俺だよ、俺、俺
俺は眠っている。
これが夢だとわかっている。
目覚めようとするが上手くいかない。
俺は暖かくて柔らかいものに包まれている。
夢の中で目を開ける。
俺を包んでいるのは水色の毛布だった。
子供が毛布ごと俺を抱きかかえている。
金髪のウルフカット。
子供の頃の林田だ。
俺は林田の実家の林田の部屋にいた。
林田は人差し指で俺の額や首の下をくすぐるように撫でた。
俺は林田を呼び、その指を掴んだ。だが喉から出たのは「キーッ」というか細い声で、 指を掴んだ俺の両手は小さく、そして毛むくじゃらだった。
俺は猿だ――なんの抵抗も疑問も感じない。だって実際にそうだからだ。
とても安心する。目を閉じる。林田が笑う声が聞こえる。手が俺の頭を撫でる。触れ合っているところから、声が聞こえた 。
こいつが人間だったらいいのに。俺の友達だったらいいのに。
声が、その願いが、体に染み込んできた。乾いた砂が水を吸うように、俺の体に声が入り込む。
俺は驚き、目を開く。林田は大人の姿になっている。
「お前は本当は一度もいなかったんだ」
俺が悲鳴をあげると、林田が俺から腕を離した。俺は毛布ごと落下する。
落下して、落下して、まだ落下する。
いつのまにか俺は人になっている。
猿から人に変わったという感じはない。俺自体は何も変わってないように思う。
アヒルとウサギのだまし絵を俺は思い出す。
俺はさっきまではアヒルで、今はウサギ。絵自体は何も変わってないのに、突然違うものになったんだ。
気がつくと落下は終わり、俺は灰緑色の水の中にいた。
ここはあの沼の中だ。
水は粘性があり、臭く、汚い。
夢だとわかっているが呼吸が苦しい。
これは夢だが、感じる恐怖に変わりはない。目覚めないといけない。
水面が遠い。だがたどり着かなければならない。
足の方の水が揺れたので俺は下を見る。底の水は墨のように黒い。その墨が動いている。何かがいるのかと思ったがそうじゃなかった。墨色の水そのものが生き物のように動いていた。その水は複雑な模様を次々と浮かべては絶え間なく形を変える。
ロールシャッハだ。模様が変わる度に違うものに見える。
鈍く光る釘の山。
ピアニカを咥えた小学生の隊列。
血を流して倒れている女性。
血を流して倒れている猿。
マンションと、その窓からのぞく人々のシルエット。
後ろ姿しか見えない若い女性。今にもふり返ろうとしている。
これは俺が恐るものだ。
墨色の水が大きく揺れる。
「お前の恐れる全てのものが、間もなくそちら側へ」
墨色の水が大きな顔になり、口の部分が開閉する。
俺は叫ぶ。
「お前は誰だ!」
「今まで一度として存在したことのないお前の過去」
何かが答えた。墨色の水が蠢く。無数の蝿の塊のように。
1つの大きな顔が無数の顔に分裂する。
「これから作り上げられる存在したことのないお前の過去」
複数の声。全てが同じ声。
「あるいはかつては存在していたがなかったことになったお前の過去」
墨色の水が大きく揺れ、煙のようにかき消えて、隠されていた水の底が姿を見せる。
俺は悲鳴をあげ、水面に向かって泳ぎだす。
生乾きの絵の具を指で潰したように顔面が崩れている男たちが水の底に立って俺を見上げていた。
あいつらが何なのか俺にはわかる。
あれは俺だ。
「俺達は全てがお前だ。恐ろしくはない。お前の元へやってくる恐怖は俺達ではない。俺達全てが恐るものだ。俺達全てがそれを目にして悲鳴をあげる。なすすべもなく俺達は恐怖に引きずられる。それがまもなくそちら側へ」
俺は上を見る。水面がぼんやりと光っている。なんとしても辿り着かなければならない。
俺の周囲に異変が起きる。俺の肌から細かい泡が立ち上っている。
「俺達は全てが統一される。俺達は水。過去は氷のトレー。俺達はトレーに入り、冷やされ、俺の形になる。どれも同じ水。どれも同じ俺。見え方だけが違うだけ。あいつが俺の固定を望む。だからそうなる。そして間も無く断絶がやってくる。俺達の恐る全てのものがそちら側へ。警告を見逃すな」
その泡は俺が水面に近づけば近くほど多く、激しくなる。
「元に戻れ」
水の向こう側から声がした。泡が激しくなる。
そこにいる無数の俺達が風船のように俺の方に浮かんでくる。そして俺に近づくと細かい泡になり、俺の体の周りにまとわりつく。周りにある泡が俺の体から出た泡なのか、俺達の泡なのか見分けがつかない。
泡は止まらない。
これはまるでお風呂の中のバブだ。
お風呂の中のバブ? 俺は自嘲する。なんて馬鹿らしい例えだ。こんな状況で。
水の底では「サイレントヒルに帰れ」的なキモくて怖い、キワいのがわさわさしてるのに。あれっぽいんだよ。ほら、あの、ほら、蓮コラ? 細かいのがびっしりある感じの、あれ。俺無理だから。俺、繊細な心の持ち主だから、ああいう粒々が密集してるの本当にもう、無理。
なんか気がついたらほとんどいなくなってんだけど、それってあいつらが泡になって全部俺と合体したってそういうことなん?
