こういう過去だということになった

 「ねぇ! 大丈夫なの!? 今の悲鳴は何!?」

 ドアノブが揺れた。心配そうな彼女の声が聞こえる。

「ごめん、今開けるから」

 ドアノブに向かって伸ばした俺の腕に林田が悲鳴を上げながらしがみついてくる。

「開けるなっ!」

「おい!?」

 腕がもぎ取られるんじゃないかってくらいの強さで引っ張られ、危うく後ろ向きに倒れそうになった。

「何するんだ!」

「あっさり飲み込まれてんじゃねぇよ! 口だけじゃねぇか、このバカッ! ルービックキューブと知恵の輪の見分けがつかないのは別にいいよ! けどこれは気づけよ! おかしいって感じろよ! なんか変だって少しは思えったら! 何がバックトゥザ・フューチャーの彼女だっ! 大嘘吐き! 最悪だよ、お前っ!」

「一体何の話しだ!? 腕を離せってば!」

「嫌だ! 嫌だっ!」

「丈一郎! 何をしてるんだ!」

 力強いノックと低い声がドアを揺らした。

 わめき続けていた林田が雷に打たれたようにビクッと体を硬直させる。

「誰かいるっ!? 増えてる、いなかったのにっ!」

 林田は俺に向かって叫んだ。何かに対して同意を求められているのはわかったが、それが何なのかも林田が何を言ってるのかもまるでわからず、俺はただ途方に暮れる。

「どういうつもりなんだ! みなさん吃驚してらっしゃるじゃないか! 早くでてきなさいっ!」

「丈一郎! お願いだからお父さんの言う通りにしてちょうだい!」

 林田は金魚みたいに口をパクパクさせている。

「……なんでいるんだ?」

「そりゃいるよ……今日はお前と彼女さんの家族の顔合わせ食事会だろ……自分で呼んでおいて何言ってんだよ」

「食事会?」

 林田は俺とドアとを交互に見る。

 林田の両親と彼女が口々に林田に外に出るように促す。林田は震え続けていたが、何かに気がついたような顔をして震えるのをやめた。

「取り消すぞ!」

 林田は天井を見上げて叫んだ。

「取り消す! 願ったことは全部取り消します! なかったことにしてください! 聞こえているんでしょう! ハイルーラー! だってそういう設定なんだ! あなたは全部見てる! 俺が代行者だ! そういうことになったんでしょう!? そうなんでしょう!?」

「大声出すなって! ハイルーラーってなんだよ!」

「俺が作った宇宙全体の神様に決まってるだろ!」

 こいつは本当にどうしたんだ。正気じゃない。

「聞こえているんでしょ! あんなバケモノと結婚させないでください! こんなの耐えられない! 気が狂う!」

 ドアの向こうで彼女が「ねぇ! 今の私のこと!? 私に言ったの!?」と怒鳴り、ドアを蹴っ飛ばした。

「林田、急にどうしちまったんだよ!? さっきまであんなに仲良くしてたくせに──」

「お前が思ってるさっきまではたった今できたんだっ! 今度こそ俺は負けないからな! 世界なんかに飲み込まれてたまるかっ!」

 林田は床が抜けるんじゃないかってくらい激しく足を踏み鳴らした。

 クソ。完全にどうかしてる。

「わかった、林田! とりあえずお前の話しを聞くからっ! お前の話しが終わるまでドアは開けないから──」

「開けるな! 絶対だ! どんなことがあってもあのクソドアを開けるんじゃない!」

「わかった! ドアは開けない! 約束する! だから俺の腕を離してくれ。な? いいな? 俺はどこにも行かないし、ドアも開けない。このままじゃ落ち着いて話しもできない!」

 林田は犬のように唸っていたが、やがて俺の腕にしがみつくのをやめた。俺に対する警戒心はといていないようで、俺を睨みつけ続けていた。ほんの少しでも俺がドアに近くそぶりを見せたら襲いかかってきそうだ。

「よし。そこに座ってくれ。立ってるより座ってた方が落ち着いて話ができるだろ?」

 俺は林田を洗面台の横スペースに座らせる。

 血の気を失って生乾きの紙粘土じみた色合いになっている顔と、血走った目に見覚えがあった。

 子供の頃。俺を猿だと思い込んで襲いかかってきた時とおんなじ目だ。

「ねぇ! ドアを開けてよ! どういうことか説明してっ!」

 彼女がドアをノックして俺と林田を呼んだ。

 林田がまた暴れ出しそうだったので、俺は「すいません! 俺が林田と話すんで、ちょっとの間静かにしててください! 大丈夫ですから!」と叫んだ。

 ドアの向こうでみんながああだこうだと議論する声が聞こえてきたが、しばらくすると静かになった。気配は消えてない。みんな、ドアの外で俺と林田の会話に耳をそばだてているのだろう。

