俺には全く関係のない話

 状況に整理が付けられなくてぐちゃぐちゃしてしまった時は、昔のことからきちんと思い出して整理するのが1番いい。

 なんで林田がこういう妄想に取り憑かれたかをおさらいしよう。そうすれば何か、こいつを正気に戻すヒントが見つかるかもしれない。

 俺は目を閉じ、林田との殴り合いの末に病院に運ばれた後のことを思い出す。


 最初に思い出したのは林檎の匂いで、その匂いが芋づる式に思い出を呼び起こしていった。

 硬いシーツ。高さのあわない枕。クリーム色のカーテン。サイドテーブルに置かれた今週のジャンプ。ベッド側のスツールに座り、林檎を摩り下ろすお父さんの姿。

 そう。こんな感じだ。

「林田君の脳みそは今、きちんと動いてないんだよ」──確かこんな風にお父さんは林檎を擦りながら話し始めた。

「珍しいことじゃない。人間の脳みそはすごくデリケートなんだ。頭を強く打ちつけたり、強いショックを受けたり、あるいは急に体が成長してホルモンバランスが崩れたりすると、きちんと動かなくなってしまうんだ」

 そう。そんなことを言ってたはずだ。俺はできる限り正確にお父さんの言葉を思い出す。細かい言い回しまでは覚えてないから、多分こんな感じだろうって想像力で補いながらだ。

「林田君の脳みそは今、記憶の部分が故障してしまっているんだ。なんだっけな。なんとか症候群っていうらしいよ、ちょっと今名前を忘れちゃったけどな。記憶の一部分がすっぽり消えてしまって、そこに全く別の記憶がつなぎ合わされてしまう状態のことなんだ。例えば『水曜日』という存在に関する記憶を全部すっぽり忘れてしまう。でも1週間が7日あることは覚えてる。すると脳みそは空白になった部分を埋めようと動き出し、元々そこにあった記憶とはまるで違うものを引っ張り出してきて繋げてしまうんだ。1週間は月曜日、火曜日、カタツムリ曜日、木曜日、土曜日、日曜日、っていう風にね。そうして出来上がった記憶はデタラメで奇妙で意味不明なものだけど、本人にはその作られた記憶だけが本当の記憶になってしまうから、『みんなが間違ってる! 『水曜日』なんて存在しない! ここはカタツムリ曜日なんだ!』ってパニックになっちゃうんだよ。林田君に起きたのはつまりはそういうことなんだよ。周りがどんなに『そんなことは起きるわけがない』と説明しても、脳みそがそれを受け入れないんだ。周りが間違ってるという思いがどんどん強くなってしまって、今回みたいに大暴れするようになってしまうんだ」

 お父さんは林田の脳から『俺』の記憶が抜け落ちてしまって、その空白を埋めるために別の記憶、つまりは母マンドリルとともに動物園から脱走して以来、行方不明になっている赤ちゃんマンドリルの記憶がねじ込まれてしまったのだと言った。

「どういうこと?」と俺が聞くと、お父さんは神妙な顔をして「林田君の世界ではな。マンドリルの赤ちゃんが最終的にお前に進化したってことになっているんだ」と言った。

 あまりのバカらしさに俺は腹を抱えて笑ったが、お父さんは全く笑っていなかった。

「笑い事じゃないんだ。世の中には自分に見えているものだけが真実で、他人がどう感じるか、他人からどう見えるかを全く考えられなくなってしまう人間がいるんだぞ。それは本当に、本当に、恐ろしいことなんだ。自分と同じように相手にも感情や魂があるっていうことがわからなくなってしまうんだよ。自分以外の全員が心のないロボットとしか考えられなくなるんだ。世界に自分だけしかいなくなってしまうんだ。こういう人間はね、危険なんだ。絶対に近づいちゃいけないんだよ」

 ……こうして改めて思い返してみると、過去の出来事の別の面が見えてくる。

 お父さんは林田の病状について俺に説明していたけど、本当はお母さんとあいつの話をしていたんだ。

 子供だった俺はそんなことには気がつかず、「でも元に戻るんだよね? ずっとあのまんまじゃないよね?」とお父さんに聞いた。

「あいつ寂しがりだから、1人ぼっちになったら泣いちゃうよ。かわいそうだよ」と俺が言うと、お父さんは長いこと黙ったあとで「夏休み明けにもしもまだ林田君があの調子なら、他に友達を作りなさい。お前があの子の世界に付き合う必要はないんだ」と答えた。

