笑い話だとでも思っていたのか

※比較的強い暴力的な描写、性暴力描写を含みます。

※あらゆる犯罪を推奨するものではありません。


 肉体が布と金属で出来た頭でっかちな潜水服に変わり、自分が閉じ込められていると感じた。

 水圧に囚われて腕をあげることもできず、悲鳴はヘルメットのガラスを曇らせるだけで誰にも届かない。

 俺はなすすべもなく暗い海底へと落ちていく――感じたことが真実なら、これが俺の真実だ。恐怖のあまり動けなかったというだけにしても。


 お母さんが俺に向かってくる。驚いた様子はない。俺を見ても眉一つ動かさなかった。目線が俺を通り過ぎている――俺もこの空間も見えていないんだ。俺がお母さんの顔を認識できないのと同じように。

 手を伸ばせば触れられる程の距離までお母さんが近づいてくる。

 お母さんの中途半端に濡れた手からチャーミーグリーンの匂いがした。夕暮れ時のお母さんの匂いだ。

 「お母さん」と言おうとしたのに、口から漏れたのはため息のような湿った空気だった。腹筋が消えてしまったみたいに力が入らない。

 お母さんは俺の前で向きを変え、右手側に進み始めた。俺は立ち尽くしたまま、遠ざかってゆく背中を見つめる。

 サンダルの音を聞きながら、あの凄まじい轟音と風が止んでいることに気がつく。

 周囲を見回してみれば俺を取り囲んで回転していた銀色の欠片達は、それぞれの鋭い切っ先をこちらに向けたまま空中に静止していた。

 弓を引き構えたオーランド・ブルームの群れに囲まれて、矢の先を向けられている気分だ。きっかけさえあれば、あの欠片達は俺に向かって一斉に飛んでくるに違いない。

 再びお母さんに目を向けると、彼女の進む先に林田が立っているのが見えた。

 あいつのすぐ後ろにはお母さんが出てきたのと同じような欠片があったが、その中にどんな風景が広がっているのかは、あいつの姿に隠れてよく見えなかった。燃えるような色の空だけが辛うじて確認できる。

 欠片から差し込む赤い光を背中で受けて、林田は黒い影になっている。

 影が右手を上げて、お母さんを指差した。

「懐かしいとお前は感じている。と、いうことになっている。俺がお前ならそう思うだろうと思うから」

 自信で満ちている声だった。

「まだそんなややこしいことを――」

 俺の頭の中で野村萬斎がエレガントに舞う。

「お前は今まで1度も母親に会ったことがない。お前の思い出は全て、お前がお前であるために後付けで出来上がった物語だ。お前の母親だということになっているそいつは、思い出の中にだけ存在する最初から死んでる母親なんだ」

 林田は言葉を切り、首を後ろに向けて夕焼け空の広がる欠片の中を見つめた。

 夕日があいつの耳を赤く透かす。

「お前はお前という人間のふりをしてる。本当はどこにもいないフィクションだ」

 欠片の中、ずっと遠くの方から鈴に似た音が微かに聞こえた。

 お母さんが足を止める。お母さんにも音が聞こえたようだ。

 林田がまたこちらを向く。夕陽に縁取られた頬の輪郭が燃えている。

「いない奴がどうなろうと、俺はどうとも思わない」

 お母さんが体を強張らせ、一歩後ろに下がった。

 音が更に近くなる。この音は風鈴の音じゃない。自転車のベルの音だ。

「お前の恐れるものが、間も無くこちら側へ」

 チリンとまたベルが鳴った時、俺は林田が何をしたのかを理解して悲鳴をあげた。

「このクソ野郎!」

 林田のスカした面を叩き潰してやりたいが、今はそれどころじゃない。

 お母さんが危ない。

「そこにいちゃだめだ!」

 お母さんに駆け寄ろうと足を踏み出した瞬間、強烈な痛みがつむじまで突き抜ける。俺は受け身も取れないまま無様に倒れた。倒れた衝撃でまた痛みが走り、変な声が出て、変な汗が出た。

 足の裏がズタズタなの忘れてた。クソッ。クソッ!

