代行者が役割を終える時

 目を醒ました時、花びらが俺の体を埋めつくさんばかりに積もっていた。

 右を向いても花びら。左を向いても花びら。上を向けば白い空間がどこまでも広がっていて、空中には花びらが鳥のように幾つかの群れを作って旋回していた。花びらは形だけなら桜の花びらに見えたが、そうじゃないのは明らかだった。銀色に光る桜なんて見たことがない。

 それにどれもデカい。掌サイズだ。花びらは時々、空や土やビルや、とにかく色々な風景を写した。これは形は違えど、あの破片達と同質のものだ。

「……天国か?」

 呟きながら体を起こす。花びらがビニール傘を振った時のような音を立てて落ちていった。

 天国なら唸るほどのシュークリームと――生クリームが入ってて、皮がパリパリのやつ――俺のことが大好きな宮崎あおい各種であふれているはずなのだが、どちらも見当たらない。無限にみかんが湧き続ける器の乗ったコタツもない。『スラムダンク』第2部の単行本全巻セットもない。ゲーム・オブ・スローンズとウォーキングデットとファーゴの最新シリーズを見られるテレビすらない。

 こんなアマゾンプライム以下の品揃えしかない場所が天国であるはずがない。

 仮に天国だとしても、無課金勢用の天国だ。

 俺は両手を見る。それから足。自分で確認できる体のパーツ全てを見る。どこも欠けていない。それにこれは俺が出現させた手足じゃない。ちょっと油断すれば見失ってしまいそうな、あの思い込みで出来た手足とは違う。これは切り落とされてないことになった手足だ。

 欠片が突き刺さった背中からも痛みを感じない。左足を包帯代わりに縛っていた黄色いハンカチを解いてみれば、あのお洒落カットマンゴーみたいな傷跡も綺麗に消えていた。

 ……ガラスみたいに硬くて尖っていた世界の欠片が、柔らかい花びら状の物に変わったからか? 

 思い出してみる。

 予想した通り、新しい思い出があった。林田が月をぶん投げたあと、世界は花びらになって降り注いだという過去だ。月に砕かれた世界が銀色の花びらになって舞い落ちるとか、なんかスクエニのムービーシーンっぽい。俺以外にこれができるのは林田か、あるいはセフィロスしかいない。

 一箇所だけ痛みが消えてない箇所があった。左の掌だ。意識を失う前は右にあった傷が、今は左に移動している。林田が思う俺の傷だ。

 周囲を見回す。意識を失う直前に目にしたあの銀色の大きな欠片が浮いているのが見えた。

 欠片の中に夕焼けの光景が広がっている。

 俺は立ち上がり、林田の姿を探したが見つからなかった。

「林田ー!」

 返事はない。他にどうすればいいのかあてもないので、俺は仕方なく花びらを踏みながら、その欠片に向かって歩く。

 2歩も進まない内に甲高い叫び声が欠片の中から聞こえてきた。

 俺は息を飲み、走り出す。お母さんの声だった。


 「誰かー! 誰かきてー!」

 あと数歩で欠片の前にたどり着くという時、男が欠片の中からこちら側にぬるっと出て来た。骨に和紙を貼り付けただけなんじゃないかってくらい痩せこけた老人だ。髪はなく、頭には無数の手術跡が残されていた。ムカデの大群が皮膚の下に潜り込んで、そのまま動かなくなったような跡だ。俺はその異様な姿に圧倒され、つんのめるようにして足を止めた。足元で花びらがガサササササササと騒ぐ。

 老人は困ったような顔で眉間に皺を寄せ、俺を見ていた。W皺。林田だ。

「……てめぇ! 今度は何しやがった!」

 俺は胸倉を掴み、頬を殴りつけた。そのまま花びらの上に押し倒し、もう1度、殴る。林田は呻き、顔をかばおうと手をかざしはしたものの抵抗らしい抵抗の素振りを見せなかった。俺に殴られるがままになっている。