 お父さんが俺の交友関係にああも強い口調で口出ししたのは初めてのことで、俺はひどく戸惑った。自分の人生が自分のわからないところで、自分のわからない理屈で流れが決められている感じがして、とても気持ち悪かったのを覚えてる。

 夏休みが終わって林田と再会した時、あいつはちょっとぎこちなかったけど、おかしくなる前の元の林田だった。

 あんなに安心したことはない。俺は「さすが医学」と胸を撫で下ろした。

 

 俺は目を開け、知恵の輪をガチャガチャと弄っている林田を見つめる。

 ……治ってねぇじゃん。褒めて損したわ、医学。

 林田が顔をあげ、俺と目をあわせる。

「見てくれ、ほら」

 林田は全く解けていない知恵の輪を俺に見せた。

「な?」

 いや。な? って言われても。

「……せめて解いてから見せろ」

 林田はショックを受けた顔をして、殆ど聞き取れないような声で「やっぱり、そうなのか」と呟いた。

「なにがやっぱりだ。この状況で遊ぶな。余裕か」

「この知恵の輪、最初は石鹸だったんだよ? 覚えてない? 知恵の輪になる前はルービックキューブだったんだ。見てただろ?」

 何言ってんだこいつ。

「林田。俺が考えを整理し終えるまで、頼むからチャチャ入れないでくれ。お前は今、まともに物事が考えられなくなってるんだよ。全部ストレスのせいなんだ」

「でも」

「5分でいいから」

 俺は目を閉じる。林田がカスタネットを叩く音が聞こえる。さっきからずっといじっててうるさい。なんであんなもん蛇口の側に置いてたんだろ。インテリアか。こう、インスタ映えとかそういうのか。オシャンティな生活してんな、この野郎は。

 まぁ、それより頭の整理が先だ。


 病室での出来事に続いて頭に浮かんだのは俺が引っ越してくる前に町で起きた、俺には全く関係のない話だった。

 俺はそれを実際に目にしたわけじゃない。

 クラスメイトや近所の人達、妹の友達のお姉さん、それにお父さんや、林田のお母さんや、林田自身から聞いた話をつなぎ合わせた結果、俺の頭の中で出来上がった「きっとこういうことがあったんだな」という話だ。

 ようするに、これは俺が世界を知るために作り上げた俺のための物語だ。

 

 俺が転入した千葉県里見の水門みなと小学校の側には広い雑木林があって、そのちょうど真ん中に私営の動物園があった。

 俺が引っ越してきた時には既に閉鎖していたけど、公園程度の大きさしかないささやかな施設だったらしい。

 元々はサーカスや牧場や他の動物園にいられなくなった動物の保護が目的の施設で「近くに小学校もあるし子供達が動物のことを学習出来る良い機会かもね」くらいの軽いノリで、後付けで動物園になったたものだそうだ。

 そこにいたのは、これから何年経っても『アド街ック天国』で特集されることはないだろうけど『日本列島ダーツの旅』であればワンチャンある田舎町にお似合いの動物達だった。

 暴力団が経営していた畜産場でハンニバルでレクターなものを食べていたという黒豚。ペットショップの看板鳥だったが誰かの悪戯で官能小説の濡れ場を暗記してしまい、買い手がつかなくなったヨウム。同じ檻で飼われていたリスザル達に毛を引き抜かれ続け、神経症になってしまったカピパラ。『ニャンちゃんに育てられたワンちゃん』として一世を風靡したものの発情期に育ての親猫を食い殺したトイプードルなどだ。

 全く楽しい気持ちにならない動物たちだ。それを見てどう反応しろっていうんだ。

 動物園に行くまでの道は近隣住人の犬の散歩ルートになっていて、糞があちこちに放置されていていたし、その糞に引き寄せられた蠅が空中を飛び交っていたので、動物園に足を運ぶ小学生はさほどいなかった。1回行ったら気がつくんだ。飛び交う蝿を追い払い、犬の糞を踏みそうになってまで、あるいは踏んでまで、見に行く価値はあの動物園にはないって。