「逃げろっ!」倒れたまま叫ぶ。

「家に帰るんだ! 今すぐ!」

 お母さんはその場にとどまったまま、周囲を見回す。

 自分の他に通行人はいないか探しているんだ。

 お母さんの認識できない顔の眉が八の字に下がり、口元に笑みが浮かぶ。

 自分が目にしているものは何でもないありふれたものなのだと振る舞えば、それが本当に何でもなくなると信じている笑顔――笑う死相。

「本当には何も起きちゃいない。だから心を傷める必要はない」

 林田が欠片の前から右に退いた。隠れていた風景が見える。

 夕暮れ。手前から遠くに向かって真っ直ぐ伸び上がってゆくコンクリートの坂道。その両サイドに並ぶ家々。ブロックの塀。電柱。電線。

 俺がかつて住んでいた町。家から出てすぐの通り道。風もなく、通行人も車もなく、烏や猫の姿もない。静止画のようだ。

 動くものは1つだけ。

 影が坂道の真ん中を落下速度で降りてくる。自転車に乗った男。

 あいつを知ってる――ユーチューブで。ウィキで。殺人事件の記録ばかりを集めた悪趣味なサイトで。「不気味な殺人事語るスレまとめ」とかそんな名前のまとめサイトで。

 俺のお母さんを殺した男。川畑。

 あいつが。


「逃げろっ!」

 俺はオットセイみたいに腕を使ってお母さんの元へと這い進む。お母さんの足を引っぱたいたが、俺の手は光がガラスを通過するように足を通り抜けてしまう。

「これは現在進行形で作り上げられる存在しない過去だ」

 林田が答える。

 自転車のタイヤが回転する音が聞こえた。スポークが振動し、ペダルが軋む音も。

 振り返る。

 川畑の乗った自転車が欠片の中から飛び出してくる。白い空間にタイヤが乗り上げる。ブレーキをかける音は聞こえなかった。自転車は少しもスピードを落とさず、お母さんに激突した。

 肺が潰れたような声をあげてお母さんは倒れ、手足を振り回して地面を転がった。お母さんの体は雑巾みたいに捻れたポーズで停止する。

「逃げて! お母さん!」

 白い空間を這う俺の体の上を、自転車を何もない空間に立てかけた川畑が通りぬけていった。俺はあいつを捕まえようとしたが、手は空気をかき回しただけだった。

「このクソ女! 俺の悪口を言い触らしやがって!」

 川畑の右手で釘打ち銃が、左手でバールが風鈴みたいに揺れていた。

 林田が俺のすぐ側まで歩いてくる。

「これは現実じゃないんだ。お前がしがみついているお前の人生は、診断メーカーが作り上げる前世の設定みたいに空虚だ。過去のための過去。トラウマのためのトラウマだ。設定のための設定だ。ありがちでお粗末でくだらないよくある物語だ」

 俺は木登りをする猫みたいに指を広げ、林田の足にしがみいた。

「お母さんがあいつに殺される! 何とかしてくれ!」

「お前のお母さんはそもそも存在しない」

 林田は俺の右手の傷を見て目を細める。

「だからここでは何も起きてない」

「たかが手の傷の位置ぐらいで、俺は偽者になるのか! たったそれだけで、急に俺はお前にとって架空の存在になっちゃうのかよ! こんなもん、誤差の範囲だろ! なあ、俺が傷つけば満足なんだよな? もう十分だ! あいつをどこかにやってくれ! 頼むから!」

 林田は子供の仮病を咎める親の目で俺を見た。

「お前は傷ついたふりをしてるだけだ。俺はそう思う。俺がお前をそう思うから、お前はそうなんだ」

 掌が汗で湿る。こいつは俺の内側を、自分勝手に決めている。

「あの人は俺のお母さんなんだ! 俺があの人をお母さんだと思うんだよ! 死んで欲しくないんだ! それで十分じゃないか! どうしてわかってくれないんだよ!」

 林田は眉間にVの皺を寄せる。

「存在しない人は、死んでも死んでなくても同じだ。なんの影響もない。いないんだから」

 林田は俺の後ろを指差す。指の先に顔を向ければ、体を起こそうとしているお母さんの横にあいつが立っているのが見えた。衣服の上からでもはっきりわかるほど勃起している。

「ラジオで俺の悪口を言っていただろう! お前が俺を監視するせいで外に出られない! 俺をバカにしやがって! 知ってるんだぞ! 夜中に俺の家の郵便受けに泥をいれたのもお前だ! 絶対に許さない! 夜中に隣の部屋でピアニカを吹いてるのも、小学生が俺をみてピアニカを吹くのも全部お前の差し金だ! バレないとでも思っていたのか! 嫌がらせババア!」

 川畑がバールを振り上げ、お母さんの顔に向かって振り下ろす。お母さんの頭が白い空間にぶつかり、バウンドする。何か小さいものが飛んできて、俺の頬を通り抜けていった。砕けたお母さんの歯だった。

