっと調べてみたのですが、骨まで溶かすその種の薬剤は幾種類かあります」
「だが、入手は簡単じゃないだろう?」
「だからこそ、ですよ! その辺りから犯人像を絞り込めるのでは?」
「なるほど。薬に知識がある者――薬剤師や医師だな?」
「医学生や薬学部の学生、その他には理数系の大学生なんかも勘定に入れてもいいのでは?」
これは年嵩さの刑事の意見である。更に続けて若者が指摘した。
「薬剤の入手経路は勿論、処理する場所も特定要因かも。家が建て込んでいる都会の住宅街や、普通の民家などでは、死体を溶かすなんて作業、ちょっと無理でしょう?」
「広さや場所の確保だけでなく、薬剤の匂いにも気を配らなければならないものな?」
「変な匂いがするって通報されたんじゃ、犯人もたまったもんじゃない」
「ヒュー! 俺たちは大助かりだがな!」
おなじみ〈大坪の蛇笛〉が響き渡った。
ここで軽い笑いが起こる。
暫く笑った後でまた刑事たちは議論を再開した。
「そうなると周囲に何もない空家とか廃屋が必要だな?」
「大学や学校も狙い目かも。実験の匂いだと言えば通用する」
「しかし――」
大坪は白髪の目立つ頭を掻いた。
「どれもこれも仮定の話ばかりだな……」
誠哉も首を振りながら残念そうに息を吐く。
「例の国鉄の駅で消息を絶った娘のその後の追跡調査も行き詰ってしまったし……」
また若い刑事が手を挙げた。
「これだけ探って何も出てこないんだ。娘が使ったのは電車じゃありませんよ」
「しかし、タクシーなら、とっくに情報が入って来てるはずだぞ。市内の全てのタクシー会社には協力を要請してあるんだから」
班長が呻いた。
「残るは個人の車か?」
ありえない、と首を振る副班長の誠哉だった。
「それなら、もっと特定しやすいじゃないですか! あんな田舎ですよ? 万が一、車なんか見かけたら、女子供だって色や車種まで憶えているはずだ……!」
「だから、真っ赤なオースチン7よ!」
その、女であり子供でもある
「嘘じゃないんだろうな? それとも、おまえ、夢でも見てたとか?」
「失礼ね! 兄さんこそ、何度言わせれば気が済むのよ!」
月曜の朝。駅へ向かう道。
通学途上の
「しかし、真っ赤な外車とはねえ! 何度聞いても信じられないよ! あの
大いに憤慨して鼻を鳴らす兄。
「水臭い奴だ! それが本当ならもっと早く教えてくれても良さそうなもんだ! 俺だって乗せて欲しいよ!」
「だから、兄さんが思ってるほど興梠さんは兄さんのことなんて親しく感じてないのよ。だって言ってたもの」
「俺のこと嫌いだってか?」
「嫌だ、 そうじゃなくて――興梠さん言ってたわ。『何処かへ連れて行くために人を乗せる以外、自分独りでは車は使わない』って」
「だから?」
「もう! 鈍いんだから! いい? 兄さんなんか興梠さんには〈人〉の部類に入っていないのよ。それだから、今まで乗せてもらえなかったんだわ」
「おい、その言い方はあんまりだぞ。俺は深く傷ついた……」
「いいじゃない、あんな人。この際、兄さんもサッサと縁を切っちゃいなさいよ。とにかく、私はもう懲り懲り。顔も見たくないわ」
土曜日の午後、瀟洒な洋館で聞いた興梠の出自や特異な体験について、杏子は一切兄に明かしていない。到底、この兄の理解の範疇を超えていると思ったから。
それで、土曜の夜、大学から帰宅した直哉には、いきなり『興梠響とはもう二度と会いたくない』と宣言したのだ。
「これだから女学生は理解できない。何が気に食わないって言うんだ? そんな外車で送り迎えされたら、俺だってポーっとなっちゃうぞ?」
「外車がどうしたって?」
「!」
いつの間にそこにいたのだろう?
気づくと、兄妹の背後に
尤もこの道は
「正しくはオースチン7さ! 色は真紅だぞ!」
振り返って得意げに声を張り上げる大学生。
中学生は肩掛け鞄を揺らして跳び上がった。
「わぁ! 凄い! 直哉さんが買うの? 僕も乗せてよ!」
「馬鹿言っちゃいけない。僕なんかに手が出せるものか!」
昭和九年のこの頃、銀行員の初任給が70円なら、自動車は国産車でおよそ一台1350円である。直哉のぼやきもわかると言うもの。
「友人の話だよ。興梠と言って――」
「兄さん、私、先に行くわね。
一目散に駆け出す杏子。
あの夜以来、少年と目を合わすのが嫌だった。
―― 世界で一番
この子は知っている。
あの夜、
蒼眞さんが私に何をしたか。
いきなり私の手首を掴んで――
でも、それは突然中断された。
迎えに来たこの子の、火を噴くほどの憎悪の眼差しが忘れられない。
でも、あんな目で私を見るってことは――
この子も蒼眞さんのこと……?
