物語と現実の区別をつけて本当の現実で生きるということ

※比較的強い暴力的な描写を含みます。

※あらゆる犯罪を推奨するものではありません。


「やぁ、坊や。驚かせちゃったね」

 川畑は見せかけだけの薄っぺらな正気をレインコートみたいに被って、小さな俺の向ける不信感の雨を弾こうとした。ある種の狡猾さは、狂気によって研ぎ澄まされていくものなんだと俺は知る。狂人だからといって頭が悪いわけじゃないんだ。

「おじさん、事故に巻き込まれてしまって、怪我しちゃったんだよ」

 あいつは体についた血の言い訳をしながら、再び俺と林田の間を通り過ぎ、子供の俺に向かってゆく。


 俺は。小さな俺はこの時、近づいてくる男に異常なものを感じていた。

 服のあちこちに血がついていて、手には工具を持っているし、目つきもおかしいと思っていた――という記憶が出来上がる。

 目の前で起きていることの記憶が、遠い過去のものとして頭の中にある。

 どうして逃げなかった? 俺はどうして、逃げなかったんだ?

 小さな俺は認識できない顔で笑みを浮かべる。お母さんと同じ、致命的な危機を受け流す顔。

 そうか。なんでもないと振る舞えば、なんでもなくなると信じたのか。

「お父さんかお母さんはお家にいるかな?」

「お父さんはまだ帰ってないです」

 そう答えてから慌てて「お母さんは買い物に行ってるだけだから、すぐに帰ってきます」と付け足す。

 「お母さんがすぐ帰ってくる」と言えば、万が一この男が変な人だったとしても悪いことはしないだろうと思っていたんだ。子供の浅知恵だ。

「藍色のスカートを履いてて、黒いブラウスを着てた人かな? 少し前にすれ違ったんだけど」

 小さな俺は頷く。それがどういう意味を持っているのか気がついてもいない。

 お母さんが帰ってこないことを、たった今、川畑は知ったんだ。

「電話を貸してくれないかな。救急車を呼びたいんだ。お母さんが帰ってきたら、ちゃんとおじさんから説明しておくから」

 川畑はさもどこかを怪我しているみたいに顔をしかめながら、俺の家がある欠片の中に入って行った。

「だめだ」

 俺はふらつきながら2人の後を追いかける。涙が頬を焼く。

「だめだ、そいつを家にいれちゃだめだ」

 子供の俺は駆け足になって川畑の前に立つと、ご丁寧にも自ら玄関を開けて奴を家の中に招き入れた。

「だめだ、家にいれるな」

 俺は悪い大人に気をつけろと言われ続けて育った。俺は困っている人を助けてあげなさいとも言われ続けて育った。

 『悪い大人』──俺にとってそれは、カウボーイや、宇宙飛行士や、少林寺拳法の使い手と同じで、どこか確かに存在するらしいけど自分が遭遇することは一生ないだろうという。ファンタジーの世界の住人のように思っていたんだ。

 ドアが閉まる直前、川畑の声が聞こえた。

「女の子がいるのか」

 小さな俺は頭を捕まれ、壁に叩きつけられた。


 ドアの向こうで行われていることが、コーラの泡みたいに次々と頭に浮かんでくる。俺は欠片の前で転び、そのまま動けなくなる。

 俺の新しい過去が、今、あのドアの向こうで起きていることを教えてくれる。

「嫌だっ! 嫌だっ! 思い出したくない! 嫌だっ!」

 俺は悲鳴をあげる。記憶が出来ている。あいつが妹に何をしたか。あいつが俺に何をしたか。あのドアの向こう側はあいつの妄想でできた狂気の王国だ。

 衝撃が太ももを突き抜けた。

 第2のオーランド・ブルームが矢を放ち、俺の右足を膝の下から切断した。俺は体をカブトムシの幼虫みたいに丸めて喘ぐ。

 林田が転がった足を拾い上げるのを歪んだ視界で見る。

「こんな過去はなかったし、お前の妹は猫に服をやると決める時まで、いなかったんだよ。急にできたんだ。認めろよ。本当は誰もいないって。そしたら何も感じなくなる」

 林田は俺の足を抱きしめて、撫でる。

「俺がお前を見て、何も感じなくなってきてるように」

嫌だ。やめてくれ。

「これが、義足だったらいいのに」

 俺の切断されたばかりの足は、10年以上前に川畑に切断された足に変わる。

「最悪の追加エピソードを引き連れて出現しろ」

 悲鳴。俺の悲鳴。ドアの向こうでも過去の俺が叫んでる。

 ドアの向こうの俺の過去で、川畑が俺の足を切り落とそうとしている。

 小さな俺はガムテープで体を巻かれて床に転がされている妹に向かって「大丈夫」と繰り返している。

 それを川畑が笑いながらみている。そういう記憶が出来てゆく。

 林田が首を大きく右に傾ける。

 こいつは何も見てない。

 川畑と同じだ。こいつ、こいつは──。

「どうだ、消えたくなったか?」

 林田が膝をついて俺の顔を覗き込む。毒で満ちた目が俺の目を見る。

 俺は頷いた。何度も、何度も。もう嫌だ。消えたい。

 だが林田はいつまでも俺の顔を撫でようとはしなかった。

 W皺を浮かべてただ俺を見ている。

「まだ消えたいって思ってないな。強情な奴だ」

 3人めのオーランド・ブルームが世界の欠片を放ち、俺の右手首を切断した。

 ドアの向こうで、子供の俺が右手首を熱した油の中に突っ込まれて泣いている。

 妹が悲鳴をあげると、川畑は妹に油を――。

 俺は泣き叫ぶ。林田が冷めた目で俺を見つめている。心が少しも通じない。

 俺は林田の世界にはいないんだ。

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 俺は両腕と右足を失い、仰向けに倒れている。

 視界が狭い。顔の左半分が痛みの塊になっている。息を吸う度に背中や腿の傷が開いて体の下に血が溜まっていく。

 胸が苦しい。林田が肋骨の上に座っているせいだ。

 あいつは背中を丸めて前かがみになり、俺の顔を覗き込んでいる。

 俺が食いちぎってやった耳の傷からの血は止まっていた。奴の頬や顎に付着した血は既に乾いてひび割れている。

 林田は血で濡れた両手を団子でも丸めるように擦り合わせている。掌の間から舌を絡めてするキスの音がした。あいつの掌で転がされている赤黒い物は、えぐり取られた俺の左目だ。