 俺は振り上げた拳を止め、林田を見下ろす。あまりにも痩せていて、皮膚が灰色にくすんでいるから老人に見えただけだと俺は気づく。殴った頬の上を涙が滑り降りていくのを見て、俺は拳を下ろした。

「……なんで抵抗しない? 今度は何を企んでる? 俺に何をするつもりだ?」

「もう、何もしない」

 林田は大きな欠片を指差した。

 再びお母さんの「助けて! 誰か!」という声が聞こえた。俺は林田の胸倉を掴んだまま、欠片の中の風景を見た。

 坂道の真ん中辺りで電柱が倒れていた。右斜め手前に向けてばったりと。

川畑が自転車ごとその電柱の下敷きになっている。遠くからでも打ち所が悪かったのがわかった。スイカみたいに見事に左右に割れた頭が、前輪のスポークの間に押し込められている。

 お母さんはその電柱から少し離れたところで「救急車! 誰か!」と、家々に向かって叫んでいる。1つ、2つと坂道沿いに建つ家のドアが開き、人々が坂道に姿を見せ始めた。何人かが慌てて家に戻り、何人かはお母さんの周りに集まり、何人かは電柱の周りに集まる。悲鳴が次々と上がり、ざわめきがどんどん大きくなってゆく。

 俺の指から力が抜ける。

「これはもう、難しいかもわからんよ」

「今、うちのが救急車呼びましたから」

「ダメだよ、子供が見るもんじゃないから、お家に帰りなさい」

「なんで急にねぇ、倒れたかね」

「この工具と釘、この人のか?」

「触らない方がいいんじゃないの?」

「飛び散ってたら誰かが踏んで怪我しちゃうでしょ」――人々の声が風に乗って聞こえてくる。

 お母さんは興奮した様子で、周りを取り囲む人々に自分が何を見たのかを説明していた。

 俺の中に新しい過去ができる。

 老朽化していた電柱が突然倒れ、通りがかりの男がお母さんの目の前で頭をかち割られて死んだという過去。

 男が改造した釘打ち銃やバールを持っていたことと、2駅程離れた町で猫や犬の釘で打たれた死体が多数見つかっていたこと、警察が後々見つけ出した男の部屋からよいからぬ妄想が書き殴られたノートが見つかったことから「通り魔でもするつもりだったんじゃないか」という噂が立ったという過去。

 俺達家族はその後もその町に住み続けたという過去。

 林田がいない俺の過去。

「重い。退いてくれ。頼むから」

 林田が俺の下で苦し気に呻いた。

 俺は林田から手を放し、立ち上がる。林田は俺が殴りつけた頬を抑えて呻きながら、のろのろと立ち上がった。あいつを取り巻いていたあの忌々しくて凶悪な狂気が消え去っているように思えた。実際にそうなのかはわからないが、俺には今の林田がそういう風に見えた。

「……これで」

 林田は欠片の中の世界に顔を向ける。

「全部ちゃらにしてくれとか、許してくれとか、償ったとか、そんなこと、言う気はない。……許してくれなんて、とても言えない。ただ、本当に、すまないと思ってる」

 林田は俺に顔を向けた。

「俺にはどんなものが出来上がったかわからないけど、新しい過去をお前が気にいるといいと思う。心から」

 林田は視線を自分の両掌に落とす。

「『俺が干渉出来る過去』を呼び出して、それで、色々試した。お前の家の玄関ドアを開かないようにしたり、通行人が来てくれるようにしたり、あいつの自転車が壊れるようにしたり。色々試して、でも上手くいかなくて。やっと、上手くいった。あそこの、あの電柱の根元に触れて願ったんだ。『根元が腐っていればいいのに』って。それで、ようやく……ようやくだ」

 林田は自分の頭部に手を伸ばし、傷跡を指で辿る。

「変える度に脳がおかしくなってく。頭が重くて、疲れてて、もう無理だと思ってた。ロシアンルーレットをやり続けてるような感じだった。いつ、また変な過去を引っ張り出してしまって、世界に食い殺されるかと思った。お前が起きる前に、うまくいってよかった」