 俺は必死に手を動かし、2人の元に向かう。

「構って欲しいんだろ? そうなんだろ、クソババア! お前は俺にこうされたくて待ってたんだ。お見通しなんだ。痛がる振りして喜んでるくせに、被害者ぶりやがって!」

 川畑はお母さんの腹を蹴り始める。

 お母さんが悲鳴をあげ、呻く。

「やめて、やめてください、あなた誰なの、お願い、なんの話をしてるのかわからないっ、私はあなたを知らないの!」

「お前のせいで、俺はこんなことしなきゃならないんだ! ババア! ラジオでお前が俺を呼んだんだ! 毎日毎日俺を呼んだんだ! 来てやったぞ! 望み通りにしてやる! 喜びをやるぞ!」

「やめてっ! 痛いっ、痛いっ」

 川畑はお母さんの髪を掴んで引き摺り始めた。白い空間に血が線を引いてゆく。

 川畑が民家の塀と塀の間にある隙間にお母さんを引き摺り込む。

 俺には民家も塀も見えないけど、川畑がそうしたということを俺は知ってる。ネットで読んだから。

 お母さんの顔が俺の方を向く。顔が壊れていた。顔の下に大きく開いた穴が口だとは最初わからなかった。鼻があるはずの場所には潰れた肉があるだけで、両目部分にはピンポン球を乗せたように膨らんでいる瘤があった。お母さんの口から冗談としか思えない量の血が溢れ出して顎から胸までを赤く染めていく。

 川畑に這い寄り、お母さんを蹴り続けている足に掴みかかったが、俺の腕は川畑の体を通り抜けてしまう。

「やめろっ! やめろよ、ちくしょう!」

 俺はお母さんに覆いかぶさる。

 俺の体を通り抜けて川畑の振るったバールが、スニーカーの靴底が、改造した釘打ち銃から放たれた銀色の釘が、お母さんを痛めつける。

「こうして欲しいってわかってるんだ。ほら、お礼を。お礼を言えよ。お前の望みだろう。良かれと思ってボランティアしてやってるんだ。お前みたいな変態は満足させてやらないと何するかわからないから、こうやって満足させてやってる。それをお前はブタみたいに喚くだけでありがとうございますの一言もないんだな。おい、ババア。謝れ。俺に謝れよ。謝れ、謝れ」

 母さんの顎は砕け、ムンクの叫びみたいに顔の輪郭が歪む。

「謝ったら? ねぇ? 謝ったら? こっちは良かれと思ってやってるのに? ねぇ?」

 川畑が釘打ち銃の先端をお母さんの胸にくっつけて引き金を引く。お母さんの砕けた顎の奥から「痛い」と呻く声が水滴みたいに溢れて落ちる。

「はぁあぁ? 一々大袈裟なんだよ! 被害者ぶって、図々しい! お前の望みだろうが! ねぇ! ねぇ! ねぇ!」

 あいつはバールを脇に起き、空いた手をズボンの中につっこみ奇声を上げながら扱き始めた。

 俺はお母さんを抱きしめようとするが、どうすることもできない。

 無造作に脱ぎ捨てた服みたいに弛緩していたお母さんが弱々しく腕を動かし始めた。空中にあるロープを手繰りよせようとしているかのような動きだった。

 お母さんの顎が上下に動く。

 「や、だ」――そう言ったのではないかと思う。

 お母さんの足の間であいつが腰を振り始める。スカートが腹までめくり上がり、曲げられたお母さんの膝が、あいつが腰を振るたびに痙攣していた。あいつの顔がすぐ目の前にある。あいつはひっひっと短く声を漏らしてから、鼻から長い息を吐いた。

「お前は、俺の便所になるために生まれたんだ」

「こいつ、殺してやるっ!」

 俺はあいつに飛びかかった。

 爪を立てた手で顔を引っ掻き、歯に拳を叩きつけ、体当たりをし、浮きだした首の血管に噛み付いた。

 無駄だった。何をどうしてもあいつを通り抜けてしまう。なんの手応えもなく、残されるのは疲労と汗だけだ。俺にできることは何もなかった。俺のお母さんを強姦しながら、川畑は思い出したように釘打ち銃をお母さんの体に押し付けて引き金を引いた。太ももや胸や顔に。穢らわしい言葉を吐きながら。

 嬲られるままお母さんは死んだ。最後まで苦しんだ。


 川畑は自転車に乗り、元いた欠片の世界に、あの夕焼けの坂道に戻っていった。

 俺はお母さんの側に座り込んだまま動けないでいた。

 もう息をしていないお母さんの顔を見つめる。顔中に隙間なく釘が打ち込まれていて、血だらけのミラーボールみたいに見える。元々口だったところには川畑のクソが詰められていた。