 神経は繋がっていないのに眼球が潰される痛みを覚えた。幻肢痛だろうか。

「これが義眼だったらいいのに」

 林田がそう唱えた途端、魔法のように左目から痛みが消える。

 奴の掌の間から眼球が消えて、その代わりにおはじきと勾玉の中間みたいな形の義眼が出現した。

 瞬きをする間に頭の中に新しい思い出が出来上がる。

 最新の思い出の中で、俺の目は川畑に抉られたことになっている。

 川畑は抉った目玉を俺に差し出し「100回噛んで食べろ」と言った。小さな俺はそうした。自分の目玉が歯と歯の間で摺りつぶれて、お粥みたいになってゆく感触が、口の中に蘇る。

顔を横に向け、胃液を吐き出した。鼻の奥が痛い。激しく咳き込んだが、林田は俺の上から退こうとしなかった。

 咳が治まった後も俺は顔を横に向けたままでいた。林田の顔を見たくなかった。

 白い空間のそこかしこに、お母さん達の死体が転がっている。浜に打ち上げられたクラゲのようだ。お母さん達から流れ出た血は前衛絵画風のデタラメな線や点を空間に残していた。

 何かがおかしい。

 頭の中で思考が蝿の群れとなって飛び交っていた。蝿達が何かを俺に訴えようとしているのはわかるが、それが何かがわからない。

 それが何かを考えようとしたが出来なかった。頭の中にドアの向こうで行われている拷問に関する新しい記憶が生まれた。

 小さな俺はリビングに仰向けに倒れている。今の俺みたいに。その周りを川畑が円を描き歩く。バールの頭が床に擦れる。あいつはわざと音を立てている。ガラガラヘビの尻尾みたいに、自分の存在を主張する。あいつが齎す苦痛と恐怖が小さな俺を蹂躙した。そして蹂躙は完了した。小さな俺は永遠に変わってしまった。

 あいつは力そのもので、死そのものだった。対峙してしまったら逃げ出すか、一体になるしかない。

 小さな俺は一体になる方を選んだ。

 暗い世界で、最も暗い部分に輝きを見た。

 小さな俺はそこから離れられない。

 スタック──昔読んだ小説で動物達がそう言ってた。猛スピードで近づいてくる車のライトを見つめたまま硬直してしまうこと。恐怖の対象から逃げ出さなきゃいけないのに、魅入られて動けなくなってしまうこと。

 それがスタック。

 俺はスタックされた。永遠に自由になれない。

 あのドアの向こうであり、あのリビングである場所で、川畑が俺のハイルーラーになった。あいつが俺の全てを決める。あいつが俺が何をどう感じるかを決める。 

「どうか、お願いです。許してください」

 ドアの向こうで小さな俺は俺の母と妹を殺した男に許しを乞う。

「殺さないでください」

 小さな俺は小さな俺の切り刻まれた手足が、歯が、爪が、血が、妹の首が、妹の腹から引き出された臓器が散乱するリビングで、あの男を支配者とする。小さな俺がすぐには死なないように川畑が止血した手足を虫みたいに動かす。固く縛られたことを慈悲と捉える。小さな俺は、小さな俺を破壊した男のことを擁護する。「この人は悪い人じゃない。俺が悪かったんだ。俺はこうされて当然なんだ。この人が俺にこんなことをするのは当然なんだ」と考える。力づくでそういう俺にされたんだ。あいつの妄想と狂気を肯定する俺に作り変えられたんだ。

 気持ちが悪くなり、俺は吐く。

「お前がこういう風にされたがったから、こういう風にしてやったんだ」と川畑が言い、「はい。そうです。俺はこういう風にされたかったんです」と小さな俺は答える。川畑が望んだように。

俺は昔から誰かに望まれる何かになるのが得意だ。どんな場合でも。

 出来上がったばかりの幼少期のトラウマが俺の内側を破壊する。


 欠片の中の玄関ドアが開く。お父さんの服に着替えた川畑が笑いながら歩いてくるのが逆さまに見える。

 反射的に両手をついて立ち上がろうとし、即座に腕がないのを思い出して呻く。それを思い出すまでの僅かな間に、掌が生乾きの血だまりに触れて滑った感触を覚えた。幻肢だ。

 川畑が近づいてくる。あのユーチューブ動画を目にした時から俺の中で燃えていた殺意が、後出しの過去が押し付けてきた畏怖に汚される。俺の中にできた小さな俺が、あいつに頭を垂れて額を擦り付けて慈悲に縋れと叫んでいる。今の俺が過去に引きずられて崩れていく。嫌だ。気持ち悪い。

 欠片の中から出てきた川畑は俺と林田の体を通り抜け、お母さん達の死体を踏み越えて、自分が出てきた欠片の中へと戻っていった。

 あいつはこの後自殺する。

 やりたいことを全てやりきった充実感を抱えて。

 誰でも良かったんだって遺書を残して。


 血のついた川畑の足跡が白い空間に残っている。

 俺は周囲を見回す。血だらけだ。お母さん達と、妹達と、それから俺の、俺達の血で、どこもかしこも、ああ、俺の周りの血が乾――。

 息を飲む。俺のちょうど腰の横あたり。体を起こそうと手を着くとしたらそこだという場所、その血だまりの中に、掌を押し付けた痕があった。

 間違いない。掌の痕。俺の、掌だ。親指の付け根部分の皺の痕や、指先が押し付けられた痕も見える。俺は反対側に顔を向ける。反対側の腰の横にも、同じように掌の跡があった。

 強烈な光の筋が脳に差し込んだ。思考の蝿が、北朝鮮かロシアの軍隊パレードみたいに翅並を揃え、光に向かって行進を始める。


 「今度こそ心が折れたか?」

 林田が俺の顔を掴んだ。あいつの顔が目の前にある。

 ここは──現実が定まっていない作りかけの世界だ。

 ここに床と呼べばいいのか、地面と呼べばいいのかわからないが、とにかく「歩ける平たい場所」があると俺が認識しているから、俺は歩けるし、倒れることができるし、血はそこに飛び散り、お母さんたちの血が広がるんだ。ただ白くみえるだけで実体はないのに。