かーっ。
俺は嫌だね。夢とはいえ、ああいう思わせぶりなことを難しい言葉で言ってくるタイプの俺、超嫌い。ジェダイかよ。
はるか昔、遠い銀河で起きた悲劇の原因はだいたいジェダイがああいう喋り方するからなんじゃないの。
あーぁ。嫌だ、嫌だ! ミステリアスポエムでなんとなく場を納めるタイプのジェダイにはなりたくないね!
俺は泡をかき分けながら更に進む。泡はちょっとずつ治まり始めていた。
「元に戻れ」
また声がする。水面が揺れて、血だらけの手が水の中に突っ込んできた。
指があかん方向に折れている。
ほんっとやめろ! ちょいちょい気持ち悪いのほんっっと止めろ! 俺は繊細なんだ!
「元にもど」
「うっせぇ! 今そっちに行くからとっとと助けろ! 林田!」
俺はあかんことになっている手を掴む。
その手は俺を引っ張り上げ、俺は目を覚ました。
「アイ・アム・俺・イズ・カミングバック――目がー! 目がー! あーっ!」
勢いよく起き上がった俺は、強い光に目を刺されてムスカと化す。
「ちょっ、急に叫ばないでよ、もー。今の絶対わざとでしょ! 起きてるなら起きてるって言ってよね。吃驚してナイフ落としちゃったじゃん」
すぐ側で誰かが動く気配がする。
「あーあ。洗ってこなきゃ」
遠ざかる足音はドアが閉まる音の後に聞こえなくなる。両目を抑えながらしばらく呻き、やっと目を開ける。
まず目に入ったのは半開きになったクリーム色のカーテンだ。今さっき誰かが出ていたと示すようにカーテンはかすかに揺れている。
清潔すぎて落ち着かない柔らかいベッドで俺は上半身を起こした。
病院だ。
全身包帯とガーゼと絆創膏だらけだったが、ギブスはない。
身体中痛いが、骨折や捻挫などはしてないようだ。左手が酷く痛む。
痛いというか――。
「あっつ!」
俺は叫んだ。
あっつ! 痛い上に熱っ! 気がつかなきゃよかった! いっつぅ! いっつぅ!
俺は左手の手首を掴んで奥歯を食い縛る。脂汗が額や背中や脇から噴き出す。痛みを紛らわせようと飛影ごっこをしてみたが――痛みを感じたら『邪王炎殺黒龍波の代償だ。フッ、くだらん』と吐き捨てる超格好いい遊びだ――無駄だった。
痛いものは痛い。ちくしょう、痛い! 冷静になればなるほど痛い! ガラスは刺さるし、殴り合いになるし、転ぶし、転がるし、階段から落ちるし、最終的に鏡の破片がグッサーいった! 痛い! いた――。
「……覚えてる」
めっちゃ覚えてるぞ。俺。幾つもの別バージョンの過去を覚えてるぞ。俺。
猫じゃないやつが猫じゃなくなって、怖くてトイレに逃げ込んだことも覚えてるし、それに、林田と林田の彼女が両親を呼んで食事会したことも覚えてるし、それに。
病室のドアが開いて誰かが入ってきた。
彼女だ。彼女であり、元猫だ。
「もー。起きてるなら起きてるって言ってよね」
彼女は片手に小さなフルーツナイフを握っている。猫だった時と同じ柄の黄色いワンピースを着ているが、そのサイズは人間になった彼女のサイズに合わせて縮んでいる。
「どうしたの? 変な顔して」彼女は肩をすくめる。
彼女は俺に背中を向けて喋っている。今にも振り返りそうな姿。頬の輪郭と鼻の先がかすかに見える。髪は黒くも見えるし、茶色くも見える。光の加減で茶色く見えているだけといえばそうだし、元々茶色いのだといえばそうだ。髪は肩までしかないのかもしれない。それか、本当はもっと長いのだけど、肩から胸の方へ流れて見えないだけなのかもしれない。
俺は新しい過去の中で何度も彼女に会っているが、彼女の姿はいつもこの状態だった。それを不自然だとは全く思わなかった。林田が繰り返し変えてみせた石鹸やルービックキューブやカスタネットの変化に気がつかなかったように、俺は彼女の状態を認識できていなかったのだ。
けど今は違う。俺には彼女が見えている。はっきりとだ。
彼女は後ろ向きのまま歩いてきてスツールに座り、サイドテーブルに置いてあった林檎を掴んで皮剥きを再開した。上半身は後ろを向いているが、両腕と下半身は前を向いていた。
……怖い。
「顔色悪いよ? 看護婦さん呼んでこようか?」
「大丈夫です」
嘘です。全然大丈夫じゃないです。怖いです。
「なんでいきなり敬語使うの。やっぱ寝てた方がいいんじゃないの?」
彼女は右手をウエットティッシュで拭いてから俺の額に触れる。怖いです。
「熱はないみたいだけど休んでた方がいいよ。震えてるじゃん。私、ちょっとうちの親と電話してから丈一郎君んとこ行くからさ。この林檎は持って行っていい? 確かあんまり林檎好きじゃないでしょ? 今度蜜柑持ってくるからさ」
そうだ、林田!