「……どうして俺たちはここにいるんだ?」と林田はヒソヒソ声で聞いてきた。

 ドアの向こうのみんなを異常に警戒している。意味がわからない。さっきまであんなに楽しく食卓を囲んでたのに。

「さっきも言っただろう? 今日はお前と彼女の家族の顔合わせで……」

「なんでお前がいる? 家族の顔合わせならお前は関係ないだろ」

「今日が食事会だってことを忘れてて遊びに来たんだよ。一旦は帰ろうとしたんだけどお前の親にせっかくだから飲んでけって呼び止められてさ。お前の子供時代のエピソードとかを色々話してたんだ。ほら、俺は転校生だったろ? クラスでちょっと浮いてた俺をクラスのまとめ役だったお前が何かと気にかけてくれたって話しとかさ」

 林田は「クラスのまとめ役?」と首をかしげる。

「お前、小中高とどこでも人気者だったじゃん」

 林田は呆れたように目をぐるりと回して、卑屈な笑みを作り、「そういうことになったのか」と呟いた。

「他にはどんな話しを? 南さんの話はしたのか? あの話しはどういうことになってるんだ? 俺とお前の出会いは?」

「南さん?」

「小学校の側の動物園にいたマンドリル」

 ……ああ。あの撃ち殺された猿か。

「林田、実際に人が死んでる話しをこういう場でするわけないだろ。その話しはしてないし、お前が俺をそのマンドリルの赤ん坊猿が化けた妖怪だと思い込んで大喧嘩になって2人とも病院送りになった話しもしてねぇよ」

 不幸中の幸いというか、病院送りになったおかげで林田の脳に腫瘍があることがわかったんだったな。

 俺を猿だと思い込むに至った記憶の混乱や幻覚症状は全部その腫瘍が脳を圧迫したせいだった。

 緊急の大手術にはなったけど、腫瘍を取り除いてからは林田の記憶の混乱や幻覚症状は完治した──はずだ。

「アレは俺にとってなんだ?」

 アレというのが彼女のことだと気がついて俺はイラっとした。この苛立ちには覚えがある。こいつが俺を猿だと思い込んで、俺が何を言っても「お前は猿だ! バケモノだ!」とわめき散らした時に感じたものと同じイラッとだ。

 なるほど。わかってきたぞ。

 こいつ、今度は俺じゃなくて自分の彼女を怪物だと思い込んでいるわけか。

「いいか。彼女とお前は大学時代に一度付き合っていたけど、彼女がカナダに留学することになって遠距離恋愛がうまくいかなくて別れたんだよ。それで何ヶ月か前に日本に帰ってきてた彼女と偶然再開して、トントン拍子でよりが戻って、トントン拍子で同棲して、あっという間に今日まできたんだよ。少しも思い出せないか?」

 林田は顔を真っ赤にして額や喉に血管を浮き上がらせながら「そもそもないものを思い出せるわけがないだろ!」と怒鳴った。

 疑いが確信に変わる。間違いない。

 脳の腫瘍が再発したんだ。だからこんな変なことを言い出してるんだ。

「林田。ゆっくり深呼吸して思い出すんだ。お前は食事中に急に叫びだして、俺に醤油をぶっかけるわ、部屋中を駆け回るわした後、俺を無理やりトイレに引っ張り込んだんだよ。それでギャーギャーと今みたいに意味のわからないことを言い続けてるんだ」

「意味がわからないのは俺じゃないし、本当のことを思い出さなきゃいけないのも俺じゃない! お前の方だ! 期待させるようなこと言って全然ダメじゃないか! 裏切り者! ヘタレ!」

「なんとでも言っていいけど、今は興奮するのをやめるんだ。いいか、救急車を呼んで病院に行かないと」

「俺はどこも悪くない! 完全に正気だ!」

「お前は今、自分で自分が正気なのかどうかわからなくなってしまってるんだ。お前のせいじゃない。もしかしたらあの脳腫瘍が再発したのかもしれない。検査しなくちゃ」

 林田は生まれて初めてその言葉を聞いたかのように「脳腫瘍」と口に出す。

「一体、何の話だ? 俺は脳腫瘍なんか一度も……」

 俺が自分の額──右目の目尻の上あたりを指で突くと、林田は俺の動きをなぞって自分の額に触れた。林田の顔はたちまち白くなり、飛沫でも飛ぶんじゃないかってくらいの勢いで汗が吹き出した。