 だから。だから、同じことが出来ていたんだ。

 自分に腕がないことを完全に忘れていたあの一瞬、俺は腕のある俺だった。ないと気がついた時には、ないということになってしまったが。

 林田の指が俺の右目の下を引っ張る。下まぶたの色を見る医者みたいな手つき。垂れた前髪の毛先が俺の額を刺すほどに顔を近づけて、奴は俺の目を覗き込み、ため息を吐く。

「全然傷ついてないな」

 林田は俺の上に座ったまま体を捩って後ろを向き、俺の左足の腿を軽く叩いた。氷水が背骨の中を走る。

 俺は拳を固く握りしめる自分を想像する。

 俺になら出来るはずだ。思い込みの激しさは俺の長所だ。俺は何にだってなれる。

「もっと辛い目にあわせないとダメなんだろうな」

 俺は、俺の思う、俺だ。

 イメージする。腕のある俺を。両目の揃った俺を。両足で立てる俺を。

「お前は本当にはいないから」

 俺は、俺の思う、俺だ。腕。肘。手。指。視界。足。

「お前がどんなに傷ついても、俺は少しも悲しくない」

 俺は、俺の思う、俺だ。腕。肘。手。指。視界。足。腕。肘。手。指。腕。足。肘。

「それが正しいんだ」

 上空に浮かんでいた欠片の1つが、ギロチンを思わせる冷酷さで俺の左足に向かって落下してくるのが見えた。

「そうあるべきなんだ」

  

 首元を掴んで引き寄せた時、林田は悲鳴をあげなかった。

 驚きが奴の顔から狂気を取り払い、赤ん坊のように無垢であどけないものに変える。無力で非力で完全な無抵抗。広い視界にそれが見える。俺のえぐられた目が戻ってる。

 俺は林田を掴んだまま転がり、あいつに乗り上げた。

 落下してきた銀色の欠片が俺の足があったところに音を立てて突き刺さる。

 俺は林田の顔面ど真ん中に拳を叩きつけた。林田が大きく仰け反り、鼻血が粒になって空中を飛んだ。手は離さない。引き寄せ、もう1発。同じ場所に。完全に鼻が潰れ、壊れた蛇口みたいに血が流れ出す。顔の下半分が血だらけになりながらも、林田の顔には赤ん坊のような無垢さが残っていた。何が起きているのかわかっていないからこその表情だ──あれだけのことをしておいて!

「忌々しい!」

 こいつが俺の人生に、俺の過去に、俺の心に、川畑を呼び込んだ。あの毒を。

「救えねぇ!」

 拳を叩きつける瞬間息を吐く。腹筋が音を立てるんじゃないかという程に固くなった。

「人殺しのっ!」

 殴る。もう1度。更に、もう1度。殺されていったお母さん達や妹達の顔を思い浮かべて殴った。お母さん達は、妹達は、何度も言った。「殺さないで」って。俺は何度も言った。「やめてくれ」って。お前達は、お前と川畑は1度も聞き入れなかった。お前は、1度も聞き入れなかった。

 怒りは俺の力をどこまでも高めていく。

「ウジ虫がっ!」

 殴って、殴って、殴って、殴る。殴る。殴る。殴り続ける。

 林田が両手で顔を庇ったので、肋骨の下に拳がえぐりこむようにして腹を殴った。林田は悲鳴を上げて体を震わせ、頭を覆っていた手を腹に移動させた。俺は右手であいつの顔を掴み、全体重をかけて地面――と認識されている平面――に叩きつける。林田の頭は平面にぶつかり、跳ね返り、俺の掌にあたり、また平面にぶつかる。大きく開いた口から細かい泡が溢れる。

 俺に切っ先を向けて空中で停止していた銀色の欠片達が震え、ぶつかり合ってシャラシャラと音を立てた。耳障りだ。

「俺を切り裂きたいか? やってみろ! この間抜けを盾にしてやるからよ!」

 空間中の欠片に聞こえるように怒鳴ると、欠片達は震えるのを止めて空中を滞留し始めた。知らぬ存ぜぬを通すようだ。あいつらに意思があるかなんてどうでもいい。確認のしようがない。通じたっぽければそれで十分だ。

 俺は林田に目を向けた。両目が別の方向を向いている。額の左側の皮膚がレンジで温め過ぎた餅みたいにたるみ、変色していた。骨が陥没してるんだろう。頭の周りには血が丸く溜まっていた。

 死んではいない。口が上下に動いている。痙攣の一種なのか、意思を持ってやっているのかはわからない。左目が回転して俺を見た。俺の顔を。それから俺の腕を。

 俺は自分の両手に目を向ける。そこに手がある。指先から肘まで血で真っ赤だ。手は確かにここにあるが、俺の顔と同じようにきちんと見ようとすると、だまし絵の見えない方の絵みたいに存在感が薄くなった。

「こっ、こ、こ、これはは、は」

 林田はヒヒヒと唇を曲げて笑った。

「俺の深層心理が望んだ痛みだ」

 俺は林田の頬を平手打ちにする。林田は呻いたが笑うのは止めなかった。

「黙れ!」

 俺は林田の耳の傷に指を突っ込み、思い切り引っ掻いた。鼓膜が破れるような悲鳴を上げ、林田は俺の下で手足を振り回して暴れた。俺はもう奴の頬を打つ。もう1度。もう1度。

「これがお前の望みか? これがっ!? お前が望んだから、俺がお前をこうしてるっていうんだな!? 俺の意思ではないっていうんだな!」

「そうだ!」

 大きく口を開いて、血と砕けた歯を飛び散らしながら林田が叫ぶ。

「これが俺の望みだ! 俺がお前にこれを望むから! お前はこうするんだ! 俺の思った通り! 全部! 俺の! 俺はお前に本当にいてほしいと望み、だからこうしてお前は本当っぽく振る舞う! 心があるみたいに! 怒っているみたいに! 本物みたいに! お前の全ては俺の思うまま! 俺は間違ってない! 俺は間違ってない! 俺だけが本当のことが見えているんだ!」

「こんなことを望む奴がどこにいる!」

 俺は再び顔面を殴り始めた。

 林田は叫ぶ。悲鳴なのか歓声なのかわからない。

 体の中に溜まった怒りが、憎悪が、暴力を肯定していた。

「超えちゃいけねぇライン、少しは考えろよ、くそ野郎!」

 あいつの顔が潰れて血が滲んだニキビみたいになるまで殴り続けた。

「自分だけが傷ついているのか! 自分だけが被害者か! 自分以外は全部敵で、お前だけが正しいのかよ! どういう世界観だ!」

 全身が雨を浴びたように濡れている。傷口が開いて全身から流れ始めた血と、吹き出す汗と、林田の返り血が皮膚の上で混ざる。林田の呼吸は弱くなっている。両目はほとんど瞬きをしない。頭の周りの血溜まりはもうパーティサイズのピザと同じくらいにまで広がっていた。