 ある日。

 その動物園に彼女はやってきた。生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえて。

 雌のマンドリル。名前は南さん。浅倉南さん。あの南ちゃんとは何の関係もない。最初の飼育員の苗字が浅倉で、南こうせつのファンだったからつけられた名前だ。さかな君みたいに南さんは「さん」までが名前。

 赤ちゃんマンドリルにはまだ名前がついていなくて、檻の側には「素敵な名前を考えてね」と書かれた手作りの箱が置かれていた。

 小学校は大騒ぎになった。みんなが叫んだ。

「スゲェ変な猿が来た! 赤ちゃんも一緒なんだよ! 尻がすげぇの!」

 子供達は連日動物園に押しかけ、南さんが子猿を抱きしめている姿を観察した。

 その面白い姿を良い角度でみようと、檻の周りをうろちょろした。中でも子供達が熱狂したのは南さんの『すげぇ』尻と、いつも南さんに抱きついている可愛い赤ちゃんだ。

 確かにマンドリルの尻はすげぇ色をしてる。赤、青、黄色、紫、水色、ピンクのグラデーション。サーティーワンのハロウィン限定アイスにありそうな色合いだ。

 雄と比べると雌の尻のサーティワンアイスクリーム感は随分と控えめで、なんとなーく色がついてるような気がする程度なのだが、それでも子供達は南さんが尻を見せるたびに歓声をあげた。

 南さんがタイヤの山の頂上で座っていると、子供達はがっかりした。尻も赤ちゃんも見れないからだ。南さんは、尻はともかく、赤ちゃんのことは明確に子供達から隠そうとしていたらしい。

 子供達のがっかりが苛立ちに変わるのに時間はかからなかった。

「わざわざ見に来てやったのに、尻の1つも見せてくれないのか。赤ちゃんも隠すのか。こっちが悪者みたいな扱いじゃないか。生意気な猿だ」

 そういう空気が出来上がっていった。


 最初に南さんの檻の前でピアニカを弾いたのが誰なのかはわからない。

 クラスメイト達は「6年生がやったんだ」と言っていたし、6年生は「俺達がそんな子供みたいな真似するわけないだろ。5年生ならやるだろうけど」と言っていたし、5年生は「1年生に決まってるだろ」と言っていた。真実は闇の中だ。

 俺が知っているのは、誰かが「南さんはピアニカの音が嫌いで、ピアニカを弾くと赤ちゃんを抱えて飛び上がるんだ。お尻も赤ちゃんも丸見えだよ」と言い出したということと、多くの小学生が集団で檻を取り囲み、ピアニカを合奏したということだ。

 騒音で興奮した南さんが尻を振りながら檻の中で叫び声をあげ、赤ちゃんを抱えたまま落ち着きなく檻の中を歩き回るまで子供達は満足しなかった。恐らくだけど、途中から『南さんの尻と赤ちゃんを見るためにピアニカを弾く』ではなく、『パニックに陥った南さんが悲鳴をあげる様を見るためにピアニカを弾く』に、目的が変わっていたのではないかと思う。

 飼育員が子供達に注意をし、ピアニカの持ち込みを禁じても、子供達のやり口は巧妙になるばかりだった。ピアニカはスポーツバッグの中に隠せたし、子供達は飼育員が何時に他の動物の世話をしにいくのか、何時に手薄になるのかを把握していた。

 南さんは情緒不安定になり、動物園側は南さんをしばらくの間、檻に出さないようにしようと決めた。だが残念なことに、その判断はちょっとだけ遅かった。


 その日の朝。

 南さんは彼女を移動させるため檻を開けた飼育員に襲いかかり、その長く尖った歯で飼育員の顔の肉をガッサー! と持っていった。倒れた飼育員を殴打し、肩の骨を砕いた。

 悲鳴を聞いて駆けつけた他の飼育員にも襲いかかり、左手の指を全て食いちぎった。

 そして赤ん坊を抱きかかえ、逃げ出した。雑木林を抜け、小学校の方角へと。


 南さんのことは南さんのこととして。この物語にはもう1人主要人物がいる。

 根元が黒いプリン金髪にきっついパーマをかけリーゼントにし、剃り込みを入れ、ヒゲと一体化したもみあげを長く伸ばし、擦れるとシャカシャカ音を出すジャケットを着て、指先部分を切り落としたグローブをはめ、上の前歯が2本だけ金歯の、ベニチオ・デル・トロの目つきをした身長2メートル弱の男。