 何が「女の人が突然叫んで道路に倒れたんです」だ。全然違うじゃないか。

「いっ!」

 突然前髪を掴まれ、俯いていた顔を上に向かせられた。首が痛い。筋を痛めた。

 林田が俺を見下ろしている。冷たい両手が俺の顔を撫でる。

「お前は最初からどこにもいない」

 林田が願いを口に出す。

「本当は何も感じてないんだ」

 あいつの願いが俺を侵食するのを感じ、俺はとっさに林田を突き飛ばした。

 俺に抵抗する力がないと踏んで油断していたんだろう。林田は2、3歩後ろに下がってそのまま尻餅をついた。大人しい猫に噛まれたような顔で俺を見ている。

 林田の願いが酸のように染みて、俺を崩そうとしている。あいつの手が触れたところが痺れている。両手で顔を強く抑える。瞼に指が触れた時、皮膚が破れたんじゃないかと思うくらい痛かった。

「俺は俺の思う俺だ」願いをかける。喉が傷み、声が掠れていた。

 砂が崩れるような感覚が止まった後も、ちょっとした呼吸や身じろぎがきっかけになってまた体が――俺という存在そのものが、林田の願いに飲み込まれて崩れ落ちるように思えて、手を顔から離せなかった。

 指の間から俺は林田を睨みつける。

「自分が何をしたのか、わかってるのか」

 怒りで声が震えた。

「俺がやったんじゃない。あれは勝手に組み上がったんだ。それに本当は何も」

「お前が川畑を呼んだっ! あいつが何をするかわかってて呼び出したんだ!」

 怒鳴ると喉のどこかが破れたんじゃないかと思うくらいの痛みが走った。

 俺は顔を覆っていた手を離して、喉を摩る。

「お前は俺を傷つけようとするくせに、俺が傷つくと何も感じてねぇとほざきやがる。何がしてぇんだ!」

 あいつはあぐらをかき、頬杖をつく。

「お前が限界まで傷ついたと、俺が納得したい。これはそのための試練だ」

「何が試練だ!」

「ほら、元気だ。俺がお前を何事にも諦めない前向きな奴だと思うから、お前はそういう奴になったんだ。お前は本当に好感度の高い虚構だ。消すのに骨が折れる」

 林田の背後に浮いていた世界の欠片たちが、磁石に吸い寄せられる砂鉄みたいに一箇所に集まり始めた。

「今度は何をするつもりだ」

 それは組み重なり合って、一斉に白く輝く。

「お前を変質させる。お前に傷をたくさんつけて、お前から素敵さを剥ぎ取るんだ。『少年時代は好きだったけど途中からすげぇヘタレになったから、あのキャラ嫌いになったし、あの漫画も買うの止めちゃった』、そんな風にさ、俺を失望させてくれよ。使い物にならなくなってくれ。曲げすぎて元に戻らなくなった下敷きみたいに」

 輝きが消えるとそれは無数の欠片の塊から1つの大きな欠片に変わっていた。ちょうど、お母さんが出てきた欠片と同じように。まだ中には何も映っていない。ただ白いだけだ。

 林田は立ち上がり、その白い表面を撫でた。

「もう消えたいってお前が思うと、俺が思うまで続ける」

 喉が掠れて「やめろ」という声が出なかった。

「お前の恐れるものを、こちら側へ」

 破片が白く光る。光りが消えると、見覚えのある玄関がその破片の中にあった。

 焦げ茶色のドアの真ん中には磨りガラスがはめ込まれていて、そこから誰かが靴を履こうとしている影が見えた。あれは、かつて俺が暮らしていた家の玄関たった今、出来上がった俺の過去

「アイス買ってきてあげるね」

 お母さんの声。玄関のドアが開いて、お母さんが出てくる。白い空間をサンダルが踏む。

 座り込んだままの俺の横を通り過ぎる。血だらけで倒れている別のお母さんの死体を、生きているお母さんの足が通り抜ける。濡れた手からレモン石鹸の懐かしい匂いがした。夕暮れ時のお母さんの匂いだ1度も嗅いだことのないいつもの匂い。懐かしさに胸が締め付けられる。