 こいつは狂ってるんだ。こいつは有害な神だ。死んだ方がこいつのためだ。俺のためだ。みんなのためだ。死んだ方がいい。こいつは、死ぬしかない奴だ。こいつが死ぬのは、しょうがないんだ。

 俺は林田の首に両手をかける。両手の親指で喉仏を潰すように力を込める。大きく開いた林田の口の奥から、灯油ポンプがタンクから中身を吸い出す時のような音がした。こうするしかない。微かな声が音の後に続く。

「殺さないで」

 血だらけの林田の顔が、1人も助けてあげられなかったお母さんの顔に重なった。

ちくしょう……。


 四隅を取られたオセロのように、あるいは北朝鮮のマスゲームのように、俺を突き動かしていた殺意がひっくり返り、別の抗いがたい感情に変わった。それが林田の喉に食い込んでいた俺の指にしがみついて、それを緩ませた。

 イメージする。両腕のない自分を。集中のため目を閉じる。

「俺は俺の思う俺だ!」

 瞼を上げれば、俺の両腕は中途半端な位置で切断された腕に戻っていた。

 腕があったことがなくなり、俺が散々殴りつけたこともなくなり、林田の顔は元に戻る。

 林田は俺を見る。何が起きたのかわからないでいるあの無垢な顔だ。

 深呼吸を繰り返す。俺の血と汗が混じったものが林田の上に垂れ落ちる。

 未だ感じたことのない激しい感情が体の中で唸りを上げていた。

 これがなんなのかわからない。憎悪か、悲哀か、歓喜かもしれない。なんだっていい。

「とうとう、言いやがったな、テメェ!」

 俺は腹の底から湧き上がる衝動に従って吠えた。

「テメぇは認めたんだ! 俺に縋ったんだ! 俺にお願いをしたんだよ! 『殺さないで』! お前はもう、俺を想像の産物だとは思ってねぇな! 思ってたらこんなこと言わねぇもんな! 『殺さないで』!」

「ち、ちが」

「黙れ! 俺には俺の心があるって、テメェは認めたんだよ! 俺の心はテメェがどうにか出来るようなもんじゃねぇって! この俺は、お前の思う俺であったことなんて1度もねぇんだ! 1度だって!」

 林田の顔からみるみるうちに色が消えてゆく。

「ようやく自分が何をしでかしたのか自覚してきたのか? そうだなっ! この俺に、何をしたのか、わかったんだよな! お母さん、妹、テメェが粉々にした世界の人、テメェが軽んじた全ての他人に、お前が、神様ぶって何をしたのかわかったんだな! そうだよ! 心があったんだよ! この俺のようになっ! 苦しんだんだ! 苦しんで、苦しんで、死んでいったんだ! 今更、自分がしでかしたことに震えてるのか! 今更、罪悪感と後悔が湧いてきたか! 今更、怖くなったのか! 無様な野郎だ!」

 俺は血の混じった唾を林田に吐きかける。林田は身じろぎすらせず、口を押さえて震えていた。喘息の発作を起こしたように震え、呼吸している。自分のやったことに怯え、狂って死ねばいいと思った。こいつを生かしておく理由がなかった。だが――。

 正体不明の感情は未だ俺の中で猛り狂っている。これは俺の内側で膨らんで、俺を風船みたいに破裂させる感情だ。発散の仕方がわからない。

「クソが! ちくしょう! ちくしょうがーっ!」

 俺は天を見上げて叫ぶ。感情の正体もわからない。きっと、まだ正体なんて出来てないんだ。抑えの利かない衝動だけが残っている。これは感情になる前の感情だ。転がり続けるサイコロだ。何にでもなる。林田の息の根を今度こそ止める憎悪にも、こんなことになってしまったことを嘆いて打ちのめされる悲哀にも、やっとあの悪夢の繰り返しが終わったという歓喜にもだ。だか、どれなのか。どれになるのか。俺は、どれになって欲しいのか。

 背中を伸ばし、天を見上げた。

 銀の欠片が魚のように白い空間を泳いでいる。目を細めて遠くの欠片達を見つめる。何を探しているのか最初は自分でわからなかった。それから、徐々にわかってきた。

 俺が探しているのは天啓だと。どうすればいいのかを教えてくれる兆し。あるいはそれが兆しだと思い込める何か。星の並び。カップの底に残った茶葉。なんでも良い。俺がもしも林田を憎んでいるのなら、あるいは憎みたいのなら、星空に刃の星座が見えるだろう。俺がもしも林田を許しているのなら、あるいは許したいのなら、茶葉に仏なり十字架なりが見えるだろう。そういったものを、俺の星座を、俺の茶葉を、探していた。俺の心を俺の外側に探す。だが何もない。どこにも何も。背中を汗か血が流れ落ちていく。

 再び林田に顔を向けた時、脳がぐらついた。倒れそうになるのを堪える。

 林田の顔から無垢さは消え、今は混乱がその顔を支配していた。

「テメェは死ぬべきだ。それだけのことをしたんだ。自分の世界で他人を塗りつぶそうとしたんだ」

 俺は本心を言う。

「テメェが憎くて、憎くて、たまんねぇよ。ぶち殺してやりてぇ。けど、おんなじくらいお前が哀れでたまんねぇんだ。テメェがあんまり」

 言葉を探す。

 浮かぶ言葉はどれも俺が抱えているものから近くて遠い。だから最初に浮かんだものを選んだ。

「孤独だからだ」

 声に出すと俺が抱えていたものが変質した気がした。それは孤独だと口に出した瞬間に孤独になったんだ。元がどんな感情だったのか今はもう捉えられない。

「ここは自分のいるはずの世界じゃない、自分だけが違う場所にいる、誰かと関係を築こうにも、突然ひっくり返るかもしれない。お前が地獄でのたうつのを、周りが、俺が、半笑いで見てる。辛いんだろうよ。けどな! それはお前の地獄なんだ! お前がとっても可哀想だから許してやろうなんて思わねぇし、出来ねぇよ! 出来るわけねぇだろ! 俺はな、お前を殺してやりたいんだ! でも、それでも、許してやりたいとも思うんだ。殺したくねぇし、許したくもねぇ。したいのか、したくねぇのか、できるのか、できないのかもわかんねぇ。だから、だから、それは一旦、頭の外に出しておく! 保留だ! 保留! 後回し!」