 彼は林田の親父さん。つまり父林田だ。

 父林田は長距離トラックの運転手兼地元猟友会の中心メンバーで「人間以外の全ての哺乳類を撃ち殺している」という噂があったが、こんなバカな噂を信じているのは町外の人間だけだった。

 町内の人間は「人間を含む」だろうと信じていた。俺もだ。今でも信じてる。

 「そういう怖そうな人に限って本当は優しかったり、お花やケーキみたいな可愛いものが好きだったりするんでしょ。逆に」みたいな、意外性のない意外性は父林田には一切ない。

 外見が超怖い父林田は中身も超怖かった。パッケージに偽りなしだ。

 例えばだ。父林田は入学式にトラックで来て、それを校庭に停めた。

 注意しに行った教師は翌日辞職届けを出し、町から去った。

 授業参観にもトラックで来て、同じことをした。

 注意しに行った教師は翌日辞職届けを出し、町から去った。

 運動会にもトラックで来て、林田のいるチームが負けそうになるたびにガンガンクラクションを鳴らし、相手チームにもっすごい怒鳴った。

 林田のチームは優勝したが、満足していたのは父林田だけだった。

 見かねた警察官が父林田に注意しに向かったが、警察官は翌日辞職届けを出した。

 そして勿論、町から去った。

 何かがあったらしいのだが、それが明るみにでることはなかった。

 酒屋のお爺さんが早朝の散歩中に件の警察官が身体中血まみれで、しかも全裸で川辺を歩いているのを見て腰を抜かしたらしいが、わかっているのはそれくらいだ。後は全てが闇に包まれている。

 本当に長距離トラックの運転手なのかどうかも闇に包まれている。仮に本当だったとしても、運んでいるのは人か、あるいは人だったもののパーツじゃないかと思う。

 父林田のトラックには重低音に強いスピーカーが積まれていて、そこからは佐野元春の歌声が常時流れていた。人食いザメの登場を観客に予感させる『ジョーズ』のテーマソングみたいに佐野元春の歌声が聞こえてきたら父林田が迫ってきているのが誰にでもわかった。

 トラックに乗っていない時は、炎と龍がエアブラシで描かれたメタリックパープルのアメ車に乗っていた。普段使いの車だ。これにも重低音に強いスピーカーを積んでいた。

 何かしらの改造を施していたらしく、その車は前輪がバウンドした。

 駐車場でバウンバウンと車を弾ませているのを何度か見かけたことがある。駐車場の持ち主らしき男が「センパーイ、もう勘弁してくださいよぉ。他に借り手いなくなっちまいますよぉ」と叫んでいるのも目にしたし、運転席から伸びてきた太い手が男の胸倉を掴み、そのままバウンバウンと車が弾んでいる様も目にした。

 重低音のリズムにあわせて男が車と共に上下するのも見た。

 ちなみに俺がみた父林田は、南さんに関する事件を経てかなり丸くなった後の父林田だ。角ばっていたころの父林田がどんなだったか、全く想像出来ない。

 そういうわけで。親達の「うちの子が林田さん家のお子さんと仲良くなったら、あの親とも関わんなきゃいけないのか」という緊張を感じ取った子供達は林田を避けた。

 林田に友達がいないのを感じ取っていた父林田は、仕事から帰ってくる度に林田の学校生活に介入した。たまにしか家に帰ってこない分、顔をあわせると気合の入った親父ぶりをゴリゴリに押してきたのだと林田は言っていた。

