第18話

池から柩が引き上げられた、その日の夜。

 杏子(きょうこ)は父や兄たちと共に五百木(いおき)邸に夕食に招かれた。

 捜査関係者と親しく交わることはできないと一度は招待を固辞した父、長谷部誠哉(はせべせいや)だったが。

 件の柩の中身も検分し終えて、最早〈捜査関係者〉ではなくなっていること、それに、これはご近所付き合いの範疇である、との五百木翁の言い分に負けた形になった。

 村一番の旧家、五百木家はもちろんだが、小なりとはいえ、長谷部家も旧藩主の頃よりの村の住人である。

 近隣付き合いは大切にしなければならない。

 身の潔白が晴れた五百木晋平(いおきしんぺい〉は今宵、自ら腕を振るって、自慢の〈海軍カレー〉を振舞うと言う。

 これは村名物の一つ。

 内心、長谷部家の三人も楽しみだった。

 そう言うわけで、夕刻より五百木邸には香辛料の馨しい香りが漂いだして、ゴルトムントは何度も、クシャミをした。




「いい匂い……」

「五百木の御祖父様の十八番だからなあ」

 風呂上がりの火照った体を籐椅子に沈めて、淡紅子(ときこ)。

 腕を伸ばして、息子の袖を引いた。

「マニキュア、塗ってちょうだいな、蒼眞(そうま)さん」

「まだ足りずに奉仕させようというんですか?」

 浴衣――今宵は鎌倉彫の鯉模様――の膝を割って足元に座る蒼眞。

「塗るのはいいですが――この色はなあ! どうかと思いますよ?」

「あら、この色お嫌い?」

 蒼眞はフランス語で色の名を呼んだ。

「エクルラート……」


 鮮やかすぎる鈍色。

 昆虫の体液が生んだ色。


「色としては好きですが」

 画学生の青年は少々眉を顰めた。

「淡紅子さんもそろそろ自重しないと顰蹙を買いますよ。いよいよ、〝政治家の娘〟ではなくて〝政治家の妻〟になるんでしょう?」

 祖父角田玄眞(すみだげんま)に代わって父の茂(しげる)が政界に打って出ることを言っている。

「フン。私、広瀬を夫だなんて思った日は一日だってなくってよ」

 実際、淡紅子は夫を旧姓でしか呼んだことがない。

 蒼眞が母を名前でしか呼んだことがないように。

「知っているくせに?」

 淡紅子の指が頬を撫でる。

「広瀬に何回、肌を許したか 私、正確に数えられる。フフ、おかしいわね? その回数が蒼眞さんになると――」

「塗りますよ」

 蒼眞は強引に女の指を自分の喉から引き離した。

「この色、嫌いと言ったくせに?」

「だって、ここに塗るとなると――どう見たって、血塗られた爪だ」

「だからいいのよ」

 あの日を思い出すから。

「十四年前のあの日の私の爪は、紛うことなくこんなでした。だから、これは勝利の色……」

 裏庭に篝(かがり)が燃え出した。

 翁が斉三(さいぞう)に命じて用意させたのだ。

 今宵、特製カレーを庭で味わう趣向である。

 欧州の人たちは皆、外で食事を楽しむ。

 晋平が最も美しいと思ったのは、意外にも小国ハンガリーの庭。

 ブタペストのバラの生垣。いくつも、テーブルを並べて……

 季節もちょうど今頃だ。

 初夏の風に揺れていた薔薇たち。

 そのどれもが真珠色! (不思議に赤はなかった。)

 既にしたたかに酔った友は薔薇を摘もうとして、足を縺れさせ生垣に倒れ込んだっけ。俺は慌てて引き起こしてやった。

 あの日、吹き過ぎた風は、友の髪に毀れた花びらは、何処に消えて行ったのだろう……




「あ、お客様方がお着きのようよ?」

 庭の方を眺めていた淡紅子が言った。

 既に手の指は塗り終えて、足に覆い被さっていた蒼眞が顔を上げる。

「あれが長谷部の家の人たち? まあ、ちょっと見ない間に子供たち、大きくおなりだこと!」

「兄は帝大生。法学部の秀才らしいですよ。妹は女学校の三年。へえ! 浴衣姿か」

 父や兄は格子柄。妹は――

 蒼眞は目を細めた。

「糸あやめとはまた古風だな? 鶸(ひわ)色の帯がよく似合ってる」

 江戸文様の型紙から特注した、凝った茶道具柄の母を振り返る。

「では、僕たちもこのままで行きましょう」

「女学生ですって? おお、嫌だ!」

 一方、淡紅子はブルっと身震いした。

「この世で最も淫靡な生き物だわ。蒼真さん、まさか、引っかかったりしてはいないでしょうね?」

「ほら、また、淡紅子さんのヤキモチが始まった」

 息子は笑い飛ばして、

「フランスならリセエンヌ……この世で最も他愛なくて可愛らしい生き物ですよ。あの子、すぐ頬をバラ色に染めるんだ。イタッ」

 膝を割って、覗いていた太腿に深紅の爪が立てられた。


 エクルラート……

  赤い体液……


「ひどいな! 洒落にならない。血が出たじゃないか。足はやめてください。見えるから」

「股を誰に見せるのよ?」

「浴衣だから言ってるんです。足捌きによってはマズイでしょう?」

「蒼真さんが『可愛らしい』なんて言うから……何が『可愛らしい』ものか!」

 籐椅子から息子の胸に伸し掛って母は言うのだ。

「あの、売女が……メス猫の淫売が……私の猩眞(しょうま)様を寝取ったのはちょうどあの娘コくらいの歳……女学生だったんだから!」

「淡紅子さん?」

「さっきなんて言った? バラ色が可愛らしいですって? とんでもない!」

 本当はバラ色こそ曲者だわ。その色に比べたら……私の爪の色など何のことはない。

 深紅の爪を、再び先刻傷つけた血の滲んでいる箇所に這わせる。

 蒼真は好きにさせた。

 勝利の色なんて大嘘。私は負けたのだ。あんな女学生の小娘に、たった一晩で。

 なんてうぶで浅はかだったんだろう?

「二十歳の私は、こんなやり方も知らなかったんですよ、ねえ、猩眞さん?」

 名前が違う。だが、

 蒼真は好きにさせている。


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