アニマル俺口
病院のベッドで目を覚ました時には葬儀は終わっていて、林田の骨は墓に収められていた。
お母さんの時と同じだ。何がなんだかわからないまま消えてしまったんだ。
俺は見舞いにきたお父さんや妹や彼女に「林田は生き返っていたんじゃないのか」としつこく聞いたけど、返ってくる答えは哀れみの滲んだ「幻覚を見たんだよ」だけだった。
親友が脳腫瘍でこの世を去り、自分自身の脳にも同様の腫瘍が見つかったことで俺は強いストレスに晒され、結果、葬儀の場で発狂した――ということになっていた。
なっていたというか、俺以外にとってはそれが事実だ。
俺が意識を失っている間に家族と医者の間でどんな話が交わされたのかは知らないが、俺の「家に帰りたい」という願いは却下されてしまった。自暴自棄を起こして取り返しのつかない何かをやらかすのではないかと、心配されていたんだと思う。
腹の底で悔しさは燃え続けて、俺を内側から容赦なく焼いた。もっと上手いことやれていたら何とかなったんじゃないかという思いが強かった。
このままでは俺は死ぬ――何を考えても、最後にはここに意識が持っていかれてしまう。
死について考えるのは体に2種類の蛆虫を飼うってことだ。
不安と恐怖。そいつらは俺の中で蠢き、気力と体力とアニマル浜口を貪り食ってゆく。
眠らなければいけないのに眠れず、食べなければいけないのに食べられない日々が続いた。肌は弛み、腕には血管と骨が無様に浮き出した。
こうして、理解出来ない何かに巻き込まれたまま俺は死ぬのか?
――冗談じゃない。そういう、俺の知らないところでまかり通る、俺には関係のない理屈で、俺の人生に穴が開くなんて2度とごめんだ。あんなことは1回でも十分なんだ。
俺はまだ蛆虫に食いつかれていないアニマル浜口をかき集め、この状況に蹴りをつけることにした。自分が何と戦っているのかわからなかったけど、負けたくはなかった。俺、そういうとこあるから。
手始めに。俺は処方された薬を撫でて「脳腫瘍がなくなる薬になれ」と願った。
当然、薬はそういった薬になった。
脳腫瘍は縮小し体力も回復していったのだが、急に薬は効果を発揮しなくなった。
非常に稀なことだが薬への耐性が出来てしまったのだと医者は説明した。効かなくなっただけならまだいい。揺り戻しがあった。揺り戻しだけならまだいい。脳腫瘍は急激に悪化した。
文字通り墓穴を掘ったんだ。墓穴に突っ込んでいる足が片足から両足になった。
次に俺は自分のレントゲン写真を手に取り、腫瘍が消えてなくなるようにと願い、撫でた。
砂が崩れるような感触の後で手を退ける、とレントゲンから腫瘍は消えた。
歓喜のあまり『プラトーン』のポーズをしたが、それも頭の中にある新しい過去を思い出すまでの短い間だけだった。
医者がレントゲンを取り違えていたという過去が出来ていた。
俺が腫瘍を消したレントゲンは他の誰かのレントゲンだったということになり、腫瘍は俺の脳に残り続けた。他のレントゲンでも何度もチャレンジしてみたけど、変える度に医者がレントゲンを取り違えたという過去になった。医療ミスの温床だ。
最後に。俺は俺の頭を撫でながら「脳腫瘍がなくなりますように」と願おうとした。
林田が死んだ時、次々と現れる過去の思い出に圧倒され、どれが今に繋がる過去なのかわからなくなって掌で額を押さえたことがった。
あの時、俺の額は砂みたいになって、俺の指が額の中に沈み、そしてその時求めていた今に繋がる過去を思い出すことが出来た。
だからそれと同じように自分の体も弄れるんじゃないかと思った。
でも出来なかった。そうしようとした時に、自分の体を自分で解体しているようなゾッとする感覚に襲われたからだ。本能的な恐怖が俺に「あかんやつや」と告げていた。
俺はそれ以上どうしても踏み込めなかった。
打つ手は消えた。間違いなく俺は死ぬ。それを受け入れないといけないのだ。
妹が「気が向いたら読んで」と俺に押し付けたオーラでオーブでオーガニックでスピリチュアルで、心理テストに答えたり、誕生日と表を照らし合わせると魂の守護動物が何なのかを教えてくれる本によると――俺のスピリチュアルアニマルは虹色に輝く甲羅を持ったウミガメだそうだ――死には5つの段階があるらしい。
否定。怒り。取引。投げやり。受け入れ。どの本にも言い回しは違えども同じことが書いてあった。誰かがこういうことを言い出して、周りが追従したんだろう。
己の死の運命を知り、取引期を過ぎた俺は投げやり期に入る前に別ルートに入った。
林田期だ。要するに他のことを考えて気を紛らわせたと言えるし、俺がダメなら林田だけでも現世にワンスアゲインと思ったとも言える。
俺はちょっとだけ、ティラノサウルスの囮になる超格好いい人に近づけたような気がしていた。痩せこけた体では黒いレザーが着こなせないのが残念だった。
消灯時間を過ぎた薄暗い病室で、俺は今、天井を見つめながらこの窮地をなんとか出来ないものかと考えている。
両手の指を胸の上で組み、気分は俺ロック・カンバーバッチ。
ここはベーカー通りのお洒落な部屋。牛の頭蓋骨とか、骨董品みたいな銃が飾ってあって、冷蔵庫の中には人間の生首が入っていて、黒っぽいお洒落な壁には銃創が幾つも残っている。アールグレイが甘く脳に香ってくる。アールグレイがなんなのかは知らない。
どうして葬儀の日の林田カムバックが上手くいかなかったのか、今でもわからない。
確かに目を開けたと思ったのに、それは俺だけが見ている幻覚になってしまった。
生きている林田が出現するという辻褄を合わせられなかったんだろうか?