 林田のは小さく「保留?」と言った。

 もう一度「保留」と言うと、真冬に熱い風呂に入った時みたいに表情筋を緩めた。

「やっぱり、お前は俺の妄想だから、俺を本当に殺したりは」

 俺は右腕のある自分をイメージする。右腕が出現し、林田が悲鳴をあげる。

 あいつの顔に右腕で殴りつけた分のダメージが出現する。蘭鋳らんちゅうみたいに膨らんだ顔を抑え、林田は呻く。

「俺がお前を殺さなかったのに、お前の力は全然関係ねぇんだ! お前が散々、何度死のうが構わなねぇ、ちっとも心が痛まねぇって笑ってた俺のお母さんのおかげで、お前は生きてんだよ! お前が本当は何も感じてねぇだのほざいた俺の心のおかげで、お前は生きてんだっ! 次に何かほざいてみろ。両腕を出現させてお前の面を砕いてやる」

 俺は両腕のない自分をイメージする。俺の右腕は消え、林田の顔も元に戻る。

 林田はもう折れていない鼻を指で抑えながら、俺の腕を凝視している。

「ここではなんだって出来ると言ったのはお前だろう。この俺相手にお前ごときが精神力で勝負を挑むとは、自殺行為もいいとこだぜ。クソヘタレ」

 林田の耳を食ったことも関係しているかもしれないが確証はない。

 俺は立ち上がり、林田の上から退く。ただ立つだけなのに腕がないとうまくバランスが取れない。

「俺はこれからすげぇテメェに文句を言う。それをテメェは全部聞け!」

 林田の正面にどかっと腰を下ろす。あぐらを組むのにもやはりもたついた。

「ありとあらゆる文句を言う! 俺の体から文句が全部出て言ったら、テメェをどうするか、俺の中で結論も出るだろう。おい、聞いてんのか?」

 林田は独り言を続けていた。最初はただ口の中で飴みたいに転がしていた声が徐々に大きくなり、俺の耳に届く。

「本当はいないんだ。この痛みも全部、本当の世界がくれば全部なかったことになって消えるんだ」

 青ざめた顔で林田は言う。目線が泳ぎまくってる。本当に自分の言っていることを信じているのではなく、縋ろうとしているんだろう。そうすれば、自分がしたことから目をそらせるから。バカが。

「本当の世界なんてどこにもねぇよ」

 掠れた声で林田は「そんなことない」と答えた。

「あるのはお前が本当の世界だと定めたお前の世界だ」

「違う。違う。本当の世界はあるんだ。なくちゃいけないんだ。本物の世界に行けば、そこには本物の俺の家族がいるんだ。お前が俺の世界に割り込んで、消えてしまった俺の本当の家族だ。何もかもが本物で、俺は安心して暮らせるんだ」

 まるでトトロは本当にいるもんとぐずるガキだ。

「いつか突然自分の世界が消えてしまうんじゃないかって怯えて暮らさないで済む。俺は頭のおかしい奴って扱われないで済む。みんなと同じ世界に俺はいられるんだ」

「みんながお前と同じものを見て、お前もみんなと同じものを見る世界が、本当の世界なんだな。じゃぁ、そこには本当のお前の友達がいるわけだ!」

 林田は「本当の?」と繰り返してから、視線をあちこちにさ迷わせる。答えを探しているんだろう。

「勿論、そうだ。そう。そこにはきっと、きっと、本物の友達がいる」

 とても素晴らしいことを思いついたように林田は笑った。

「本物の友達にはちゃんと顔があって、名前があって、とにかく本物なんだ。実在するんだ! 絶対的で揺るぎない友達だ! 本当の友達なんだ! 本当の友達だから、俺の心をわかってくれるんだ!」

 一度は元に戻った目の中で、スズランが揺れている。

 今ならわかる。

 これが、毒なんだ。


 俺は右腕を出現させる。再び鼻血を流し始めた林田の頭を殴り、それから腕を消した。怪我も傷も痛みも消えたろう。林田は痛くもない顔を抑えて呻いている。

「全員お前と同じものを見るのなら、それは全員お前だ! お前しかいねぇんだ! お前のいうはそういう世界だ! そもそも存在しようがない世界だ! お前はそれを本物って呼んでるんだよ! 間抜けっ!」

 人からの受け売りだが、偉そうに言ってやった。

「俺はお前に俺の感じ方や目線を納得させようとも、理解させようとも、共感して欲しいとも、意思疎通したいとも、もう思ってねぇよ! 俺は間違ってた! 『わかりあいたい』『わかってほしい』なんて考え方はただの毒なんだ! 自滅の価値観だ! 『本当に相手が大事ならわかりあえるはずだ』とか『本当に思いあっているなら気持ちがわかるはずだ』とか『本当に想い合えば心は1つになれる』とか。大嘘なんだよ! それこそ、お前の言うシルエットだけの怪物じゃねぇか! あれは人口の光なんだ! 作り物なんだよ! 他人の気持ちなんて、どうやったってわかんねぇし、自分の気持ちなんかどうやったって伝んねぇんだ! 気持ちが通じ合う瞬間なんて絶対にないんだ! それの何がいけないんだ! ずっとみんな1人だ! それがなんだっていうんだ! 元々そういうものなんだ! 他人の心と通じ合うなんてことを、素晴らしいこと、良いこと、コミュニケーションの成功例みたいに考えるな! 誰だって他人の世界じゃ異物なんだ。なんだかわかんねぇもんは、なんだかわかんねぇままそこにいるんだ! でっかい猫みたいに! あいつわけわかんなかっただろ! でも、それで問題あったかよ!? ないだろ!? 理解できないものがいたら、探り合いながら共存していくしかないんだよ! 猫だろうと、猿だろうと、この俺であろうと!」

「一体なんの話をしてるんだ!」

「なんの話か? 俺とお前の話だ! ずっと、俺とお前の話をしてるんだ! 俺はすっげぇ喋るからな! 抱え込んだこと、全部言葉にしてやる! なんでかって!? 人間はな! 人間は、それしかできないからだっ! ただ言葉にすることしかできないからだ! テレパシーも魔法もないから、ただ言葉にするしかないんだ! それだけが人間に許された、たった1つの惨めな武器なんだ! 自分の世界をプレゼンして生きていくしかできないんだ! 俺は言いたいことを勝手に言うから、お前は俺の言葉から、お前にとって都合のいい言葉を選んで、組み替えて、勘違いして、ずれた認識して、誤訳して、誤解して、思い込んで、解釈違いして、意図を読み違えて、見当違いな考察をして、ソース不明の情報をつなげて、無責任な視点で勝手に納得したり、しなかったりすればいいんだ! それしか出来ないんだ! どんなに自分の気持ちを言おうとしても、言葉が足りない! どんなに相手の気持ちをわかろうとしても、理解ができないんだ! そういうものなんだよ! お前、何回も何回も俺の目玉覗き込んでたけど、1回も俺の気持ちわかってねぇから! 俺が消えたくねぇっつてのに消そうとするわ、俺が消えてぇっつてんのに消そうとしねぇわ、史上稀に見るやりたい放題ぶりだったな、クソ野郎! 何が『俺が苦しんでる時信じてくれなかった』だ。信じられるわけないだろ! 当たり前だ! 世界中、誰だって、お前の話なんか信じねぇよ! ああ! 俺は間違ってたよ! お前の傷を、痛みを、見誤ったよ! お前の世界を軽んじたよ! 俺は最悪だったよ! 俺はお前の地獄だったよ! だから、なんとかしようとしたんじゃねぇか!」