少年が杏子を嫌うように杏子も少年が嫌いだった。今やはっきりとそれを自覚している。
帆と目が会うたびに皮膚がゾワゾワと粟立つ。
嫉妬心という名の魔物に息を吹きかけられるせいだ。
逃げるように杏子は兄を残してその場を離れた。
「興梠さんて、この前、直哉さんちに来てたスカした帝大生だろ? へえ! 外車を乗り回してるんだ?」
「僕は見たわけじゃないけど。杏子が土曜日に乗せてもらったそうだ。あいつはいい男だと思うんだけどな? 何故か杏子は気に入らないんだよ。女心はほんと不可解なり、だ」
「不可解でもなんでもないさ」
いとも容易に少年は言ってのけた。
「杏子さんが他の男に目もくれないのは――好きな人がいるからさ! 身もココロも捧げ尽くしちまってるんだ」
「え!?」
目を剥く兄。
「だ、誰だ、そいつは? 俺の知ってる男か? 中井? 神崎? ひょっとして三浦じゃないだろうな?」
少年は笑った。蕾のような唇から細い舌が覗く。
「そんなことよりさ、車の話をしてよ。僕はそっちに興味がある。もっと詳しく教えてほしいな、直哉さん? オーチス7……しかも真紅だって?」
夕景のN公園内。
戒壇院かいだんいん脇の道に車を停めた刹那、興梠響こおろぎひびきはギョッとして目を瞬またたいた。
薄闇の中に佇む人影。白い学帽、キャンバス地の肩掛け鞄。
「君は――蒼眞そうまさんの逗留先の?」
問いかけながら無意識に興福寺こうふくじの方を振り返った。その堂宇の中の阿修羅像。それかと一瞬錯覚した。
―― フフッ 帆かい君て阿修羅に似てるのよ。
杏子きょうこさんは言っていたが。なるほど。
「コンニチワ」
その阿修羅に似た少年が挨拶した。
「やあ、こんにちは。何してるんだい、こんな処で?」
「嫌だなあ! あなたを待っていたんだよ!」
屈託のない声で少年は笑った。
「直哉なおやさんたちから、あなたが凄く素敵な外車を乗り回してる、って聞いて――これがそう? ひゃー、噂通りだな!」
真っ赤な車体を眩しげに目を細めて見つめる姿はいかにも中学生だ。
「ああ、そういうことか」
思わず、興梠も微笑んだ。
「乗るかい? 学校帰りなんだろ? なんなら家まで乗せてってあげよう」
「道、知ってるの? 結構な距離だよ? 僕の家はX村にあるんだけど」
「知ってるさ。車で行ったこともある」
「ふうん?」
少年は唇の片側を上げて微笑んで見せた。
途端に、可愛らしい小動物ではなくて獰猛な獣じみた顔になる。
「んー、車の中もいいけどさ、家の中の方がいいかも」
「何だって?」
意味がわからず興梠は訊き返した。
「何と言ったの、今?」
「実はさ、折りいって話があるんだ。大事な話だよ。蒼眞そうまさんのことで」
「!」
「誰にも聞かれたくないんだ」
薄闇の中で少年は俯うつむいた。痛々しいほど華奢な線ライン。
シメオン・ソロモンの天使だな?
美学専攻の学生は心の中で唸った。
ラファエル前派に数えられるその画家はダ・ヴィンチばりに美しい少年を描いた。否。美しく描き過ぎたせいで不遇の内に死ぬ破目になった――
「ホントはさ、一生、誰にも話せっこないと諦めていたんだけど」
小石を蹴りながら昭和げんだいの美少年は言う。
「あなたがさ、蒼眞さんのこと調べてるって杏子さんに聞いて……それで、あなたなら僕の話、真剣に聞いてくれるんじゃないかって思ったんだ」
「――」
「なるほどな! ここがあなたの秘密の隠れ家ってわけか!」
首を振って周囲を見回しながら感嘆の声を上げる少年。
二人は興梠が定宿にしている茶店の二階にいた。
「そんな大層なものじゃないけど――あ、すみません」
一階の茶店の老爺が持って来たお茶の盆を受け取って興梠は改めて座り直した。
「で? 話って何だい?」
「興梠さんは、蒼眞さんは悪い男だから近づかないようにって、杏子さんに警告したんだって? それ、本当?」
「ああ」
「だけど、杏子さんは受け入れなかった。信じてくれなかったんだよね?」
「まあね」
「やり方がまずかったんじゃないの?」
「?」
お茶を一口啜ってから、上目遣いで少年は言った。
「自分で襲っておいてさ、こんなことするから男は怖いんだよ、なんて言っても、そりゃ、説得力ないよ」
「そ、そんなことまで杏子さんは君に喋ったのか? あれは――」
甲高い笑い声が古寂びた茶店の天井に響いた。
「アーハハハ……!」
肩を震わせて、笑いを噛み殺しながら少年は言う。
「違うよ! 引っかかったな? ククク……そんなこと杏子さんが僕に言うはずないじゃないか! ただちょっと……カマをかけてみただけさ、当たったんだね? へえ? 」
