林田には全く関係のない話

 これは俺が引っ越してくる前に俺の家族に起きた、林田には全く関係のない話。

 シンプルで、どこにでもあって、誰にでも起こりうる物語だ。


 林田と出会う前の年。

 俺のお母さんは見知らぬ男に殺された。

 まだ32歳だった。今の俺よりたった3歳上なだけだ。

 通り魔殺人だった。


 その日。

 夕食をクリームシチューにする予定だったお母さんは、冷蔵庫に牛乳がないと気がついて慌てていた。

 俺が「別になんでもいいよ」と言うと、お母さんは「うーん。でも今、お母さんのお腹は完全にシチュー待ちなのよね。しょうがない。買いに行ってくるわ。キッチンペーパーも切れそうだし」と言って肩をすくめた。

 お母さんは「スーパーに行ってる間にジャガイモと人参の皮を剥いておいてくれるって約束するのなら、ついでにアイス買ってきてあげるね」と言い残して家を出た。

 木曜日の午後6時を少し過ぎたくらいだった。

 テレビでは妹お気に入りの少女漫画のアニメをやっていた。カエルのお姫様がカエルになる呪いをかけられた人間の男の子と冒険したり、恋したりする番組だったと思う。

 俺と妹はテレビの前にボウルとピーラーと野菜を持って座り、言われた通りに皮を剥きながらアニメを見ていた。

 家から出ていったお母さんが、たった3軒離れた場所で見ず知らずの男に襲われているだなんて想像すらしてなかった。

 この時、ちょっと外に様子を見に行けばよかった。

 けど俺はそうしなかった。知らなかったんだから仕方ないとか、そういう言葉は事実だろうけど、事実は何の役にも立たない。

 頭の中に窓の外で何かが倒れる音を聞いた記憶があるが、この記憶が本当の記憶なのか、それとも罪悪感が生み出した偽りの記憶なのか、俺には判断がつかない。

 お父さんは俺たち兄妹に事件の詳細を言わなかった。

 「悪い人がお母さんを襲って、お母さんは死んでしまったんだ」──以上。説明終わり。

 お母さんの遺体を見せてすらもらえなかった。

「お前たちの頭の中にあるのが、お母さんの本当の顔だから」とお父さんは言った。

 棺桶には窓もついていなかった。

 何もわからないままお母さんはいなくなり、顔も見られないまま燃えて骨になった。


 高校生になるかならないかくらいの時に、俺はあれをYouTubeで見つけた。

 事件についての短いインタビュー映像だ。

 どこにでもいそうな若い男がカメラに向かって喋っている。

「女の人が突然叫んで道路に倒れたんです。転んじゃったんだなって思っていたんだけど、側に立っていた男の人が、その女の人の頭に何か、ドリルのようなものを向けるのが見えて、妙だと思ったんです。大丈夫ですかって声をかけようとしたら、プシュップシュッ! って音がして、女の人の頭が道路にぶつかったんです。血が一杯流れていて、『どうしよう、死んじゃった』って思ったんです。俺が『誰かー!』って叫ぶと、その男の人が自転車にのって逃げて行ったんです。小太りで、メガネで、40歳くらいに見えましたけど」

 動画タイトルは『自らの殺人について語る殺人鬼』。

 説明はこう。

 『住宅街で起きた通り魔事件の犯人・川畑周次郎。彼は事件の第1発見者を装いマスコミのインタビューに答えていた。インタビューが撮影された翌日、警察は川畑逮捕のため自宅に押し入ったが、川畑は自らの顔に釘を打ち、既に自殺していた。彼の部屋からは妄想が書かれたノートと死体の絵が描かれたノートが押収された。遺書らしき手紙も発見されたが、内容は支離滅裂で意味の通らないものだった。被害者との面識は一切なく、川端が犯行を決意して住宅街を移動していた時、たまたま彼の視界に入ってしまったため、被害にあったと思われる』。