「……なんだよ、これ」

 林田の指が額にある脳腫瘍の手術跡をなぞる。手術跡は他の皮膚からわずかに盛り上がった線になっていて、ニスを塗ったような艶がある。林田が皺だらけの老人になった時も、その部分だけは今と変わらず皺一つないピンと突っ張った肌なのだろう。

 林田は手術跡を指で辿りながら呻いた。

「こんなのなかった」

 林田の手は傷をなぞりながら額から右側頭部、そして右耳の後ろへと移動する。

「小学生の時に手術をしただろ。何ヶ月も包帯したままだったじゃないか」

 林田は洗面台の横から降り、鏡の方へ向き直った。あいつは鏡が曇るほど近くまで顔を近づけ、手術跡を凝視する。体が細かく震えている。

 今にも意識を失って倒れそうに見えたので、俺は林田の背中を支えようと思ったが、林田に向かって足を踏み出すよりも先にドアが目に入った。

 今なら林田の注意が鏡に向いてる。ドアを開けられるかもしれない。

 俺は林田の方に体を向けたままジリジリと後ろ向きにドアへ移動する。

 林田に体を向けたまま手を後ろに伸ばしてドアの鍵に触れようとした時、林田が俺に気がついた。

「開けるなって言っただろ!」

 林田はすごい速さで俺に近づき、骨を握りつぶすような力で肩を掴んできた。

 あまりの痛みに俺は悲鳴をあげ、反射的に腕を振るって林田を横に突き飛ばしてしまった。

 林田は洗面台の縁に腰をぶつけ苦悶の表情を浮かべる。勢いは止まらず、林田の体はくの字に曲がり、支えを求めて伸ばされた左手の掌が鏡に叩きつけられた。

 バケツいっぱいのカメムシが一気に踏み潰されたような音を立てて、鏡に大きな亀裂が走った。

 少し遅れて林田の掌の下から蜘蛛の巣状のヒビが広がる。割れた鏡は林田の掌から血を吸い、蜘蛛の巣を赤に変えた。

 胃が石のように硬くなり、息が詰まった。

「ごめんっ! ごめん、林田! 驚いちまってつい」

 林田の口は閉ざされて小さくなり、反対に目は大きくなっていた。見慣れない人を見た猫のようだ。

「お前は誰なんだ」

 声は硬く、ヒステリーの気配を漂わせている。

「新しいお前なのか?」

「悪かった。本当にごめん。病院に行こう。ガラスが体の中に残ったら大変だろ」

 林田は手を鏡から離した。鏡の破片が囁くような音を立てて1つ、2つと剥がれ、やがて大きな亀裂の右側にあった部分が一気に崩れ落ちた。

 俺は飛び跳ねるガラス片から身を守ろうと体を丸めたが、林田は身じろぎもせずに洗面台の横に置かれた石鹸を見つめていた。腕や腹に小さなガラスが突き刺さって、服に血がにじんでいるにもかかわらず。

 あいつは俺を見て、それからまだ崩れ落ちずに残っている鏡の左半分に顔を向けた。

 それから俺が止める間もなく、あいつは鏡を殴り始めた。砕けた鏡の破片が方々に飛び散る。

「何してるんだ! やめろ! バカ!」

「これは俺じゃない!」

 俺は林田を鏡から離そうとしたが、今度は俺が林田に突き飛ばされた。

 背中からドアに叩きつけられ、呻きながらその場に座り込む。

 林田は鏡を殴り続けている。

 鏡の破片が宙を飛ぶ様は小魚の群れが水面を滑る姿に似ていると思った。光りがアイスピックのような鋭さで俺の眼球を刺して脳へ達する。

 反射的に目を閉じ、顔の前で両腕をXの字に組んだ。

「さっきまでこんなのなかった! たった今出来たんだ! この世界の方が正しいってことにするために、俺の方がおかしいってことにしやがったんだな! 脳腫瘍だと、ふざけんな!」 

 林田が鏡を殴る度に血に濡れた破片が飛んできて俺の腕や手に刺さった。

 痛みは感じない。興奮状態だからか、ショック状態だからかはわからない。

 わかったところで刺さった破片が消えてくれるわけでもない。肉と肉の間に異物が差し込まれているのと、そこから血が流れ出しているのは感じた。

 傷の数だけ心臓が増えて、脈打つたびに傷口から音がする。悲鳴を堪えたのは正しい判断だったと下唇に刺さった親指の爪ほどの大きさの破片が教えてくれる。口を開けていたらこれは俺の舌を切り裂いていたはずだ。