なおも笑いの発作を堪こらえつつ、
「襲ったのか? あの杏子さんを? ククッ……意外にやるんだな? 聖人面してる割には……」
( この…… 阿修羅め! )
口の中で悪罵する美学専攻の帝大生。
そんな様子を横目で見て、再び少年は姿勢を正した。
座布団の上にきちんと座りなおすと膝の上に両手を置いて、
「怒らないでよ? あなたがどれだけ本気かを知りたかったまでだ。僕だって命懸けなんだから」
少年は一段声を低めた。
「興梠さん、あなた、蒼眞さんが悪い男――危険な男だっていう決定的な証拠が欲しいんだろ?」
眉を寄せる帝大生。
「何が言いたいんだ、君は?」
「〈証拠〉だよ。それさえあれば今度こそ杏子さんを蒼眞さんから引き離すことができる……愛する女を取り戻せる……〈証拠〉!」
興梠響こおろぎひびきは唾を飲み込んだ。
「何か持っているのか? 君・が?」
あっさりと頷く少年。
「持ってるよ、僕・が! 動かぬ〈証拠〉ってヤツ……!」
「見せてくれ」
「OK」
立ち上がるといきなり服を脱ぎだした。
「オイ?」
流石に興梠は慌てた。飛びついて少年の腕を掴む。既にシャツは脱ぎ捨てたあとだ。
「君! やめなさい!」
「どうしてさ?」
少年は訝しげに小首を傾げた。
長い髪が剥き出しの鎖骨に零れる。その下には薄桃色の乳首。少女との境目がない――
「見せてくれって言ったじゃないか?」
「――って」
「証拠は僕の体にある。あいつ――蒼眞さんは僕のこと……力づくで好きにしたんだ。幾度もだよ」
「――」
「僕は嫌だって……いつも泣いて拒むのに……許してくれないんだ」
少年の円らな瞳から涙が溢れ出した。
「つらくて……恥ずかしくて……でも、こんなこと誰にも言えないから……今日まで一人で耐えるしかなかった……」
「君――」
「昨夜もそうだった……だから……その痕は体中に残っている……」
少年は帝大生にしがみつくと声を上げて泣き出した。
「僕……僕……どうしたらいいかわからない……!」
興梠は少年が落ち着くまでそのまましっかりと抱き抱えていた。
頭を撫でてやっていると嗚咽の波は静かに退いて行った。
「よく打ち明けてくれたね?」
まだしゃくりあげている少年に興梠は優しい声で語りかけた。
「辛かったろうに。だが、もう大丈夫だよ」
「僕は……どうしたらいいの?」
帝大生の膝に顔を埋めたままで少年が訊く。
「一緒に警察へ行こう」
一度目を閉じて、再び目を開けると興梠は言った。
「ありのままを話すんだ。大丈夫、僕も一緒に行くから。ずっと傍についているよ。だから、君は恐れずに真実を話すんだ」
「でも――」
「凄く勇気が要る行為だということはわかる。だが、それが一番正しい道だ」
「――」
「それに、この件で君に落ち度はない。君は被害者なんだ。だから、誰も君を責めたりはしない。まして、恥じることなど何一つない」
少年の腕が伸びた。青年のシャツの袖口をギュッと掴む。
「警察に行くのもいいけどさ。その前に――」
ねだるような声。顔を伏せているのでくぐもって響いた。
興梠は体を倒して聞き直さなくてはならなかった。
「何だい? 言ってごらん?」
「――天国へ行くのはどうかな?」
「?」
「あんた、いろんな意味でダメなんだろ?」
いつの間に滑り込んだのか、少年の手が……
「おい――」
「図星か? フフ、一目見た時からそんな気がしてたんだ。僕もだよ。女なんか嫌いだ」
「よせ――」
「ねぇ、この際、僕で試してみない?」
「おい、やめ――」
「ひょっとして……僕が……あんたの諦めていた天国を……見せてやれるかも知れない……」
「――おまえ……」
先刻、戒壇院脇の道でシメオン・ソロモンの絵を連想したのは正解だった。
興梠は理解した。遅きに喫したが。
かの画家に降臨した天使もこんなだったのだ……!
ならば――
抗えるはずがない・・・・・・・・……!
輝かしい男性美……美し過ぎる少年たちを得意としたシメオン・ソロモンは同性愛が発覚して世紀末の画壇から追放された――
「あんた美しいものが好きなんだろ? 美しいものを見たいんだろ? だったら――」
さっき興梠が押さえたベルトを軽々と引き抜いて、制服のズボンを床にずり落とす。
全てを晒して少年は誘った。
「ほら、何処どこも彼処kしこも……僕はこんなに美しいぜ?」
「――おまえ……」
違う。天使ではない。こいつは――
「――おまえは……」
美学専攻の学生は叫ぼうとしたのだ。
阿修羅め……!
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