 死体がどういう状態だったのかをお父さんは教えてくれなかったが、グーグルは何でも教えてくれる。当時の週刊誌に載っていたモノクロの死体写真や、イラストで。

 たまたまそこにお母さんがいて、たまたまそこに川畑がいて、たまたまお母さんは死んだ。

 シンプルで、どこにでもある、報われない話だ。


 俺の与り知らないところで何かが起きて、そして俺には何の説明もないまま、俺の世界には空白が出来てしまった。

 俺の家族が引っ越しを決意したのはお母さんがいるはずの家に、公園に、スーパーに、月に1度は家族で足を運んだ映画館に、お母さんがいないのに耐えられなくなったからだ。いるはずの人がいない。空白ばかりに目がいってしまう。


 俺達は壁に日本地図を貼り、『日本列島ダーツの旅ごっこ』をした。

 俺がルィルィウェウェウェイルィルィウェウェウァーと『日本列島ダーツの旅ごっこ』の歌を歌うと、お母さんが死んでから初めて妹が笑った。

 俺の投げたダーツが日本海に、お父さんの投げたダーツが地図の外に刺さると妹は更に高い声で笑った。

 妹の投げたダーツだけが関東の端っこに突き刺さった。

 そこが俺達家族の新しい町になった。


 引っ越してきた初日。

 まだ学校に転入する日ではなかったので、俺は町を探検していた。

 寂れた商店街をぶらぶらし、川沿いの道をぶらぶらし、とにかくぶらぶらした。

 一応ルールはあった。ひたすらまっすぐに歩くこと。そうすれば仮に迷ったとしても、来た道をただまっすぐ引き返せば必ず家に戻れるから。

 で、まっすぐ歩いた。歩いて、歩いて、歩いて、歩き続けて、小学校側までやってきた。

 更にまっすぐ歩いて、動物園に続く雑木林の道に入った時、俺は同い年くらいの小学生が道を外れて林の奥へと消えてゆくのを見た。

「お。第1村人発見!」

 俺はその小学生に声をかけようと、彼の後を追いかけて林に入った。

 

 いうまでもなく、その小学生が今俺の目の前であやとりをしている林田だ。

 

*************************************


 「なう!」

 あいつがドアを蹴り飛ばした。心臓が肋骨の中で跳ねる。

 昔のことを思い出してしんみりしていたところだったから完全に油断してた。

 いつになったら諦めて寝るんだ! 猫はよく寝るから猫じゃないのか! 猫じゃないけど! あいつ、猫じゃないけどなっ!

 何度かドアを蹴り飛ばした後、足音はリビングへ移動していった。テレビの音が消える。

 耳を澄ましたが足音はもう戻ってはこなかった。

 寝たのかな? 寝てて欲しいな。

 俺は額に吹き出した冷汗を拭う。あぁ。身体中にサブイボが。

「……あいつ、語尾が上がるようになったよな」

 俺がサブイボを落ち着かせようと腕をさすっていると、林田が言った。

 まだルービックキューブをいじり続けている。

「今までの『なう』とか『林田』とかは平坦だっただろ? でも今は声に調子がついてるんだ。語尾に『?』がついて、疑問形で語りかけてくる感じ」

「だからなんだよ?」

「カウントダウンが始まったんだ。お前が人間になった時とおんなじ流れだ」

 林田は俺に顔を向ける。

 顔色が悪い。俺と同じくらい額に汗をかいているし、上唇には汗の髭が出来上がっていた。

「まずデカくなって」

 林田は右手の人差し指を立てる。

「人間の言葉を話し始めて」

 続いて中指を立てる。

「服を着て」

 薬指も立てる。

「疑問形でコミュニケーションを取ろうとしてくる」

 小指も立てる。

「お前の時はもっと自然だったけどな。子猿から人の子供への変化だったから、今回よりもずっと異変に気がつくのに時間がかかったし」

「だから、俺は最初から人間なんだってば」

「それはお前の言い分だ。ちなみにお前がマンドリルだった時の鳴き声は『林田。うきゃ』で、途中でお洒落に目覚めて俺のオーバーオールを勝手に着始めたんだよ。胸ポケットに飛行機の刺繍が入ってるやつ」