「お前が俺と出会う前に過ごした日々は全部フィクションだ。物語だ。お前は嘘ばかりだ。お前の存在、人生、心、全部嘘だ」

 林田が俺を見下ろしながら言う。

 その背後ではまた破片が集まり始め、新しい大きな欠片になろうとしていた。

「お前みたいな空想の生き物のために、俺はもう悲しんだりしない。絶対に」

 新しい大きな欠片が完成する。林田は横にずれて、白い欠片の表面を撫でた。

「お前の恐れるものを、こちら側へ」

 夕暮れ時。赤い空。真っ直ぐに伸びた坂道。両サイドにアパートが並ぶ。レンガの塀。電柱。電線。俺がかつて住んでいた、見たことのない町が欠片の中に現れた。

 坂道を自転車が走り降りてくる。俺は座り込んだまま動けなかった。

 川畑の乗った自転車は欠片の世界からこちらに飛び出してきて、俺の横を猛スピードで通り過ぎていった。背後で何かが何かにぶつかる大きな音と、何かが倒れる音がする。それが何なのか、もう俺は知っている。ヒュゥという音は、バールが風を切る音で、咳き込むような破裂音は歯を失ったお母さんが悶える声だ。プシュッという連続音は釘が飛び出す音。

「助けなきゃ......」振り返る。

 倒れているお母さんと、お母さんを痛めつける川畑が見える。

 俺が2人に向かって這って行こうとすると、林田が立ちふさがった。

「退けよ......っ! 邪魔すんなっ!」

「最前列で母親らしきものがキチガイに虐殺されるのを見学するのか? あいつがお前の母親らしきものの顔にクソをするところをまた見るのか?」

 返事の代わりに林田の足に唾を吐いた。両手で体を引きずり、お母さんの方へ進む。

 俺は林田の横を通り過ぎ――絶叫する。足の裏が爆発した。

「本当は痛くなんかないんだぞ? 痛いと思っているふりをしているんだ。お前は何かのふりをして、本当に自分がそうだと思い込むのが得意なんだよ」

 視界が点灯した。マンゴーじみた傷が踏みつけられてる。痛い。痛い。林田が俺の頭を両手で掴み、力なく崩れていた俺の体を無理矢理引き起こす。

「自分は存在しないって心から認めれば、こんな痛みなんてなくなるんだ」

 林田が俺の正面に両膝をついて視線を合わせる。俺は生白い顔に向かって拳を放ったが、笑いながらはたき落とされてしまう。文字通り、蠅が止まるようなパンチだったから。

「お前が『俺は存在するんだ』って思っている間は、お前の母親らしきものは必ずああやって死ぬんだ。だってお前は、そういう設定なんだ。お母さんが殺されて、それで俺の町に越してきた。だからお前がお前であるためには、必ずお母さんは死ぬんだよ。彼女が死ぬのは、全部お前のせいなんだぞ。マザコン」

 言葉が熱した鉛みたいに耳の穴へ入り込んで脳を溶かしたのだと思った。

「心が痛いか? それも気のせいだ。存在しないと認めろ。その痛みも消える」

 目から流れ出す液体が涙だとは思えなかった。鉛混じりの溶けた脳だと思えた。

 林田が俺を見つめる。俺の顔に隠れているウォーリーを探しているような目つき。

「まだ全然十分じゃないな」

 林田は立ち上がる。

「『俺の人生はそこにあった』とお前は言った。それを返せとお前は言った。これがお前の人生だ。全てが適当に組み上がる、本当は1度も存在していないデタラメな過去の集合体! それがお前の人生だ! お前のすがりついているものの正体だ! 最初から存在しないものをどうやって返せるっていうんだ! お前はそんなもののために傷ついてる! 本当は最初からいないもののために傷ついてる! 傷つく必要のないもののために泣いているんだ!」

「必要か必要じゃないかで、悲しいか悲しくねぇかが決められるもんか」

 掠れた声で言い返す。

「テメェはとんでもねぇクソ野郎だ。俺がどんな思いでお前を死ななかったことにしたと思ってやがるんだ」

 林田の眉間にWの皺が寄る。スズランの瞳が揺らいだように見えたが、俺がそうであってほしいと願ったからそう見えただけなのかもしれない。

 林田は再び俺の前に膝をつき、両腕で俺を抱きしめる。

「今度はなんなんだ! 情緒不安定か! パラノイアのサイコ野郎っ!」

「お前は俺を見捨てられない。お前は俺を嫌いにはなれない。お前は俺を本当には傷つけることが出来ない。絶対に。お前はそういう風に出来てる。お前はそういう存在だ。だから俺を生き返らせたし、だから俺を本当には傷つけられない。絶対にお前は俺を殺せない。絶対にだ。だって、俺はお前をそういう奴だと思うから」