 林田は俺を見る。欠片から漏れた夕焼けが林田の顔の半分だけを赤く照らす。

「お前、俺があいつをこっちに呼び出すと思ってたんだろう?」

 俺は答えなかったが、それが答えみたいなもんだろう。林田は眉を下げて笑う。

「わかりあえないな。他人だから」

 林田はまた欠片の中に顔を向ける。

 救急車が坂道を降りてくるのが見える。林田は言葉を続けた。

「俺はお前が思ってるような俺じゃないし、お前も、俺が思ってるようなお前じゃないんだな。わかりあえないんだ。永遠に。……お前の言う通り、それはこれ以上ない救いだ」

 林田は俺の左手に目を止める。

「……傷、こっちに移動してた。なんでかはわかんねぇけど」

「俺がお前を、お前だと認めたからだろう」

 林田のやせ細った手が欠片に伸びてゆき、表面に触れる。さっきまで欠片の中と外に区切りはなかったけど、林田の手が触れた時に表面が出来上がったんだ。

「お前を愛する全ての者が、あちら側に」

 林田の手が表面を撫でる。白い光が夕焼けの坂道をかき消す。

 光が収まると、欠片の中には俺の家のリビングが広がっていた。

 テーブルを囲み、お父さんが新聞を読み、妹がスマホをいじっていて、その隣にお母さんがいる。初めて目にするいつも通りのお母さん。

「行ってくれ」

 林田が言う。

「お前は俺と違って全ての過去を覚えている。この世界に通じる過去ももうお前の頭の中にあるはずだ。この中に入って、それで、その新しい思い出を自分のプロローグにして、生きていけばいい。他のことはただの夢になる。時間がそうしてくれる」

「……あんだけのことしといて、全部夢になります、時間が経てば忘れますって言うのか? 俺は忘れねぇぞ。殺されたお母さん達のこと。妹のこと。俺に起きたこと。お前が起こしたこと。忘れられるわけねぇぞ」

「俺が忘れさせる。お前がここに入ったら、俺はこれを撫でて、俺がしたことを全部忘れさせる。俺の罪を忘れさせるためじゃない。お前のためだ」

 俺は家族を見つめる。みんな、俺の帰りを待っている。

 今日は久々にみんなで外食して、映画を観る約束だった。そういう過去だ。

 ズボンのポケットが震える。スマホだ。完全に忘れていたのでマイケル・ジャクソンみたいな声が出た。林田がビクッとした。

「お前、この空気で『ポゥ』はないだろ……」

「うるせぇ」

 スマホの画面はヒビだらけだったが、一応動いてはいた。妹からの着信だ。

 欠片の中で妹がスマホを耳に当てている。俺は電話に出る。

『あ、もしもし。お兄ちゃん? 今、どこにいんの?』

 欠片の中で妹が喋る声が、スマホからも聞こえてくる。顔も名前も知らない妹の聞いたこともない声を聞いて、胸が熱くなる。

『え、何? 泣いてんの? 大丈夫?』

 ねぇねぇ、兄ちゃん泣いてんだけど! と欠片の中で妹がお母さんにいらん報告をする。声がボールみたいに弾んで、物凄く楽しそうだ。

「うるせぇな。泣いてねぇよ」と言いながら瞼を抑えた。

「ちょっと……今、林田と話してるから」

『林田? 誰? 会社の人? 彼女? フラれたの? だから泣いてんの?』

「とにかく、ちょっとしたら戻るから」

 俺は通話を切り、スマホをポケットに戻した。欠片の中では妹が「ちょっとしたら戻るってー」と肩を竦め「15分経っても戻んなかったら置いてこうよ。映画に間に合わないじゃん」とブーたれている。

