ルービックキューブは知恵の輪
「俺はな、『バック・トゥ・ザ・フューチャー4』のマイケル・J・フォックスなんだ」と林田は言った。
4?
「ありゃ3部作だろ? 西部劇みたいな時代にタイムスリップするので終わりのはずじゃん」
うろ覚えだけど主人公は元の時代に戻り、天才科学者ドクは新たなタイムマシンでどこかの未来だか過去だかに去って行くってオチだった気がする。
「3の後のマイケル・J・フォックスがどうなるか想像してみろよ。うだつの上がらない父親、口うるさい母親、意地悪な姉ちゃんと兄ちゃん。それが元々の主人公の家族だっただろ? でもタイムマシンで過去をいじったから、父親は有名なSF作家、母親も姉ちゃんも兄ちゃんも心優しくて親切、意地悪なビフは確か召使か何かになってたはずだ」
「めっちゃいい話じゃん」
ウンウンと頷く俺に林田が「どこがだっ!」と怒鳴ってきた。
「唾飛ばすのやめろよ、きったねぇな」もー。
「あの世界の誰も主人公にとって本当の人たちじゃないんだ! 主人公にとって本当の人たちはあの世界には誰もいないんだ! わかるか? あの世界は主人公にとってはパラレルワールドなんだよ! ドクが去った後、主人公が家に帰ってアルバムを開くとするだろ? そこには主人公の知らない主人公の過去が載っているんだよ! 例えばお父さんの小説のヒットを祝うパーティの写真や、兄姉と仲良くしている誕生日の写真や、理想的な素晴らしいお母さんと腕を組んでいる写真……それが無数にある! ぎっしりと! アルバムいっぱいに! 主人公の過去じゃない過去がいっぱいに! あれは地獄なんだぞ! 起きたことを全部忘れて世界に同化でもしない限り、主人公はずっと生き地獄にいることになるんだ! 3はその直前で終わってるんだよ! マイケル・J・フォックスがあの後どうなるかわかるか!? 精神病院に行くんだっ! 俺みたいになっ! だって、J・フォックスも俺もまともだからだ! 世界でただ1人、本当のことが見えているからだ!」
林田の目がギョロギョロと動く。
「俺が入院していた病室の壁には、お前と俺が一緒に遊んでる写真が一杯飾られてた。医者が母さんにそうしろって言ったんだ! 記憶が戻るきっかけになるかもしれないからって! 写真の中の俺はお前と本当に仲が良さそうに見えたよ! 母さんは写真を指差しながらその写真がどういう状況で撮られたもので、その時の俺がどんな風だったか丁寧に説明した! 何度も、何度も、何度も! まるで俺だけが間違ってるみたいに! でも、どれも俺の過去じゃないんだよ! 俺、お前のことなんか知らなかったんだもん! 一度だって、一度だって、お前と友達だったことなんかなかったんだ! 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいに、世界が書き換わってしまって、書き換わったってことに気がついているのはただ1人、俺だけなんだ! 俺がいる世界はそういう世界なんだ! 映画と違うのは、過去のせいで今が変わったんじゃなくて、今が変わったから、今にあわせて過去が塗り替えられてるってことさ! 現在進行形の改ざんなんだ!」
林田はルービックキューブを掴み、助さんだか格さんだかがやるみたいに俺に向けた。ルービックキューブの面は全て揃っている。
「答えろよ。これは、なんだ?」
「何ってルービックキューブだろ?」
林田の顔が見えない手にパンチされたように歪む。
「これは、なんだ?」
林田はもう一度言う。なんなんだよ、もう。
「だから、知恵の輪だろ! なんでおんなじこと聞くんだ?」
林田はちくしょうと呻いた。
「これは、なんだ?」
林田はこれこそが大事なことなんだと言いたげな顔をしている。
俺は何か仕掛けでもあるのかと思い、林田が握っている石鹸を見つめる。
「だから、石鹸じゃないの? 俺には普通の石鹸に見えるけど」
「じゃぁ、これは?」
林田の手の中には何かがあった。それは石鹸のように白くて、ルービックキューブのように四角くて、知恵の輪のように丸くて、金属のようにプラスチックだ。