 首にあいつの息がかかった。

「認めろ。お前は俺の作り上げた本当は存在しない存在だってことを。認めろ。お前はただの物語だ。認めろ。お前はマクドナルドにいる女子高生で、電車の中の小学生で、ファミレスで隣になった外国人。あるいは、いつも面白いことをする友達の友達で、本当に霊感のある友達の友達のお姉さん。『俺の知り合いにそういう人がいるけど』で語られる都合のいいゲイ。自己啓発本か名言カレンダーからコピペしたような悟ったことをいうガキ。望まれた形で存在するシルエットだけの実態のない怪物だ。どいつもこいつも誰かの欲望を正当化するために出来上がった影絵だ。『マクドナルドにいた女子高生がこんなこと言ってたんだけど』『電車の中の小学生がこんなこと言ってたんだけど』で語られる欲望だ。陳腐で低俗でグロテスクな下卑た欲望の伝言ゲームの中で雪だるまみたいに膨れ上がって完成したザーメン臭い夢、それがお前だ。それを認めろ。お前は俺が言って欲しいことを言う。お前は俺の望みを体現する。お前は俺専用の友達botだ。本当はいない。1度も存在したことがない。認めろ。本当は何も感じていないってことを。俺がお前を傷ついていると思うから、傷ついているんだ。でももう俺はお前の正体を知ってる。お前は何も感じてない。感じたように振舞っているうちに、感じていると感じるようになっただけの存在もどきだ。それを認めろ。お前は悲しんでなんかいない。お前は苦しんでなんかいない。お前は傷ついてなんかいない。お前は何も感じていない。お前には心なんてない。お前には感情なんてない。お前は誰でもないし、なんでもないんだ。1度も、何かであったことも、誰かであったこともない」

 乾いたスポンジが水を吸うように、林田の声が俺の心に染み込んでいった。

 俺は何も感じていないんだそうだ。

 

 悲鳴。

 口の中に血の味が広がる。左こめかみが殴りつけられる。弾みで顎に力が入り、前歯の間で肉が千切れた。舌を滑る肉の感覚に動揺し、顎の力が緩む。こめかみにもう1発、衝撃がくる。

 俺は突き飛ばされ、仰向けに転がった。後頭部を強か打ち付けた拍子に口の中にあった肉が喉の奥へと消える。やっすい居酒屋のやっすいカルパッチョを噛まずに飲み込んだ感じだ。血が喉の傷に染みて痛んだが、やがてはちみつを塗ったみたいに喉にずっと感じていたひりつきは消えた。塩辛くてぬるぬるした後味に呻く。

 悲鳴はまだ続いている。

 頭を上げると左耳を抑えて暴れている林田が見えた。初めてアイススケートをする人みたいに体を右へ左へ派手に動かして、汚い言葉を吐き散らかしている。耳を押さえた手を血が走り、肘までが赤く染まっていた。

 あいつは癇癪を起こした子供みたいに頭を振り回す。左耳があった場所から血が吹き出し続けている。あいつの尖った耳は今や俺の腹のなかだ。吐き出そうと思った時にはもう喉を通過してしまっていた。人間の耳を食った。すげぇ気持ち悪い。でもその気持ち悪さよりも、爽快感が優っていた。俺は肘をついて上半身を起こす。血だらけの口を拭って、大声で叫んだ。

「ざまーみやがれ! 想像上の友達に耳食われた気分はどうだ! これでも俺はまだお前のご都合主義でできた存在か? ややこしい言い訳してみろよ、サイコ野郎! 俺はお前を傷つけてやったぞ! さっきなんっつてた? 俺はお前の都合のいい空想の友達だから、お前を攻撃できねぇだのなんだの、クソみてぇなこといってやがったよな!? このバカが!」

 林田の顔が見えない大きな指に弾かれたように俺の方を向いた。

 目つきがおかしい。目線があっちこっちに動き回っている。何かを探しているみたいだ。やがて目線は左斜め上でピタッと止まり、奴の口が胡桃の殻をかじる栗鼠を思わせる速さで開閉し始めた。ブツブツと何か喋っているが聞き取れない。気持ち悪っ。

 喋り出した時と同じくらい唐突に、林田は喋るのを止めた。目玉が回転し、中空を見つめていた目が俺に向けられる。唇の端を耳に届くまでに引き伸ばして林田は笑った。

「俺の奥底にある『本当はお前に実在していて欲しい』という気持ちが、お前が俺に噛み付かせたんだ。俺がお前に、俺に噛み付くことを許したんだ」

 はぁー!? なにそれ、はぁー!?