「早く行ってやれよ」

「……お前はどうすんだ?」

 林田は力なく笑った。

「ここにいる。俺はお前と違って1つの過去しか覚えてないから、どの世界に行っても全部壊しちまうだろうから。それにこの感じじゃもう長くないだろうし」

 林田は視線を落としその骨ばった手を見た。銀色の花びらがひらひら下りてきて林田の掌の中に乗った。林田はそれを穏やかな顔で見つめている。

 こいつはここで死ぬ気なんだなって思った。焦りや恐怖や怒りは感じなかった。「だろうな」という納得があった。

 林田の言う通りなんだろう。

 こいつはどこに行っても結局『ここは本当の世界じゃないんだ』って思いからは抜け出せない。スタックされているんだ。その考えに。

「……好き勝手やらかしといて、死ぬから許してくださいか? 全部帳消しにしてくださいか? ふざけんな。テメェごときの命で償えると思ってんのかよ。テメェだけが楽になって……クソッ、俺、こういうの嫌なんだけど」

「俺に出来る、1番良いことはこれなんだ」林田は穏やかな顔を俺に向ける。

「なんだその悟った面は。ガンジーか。似合わねぇぞ。テメェは勝手に悟ってるがいいさ。俺はお断りだ。冗談じゃねぇ」

「どうしょうもない。これしか道はないんだ。ずっと2人でここにいるわけにもいかないだろう」

 お互い黙りこんだ。

 俺の脳みそが物凄い勢いで解決策を探して回転する。ありとあらゆる過去のありとあらゆる細部を思い出して、何か、別の道に行ける方法を探す。どれもこれもうまくいくとは思えない方法ばかりで、考えれば考えるほど、この欠片の中に入り込んで、そこに馴染んでいくのが正しいように思えた。

 黙りこんだまま時間が過ぎ、やがてまた俺のスマホが鳴る。

『あのさあ! もう出るからね! 映画来られるの? 来られないの?』

「……俺」

 林田が声を出さずに「行けよ」と言う。その顔が、いつか病院で目にした、俺の名前を呼びたいと言っていた顔に重なる。

 ……クソ。

 クソ。畜生。なんだってんだよ。どいつもこいつも。クソ。なんなんだよ。勝手に、綺麗で収まりのいいエンディングに向かって進みやがって。クソ。ふざけんじゃねぇ。俺の行先を、俺じゃない奴に決められるなんてまっぴらだ。クソ。

『ねぇ、聞いてんだけど? 聞こえてんの?』

「俺、違うルートで行くことにしたから」

『はぁ? だったら先に連絡くれればいいじゃん! なんで今いうの!』

 俺は林田を見ながら答える。

「友達、連れてく。バカが道に迷ってるみたいだから」

 俺はスマホを放り投げる。アルミホイルが擦れるような音を立てて、スマホは花びらの中に埋もれていった。欠片の中で妹が「途中で切られたんだけど! マジムカつくんだけど!」と金切声を上げている。

「お前、何やってんだ。人がせっかく――」

「うるせぇ。好き勝手やってんだよ。クソみてぇな真似しやがって。テメェの準備するエンディングは陳腐でクソくだらねぇんだよ。自己犠牲だの贖罪だの、流行んねぇんだよ、へぼ!」

 俺は欠片の表面に触れてその場所を願う。ただのその場所じゃない。干渉出来る場所だ。

「俺はテメェよりもずっと、悪あがきが得意なんだ。2流は引っ込んでろ」

 欠片が白く光り、中にあった景色がその場所に変わった。


 あの雑木林だ。

 木々の幹は太いものでも俺の胴体程度しかないのに、滑り台かよってくらい極端に傾いて生えているものがあったり、ほうれん草みたいに根元から枝分かれして広がっているものがあったりするせいで遠くまで景色を見通せない。

 針で穴を開けたような僅かな隙間から差し込む光は地面までは殆ど届かず、そのせいか地面に草は殆ど生えていなかった。キノコと苔の天下だ。土はインスタントコーヒーの出がらしみたいに黒くて、みるからに湿っている。