 彼女が悲鳴を上げ、ドアを叩いていた。

 かすかに聞こえたカツカツという固い音は婚約指輪がぶつかる音だろう。

「救急車呼んで! 林田が狂った!」

 俺は唇に刺さった鏡の欠片を抜き取ってから叫んだ。一言喋る度に血が流れ出し、顎を伝って喉から鎖骨まで駆け下りていった。

「俺には恋人なんて存在してない! 外にいるのは、いちゃいけない奴なんだ! 俺を幸せにするために作られた、俺の願望と猫で出来た産物なんだ! 怪物なんだ!」

「なんでそんな酷いこと言うの! 一体どうしちゃったの!」

 林田の彼女はドアの向こうで叫んだが、林田は全く意に介していないようだった。

「やっぱりお前、わからないのか?」

 林田はそう俺に尋ねた。わからないのかも何も、質問の意味自体がわからない。

「一体お前はどこからどこまでが俺の知ってるお前なんだ?」

「林田。お前は混乱している。病院に行って、お前の頭の中にある病気の部分を診てもらおう」

 林田はヒュッと息を短く吸い込んだ。それまで林田の瞳に宿っていたのは恐怖と混乱だったが、今はそれらが消えて明らかな敵意が輝いていた。

「何度言えばわかるんだ、俺は病気なんかじゃない! 脳腫瘍なんかなかったんだ! そういうことになっちゃっただけなんだ! ほら、こいよ! お前を元に戻して、俺と同じ世界をみせてやる!」

 林田は肉が裂けたり、めくれたりしている掌を俺に向けた。肉にめり込んだ小さなガラス片が血に濡れながらギラギラと輝いていた。

「ルービックキューブを石鹸に戻したみたいにお前を戻すんだ。俺の世界の本当のお前に」

「俺に近づくな。お前、どうかしてる」

 しかし林田は止まらなかった。話が通じない。自分の世界しか見てない。怖い。あいつみたいだ。

「俺に近づくなってば!」

 俺は落ちていた大振りなガラスを掴み、林田にその切っ先を向ける。ガラスを握った掌が熱い。肉が切れたのだろうが、それよりも正気を失った林田を遠ざける方が優先だ。

「それで、どうしようっていうんだ? お前、俺を傷つけられるのか? お前が?」

 林田は何かを考え込んでいる顔をした。

「そうか。傷つけられるのなら、それは、悪くはないぞ――全然、悪くない」

「何言ってんだ、下がれ!」

 俺はドアにもたれ掛かりながら立ち上がろうとしたが、あともう少しというところで急にドアが開き、俺は廊下に倒れてしまった。

 サクッと新鮮な白菜を切る音が体の中に響いた。激痛が走り、俺は鏡の破片を手放す。掌がかなり深く切れてしまっていた。血だらけだ。

 俺を見て彼女と林田のお母さんが悲鳴をあげる。林田のお父さんは呆然と立ち尽くしていた。彼女の両親は娘にかけより、腕を掴んでリビングへ引っ張っていこうとしている。

 林田は俺の体をまたいで「今のは偶然なのか? それとも必然か? 俺が作り出した世界では俺を傷つけられないようになっているのか?」と言いながら床に落ちた鏡の破片を拾い上げた。

 林田は廊下にいる人々を怯えと興味の混じった目で見つめる。

 林田の手から流れた血が俺のズボンに垂れ落ちた。

「一体どうしちゃったの、丈一郎君!」

 彼女がリビングから駆け戻ってきた。

 彼女を見るなり林田は絶叫し、見えない手に殴られたかのように跳ね上がり、玄関ドアまで逃げた。

「近寄るな! い、い、い、いった、一体、どうなってるんだ!」

「酷いじゃない! 何考えてるの! 私達、結婚するんだよ!」

「こっちにこないでくれ! その体は一体どうなっているんだ! 気持ち悪いっ!」

 サーッと彼女の顔が青くなり、そして赤くなる。

「どうなってるかは丈一郎君が一番よく知ってるじゃない! 赤ちゃんがいるんだよ! 私達、お父さんとお母さんになるんじゃない! 今日はその話をする日でしょう!」

 全員の視線が彼女に集まる。彼女は膨らんでいないお腹を抱きしめながら「お父さんになれるんだって喜んでくれたじゃない! どうしちゃったの! 酷いよ」と泣き始めた。

「俺の子じゃない!」

「お前、なんてこと言うんだっ! 彼女に謝れ!」俺は林田を怒鳴りつけた。

「後付けだ! 全部後出しなんだ! お前、本当はいないんだから!」

 林田はそう叫ぶと外へ飛び出して行った。外から女性の悲鳴が聞こえてきた。

「大変だ」

 俺は体の痛みも恐怖も押さえ込んで立ち上がり、林田を追いかけて外に出る。

 少し遅れて林田のお父さんと、彼女のお父さんも俺の後に続いた。

 隣に住んでいる女性がスーパーの袋を抱えたまま外廊下にへたりこんでいた。袋は切り裂かれていて、中身が周りに散らばっている。林田の父親と彼女の父親が怪我はないかと声をかける。

