第16話

 その夜。大学から帰って来た兄と父は遅くまで酒を酌み交わしていた。

 杏子(きょうこ)は早々に布団に入った。

 階下から、会話する二人の声やビール瓶の鳴る音がいつまでも聞こえていた。

「キャスケット型?」

「そうだ、どんなのだか、帝大生のおまえなら、わかるか?」

「いや、いくら何でも柩(ひつぎ)のことは。でも、キャスケットって、宝石箱って意味ですよ、父さん」

「ほう?」

「だから、きっと、宝石箱のように瀟洒で美しい、凝った作りの柩なんでしょうね?」


(……全く)

 布団の中で杏子はため息をついた。

 どうも男には二種類あるようだ。

 思ってることと言ってることに違いのない単純で、わかりやすい型。

 ウチの男たち――父や兄――はここに入る。

 一方、謎だらけの男……角田蒼眞(すみだそうま)はそれ。

 単純な男の方がいいとは、杏子は思わない。

 鈍くて、デリカシーがなくて、ちっとも女の考えてることを察してくれないもの。正直かも知れないけど。

 正直でなくてもいい? 

 杏子は問い直した。 

 そう、上手に騙してくれるなら。つまり、最後まで、嘘だと気づかせないのなら。

「――」

 杏子には、兄の直哉(なおや)が『仕事熱心』の一言で片付ける父のことを、そう簡単に受け入れられない理由があった。

(兄さんは知らないもの……)

 キュッと目を瞑ると、あの夜と同じ闇が体中を塗り潰す――


 ―― 母さん?


 その夜も父は不在だった。

 寝苦しい夏の夜、蚊帳の中で、母は座って兄妹に団扇の風を送ってくれていた。

 兄の穏やかな寝息。

 杏子もウトウトしかけた。とその時――

 団扇の優しい風が止まる。

 母が団扇を膝に取り落としてしまったのだ。

 考え事をしているらしく、団扇を拾うでもなく母はそのままぼうっ虚空を見つめていた。

 朧な月の光に縁どられた母を子供心にも杏子は美しいと思った。

 しどけない寝巻き姿。白地に藍の撫子の模様。

 女学校を出るとすぐ父と見合い結婚し、翌年、長男の兄を生んだ母はこの時まだ二十五歳だった。

 母の手が動く。

 白いその手は、団扇を取る代わりに自分の胸元へ伸びた。

 豊かな乳房へ……

 自分の乳房をまさぐる母。唇から溢れたのは父の名……


 キュッと目を閉じて杏子は二度と再びその夜は目を開けなかった。


 〝寂しさ〟に形があるなら。

 〈それ〉を初めて見た夜だった――


 ウチの鈍感な男どもには永遠にわからないだろう。

 女ならわかる。

 そして、男でも、〈あの人〉なら、わかってくれる? 


「……蒼眞さん?」


 だって、自分の母親をさえ、あんな風に抱き上げるのよ? 

(腰の辺りで揺れていた淡紅子ときこの足袋)


 男の子をさえあんな風に撫でるのよ? 

(指が何処を這っても、抗わなかった帆)


 私だって――

  私もあんな風に抱いてもらいたい。撫でてもらいたい。それから――


 杏子は夏掛けの薄い布団の中で、そっと手を寝巻きの懐へに差し入れた。

 自分の硬い乳房をなぞってみる。


 ―― 何も感じない。


 それはそうだ。

 杏子は止めていた息を吐きだした。

 頭を振って、呟いた。

(だって、私は、〝知らない〟から……)


 諦めて、寝返りをうって、頭を切り替える。

 もっと、現実的なことを考えよう。例えば、タマトリ池の底に沈んでいる柩のこと。

 父は言った。

『この柩を水底から引き上げ、中を検分する際、立ち会うことを、沈めた本人である五百木(いおき)翁は承諾したよ』


 これは一体どういうこと? 

 柩の中には何が入っているの?


 ふいに杏子は思い出した。

 学校帰りの駅前の甘味屋で、悪魔じみた(いや、阿修羅じみた、か?)帆が呟いた言葉を。


 ―― あれ? 行方不明者は五人だ。一番最初のそれは、僕の母様さ!


 村近辺での娘たちの行方不明が大々的に報じられ、タマトリ池の捜索を知ったから、急遽、角田淡紅子(すみだときこ)はやって来たとも考えられる。

 十四年前のその日、縺(もつ)れ合って邸に引き入れられてから後、何があったのだろう?


 ―― こいつめ! こいつめ! この、魔物……阿修羅め!


 眠りに落ちる前に杏子が聞いたのは蒼眞の天鵞絨(ビロウド)のような声。

(柩の内張りは深緑色の天鵞絨……)


 ―― これで良かったんだ。今度こそ池に何が沈んでいるかはっきりするさ…… 







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