 俺は自分の両腕の先を林田に向ける。

「それでこのざまだ! 悲惨どころの話じゃねぇ! 階段から落ちて大怪我するわ、脳腫瘍になるわ、何にも悪いことしてない人を存在ごと消すはめになるわ、生きていられたかもしれない人たちを見殺しにするわ!」

 林田が驚いた顔をする。

「聞いてないぞ」

「話す前にお前が月ぶん投げて世界崩壊させたからだろうがっ! お前を生き返らせるためには、お前が想像しているよりも沢山の、すげぇ沢山の人を丸ごと消さなきゃいけなかったんだよ! どーだ、驚いたか! 大惨事を引き起こしてやったぜ! 死ななくて済んだ可能性もあった人達を、自分たちに何が起きるのかわかってもいない、何にも悪いことしてない人達をな! 俺の都合で! 俺の利益のために! そーです! 俺がやりました!」

 俺は切断された両手を広げて、ジャジャーンのポーズをする。

「それなのに結局これだ! やっと取り戻したテメェは俺を生き地獄に突き落としたんだ! けどな、俺とお前はな、やってること変わんねぇんだ! 自分にとって大事なもののために、他の何かを犠牲にするってことだ! 『悪いとは思うけど、どうしてもこうしなきゃいけないんだ、だから消えてくれ』って、そういうことなんだよ! 自分の都合でしか生きていけないんだっ! 俺はテメェのために許されないことをした! 俺の罪だ! 俺の犯行だ! 俺が犯人で、計画犯で、実行犯で、確信犯だ! 俺は加害者なんだ! そうやって生きていくしかないんだ! そしてお前はお前のその『本当の世界』とやらのために世界を消して、俺を消そうとしてる! 目的が正しければ何をやってもいいと思ってる! そこに到達するまでに流す痛みに、自分以外の人間が流す痛みにどこまでも鈍感になる! お揃いだよな! 俺とお前はよぉ! だがテメェはその痛みを、罪を、引き受ける気がこれっぽっちもねぇんだ! 川畑のクソ野郎とお前はそっくりだ! 『俺は悪くない。俺にこうさせた相手が悪い。俺は間違ってない。周りが間違ってる。だから間違ってる奴には正しいことをしてやってもいいんだ』そうやって、自分がやったことを、人のせいにする! この卑しい、腰抜けの、もやし野郎! 仮にテメェが『悪いとは思ってるんだよ』って言いながら、俺を同じように痛めつけたとしたら、それはそれで『謝るくらいならやるな!』ってムカつくだろうよ! どっちにしろムカつくんだよ!」

「何が言いたいんだ!」

「文句を言ってるんだー! 最初に言っただろうが、本当に人の話聞かねぇなぁ!」

 俺は怒鳴った。

「テメェに、文句を言ってる! なんだと思ったんだ? 俺がテメェの胸に深く突き刺さる、素敵な名言でも言ってやるとでも思ってたのか! テメェは俺に、他人に、何を期待してやがる! テメェは最低のクソ野郎で、テメェが何しようが、俺はムカつくって話をしてるんだっ! 俺は矛盾だらけで筋なんか通ってねぇよ! 自分のことは棚に上げてテメェを糾弾してやる! ザマーミロ! どうせお前には、俺がどんなに筋の通った、キラキラした素敵な良いことを言っても全然刺さんねぇよ! 言葉が刺さるのは、刺さる言葉を待っている相手にだけだ! 本当は自分でも自分がやってることがおかしいって薄々わかってるのに、どうすればいいのかわからないで、誰かが引き戻してくれるのを待ってる奴にだけ言葉は刺さるんだ! テメェはちげぇだろ! どーせ、テメェにはグッときたのグの字もねぇんだ! いいけどな! 俺が勝手にやってることだからな! お前はなんなんだ! お前のお気持ちを世界中の人間がお察ししないとご不満か! その年で『誰も本当の俺をわかってくれないの! 俺って世界1可哀想』病か! クソみてぇな思春期の、クソみてぇな自我を引きずりやがって! 大人になってから患うから周りを巻き込んでご覧の通りの悲惨な有様になるんだよ! このパンデミック野郎!」