「テメェの匙加減じゃねぇか! 後出しで『全て俺の計算通りです』ってか! そんな煮詰めたクソみてぇな言い分が有りなわけねぇだろ! バカが! 自分の力と妄想に振り回されて、お前、もう滅茶苦茶じゃねぇか!」

 倒れる直前のコマみたいに林田の上半身がぐるぐると回る。ヒヒヒヒ笑いが回転する。俺の声が聞こえているのかどうかもわからない。

「俺に耳を食いちぎられたいって本当に思っていたのか? それこそ後付けでそう思い込もうとしてるだけじゃねぇのか!」

 まだ笑ってる。聞こえてないのか、聞いているけど脳に入らないのかどっちかわからん。

「ここには俺しかいない、誰もなにも感じてなんかいない、そういう風に見えるだけ。お前は心がある振りをしてる。傷ついている振りをしている。怒っている振りをしている。心配している振りをしている。でも本当は何も感じてない。空っぽなんだ」

「お前が俺の心を決めるな! お前が決めていい領域じゃねぇ! ふざけんな!」

 林田が動きを止めた。ヒヒヒ笑いも止まる。中途半端に斜めに傾いたポーズのまま、林田は俺を見ている。笑顔はない。なんの感情も見えない。

 顔の筋肉の1つ1つが見えない糸で引っ張られているように、ゆっくり林田の顔が変化し始めた。目玉は顔面から飛び出さんばかりになり、口は牙が生えていないのが不自然に感じるくらいに裂けた。あらゆる暗い感情が組み合わされたキュビズムの顔だ。

「お前がやったことじゃないか」

 林田はこちらに歩いてくる。

「俺が? 俺が何をしたっていうんだよ!」

「気付いてねぇとでも思ってたのか!」

 林田が吠えた。

「『こいつは頭がおかしいんだ』って目で俺を見てただろう! ずっと前から気づいていたんだ! テメェの『こいつがまた何か妄想を話し出したぞ』っていうあの目にな! 今もその目でテメェは俺を見てる! 『こいつは頭がおかしくなった』って決めつけてる! 俺の心を勝手に決めつけてるのはいつもテメェの方だ! いつだって俺の苦しみを過小評価し続けただろうが! 『どうせ妄想だ』って笑ってたよな! 俺の世界をテメェはニヤニヤ笑って見ていたんだ! 真面目に取り合うつもりなんてなかったんだ! そんなお前が! 今更! 心を決めるなだって? やっていい領域じゃねぇって?」

 ヒヒッヒヒッと林田は呼吸しながら神経質に笑った。

「『お前の見ている世界はお前だけの世界で、俺や他の人たちにとっては荒唐無稽な妄想でしかないんだってば』、『お前は混乱している。病院に行って、お前の頭の中にある病気の部分を診てもらおう』」

 林田はいつかの俺の口調を真似ながら言う。

「俺は病気じゃなかった! 妄想じゃなかった! 俺は間違ってなかった!」

「林田、その時は俺はまだ――」

「終わったことか? 知らなかったんだから仕方ないか? それともそんなちっぽけなことを気にするなとでも言うか? ふざけんじゃねぇ! お前が先にやった! お前が先に俺の心を否定した! よくも、お前、よくも、偉そうに! 俺が死にかけてた時、ヘラヘラ笑ってやがったじゃねぇか! 俺が死ぬほど怖がってた時! テメェ、真剣に俺の話を聞いたかよ! 面白い話だとでも思っていたのか!? シュールなコメディでも見てるつもりだったのか!? 俺はずっと怖がってたのに! 俺はずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと同じことを言ってた! 世界が怖い、世界が俺を攻撃するって、言い続けてた! テメェはそれを、面白半分で見てたじゃねぇかよ! テメェは俺の傷を笑ったんだ! テメェが! テメェが! テメェが! テメェが! テメェごときが! たかが! 俺の! 妄想の産物ごときがっ! 俺の苦しみはなんだったんだ! ずっとずっとずっと、自分が狂ってるって思い込んで! それでもお前はいると思っていたから! それでもいいって受け入れていたのに! いなかった! いない! たかが傷の位置だと! あれが俺のお前の目印だった! 俺が取り戻したお前の目印だった! でもいない! お前はどこにもいなかったんだ! 俺は無駄なことをしてきたんだ! もう消えろ! 俺は次の世界に行く! 本当の世界に行く! 確かな世界だ! 突然全てが変わったりしない、重力のように絶対的な世界だ! 唯一の真実、真理、絶対的な本家本物の揺るぎなき純粋な世界だ! お前を消しさえすれば、本当の世界が到来する! お前も、今までの世界も、夢の中の蝶になって、羽ばたいて、飛べなくなって、落ちて、潰れて、崩れて、見えなくなって、最初からなにもなかったことになるんだ! 俺は俺を恥じずに生きていくんだ! 俺は俺を疑わずに生きていけるんだ! 人に話しかける時、町を歩く時、いつもいつも『もしかして本当はこの人はいなくて、俺は1人で喋ってるんじゃないか』って不安で、テメェ以外に誰とも話ができなかった! テメェのせいで世界と繋がれない! テメェなんかいらない! 絶対にテメェも、テメェがいた世界も実在になんかしてやらない! お前は虚構に飲まれて、そして気がつくんだよ! 『俺はいなかったんだ』って! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 俺は自由になる! お前という妄想から!」