「付き合え」

 俺は林田に左手を差し出した。

 林田は「折角、いい過去が用意出来てたのに」と顔をしかめている。

「いいから来い」俺はクイックイッと指を折る。「どうせ死ぬまで暇だろ?」

 更に顔をしかめたが、林田は俺の手を取った。握るのに勇気が必要な手だった。乾いた枯葉みたいに力を込めたら粉々になってしまいそうだ。俺が病院で死にかけた時より酷い。あいつの浮きだした血管が脈打つのを感じ、少し安心する。

 俺は林田の手を引き、欠片の中へと入っていった。


 土が足の下で潰れ、水を吐く。指の間で盛り上がる泥が不快だ。

 目的地まで行こうと足を踏み出した途端、例のカブトムシを踏みつけにするような音がして、地面に蜘蛛巣状のヒビが入った。

「俺がここを現実だと思えないせいだ」

 林田の虚ろな声がする。

「俺をどこかに連れて行くことは出来ないんだ。あの坂道も俺が入るとすぐにあちこちにヒビが出来て、不安定になった。俺がいるだけで現実が割れて、なくなってしまうんだ」

 俺は斜めに生えた木に向かって進む。

 小学校を卒業してからここには来てないけど、沼への道は覚えてる。俺の進みに迷いはない。進むたびに新しいヒビが空間に走り、林田が歩速を落としたが、そのたびに俺は林田を引っ張って前に進ませた。

「地面が濡れてるから滑らないように気をつけろ」

「ヒビが」

「割れない。俺が地面を認識していれば割れない。俺の方がお前よりメンタル強ぇえんだ。お前が何を思おうが、この世界は壊れない」

 いつか薄氷を踏み抜くように落下していくのかもしれないが、それは今じゃない。俺が今じゃないと認識さえしていれば、その今は訪れないだろう。

「俺も願うから、お前も願え」

「何を?」

「お前の力が全部俺に移るように。何もかも全部。おい、急に止まるなって」

「そんなことできるのか?」

「知るわけないだろ。やったことねぇんだから」

「適当な」

「俺はやったことないことばっかりしてる。それしか選択肢がないからな。だからこれもやるしかないんだ。うまくいけばラッキー。いかなくても、元々そういうもんだって思えばノーダメージだ」

「なんでそんなことするんだ?」

「説明が難しい」

 どうせ説明したらしたで協力しなくなるに決まってるしな。

 俺は林田と繋いだ手に傷をイメージする。

「さぁ。祈ろうぜ。神頼みだ」

 あの時、林田の手と一緒にガラス片に貫かれた傷。

「お前の持つ力が、俺のものに」

 塞がりかけていた傷が開く。流れ出した血に俺よりも林田が驚いて手を引っ込めようとした。手を握る力を強めて、祈る。

「お前の持つ力が、俺のものに」

 祈る。

「お前の持つ力が、俺のものに」

「こんなことをしてどうするんだ? 何をする気なんだ?」

「教えたらできることもできなくなるから内緒」

 絶対またパニクるだろうし。

「お前の持つ力が、俺のものに。ほら、やれよ。どのみちこのままじゃガリガリの骸骨のまま死ぬんだ。もう捨てるもんねぇだろ」

 手の中が熱くなり、自分のものではない心臓の音が聞こえた。それに俺のものではない血が流れるのを感じる。

「俺の持つ力が、お前のものに」

 林田の祈りが聞こえる。手を強く握る。互いの傷から流れた血が混ざり、互いの心音が混ざる。あいつはどうだかしらないが、俺は手の中にあいつの心臓を握っているように感じた。俺達は祈り、願いながら林を進む。

「お前の持つ力が、俺のものに」

「俺の持つ力が、お前のものに」

 俺は上を見る。木々の合間から白んだ空が見えた。

 この力は一体何なのか。なぜこんなことができるのか。

 さっき、家族のいる世界の欠片の前で、俺はそれを考えていた。

 答えはでなかった。

 答えを知っているとしたら、それは人間以上の存在だけだろう。

 あるいは、最初から答えなんかないのかもしれない。

 例えば。

 俺達がこうして何かを変えたいと願い、祈る度に、その願いと祈りは空に上っていく。空は視覚的な、物質的な空ではなく、天上とか、そういう意味での空だ。魂の行く場所とかではなく、人間以上の存在が存在するという、そういう意味での。それが俺に、林田に、力を与えるのかもしれない。

