第29話
「ねえ、
女学生の声に自分の世界に飛んでいた少年の意識が呼び戻された。
「ブレイクの絵を見て、
気だるそうにのろのろと少年は口を開いた。
「ああ、そうさ。身体の一部――指一本で心の内面まで表現させてるってとこに興味を持ったんだ」
少年はストローを咥えてソ―ダーを一口啜った。
「実際に目の当たりにすると――対称的だったけどね。十一面観音は仏の躍動を、ブレイクは女の恐怖を具現化してた」
(そうかしら?)
こちらはレモンスカッシュを啜りながら
私の受けた印象はちょっと違う。
女が月に乗せていた足の、その指の角度――
恐怖ばかりではないのではないだろうか?
あの瞬間、女を貫いた感覚を画家は的確に、そして容赦なく表している?
恐れながらも、次に来る何かを待っている……
拒みながらも渇望している……
背叛するその〝何か〟
恐怖と快楽。
戦慄と歓喜。
交錯するそれらの
杏子は数えてみた。
真実と虚偽、愛と憎しみ、清浄と汚濁、純粋と淫靡……
欧州のカフェについて盛り上がっている兄と画学生の方へ視線をやって心の中で呟いた。
白が似合うと言ってくれましたよね、蒼眞さん?
その穢れ無き純白の内側で熱く熟れている私の思いを、あなたはご存知ですか?
ううん、私だけじゃない。
あの夜、私を振り切って出て行った
同性の私の目から見ても、嫉妬するくらい。
友をあれほど照り輝かせていたモノ――
それから、月下の母も、それはそれは美しかった。
愛と呼び、情欲とも呼ぶそれ。
手がつけられない、制御不能な荒れ狂う赤い竜――
(ブレイクの竜は冷たい鱗の代わりに盛り上がる逞しい筋肉を有していた)
レッドドラゴンは誰の心の内にもある。
皆、それを飼っているのだ……!
「僕、足の指だけを見てたわけじゃないぜ?」
唐突に帆が言う。
今度自分の世界に陥っていたのは杏子の方だった。
慌てて眼前の、少年の長い睫毛に照準を合わせた。勿論、何気ない風を粧って。
「観音が頭に乗せているたくさんの顔も見たよ。そして、つくづく思った。十一面観音ってさ、阿修羅に似てるよな?」
「!」
思わず咳き込む杏子。意外なところで阿修羅、その名を聞いた。
「な、何よ、それ? い、いきなり?」
「杏子さんこそ、何をそんなに吃驚してるのさ? 僕が言いたいのは――共通点があるってこと。
得意満面の笑顔で少年は説明した。
「十一面観音も阿修羅も誕生したインドでは人間に災いをもたらす邪神だった。それが仏の力で改悛し、一転、人間の守り手になったんだ」
いかにもこの少年らしい謎めいた微笑を浮かべて、
「でも、本性はどうだろうな?」
「え?」
「今だって阿修羅は〝修羅道〟なんて悪の意味で使われるじゃないか。心の深奥では悪の火種が燃え滾っているかも……」
「そう言われれば――紫ちゃんが言った阿修羅も、どう言う意味か未だに私にはわからないわ」
―― 阿修羅を見たの。
「初耳だな?」
何気ない独白だったのに。
あれほど熱心に直哉と語らっていた蒼眞が振り返った。
「
「あ」
久々の注目。
青年の眼差しを独占して頬を上気させる杏子だった。
「紫がいなくなる前日、私に言ったんです。阿修羅を見たって」
―― あれ、阿修羅だわ……
「警察に――お父さんにでもいいけど、そのことを言った?」
「ううん」
「何故言わなかったの?」
「何故って……あまりに漠然としてたから。取り留めもないし。でも、大切なことなんですか? 私、話すべきだったでしょうか?」
逆に杏子が訊く。
何を話して、何を話さないか。あの夜の私と紫の会話を全て警察に話すことなんてできない。
恥ずかし過ぎる。
それに、警察側だって、私たちのこんな他愛ないお喋りに付き合ってなどいられないだろうし。
片や、蒼真は杏子の話に興味を覚えたようだ。
「阿修羅か……面白いな!」
「あの……紫が言いたかったのは、悪い人……悪魔みたいな人を目撃した、ってことでしょうか?」
「
聞き返す蒼眞。
「それは――」
あなたみたいな人。咄嗟に杏子は思った。もちろん、何の根拠もない、ただの直感だが。
あなたは悪い人。
悪くて魅力的な人。
「さっき帆君も言ってたけど、十一面観音と阿修羅が似てるって、僕も同感だな」
腕を組んで画学生は話し出した。
「思い出してみて。今日見た十一面観音はその名のとおり十一の顔を持ってたよね? そして、阿修羅も三つの顔を持っている」
瞑想するように目を瞑る。
「ブレイクの絵の主題になったレッドドラゴンは七つの頭と十の角を持つと書かれている」
「それが何か意味があるんですか?」
帝大生が切り込んだ。
「数字は皆バラバラだけど?」
「僕がパリで学んだ象徴学では、厳密には、数は意味がないそうですよ」
虚空に指で数字をなぞって蒼眞は説明した。
「3だの7だの11だの――要するにそれらは全部
「ほう?」
「だから、突き詰めれば、十一面観音も阿修羅も意味しているのは〝多くの顔を持っている〟ということ」
深く息を吐いた。
「観音や神にしてそうだ。僕はね、実際、あの像の前に立った時、『おまえたち人間はどうなんだ?』と問い質されている気がしました」
いくつもの顔……
杏子がその言葉を反芻していると、蒼眞と目が合った。
青年はドキリとすることを言った。
「杏子さん、君だって、そうじゃないのかな? 絶対、他人には見せない顔を持っているだろう?」
清楚な白いワンピースの下で高鳴る鼓動。
ああ、この人はわかっている。
さっきの心の中の私の問いかけも、きっと聞いたに違いない。
兄さえいなかったら――
憎らしい思いで杏子は思った。
兄さんさえこの場にいなかったら、私は今夜、言ったに違いない。
連れて行って? 連れて行って……お願い!
私は何処へも帰りたくない……
「ホワイトレディ」
隣でくぐもった声で帆が笑った。
ハッとして杏子が身構える。
「な、何よ?」
「
「?」
唇の端にチロリと覗かせた赤い舌は蛇を連想させる。
エデンの園で果実を食べるように唆したのが蛇だったことを杏子は思い出した。
今、少年が喰らわせたがっているものは何?
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