 林田の体が大男のように膨らみ始めたように見えた。

 あいつの周りに銀色の欠片が蜂みたいに集まってくる。切っ先は全て俺に向けられていた。死がざらついた舌で背中を舐める。

 俺は立ち上がり、痛む足を引きずりながら歩き出す。

 ここにいちゃだめだと思った。逃げ場があるかなんて考えてない。

「どこに逃げようってんだ! この化け物!」

 空気を切る音が聞こえ、後ろから飛んできた何かが左腕にぶつかった。

 体が衝撃に引っ張られて俺は踏鞴を踏む。左腕が縦方向に回転しながら前方へと飛んでゆき、やがて白い空間に落下して転がった。腕から少し離れたところに銀色の欠片が突き刺さっているのが見えた。血がついている。透明オーランド・ブルームの1人が、世界の欠片を放ったんだ。

 俺は視線を自分の左腕に向ける。肘の少し上の部分で俺の腕は切断されていた。血がジョウロから溢れる水みたいな勢いで流れ落ちている。

 腕が。俺の腕。

「腕!」

 俺は前方に転がっている腕に向かって駆け出したが、追いかけてきた林田に脇腹を蹴られ、倒れてしまう。どこもかしこも白いから、転がっている間、自分が上を向いているのか下を向いているのかわからなくなる。腕の痛みはまだない。だが切断された場所が熱くて痒い。指を突っ込んでかき回したくなる。

 林田が俺の腕を拾い上げ、猫でも抱くように両腕で胸の前に包んだ。

 痛みがナメクジのようにゆっくりと傷口から脳に向かって這い上がってくる。

「お前、今が変わった後に変化した過去も『思い出せる』んだよな?」

 林田は考えを巡らせるように目線を宙に漂わせる。それから何かとてもいいことを思いついたように笑う。今まで目にした林田の笑顔の中で最悪の笑顔だった。

「この腕が、義手だったらいいのに」

 あいつの腕の中にある切り落とされたばかりの俺の腕が、肌色のプラスチックか何かでできた義手に姿を変えた。腕の痛みも痒さも消える。

 俺は切り落とされていない方の手で断面だった部分を撫でる。そこは光沢のある皮膚で覆われていた。まるで大昔に腕がなくなって、断面が塞がったかのような状態だ。

「さぁ、どうなるかな? どうやってお前は手を失った? お前の頭に出来上がるぞ、お前の知らない、存在しない過去の物語が! 最悪のものになれ! 最悪の過去よこい! この妄想の怪物に地獄をみせてやれ!」

 林田は義手の手首を掴んで俺に向けて振る。

「お前が消えたくなるまで、新しい思い出とトラウマを作り続けてやるぞ!」

 頭の中に新しい過去が出来上がる。

「嫌だ、やめろ」


 俺と林田の間をお母さんの髪の毛を掴んで引き摺りながら川畑が通り過ぎてゆく。

 お母さんは死んでいた。両目に釘が突き刺さっているのが見える。

 川畑はまた例のパントマイムで、お母さんを民家の間の路地に引きずり込む。


「お母さん」

 子供の声が白い空間に響く。


ああ。チクショウ。林田、お前、なんてことを。

 俺は声の主人が誰だかわかっているし、これから何が起きるのかもわかってる。新しく頭の中に差し込まれた記憶がそれを知らせる。

 これは今から起きる未来で、とっくに起きた過去だ。


「お母さん?」


 俺は声がした方に顔を向ける。さっき殺されたお母さんが出てきた欠片の中。

 玄関のドアが開いて、子供が――俺が、小さい頃の俺が歩いてくるのが見える。

 川畑が民家の塀の間から出てくるのと、子供の俺が欠片の世界から顔を覘かせるのはほとんど同時だった。


 川畑は、子供の頃の俺を見てゆっくり笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る