 林田の顔が真っ赤になり、メロンの皮を思わせる血管の網が浮き上がり始める。

「お前なんか実在しない、ただの物語のくせにっ!」

「この世に物語じゃないものが一体幾つあるっていうんだ! みんな物語じゃないか! お前だってな、俺にしてみりゃ物語だよ! みんな、語られる物なんだよ!」

 俺は顎を突き出して林田をせせら笑う。

「俺は実在する! 物語なんかじゃ」

「他人って超怖ぇよな! 超、怖ぇよな!」

 でかい声をあげて黙らせる。ヘタレは悔しそうに唇噛んで黙ってりゃいいんだ。

「何考えてるか全然わかんないし、意思疎通も出来ないんだからな! どうやったってわかりあえない存在ばかりだ! 友達だと思っているのは自分だけで、実はずっと疑いの目で見られているんだ! ただ道を歩いていただけなのに、知らない男に殺されるんだ! 俺のお母さんみたいに! ただ家でテレビを見ていただけなのに、兄貴が家に招き入れた知らない男に殺される! 俺の妹みたいに! ただのクラスメイトに『ホクロがあれば完璧だから』って目玉の下に鉛筆突き刺されるんだ! ただの思いつきで誰かが作った落とし穴に落ちて、足が動かなくなるんだ! 怖いよな! 『わからない』ってことは、本当に怖いよな! 得体がしれないって怖いよな! でもそれが、他人がいるってことなんだ! 『人間は1人じゃない』ってことは、恐ろしいことなんだ! 『いつまでも続く当たり前な日常』なんてな、どこにもないんだ! 他人がいるからな! どんな世界だろうと、突然全てがひっくり返るんだ! 起こり得るんだ! いつだって突然、何もかもが理不尽に、自分とは全然関係のない見知らぬ他人に力づくで変えられてしまう! そういう、怖くて、悲惨で、辛くて、救いのない場所に俺もお前もずっといるんだよ! 全員が個別の、オリジナルの、自分専用の、地獄の中にいるんだ! 生きるってことは悲惨なんだ! 1人1人が誰かにとっての大災害なんだっ! 地獄以外どこにもいけないんだ! 民家に熊が侵入して、生きたまま食べられてしまった人がいる! 買い物帰りのいつもの道で、飛び降り自殺者の下敷きになって死んだ人がいる! きっとこう思ってたよ! 『こんなことあるわけない。ここは私の世界じゃない』って! 理由なんてないんだ! 救いなんてないんだ! どうやっても防ぐことはできない! だから、怖くて、怖くて、怖すぎるから、怖くないようにするんだ! みんな、ちょっとずつ発狂するしかない! いつ爆発するかわからない爆弾を可愛いキルト生地で包んで、スワロフルキーのビーズでデコって飾り付けてんだ! 俺達は全員、1人残らず頭がおかしいんだよ! まともな人間が、こんな他人だらけの世界で生きていけるわけがないだろう! 悲惨で血だらけで救いのない地獄を『この世界は普通。どこにでもある毎日』って思い込むんだ! 妄想と共に歩いていくんだ! 物語にするんだよ! 世界を自分の物語に組み込んで、恐ろしさを見えないようにするんだ! 物語がないと耐えきれないんだ! 物語にして、相手を自分の主観で組み立て直して、無害にするんだ! そうでもしなきゃ、怖くて、怖くて、身動きとれなくなるから! 現実は物語だらけで、嘘だらけで、存在してるふりをして、存在しないものが存在してるんだ! ごちゃまぜなんだよ! そりゃ、確かに俺は元々動物園の猿で、『俺は人間としてこれこれこういう過去を過ごしてきました』っていうのは、突然後付けで出来上がった過去なんだろうよ! だからなんなんだ! 後付けだろうがなんだろうが、俺の過去だ! この俺の、過去だ! 俺の物語だ! テメェのものじゃねぇ!」

「煙に巻こうとしてるだろ! はっきりしないことばっかり言って!」

「はっきりしたことが知りたいか? 現実と非現実の狭間とは? 自意識と世界とは? 私とは何者か? そんなことが知りたいのか? コンビニで売ってる自己啓発本でも読んでろ! 最終的にはふんわりしたことしか書いてないし、途中からキラキラした素敵なポエムになってしんみりした少年時代の思い出語り出してあとがきに突入するような本がテメェの頭をなでなでしてくれるだろうよっ! お好みの真理を選んで、ご都合主義の理屈で固めて、後生大事に抱えたまま『これでいいんだ』って喚いてろ! はっきりしたことが知りたいっていえば、はっきりしたことを答えてもらえるなんてなぁ! イージーモードだな! 幼稚園児か!」

「妄想は所詮妄想だ! 現実じゃない! 存在する意味がない!」

「存在しない存在が世界を変えることなんてしょっちゅうだろうが! ついさっき、『俺のお母さんが殺される物語』に助けられたのはテメェだろうがよ! 物語は干渉するぞ! 物語は心を動かし、世界を塗り替えるんだ! ただの現象なんだ! 良いも悪いもねぇんだ! 存在しない何かが、思い込みの残像が、いないはずの人が、誰かや何かを動かす場合もあるんだ! 影響はあるんだ! 意味はあるんだ! 存在しない思い込みに引きずり回されてボロ切れにされることもあるし! 反対に存在しない思い込みに救われることだってあるだろう! 物語は、ただの傘を日本刀に変えるんだ! 物語は、ただ10って書いてあるだけの赤いユニフォームを存在しない学校の、存在しないバスケ部の、存在しない人物のユニフォームに変えるんだ! 物語は、痛くて痛くてとても耐えきれないような大怪我をした時に耐えられるようにしてくれるんだ! 存在しない超格好いい人が、俺にうろ覚えのカオス理論で天啓を与えるんだ! テレビを通してしかしらない芸能人の物語が、俺を支えるんだ! 物語はな、ただの夜をクリスマスに変えて! ただの惑星を神様にして! ただの人生をサーガにするんだ! 物語はホオジロザメを全滅に追い込んで! 物語は子供達に水槽の金魚をトイレに流させるんだ! 良いも悪いもない! とにかくそれが起きるんだ! 他人なんてうんざりだ! 最低だ! でも、仕方がないんだよ! 大嫌いな相手と、意味不明な道理と、ランダムな真実と、共存するしかないんだ! この俺が、俺の物語が、お前になんの影響も与えられないわけがねぇんだ! そうだろう! お前は自分の世界を吹っ飛ばした! 自分の物語を吹っ飛ばした! だからもうお前が持ってる手持ちの物語は俺だけだ! テメェには、俺しかいねぇんだ! テメェは俺に希望をみるしかねぇんだよ! 俺はお前が持ちうる全ての中で最上の存在だ! 俺はお前が持ちうる全てのものの中で最良の物語だ! それがまだわからないのか!」

「……お前が俺をそこまで助けようとするのは、俺があの沼でお前の命を救ったからだ。それだって、本当にはなかったんだ。だって俺が助けたのは猿で、猿はもうどこいもいないんだ。お前が上書きされたから。だからお前の俺に対する友情も元々存在しないんだ」

「いつまでしがみついてるつもりなんだ!」

 俺は大声で叫んだ。

「今まで1度として『林田は俺の親友さ。だって命を助けてくれたから!』なんて思ったことねぇからな! テメェに沼から引っ張り上げられたことも、特別に思ってねぇ! 恩義も感じてねぇ! テメェが思ってる程、俺にとっちゃ大したことじゃねぇんだ! 俺が何でテメェみてぇなクソ面倒臭い、本当に、本当に、本当にクッッッソ面倒臭いヘタレ地雷と20年近く友達やってんだと思ってんだよ!」

 俺は体が2倍、3倍と膨らむんじゃないかってくらい息を吸い込んで叫んだ。

「惰性に決まってんだろ、バカがーっ!」

 林田の顔からサーッと血の気が引いていく。知るか! この! 林田がっ!