「何って……」
林田は顔を横に振る。
「ほら、全然見えてない。お前には目の前で起きていることが認識できないんだ。これがドアの外にいるあいつなんだよ! 何かから別の何かに変わろうとしてる状態。いびつで不安定で、普通ならありえない状態になってる。そしてこれが」
林田は手に持っていた知恵の輪を俺の前でチャラチャラと揺らす。
さっきまで複雑に絡み合っていた3つの輪は全て解けていた。
「お前なんだ。存在が確定してる。固まってる。もうすぐあいつも別の何かになる。そしたらさも最初からその何かだったような顔をして現実の中に紛れ込むんだ。もう止めようがない。お前もきっとその時が来たら、あいつが元々は猫だったことなんて忘れちゃうんだ。本当のことを知ってるのは俺だけになって、また1人ぼっちになるんだ。世界からつまはじきにされるんだ!」
「意味わかんねぇよ」
俺は林田を見つめる。
「お前、さっきから知恵の輪見せつけてなにがしたいの?」
林田は少し目を伏せた。
「お前は気がついてないだろうけど、俺は今、手に持っていたルービックキューブを知恵の輪に変えたんだ。そして変わった瞬間に、過去が塗り変わったんだよ」
凍りついていた林田の周囲の空気がわずかに緩む。氷が溶けて水になるように、林田は急に水気を増した。つまり、ぽろぽろと泣き出した。
えー。もー。何なの。
「また俺だけが知らない俺の過去が出来上がって、頭がおかしい奴だって言われるんだ。それから、お前も別のお前になっちゃうんだ。俺の家族が消えたみたいに!」
俺は便座から立ち上がり、林田の隣に座る。そしていつかやったように背中を叩いた。世の中の長男長女が自然と身につけるスキル。『元気出してポンポン』だ。
「大丈夫じゃないなぁ、林田」
林田は「前もやったぞ、この流れ」と笑った。
「前にお前さ、俺のこと『何様のつもりだ』って顔で見てただろ」
そうだったっけ? 友達が泣いてる姿っていうのは覚えていてはいけない気がするから、俺は極力忘れるようにしてる。
「俺、自分が何様かわかったんだ。俺な、ほとんど神様なんだよ」
……とうとう言い出しおったで、と言いそうになった口を林田がつまむ。
「顔みりゃ何考えてるかわかるから言わないでいい。俺だってどうして自分にこんなことが出来るのかわからないし、今試してみるまで意識的にやろうとしたことなんてなかったんだ。ルービックキューブを目の前で変えればわかってもらえるかと思ったけど……お前でだめならきっと他の人相手でもダメなんだろう」
林田は「俺の言うことを一々否定すんなよ。その度に話が中断するし、どうせ何を言ってもお前は俺の話に納得はしないんだから」と言ってから手を離した。
「お前の思い出がどんな形に上書きされたものであれ、俺はお前をランドセルに入れて持ち帰って、押入れでこっそり飼い始めたんだ。これが本当なんだ。お前は南さんとはぐれてからずっと1匹で雑木林にいたから衰弱していて、元気になるまで気が抜けなかった。あんまり鳴いたり騒いだりしなかったから母さんには見つからないで済んだ。母さん、仕事を掛け持ちしてたからあんまり家にいなかったしな。お前に餌を食べさせながら俺はいつも思ってたんだ。『こいつが人間だったらいいのにな。そしたら俺と友達になってくれるんじゃないかな』って。時々、話しかけたりもしてた。お前が人間で、俺の家に遊びにきてるっていう設定でさ。お前、頭のいいマンドリルだったから積み木遊びなら一緒に出来たんだぞ」
確かに林田の家でよく積み木で遊んだけど、それは林田の家の積み木がシティボーイな俺の目線からすると「1周回ってレトロ可愛い」だったからであって、積み木遊び程度しか遊べない奴だったからじゃない。それにそもそも、俺は人類。今まで一度として猿ではなかった。
「ずっとそうやってお前を扱っていたら……わかるだろ?」
わからん。
「お前はどんどん大きくなって、さっき言った段階を踏んで疑問系で鳴くようになって、そしてとうとう、お前になったんだよ」
わからん。
「俺はお前がチャッキー的な生き物だから人間に変身したのかと思っていたけど、違うんだよ。俺なんだ」