 確証も何もない。ただ俺がそう思っているだけだ。思うこと。考えること。空想すること。物語を作ること。それが最重要だったんだ。

 そういう答えに、してしまえばいい。

 周囲が明るくなった。林を抜けたんだ。目の前にはあの沼がある。記憶の中の沼よりかなり小さくて、そしてずっと美しい。水面が白んだ空の光を受けて煌めいている。

 ティム・バートンの木が記憶の中と変わらず、そこにある。

 俺は林田から手を放し、もう片方の手でずっと握っていた黄色いハンカチを撫でる。声には出さずに願う。

 これがルービックキューブだったらいいのに。

 そして、元々は俺の足に突き刺さっていた破片だったハンカチは、ルービックキューブになる。ずっと昔からそうだったように。

「これは元々なんだ?」

 林田は一度口を開きかけてやめた。困惑した顔で俺を見ている。

「……ルービックキューブではなかったんだな?」

「そうだ」願う。ルービックキューブがハンカチに戻る。

「これは元々なんだ?」

 林田は肩を竦める。

「ハンカチではなかったんだよな」

 よし。これで少なくとも、うまくいかなかったとしても、こいつは世界に馴染める。もう月を投げたりしないで済むはずだ。

「何するつもりか教えてくれてもいいんじゃないのか? もう俺は何が変わったのかわからないんだから」

「教えねぇってしつけーな。ここ、座ってろ」

 俺は沼の側の大きな岩に林田を座らせる。

 ガキの頃はよく2人並んでここに寝っ転がってジャンプを読んだもんだけど、今は林田が腰掛けるのでせいぜいだ。

 俺はしゃがみ、林田と視線を合わせる。

「あのな」

 俺はポンと林田の頭を軽く叩いた。

「次に会う時までに俺と俺の家族全員の名前をちゃんと考えとけ」

 俺はそう言うと、素早くつま先で地面に線を引いた。その線は亀裂となり、林田がいる側と俺がいる側を断絶した。

「お前! 何やってんだ!」

 林田は叫び、亀裂を飛び越えようとしたが、その時には亀裂の幅は簡単には飛び越えられないくらいにまで広がっていた。俺が望んだ通りに。俺は林田に背を向け、ぬかるむ土を蹴り、ティム・バートンの木を目指して駆け出した。

「おい! おい! 嘘だろ! 止めろ! バカ!」

 俺はティム・バートンの木を駆け上がる。遠い昔にしたように。

 林田は俺の狙いに――全部じゃないだろうが――気がついたらしく、岩の上に立って両手を振り回して叫んでいる。

「お前はこれから! 俺のことを全部忘れる! 俺との過去も、今まで起きたことも、全部忘れる! 1回全部、なかったことになる!」

「降りてこい! 戻れ! なんだよ! なんで俺がお前はいるって思うようになったらいなくなろうとするんだよ! いて欲しくなかった時にはいたくせに!」

「最初からなかったことになるのと、最初からなかったのは違うからな! 存在したんだから、どこかに影響は残るからな! 惰性なんだ! 今はもう俺とお前しか覚えてない世界は、俺とお前が覚えていなくても、まだ覚えてる存在がいるんだよ! だからお前にも、俺の影響は残るんだ! だから! 名前だ! その時がきたら、俺を名前で呼ぶんだ!」

「忘れちゃってるんだろ! その時っていつだよ! わかんないだろ! お前だってこともわかんないかもしれないだろ!」

 俺は木の先端にまでくる。俺がこの木は折れないと思っているうちは、この木は折れないだろう。沼に俺の影が映っている。

「まぁ、そこんとこは、どうなんだろうな。わかんねぇよ。わかんねぇけど、影響は残るって方にしてくる! そういうことにしてくるからな! 消えてしまった世界全てを、なかったことになんかさせねーから!」