「惰性だ! その場のノリだ! 理由なんかない! なんとなくだ! それ以外になんだと思ってやがったんだ! なんとなくだよ! そういう流れがなんとなく続いたんだ!」

「ふざけんな! そんな理由が通ってたまるか!」

「テメェが通ろうが通すまいが俺の知ったことか! 惰性が1番強いんだぞ!」

「そんなわけあるか!」

「ある! 理由のある好きなんてへなちょこの好きだ! ゴキボールだ! 優しいから好きとか、クールだから好きとか、努力家だから好きとか、困ってくれた時に助けてくれたからとか、逆に助けてあげたくなっちゃうからとか、性格がどうたらこうたら、そんなのカスなんだよ! ゴミだ、ゴミ!  理由がなくなったら好きじゃなくなるだろうがよっ! 『出会った頃と変わったから嫌い』とか言い出す程度の好きだろうがよっ! その点! 惰性は! ただなんとなくだから何があろうと消えねぇんだ! テレビでしか知らないティライミをふわっと嫌いになったら、その後もずっと嫌いだろうが! そいつがどんなにすごいことして、どんなに評価されても、心ん中にあんのは『あいつなんかをアレして不幸になんねぇかな』って気持ちだけだろうよ! ほらな! なんとなくの方がずっと、ずっと、ずーっと強いだろうが! 惰性は無敵なんだ! なんとなくは重力に1番近い揺るぎなさなんだよ! 人がな、人を嫌いになるのなんか一瞬なんだよ! テメェがこの俺を一瞬で『偽者』にして、お前のテリトリーから外に弾き出したのも一瞬だったろう! ほんの一瞬、ほんのささいなことで、お前は俺を、世界を憎悪して、俺を拷問しただろうが! 俺を『本当にはいないんだから何してもいいや』って枠にぶち込んだだろうが! 今も、今もお前にとって俺はその枠ん中なんだろうよ! 極端なんだ、テメェは! 普通、幾らわりきったからって友達の目玉抉ったり、手足切り落としたり、目の前で家族殺したりしねぇよ!」

 死んで行った家族を思い出して、俺は耐えきれなくなり、大声で泣いた。

「このっ、クソ野郎っ、よくも、よくも、俺の家族をっ、テメェ、妹はな、関係なかったんだ! お母さんは俺の過去ができた時にもう死んでたさ! でも、妹は死んでなかったんだ! それを、お前、このバカ野郎、テメェが俺の手足を切り落としたせいで、巻き込まれて死んだんだ! よくそんなことが!」

「俺はただそうすれば」

「何も言うな! 何を聞いても怒りしかわかねぇ! 保留! 今の保留! 後回しだ!」

「俺は」

「保留だっつってんだろ! ぶち殺すぞ! クズがっ!」

 林田は黙り、俺は荒く呼吸をする。目が霞む。貧血だろう。ふと視線を下げてみれば、俺の周りには血だまりができていて、それがほぼ乾きかけていた。人間はどれだけの血を失えば意識を失うんだったか。わかんねぇけど、もうだいぶ際どいとこまできているのはわかる。

「人間関係なんて1秒あれば壊れるんだ。俺とお前が一緒にいた間、ずっとその1秒は起きる可能性があったんだ。全ての1秒がそうなり得たんだ。惰性っていうのはその1秒を飲み込んできた1秒の連続なんだ! 今となっては思い出せないような、すげぇどうでもいい、ほんっとうにどうでもいい1秒の重なりなんだ! わかるか! 思い出せないんだ! だからって、なかったことにはなってないだろ! 理由もなく、ただのふわっとした、弱い感情の重なりが、妥協とか、諦めとか、忌むべきものだと思われている、惰性が1秒強いんだ! 俺はな! まだ惰性が続いてんだ! ありえねぇよな! 普通はな! けどな、俺には改変された全ての過去の思い出があるんだ! お前の何倍も、何百倍も、お前との思い出があるんだ! お前が知らないお前との思い出だ! 何が『バック・トゥー・ザ・フューチャー4』だ! 俺の思い出だ! お前が口出すな! 存在しない過去が、お前と俺をまだぎりぎり結びつけてんだ! 俺の物語に敬意を払ったらどうなんだ! 俺は惰性のど真ん中だよ! テメェが憎い! テメェなんか死にゃぁいい! それでもまだ惰性が消えないんだ! ほら、強いんだよ、惰性はな! お前が、お前が俺を、世界をぶち壊しにしたのは、理由があるからなんだろう! お前なりの! 理由がある、きっかけがある『嫌い』なんだ! ちょろいぜ! テメェの『嫌い』は超ちょろいぜ! 理由がなくなりゃ、それで解決する程度の『嫌い』だからな! 俺にはもう、腕そのものがねぇよ。傷の位置がどうしたこうした以上の違いだろうが。俺は変わり続けるし、同時に少しも変わらないんだ。お前が俺を、俺だと認識してる限りは! 人は、人はな! 自分が自分であることを、最後の最後には他人に委ねるしかないんだ! 怖くて、怖くて、理解不能な、他人に、自分を委ねなるしかないんだ! 誰だってそうなんだ! 俺だって、お前だって、そうなんだ! だから敬意を払え! 俺の物語に、他人の物語に、敬意を払うんだ! お前の都合で塗りつぶすな!」

 目の前が真っ白になる。体が後ろに傾くのを感じる。

 俺は仰向けに倒れる。とても寒い。

 限界のようだ。遠く上の方で流れる銀色の輝きを見つめる。言いたいことを全部出し切った後の心を見つめる。それは星空ではなく、お茶を飲み干した後の湯のみの底だった。茶葉は十字架にも見えたし、仏の笑みにも見えた。俺が、それを見たいと望んだからだ。

 俺は許したかったんだ。

 林田を。

 他人がそこにいることを。

「林田」

 俺は姿の見えない林田に話しかける。

惰性俺んとこに戻れよ」


 答えがあったのか、それともなかったのかはわからなかった。意識はもう消えかけていて、全てが遠くに感じられた。

 林田が立ち上がり、どこかに向かって歩いていく足音が聞こえた。目を開けて音がした方に顔を向けると、ピントのあっていない視界に林田のシルエットだけが見えた。

 こちらの背中を向けている。銀色の欠片達があいつの前に集まっていく。

 それはみるみるうちに林田よりふた回りくらい大きくなり、合体して1つの欠片になる。

 林田がなんと言ってそれを撫でたのかわからなかった。聞こえなかったから。

 欠片が光り、俺は笑う。

 欠片の中にあったのは夕暮れの坂道だった。自転車のベルの音が聞こえる。

 俺は林田がなるべく早く俺を消してくれればいいと思った。


 そしてとうとう意識を失った。

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