 俺は記憶の箱をひっくり返して、林田が言うオーバーオールを引っ張り出す。

「あれは俺の服だぞ。あの刺繍はお母さ……母さんがしてくれたんだ」

「違うね。あれはヨーカドーの子供服売り場で安売りしてた既製品だ。お前が箪笥から勝手に引っ張り出して着るようになったんだよ。飛行機の刺繍をしてくれるお母さんなんて、一度も存在してないんだ。お前のお母さんはな、お前がお前になった時に後付けで出来上がったエピソードなんだ」

 完全に平行線だ。ため息を噛み殺すのにちょっと骨が折れた。

「お前、うちに遊びに来た時に何回も母さんの仏壇みてるだろ。母さんの事件の写真や切り抜きも、お前には見せたじゃねぇかよ。お前にだけ話したんだぞ。それをお前、妄想にしても限度があるぞ」

「妄想じゃないんだ。本当だったんだよ」

 勘弁してくれ。

「あのなぁ! 今、このドアの向こうで起きていることはお前の妄想や俺とは無関係の突発的なもんなんだ! お前は別個の出来事を繋げて考えちまってるんだよ。テロや暴動が起きると何でもかんでもCIAやFBIのせいにする陰謀論者か誇大妄想狂みたいにさ! お前の妄想と、外にいるあいつにはなんの因果関係もない! 1回めとか、2回めとか、そういうアレじゃないんだよ! 外にいるあれは宇宙人か、どっかの実験施設から逃げてきた何かかもしれないけど、それと俺とは無関係だっ!」

 林田は手の中でルービックキューブを回した。いつの間にかあと2面揃えば完成するところまできてる。林田は目だけ動かして俺を見つめる。

 何かしらの確信を持っているようで、俺の言葉を真面目に聞くつもりはないように見えた。クソッ。ここからでたら病院に連れてかないと。

「冷静に思い出してみろ。俺と出会った時から順番に記憶を辿るんだよ。な? 初めて会った時のことは覚えてるだろ?」

 林田はルービックキューブを続けながら軽く頷いた。

「きちんと思い出せば、俺がマンドリルでもなんでもないってわかるはずだ」


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 あの日。

 林田を追いかけて雑木林に入った俺は、10歩も歩かない内にすっかり自然の虜になった。

 何せこの俺は生まれついてのシティボーイだ。

 舗装されていない土むき出しの大地を踏んだのは初めてだった。それにキノコや剪定されていない木々を見たのもだ。

 「あるんだ、実際!」そう思った。

 俺は第1村人のことなど完全に忘れ、テンションの上がるがままに走り回った。

 俺は人類未踏の森を進む探検家でもあったし、宝物を探すハンターでもあったし、その他、自分の想像力が許すありとあらゆる人物だった。

 そうやって雑木林の中を駆け回る内に、俺は林田の癒しスポットであった沼にたどり着いたのだ。大きな石の上で林田が寝転がってジャンプを読んでいるのには気がつかなかった。俺の目は沼の麓に生えていた大きな木に釘付けだったから。

 クリエイテッド・バイ・ティム・バートン――そんな感じだった。

 黒くて、太くて、捻れていて、葉っぱなんて1枚もついてない。

 昔の記憶だから誇張されているだろうけど、根本に首なし騎士の1小隊や2中隊は埋まっていそうだったし、春にはジョニー・デップが色鮮やかに咲き乱れ、秋になればジョニー・デップがたわわに実りそうだった。

 まぁ、当時はジョニー・デップを知らんかったけどさ。今思えばってこと。

 木は沼に向かって斜めに生えていた。その角度やコブのつき方が「どうぞ、登ってください」と俺を誘った。根本から上に向かってほぼ直線に並んだコブは、自然に出来た階段だ。