「あいつ、今どこにいんの? 病室どこ? 怪我は? 無事なのか? 意識はあるのか?」
俺、あいつにお前は間違ってなかったって言わなきゃ! 俺も石鹸がルービックキューブになるのを見たっていわなきゃ!
彼女は林檎とナイフを紙皿の上に置く。顔は見えないけど、表情はわかる。変な感じだ。
今の彼女はチベットスナギツネみたいな表情で俺を見てる。
「やっぱ頭の打ち所悪かったんじゃないの? 冗談のつもりなら最悪なんだけど」
「冗談なんか言ってない! 俺、林田に会わないと!」
「丈一郎君は脳腫瘍が見つかって、ずっと入院してるでしょう? 忘れたの?」
彼女がそう言った瞬間、俺は作られたばかりの過去を思い出す。
たった今作られた数週間前。
林田は自宅で意識を失って倒れ、病院に運ばれた。
手榴弾ほどの大きさの悪性腫瘍は末期状態で手の施しようがなく、いつ死んでもおかしくないと言われたことを思い出す。
この病院の北棟7階703号室のベッドに横たわり、日に日に衰弱してゆく林田の姿を思い出す。
ついでに、俺のこの怪我は酔っ払って歩道橋の階段から転げ落ちたからだということを思い出す――だがこれは全て後付けの過去だ。
たった今、急にそうなったんだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと、行ってくる!」
俺はベッドから降り、スリッパを履いて歩き出した。
腕に刺さっていた点滴針は邪魔だから抜いた。邪王炎殺黒龍波の痛みに比べれば針を自分で抜くくらいちょっとしか痛くない!
「ちょっと、どこ行くの? まだ寝てた方がいいってば!」
彼女が俺の前に回り込む。相変わらず振り返りかけの後ろ姿だ。360度どこからどうみてもこの姿しか見えない。
林田のことだ。
「なんかいい感じの彼女が欲しい」程度の雑な願いだったんだろう。
妄想のディティールが緩いからこういう現実と解像度があってないのが出てくるんだ。
なんていうか怖い。怖いんだよ、この子。『最初は後ろ姿だったのに、見るたびにちょっとずつ振り返ってくる心霊写真』みたいな怖さだ。
「ちょっと、ほら。アレです。あの、トイレです」
「トイレなら点滴抜くことないでしょ。ねぇ、一緒に行こうか? 歩けるの?」
「平気っす。全然平気っす、お願いだから、ついてこないで。マジで、頼むから」
足早に病室を出た俺は病室の表札に目を向けた。
ホワイトボードに俺の名前が書いてある。書いてあると感じる。
でもその日本語らしき文字はどうしても読むことが出来ない。
思っていた程にはショックは受けなかった。
あれは夢じゃなかった。あれは俺の記憶だったんだ。今の俺は今まで存在したあらゆる過去のあらゆる複数の俺だ。今は全てが俺になった。
どうして突然こんな風になったのか? 林田がそう願ったから? いや、あいつが願ったのは、あいつと一緒に巨大猫もどきとキャッキャしてた頃の俺で、統合された俺じゃない。
考えられる可能性は……多分、林田の血が俺に混じったからだ。
確証はないけどそう思う。ほら、こう、血って大事ってよくいうし。何でも変えられる林田の血と、変えられる側の俺の血が混ざって、全俺のせのせ増し増しの俺になったんだ。多分。
俺は病室を離れ廊下を歩いてゆく。
上行きのエレベーターが到着したタイミングで、エレベーターホールに到着出来た。幸先がいい。電子音を立ててドアが開く。エレベーターには誰も乗っていない。真正面に取り付けられた大きな鏡に俺が映っている。
映っているけど見えず、見えないけれど映っている。
林田が言った通り、俺はだまし絵の見えていない方の絵柄だ。
見ようとした瞬間に見えなくなり、見えていないのにそこにいる。
未確認俺物だ。存在の不確かな俺だ。
エレベーターに乗り込む。
俺は全ての過去の中から一番古い過去を思い出す。
俺は小さなマンドリルの赤ん坊で、林田の家の押入れで暮らしている。
林田はお前が友達だったらいいのにと願う。林田がそう願うたびに、俺が組み替えられてゆく。ルービックキューブみたいに捻られ、回され、組み合わされてゆく。
俺は何かの振りをしているうちにどんどん何かっぽくなってしまって、最初から自分が何かであったような気持ちになってしまうところがある。
ごっこ遊びで本気のポテンシャルを発揮するタイプだ。
それはマンドリルだった時から少しも変わらないのだろう。
エレベーターが上がって行く。
あいつと話したいことがたくさんあるんだ。
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