 2人を置いて俺は林田を追いかけた。あいつは外廊下の突き当たりにある階段に向かって走っていた。右手を振る度にキラキラと鏡が光る。

「待て! 林田! 待てっていってんだろ! クソがっ!」

 ざわめきが降ってくる。中庭を挟んだ向こう側にある外廊下のドアが幾つも開いて、住人たちが顔を覗かせている。上の階の外廊下は野次馬でいっぱいだ。電線上の鳥のように1列に並び、彼らは盛んに何かを叫んでいる。

「消えろ! 消えろ! 消えちまえ!」

 林田は野次馬達に向かって怒鳴り散らす。

「お前たちなんていなかったんだ! お前たちは死んでる! 死体が見つかってないだけでどこかで死んでいるんだ!」

 どこかから「誰か警察と管理人さんに連絡してー!」という声が聞こえた。

 林田はその声がした方に顔を向け、鏡を振り回す。

「ここは俺の現実じゃない! 元に戻れよ! 戻ってくれよ!」

 注意は他の住人たちに取られているようで、駆け寄る俺に気がついてはいなかった。

「君! 近づいちゃだめだよ! 離れて!」

 追いついてきた彼女の父親の声を無視して俺は林田に飛びかかった。

 俺達は1つの塊になって転げ回る。体のあちこちが廊下や壁にぶつかり、皮膚が削られた。

「暴れんじゃねぇ、この大バカ! どうかしてるぞ!」

 俺は奴の手首を掴み、強くしめあげる。林田が俺の腕に噛み付いてきた。たまらず手を離す。林田が立ち上がって逃げようとしたので、俺は奴の腰に抱きついて引き倒した。林田の振り回した肘が頬にあたる。頬の内側の肉が切れて、苦い血が喉へ流れ込む。視界が回転する。林田はまだ鏡を握ったままだ。もみ合いの中で割れて、長さは最初の半分くらいになっている。それでもまだ凶器としては十分な長さだ。

 あれを取り上げなくちゃ。

 俺が林田ともみ合いながら鏡に向かって手を伸ばした時、床が消えた。視界が回転したかと思うと、体が硬いものの上に落ちる。衝撃で身体中の骨がバラバラになった気がした。2度めの衝撃の時に俺は自分と林田が階段を転がり落ちているのに気がついた。3度めの衝撃に襲われた時、俺は回転する視界の中で鏡の破片が甲に突き抜けている林田の手を見た。

 階段を転げ落ちているというのに、俺はまだあれを取り上げることに執着していた。一度強く思ってしまったことをなしにするのはとても難しい。やるべきではないとわかっているのに、その思いつきを止めることができない。俺は手を鏡に伸ばした。4度めと5度めの衝撃に襲われた後、やっと体は踊り場の壁にぶつかって動きを止めた。

 俺は林田の下敷きになっている。林田は息をしていたが、意識は失っているようだった。

 奴の血だらけの顔の左半分が俺の顔の右半分にくっついている。喉に次々と流れ込む血が内頬から流れる俺の血なのか、斜めに切れた林田の額から流れてくる血なのかはわからない。

 俺は林田の下からはい出そうと身をよじり、悲鳴をあげた。鮫にでも噛みつかれたかのように左手が痛んだ。林田の手と俺の手があの鏡の破片に貫かれている。傷口から聞こえたのが俺の心臓の音なのか、林田の心臓の音なのかわからないまま、俺は自分の意識が水に垂らされた絵の具のように薄くなってゆくのを感じた。

 林田の体が動く。瞼が下がってきてしまい、はっきりとは見えない。林田は蠢めく黒い影に見える。林田は鏡の刺さっていない方の手を俺の顔に伸ばす。薬指が後ろ向きに折れているのが見えた。目のピントがあわない。

 やめろ――唇は動いたが声は出なかった。林田の手が俺の顔に触れる。

「元に戻れ」ゴホゴホと咳き込みながら林田は言い、俺の顔を撫でた。

 意識がいよいよ遠のく。気絶出来ることを心から感謝し、目が覚めた時には柔らかくて清潔な病院のベッドにいるようにと願った。

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