 勿論、俺は登った。バランスを崩さないよう、綱渡りの曲芸師みたいに両手を広げ、時折枝につかまったりしながら、俺は木の先端にたどり着いた。

 上を向けば青空。下を向けば青空を反射する鏡となった沼。俺と木の陰になっている部分だけが暗かった。1歩踏み外せば沼にドボンな状況ではあったけど、慎重で注意深いシティボーイな俺は足を滑らせるような間抜けなことはしなかったし、踏み外しもしなかった。


*************************************


 「お前、落ちたよな。沼に」

 林田が言う。奴の手の中のルービックキューブは間もなく完成しようとしていた。

 確かにそうだが、それは俺が悪いんじゃない。木が悪い。俺が乗っていた枝が折れたのが悪い。子供1人支えられないような木を、俺は木だとは認めない。気合が足りない。


 俺はグリコのポーズで垂直に落下し、グリコのポーズのまま沼に飲まれた。その時のドブッという音は今でも覚えてる。沼のくせにドブッって音がするんだって思ったことも。

 瞬く間に口や鼻に水が流れ込んできた。泥と、藻と、何かの植物の根と、何かの虫の卵、そして虫そのものを含んだ水。

 肌がピリピリする程の清潔過剰な室内プールでしか泳いだことがなかった俺は大パニックに陥った。

 俺は水面に上がるなり悲鳴をあげた。飲み込んだ水のせいで身体中に赤か、青か、紫の斑点か、痣か、腫瘍か、吹き出物が広がり、血か、胃液か、内臓を吐きながら死ぬのではないかという恐怖に胃を掴まれていた。

 第1村人こと林田が沼の側に立っていて何かを叫んでいると気がついたのは、泣き喚きながら水面を叩いている時だった。

 俺は「助けてー!」と叫びながら林田に向かって泥っぽい水の中を進み始めたけど、水を蹴る度に太ももや脹脛にヌルヌルした何かが触れたし、水を掻くたびに掌や腕にも昆虫だかなんだかの水生生物が触れるので1メートルも進まない内に大パニックに更に大パニックが重なって、ただ闇雲に水を叩いているだけの状態になってしまった。岸にたどり着きたいという思いよりも、水を遠ざけたいという気持ちの方が勝ってしまったのだ。

 そうこうしている内に体力がどんどん減っていって、俺の体はまた沈み始めた。

 林田が沼に飛び込む音が聞こえた瞬間に、俺は意識を失ったのだ。


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 「俺が助けに行かなかったら死んでたんだぞ」

 林田は知恵の輪をいじる。もうほとんど解けかけていた。あと一捻りで全部外れそうだ。

「あれはちょっとパニックになってただけで」

「俺が引っ張り上げた時、完全に気絶してたじゃんよ。俺はお前の命の恩人だ」

 恩着せがましいなぁ。俺が死ぬまでことあるごとに言い続けんじゃないか。

「で、その時も俺は人間じゃなくてマンドリルだったって言い張るんだな、お前は?」

 林田が元気いっぱいに頷いたので、俺は脱力してしまう。

「あのな、林田。お前の見ている世界はお前だけの世界で、俺や他の人たちにとっては荒唐無稽な妄想でしかないんだってば! 客観的になって、お前の世界と俺の世界、どっちが現実的かを比べてみろよ! お前はな、そもそも存在してない問題で悩んでんだよ! 問題がないんだから、その悩みも本当はないんだ! お前は本当は悩んでないんだよ! お前の感じ方がおかしいし、間違ってんだよ!」

 林田の表情がみるみる内に強張ってゆく。

「林田?」 

「お前はそうやって、俺に俺が間違ってるって思い込ませようとするんだ」

 小さい頃、好奇心に負けてドライアイスを触った時を思い出す。

 林田の声にはあの痛みを思い出させる冷たい何かが潜んでいた。

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