 親のこういうのは大抵裏目に出るものだ。

 「これがな、イケてんだよ。人気者だぜ。えぇ、おい」

 父林田は林田の髪を金髪に脱色し、後ろ髪を伸ばさせた。

 拒否権はなかった。

 結果。林田に友達は出来なかった。

 林田は職員室に呼び出されたが、その髪が父林田の意向によるものだとわかると、担任は「先生はな。1人1人、みんな違くてみんないいと思っているんだ」と言ってスルーした。

 「これがな、イケてんだよ。人気者だぜ。えぇ、おい」

 父林田は昇り竜の刺繍が入ったジャケットを林田に着せた。

 拒否権はなかった。

 無論。林田に友達は出来なかった。

 林田は職員室に呼び出されたが、その服が父林田の意向によるものだとわかると、担任は「先生はな。そういう個性的なセンス、大事だと思っているんだぞ」と言ってスルーした。

 「これがな、イケてんだよ。人気者だぜ。えぇ、おい」

 父林田は林田に飛出しナイフを持たせた。

 拒否権はなかった。

 結果。林田に友達は出来なかった。

 林田は職員室に呼び出されたが、そのナイフが父林田の意向によるものだとわかると、担任は「先生はな。抑止力としての武器って必要だと思っているんだ」と言ってスルーした。

 結局。

 林田は全然好きじゃない服に身を包み、全然似合ってない金髪ウルフカットで、何の意味もない飛出しナイフを手に、小学校生活を過ごすことになった。

 今更だが、林田がジャイアンとスネ夫のハイブリットみたいな奴なら良かったのだ。恥ずかしげもなく「パパはすごいんだゾォ」と自慢してしまえば良かったのだ。そしたらそういうタイプの友達が出来ただろうし、少なくとも小馬鹿にされることはなかっただろうと思う。

 だが林田は『キテレツ大百科』のトンガリタイプだった。

 要するに、感じの良いへなちょこだ。感じの良いへなちょこというのはつまり、嫌っても害がない奴ということだ。

 そういうわけで林田はこれでもかってくらい嫌われた。

 

 南さんが飼育員に襲いかかって動物園から逃げ出したその日。

 林田のクラスは体育の授業のため、全員が校庭に出ていた。

 先生が朝礼台の上でホイッスルを吹きながら準備体操をし、それを縦4列、横8列に並んだ生徒達が真似る。腕を前から開いて回す運動、胸を反らす運動、体を横に曲げる運動、体を前後に曲げる運動――体をねじる運動の途中で、先生が一点を見つめて動かなくなった。

 生徒達が先生の視点を追って振り返る。

 雑木林と校庭とを隔てるコンクリートの壁の上に、何かがいた。何かは壁に片手でぶら下がり、校庭側に着地する。そして両手の拳を地面につけると、生徒達に近づいてきた。

 誰かが「南さんだ!」と叫んだ時には、南さんと生徒達の距離はバスケットコートの横幅分程度しかなかった。何人かの生徒は異常なものを感じて後ろに下がったが、何人かの生徒は興奮し、喜んでいた。校庭に犬が迷い込ん出来た時のテンションだ。「マンドリルは草食の大人しい猿なんだぞ」としたり顔で逃げた生徒を笑う子もいた。