林田は自分の両手を見つめる。
「俺がお前を変えたんだ。俺は、何かを別の何かに変える力があるんだ。何かを出現させる力があるんだよ。自覚のないまま、その力を使っちゃってたんだよ。株だってそうだ。俺が『こうだったらいいな』と望めばちょうどいい具合に上下したし、このマンションだってそうだ」
林田は両手の親指と人差し指をくっつけて胸の前で3角形を作った。
大宇宙支配者に栄光あれ! のポーズ。
「それにあいつらだ。あいつらの設定は殆ど俺が考えただろ? 俺があいつらを考えたから、大宇宙科学幸福実現協議会豊洲支部が本当に出現したんだ」
「あれはたまたまだろ……それこそ不幸な事故だ」
「大宇宙科学幸福実現協議会豊洲支部だぞ? こんなバカみたいな名前の宗教団体がバッチリ存在すると思うか? 俺があいつらの設定を考えたから、あいつらが生まれたんだ!」
「それか、お前が覚えてないだけでどこかでその団体の名前を見たか聞いたかしたのかもな。よくあるだろ。そういうの。自分では自分が思いついたアイディアだと思ってるけど、実は人から聞いたやつだったっていうさ」
「違う、違う! 絶対に違う! あいつらは本当は実在しないんだ。俺の世界に紛れ込んだんだよ! お前みたいに! 石鹸をルービックキューブや知恵の輪やカスタネットに変えたみたいに、俺はなんでも変えられるし、もしかしたらなんでも作れるのかもしれないんだ!」
林田の電波がゆんゆんしてる。
「あのなぁ、神様。じゃぁ、お前はあの猫を何にするつもりだったんだ? その感じだともうあれが何になるかわかってるんだろ?」
林田はなぜか目を彷徨わせた。
「なんだよ。言えないのか?」
「言えないわけじゃないけど」とか言いつつ林田は黙り込んでしまう。
沈黙が流れる。流れるがままにさせておく。
もう何を言っていいのやらわからない。
ここから出たらすぐに病院に連れて行こう。あんまり考えたくはないけど精神的な問題ではなくて、脳に問題があるのかもしれない。急に幻覚や妄想の症状が出始めて、脳スキャンしたら腫瘍ができてました! って話もよく聞くし。
「俺、怖いんだよ」
林田が沈黙を破った。
「これから起きることが怖いんだよ。1回めもものすごく怖かった。だって俺の家族はもう俺の家族じゃなくなっちゃったし、俺の世界も、俺の過去も、塗り替えられちゃったから。お前のことも怖くてたまらなかった」
まぁ、ビビりすぎて自作の鎖帷子着てるくらいだもんな……。
「お前が元猿だからだけじゃないんだ。お前が、お前がな。すごくいい奴だから怖いんだよ」
「そうなんだよ。俺ってばめっちゃいい奴なんだよ。知ってる」
おどけてみたら林田は余計に泣いた。なぜだ。
「お前が猿の時にな。こう祈ってたんだよ。『お前が人間で、俺の親友で、いつだって俺のことを優先して、俺を助けてくれて、俺と一緒に遊んでくれて、俺と一緒に楽しいことをたくさんしてくれる奴ならいいのに。俺を幸せにしてくれる奴ならいいのに』って」
「……要求ハードル、ウルトラ高いな……」
期待が重すぎる。友達がろくにいなかった分、友達に対するドリーム度が増しちゃってるのではなかろうか……。そういうんじゃないぞ、友達って。もうちょい雑だぞ。
「お前は本当に、本当に、いい奴だよ。時々、ぶん殴ってやりたくなるし、高田純次ラインスタンプの件と、『いいね!』って思ってないのに『いいね!』ボタンを押した件については今後も定期的にむし返す予定でいるけど」
んの野郎。
「でも、お前、いい奴だよ。俺、お前と一緒にいるとすげぇ楽しいもん。最初はお前のこと化け物だと思ったし、殴り合いもしたけど、俺、お前のこと大好きだよ。でも、あまりにも出来過ぎてるって思う時もあるんだ。あまりにも想像した通りだから」
林田は俺を見る。俺は自分がスケルトン仕様になって、林田に内部を見透かされているような気持ちになる。