 俺は両手で自分の顔を包む。林田が悲鳴をあげている。

「林田! 全てが変わったあとも残るお前の惰性で! 俺を迎えいれろ! そして俺の名前を呼べ! 新しい現実で、また会おうぜ!」

 俺は顔を撫でる。一気に。今度は怖気付いたりしないように。

 願う。

「俺はずっと昔にここで死んだ、マンドリルの赤ん坊だ」

 








 そして、最初からそうだったということになった。


 俺は最初からいない。







 俺が崩れる。


 木の枝が折れる。


 俺は落下する。もはや何者でもなくなった体が水面に叩きつけられる。


 水面がバラバラにひび割れる。ひび割れた欠片は銀色の花びらになり、魚群のように回転し、新しい世界を、現実を組み上げていく。林田の姿もあっという間に見えなくなった。


 あの時。


 林田は沼に落ちたマンドリルの赤ん坊を助けようとしたが、赤ん坊の体は林田がたどり着くよりも先に沼に飲み込まれ、浮かんでこなかったという新しい過去が、世界を構築する。

 

 俺は世界の外側へと沈んでいく。


 ここには来たことがある。墨のように暗い沼の底。


 俺は更に沈む。光が遠ざかる。


 俺は俺の残像だ。


 俺が俺を俺の思う俺だと思うことだけで辛うじて俺として存在している俺だ。


 「ロードランナー」の鳥を追いかける狼だかコヨーテだかを思い出す。


 超スピードで走る鳥を追いかけて夢中になって走り、自分が崖から飛び出しているのにも気がつかない。自分が空を走っているのに気がついても、まだ落ちない。つま先でちょんちょんと空中を突いて、そこに何もないとわかった瞬間に、コヨーテは落ちるのだ。


 俺は。俺という俺は、空中を疾走するコヨーテが踏んでいる地面だ。


 そこにはないから、そこにあるんだ。認識されている間だけ存在するか弱いものだ。


 崩れてゆく。




 俺を認識しているのは俺だけだ。


 最初から存在しないことになった俺は、最初から存在しないことになった俺の手で、最初から存在しないハンカチを広げる。



 光はもう届かない。




 虚無が、俺と一体になろうとしている。



 祈る。


 俺は俺の思う俺だ。


 俺は俺の思う俺だ。


 祈る。


 もはやそれだけが俺が俺であるということを支える。


 存在しない俺は存在しないハンカチを撫でる。


 祈る。


 これが世界の欠片だったらいいのに。







 そして、そうなる。


 新しい世界への組み替えに巻き込まれなかった唯一の、存在しないということになっている欠片。


 存在しないノブを存在しない俺は見る。


 これがどこのドアか、俺にはもうわかっている。


 存在しない俺は存在しない欠片の中に上半身を突っ込む。


 存在しない腕を伸ばし、存在しないノブを掴み、存在しないドアを開ける。


 これは林田の寝室のクローゼットのドアだ。


 お前は怖がると、ここに逃げ込む。


 あの時も、そして今回も。





「なう」

 ヘッドライトサイズの大きな目が俺を見ている。

 お前は俺のそえるだけの左手。

 お前は俺のオベリスクを生贄にして召喚したブルーアイズホワイトドラゴン。

 お前は――俺の切り札。


 俺と想像上の神を繋ぐアンテナ。


 お前とここで会うために、俺はきた。


 巨大猫。


 今もどこかに存在しているハイルーラー達と交信できる存在。

 

 そういう設定を作った。


 だから、お前はそうなんだ。


 俺の祈りと願いを聞いている空の上の者達と繋がれる存在。


 俺は胸の前で両手の指を触れ合わせ、三角を作る。


 「大宇宙支配者に栄光あれ!」

 

 そういう設定があるのなら、当然、お前も存在するはずなんだ。









 お前のところに行くぞ。








 ハイルーラー。

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