いや、どんなに強引でも辻褄はあわせられるはずだ。俺だって俺になったくらいだし。
死んだ人を生き返らせるのは無理なんだろうか? いわゆる禁忌っていうやつか?
……いや。そんなもんあってたまるか。この世に起きる全てのことは、起きるから起きるんだ。在るから在るんだ。禁忌ならそもそも起きないし、存在も出来ない。禁忌なんだから。起きて、在るものは禁忌じゃない。現象だ。
猿から俺。猫から彼女。お数珠からハムスター。ハムスターからおじゅずちゃん。後付けの過去から静香ちゃん一家。石鹸から色々なもの。デタラメなチラシから後付けの新興宗教団体。これらは実現できて、林田の復活はNG。何でだ?
違いがあるとすれば、林田が死んでいたということ。
やっぱり死んだ人間は生き返らせ――いやいやいや。待て待て待て。
俺ロックに閃きが訪れた。
大量に生き返った人たちいるじゃん――林田のマンションの連中だ。
マンションの外廊下を走り回った時、買い物袋を切り裂かれてへたり込んでいる隣人を見た。あの人にはちゃんと顔があった。俺と林田の取っ組み合いを見ていた人達にも顔があった。はっきり見えた。彼らは実在だ。
あの人たちは彼女の出現によって過去が変わったから死なずに済んで、今に存在するんだ。
そうだ。過去が違う。
彼女の引き連れてきた過去では、あのマンションの大家は別の人だった。あのマンションは死の館ではなかった。もし死の館だったら彼女はそこで林田と同棲出来ない。そんな不気味な場所に尋ねてもこないだろうし、そんなところに住んでるような奴からは逃げ出すはずだ。彼女が林田と付き合っているという現在と過去の辻褄が合わなくなる。
だから、彼女のために大家が消えて、大家が消えたから住人が生きてるんだ。
ってことは。ってことはだ。レストレード警部!
生き返らせるんじゃなくて、そもそも死ななかったことにすればいいんじゃないか? そうだ! あいつが死ぬはめになったきっかけを、別の形に変化させればいいんだ!
俺は起き上がる。体が重い。手足のしびれは消えてない。でも確かめないといけない。
ベッドサイドのランプをつける。明るさに目が慣れるまで待ってから、見舞いの品の中からオレンジを取る。それから果物ナイフも。
仮説を実証しようじゃないか、ジョン!
俺は震える手でナイフで掴み、オレンジを刺した。匂いが鼻をくすぐる。不自由な手でなんとかオレンジを真っ二つに切る。オレンジを布団の上に置く。果汁がカバーを汚すけど、どうでもいい。ナイフを両手で持ち、願う。
「これが」何がいいだろう? ナイフの反対のやつ。刃物の反対だからペン? でもペンだとまだ鋭いな。じゃぁ。
「これがクレヨンだったらいいのに」
砂が崩れるような感触。変化。ナイフは消えて、親指ほどの長さのクレヨンが手の中にある。ベッドの上にはクレヨンでニコちゃんマークを落書きされたオレンジが転がっていた。手に持って確認してみるけどナイフでつけた傷なんて全然ない。
新しい過去が出来ている。
このクレヨンは退屈しのぎに絵を描きたいという俺の要望で、妹が持ってきてくれたんだ。眠れない夜を持て余した俺は、オレンジに落書きして遊んでいた。そういうことになった。
俺は指を動かす。こまめに絵を描いていたからか、手のしびれはさほど進行していなかった。すっごい動く。うぉ。すっごい動く。なにこの可動域。体も軽い。
クレヨンを所望した俺は度々病院の中庭に出てはお絵描きをしていたという過去も頭の中に出来上がっていた。足のしびれも軽い。まともに歩けそうだ。今回の紐くじは大当たりだ。
俺は点滴の針を抜き取り、ベッドから降りた。
理詰めで考えるのは苦手だ。この思いつきだって、たまたま上手くいっただけでまるっきり見当違いなのかもしれない。でもわずかでもなんとかなりそうな可能性があるのなら、それに食いつかないと。いってみよう、やってみようの精神だ。どうせもうどん詰まりなんだ。
俺は「いつか退院した時のために」とお父さんと妹が持ってきていた私物箱を漁り、入院患者様のパジャマから普通の服に着替え、スリッパをスニーカーに履き替えた。
入院してからろくに触れてもいなかったスマホと財布をジーンズのポケットにねじ込み、俺はそっと、病室を抜け出した。
林田を死ななかったことにするために、やらなきゃいけないことがある。
包帯に包まれた手が焼けるように痛んだ。
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