「……あのさ。お前に心はあるよな? お前の意思で、俺と友達になったんだよな? 俺がそうなるように作ったからじゃないよな? もしかしたらお前は、俺が望むままに作りあげた、人間じゃない何かなんじゃないかって気がしてならないんだ。……お前は傷ついたような表情をしてるけど、それがお前の本心なのか、それとも俺がお前に傷ついてほしいと思ったから傷ついているように見えるのかも、俺にはわからないんだ。時々、とてもよく出来た最新のSiri相手に話してるような気持ちにもなるんだよ」
「幾らなんでも酷いぞ。お前」
俺は呻いた。自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのかもわからない。
林田はうろたえたように見えたけど、すぐに顔から表情が消えてしまった。俺が傷ついたということに傷つく必要はないのだと言い聞かせているようにもみえた。
「あのな、ずっと内緒にしてたっていうか……。絶対大騒ぎされるだろうから言わなかったんだけど」
「……今度は何だよ、まだ何かあんのかよ。もう何言われても驚かねぇから言え」
「俺はお前がどんな顔してるのか知らないんだよ。それに名前もわからないんだ」
俺の頭の中で仙道の首が高速で左右に振れ、数百の顔に分裂した。もはやどれが残像で、どれが本体がすらわからない。
「顔みたことないて」
お前。
「名前知らないて」
お前。
「どういうこと」
だってばよ。
「言ったまんまの意味だよ。お前の名前、お前の顔。そこにあるはずなのに見えない。だまし絵みたいなんだ。ワイングラスに見えるか、横顔に見えるかとか。乙女に見えるか、老婆にみえるかみたいな。お前の顔はワイングラスを見ている時の横顔で、横顔を見ている時のワイングラスなんだ。表情はわかるんだけど、でも、見えてないんだよ。どんな目の色かも、ホクロがあるのかどうかも、眉毛がどんなかも全然わからないんだ。お前だけじゃない。時々、顔がよく見えない人たちが街を歩いてるんだ。中学の時は担任の先生の顔が見えなかった。すごく優しくて理想的ないい先生だったけど、顔も名前もわかんなかった。クラス替えで「いいクラスに入りたい」って思った時は、クラスのほとんどの連中の顔が見えなかった。ららぽーとに行った時だって、あの宗教団体の人たちの顔は1つも見えなかった」
「待って。待って。一旦待ってくれ。なんかで見たことあるぞ。交通事故にあって脳に障害をおった人が、人間の顔を認知できなくなったとか。つまりはそういうアレなのか?」
「違うんだ。お前には元々、顔も名前もないんだ。俺がお前をマンドリルからお前に変える段階で、ちゃんとお前の顔と名前を決めなかったから」
マンドリル飼うの初めてだったからこだわりの名前をつけようと思っている内に『お前』という言葉に反応するようになったと林田は言う。
「俺が決めなきゃ名前も顔も決まらないお前に、心があるのか不安で仕方ないんだ。お前は俺の望むままの人形っていうか、お前の言葉や行動は全部、俺の深層心理が生み出した、俺を楽しませるための振る舞いなんじゃないかって気がして。例えば、例えばさ、俺がいるのは『ソラリス』で、俺以外は全部偽物で、お前を含めたこの世界は俺を閉じ込めておくための装置なんじゃないかって気もするんだよ。ここは俺の居心地のいい檻なのかも」
「バカか。そんなことあるわけないだろ。じゃぁ、もうあれだ。覚えろ、俺の名前は」
俺は十数年来の付き合いの友人に向かって自己紹介をした。なんてバカバカしいんだ。
「な? 覚えやすいだろ?」
「お前は何も言ってないよ」
林田は言う。
「名前を言ったつもりになってるけど、それは記憶の塗り替えなんだ。だってお前はただ、口をパクパク動かしていただけなんだから。言えるわけないんだ。お前に名前はないんだから。みんな、お前に名前がないことに気がついてないんだ。お前も気がついてないんだ」
俺は立ち上がり、洗面台の蛇口をひねって水を出し、先ほどまで林田が握っていた石鹸を手にとって軽く濡らした。そして石鹸をクレヨン代わりにして、鏡に俺の名前をはっきりと書いた。漢字。ひらがな。カタカナ。ついでにローマ字で。
そして1文字1文字、指差し、林田を見つめながら読み上げる。大声で。
「ほら、言ってみろよ。リピート・アフター・ミー」
「だから! さっきから何も言ってないんだよ。名前を言ったと思い込んでるだけだ!」
「お前は神様なんだろ! だったら俺が作り物でもなんでもないし、名前も過去もあるちゃんとした人間だってわかるだろうに」
「俺はほとんど神様なのであって、神様じゃないもん! 全知全能じゃないもん!」
『じゃないもん』じゃない。こんな時にキョンキョン口調になりやがって。
「最悪なのはお前が俺の作り物で、心がないかもしれないのに、俺にとっては一緒にいると楽しい相手ってことなんだ。それにきっと、外にいる奴もそういう奴になるんだ。俺は、俺を幸せにするために俺が作った者に囲まれて、幸せになるんだ。そんなの全然幸せじゃないじゃないか。自作自演の幸せじゃないか!」
「ベソベソメソメソうるせぇなぁ! 泣くな! お前の心配は杞憂だって。俺は俺の意思でここにいるし、お前のために存在するわけじゃねぇから! どこまで自意識過剰なんだ!」
林田のベソメソは止まない。ほんっと不安定だな。このベソメソン林田は。
どうしたものかと考えてから俺はもう一度隣に座り、林田の肩に腕を回した。腕の中で林田が笑った。が、楽しい気持ちになれるような笑い方ではなかった。
「ほら。優しい。俺が望むことをしてくれるんだ。そういう風に出来てるのかも」
「俺がしたいからしてるだけだって。あのさ、10億歩譲ってな。お前が言ってることがぜーんぶ本当だとしてな。お前がバックトゥザ・フューチャー4の主人公な状況だとしてだ。お前は見落としてるよ。ドクはいなくなったけど、主人公の側には彼女がいただろ? あの彼女は主人公と一緒にいたじゃないか。あの子は変わってないじゃん。まぁ、1の元の世界の彼女とはちょっとは違うかもしれないけど、2では一緒にタイムスリップしたんだ。主人公は1人じゃないよ。途中からではあるけど、同じ世界を知ってる彼女がいるんだからさ。お前には俺がいるだろ? ここで世界がぐるっと変わったとしても、俺にはそれがわかるんじゃないか? お前と今、ここに一緒にいるんだからさ」
また沈黙が流れるが、今度は俺がそれを破った。
「あのな。自分に見える範囲だけで他人のことを考えない方がいいぞ。『この世界に本当の人間は自分だけ』なんてバカみたいな思い込みがどれだけひどいものなのか、俺はお前に話しただろ? ……俺はお前にあの手のバカになってほしくないんだ」
林田は答えない。うー。俺は今、とても真面目に思いやりについての話をしているんですよ? わかってますか?
「それで、ほとんど神様な林田君は、猫にはどんなお願いをしたんでしょうかね?」
少し待ったが答えがなかったので、答える気がないんだなと思った。別にそれでもよかった。何も本気で聞いたわけじゃないし、何を言われても笑っちゃうだろうし。
「俺が願ったのは」
足音がリビングからトイレのドアの前まで移動してきた。
どうせ鍵は開けられないだろうけど、俺は視線をドアノブに向ける。
「なう? 林田? なう?」
ドアは蹴られなかった。変わりに柔らかい何かがドアを叩く音がした。
あの手でノックの真似事をしているのだろう。毛がいっぱい生えているからノックの音がコンコンではなくてボフボフって感じだ。
「林ー田ー?」
ノック。ボフボフ。
林田も白い顔をドアノブに向ける。
「なーう? なーう?」
またノック。ボフボフ。
「この猫が」
「なうなう? 林田」
ガチャッとノブが揺れる。ドアは開かない。
「この猫が俺の彼女だったらいいのになって願ってたんだ。俺もそろそろ、結婚とか、そういうの、してみたいなって。猫みたいな彼女なら気楽でいいなって」
ノック。コンコン。
「ねぇ、2人とも本当に大丈夫?」
ドアの向こうから林田の彼女の声が聞こえてきた。
林田は見えない手に内臓を口から引っ張りだされているかのような悲鳴を上げた。
一体どうしたって言うんだ? 彼女が心配してるじゃないか。
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