 南さんは1番派手で、目に付いた生徒に向けて走り始めた。

 つまり、キラッキラの金髪だった林田の元へ。

 最初はゆっくり。そして徐々にスピードを上げて。

 誰かが「南さんの口、赤くない?」と言ったのと、正気を取り戻した先生が「逃げて!」と叫んだのと、ターンッという音が校庭に響いたのは同時だった。

 南さんは林田から5メートル程離れた地点でつんのめるようにして倒れた。太ももの辺りから流れた血が砂っぽい地面に広がった。

 南さんは倒れたまま、水を求めるように両手を林田に向けて差し出した。

 もう一度ターンッと音が響き、南さんの体が見えない手に殴られたように震えた。頭の後ろに穴が空いていた。

 南さんはもう動かなかった。飛び散った血か、あるいは砂が目に入って、林田は呻いた。

 父林田が南さんが乗り越えてきた壁を超えて、校庭に降り立った。父林田の後ろから父林田と同じような服装の男達が何人かついてくる。

 「またぎだ」と生徒達はざわついた。猟友会とまたぎは違うのだが、生徒達は彼らをまたぎと呼んでいた。だって、またぎの方が短くて言いやすくてカッコいいから。

 彼らは長くて黒い棒をしっかりと抱えていた。猟銃だ。その場にいた生徒達の頭の中でターンッという音と、血と、動かなくなった南さんとまたぎが繋がる。

 父林田は林田の肩を掴み、怪我をしているかどうかを聞いた。

 林田が「目が」と答えると、父林田は猟友会のメンバーに「病院連れてけ」と命じた。そして林田の頭を軽く叩いてから、南さんの死体に向かって歩き出した。

 生徒達はこの時、何も知らなかった。彼らが知っているのは、なぜか姿を現した南さんが、何も悪いことをしていないのに目の前で撃ち殺されたということだけだ。

 しかし父林田は知っていた。南さんに顔をかじり取られた飼育員が病院で生死を彷徨っていることを。指を食いちぎられた飼育員に待っているこれからの日々を。それに動物園の園長から、地元の小学生の蛮行を一通り聞かされていた。

 父林田はブチ切れていた。ただでさえブチ切れていた父林田を更にブチ切れさせたのは、林田のクラスの誰かが言った「南さんが可哀想」という言葉だと、誰かが言っていた。

 彼は南さんの首を掴み、そのまま死体を引きずって朝礼台まで歩いてゆき、まだ朝礼台の上に突っ立っていた先生を視線でどかした。そして開いている方の手で朝礼台に置いてあった拡声器を掴み、校舎の窓から頭を出している全校生徒達に向かって怒鳴った。

 南さんの死体を持ち上げ、その変形した顔を見せつけながら。

「テメェら全員で殺したんだ! テメェらがこうなるべきだったんだ! クソガキ共!」

 父林田の罵倒は、他の猟友会の人たちが数人がかりで彼を朝礼台から引っ張り下ろし、「まぁまぁまぁまぁ。林田さん。まぁまぁまぁまぁ」と宥めて連れて行くまで延々と続いた。

 テレビだったらピー音でいっぱいになるような罵倒だったらしい。

 「この"不適切な表現をお詫びいたしますピーッ! ピーッ! ピーッ! ピッピー!"! お前らなんか"暴力的な表現をお詫びいたしますピッピピピーッ! ピピピーッ!" ! 最低の"差別的な表現をお詫びいたしますピーッ! ピッピッピピピーッ!"で! "過激な性差別的表現をお詫びいたしますピピピーッピ! ピーッ! ピピーッ!"じゃねぇか!」的な。

 この悲劇から生徒達には生き物を大事にする気持ちが芽生え、飼育員も一命をとりとめ、顔も奇跡的に回復し、父林田は地元の人々から一目置かれるようになりました、っていうオチなら良かったのにと思う。実際の展開は全然違かったから。

 『小学校の校庭で発砲! 問われる猟友会の倫理!』、『銃に怯える子供達!』、『なぜ麻酔銃を使用しなかったのか? 子供達に深刻なトラウマ!』などといった見出しが週刊誌を賑わせた。これらの記事を書いたのは生徒の親の1人で、ある日突然、一家でどこかに引っ越したという。誰も知らないところで何かがあったのだ。そしてそれが明るみにでることはない。

 それはそれとして。これはさすがに響いたらしく父林田は少しだけ大人しくなった。駐車場でバウンバウン車をサムデーさせたりはするが、それでも少しは大人しくなった。

 しかし生徒達は全く、全然、これっぽっちも反省しなかった。

「やりすぎたかもしれないけど、あそこまで言われることないよねー?」

「ねー?」

「麻酔銃使えば良かったじゃんねー?」

「ねー?」

「南さんのこと可愛がってただけじゃんねー?」

「ねー?」

「南さんは学校に遊びに来ただけじゃんねー?」

「ねー?」

「勘違いして撃ち殺したのそっちじゃんねー?」

「ねー?」

「あーあ。南さん可哀想ー!」

「ねー!」

 飼育員がショック状態のまま息を引き取ったことも、彼ら彼女らの「僕達、私達は悪くないもんねー?」「ねー?」の前ではなかったことにされてしまうのだ。

 そして父林田が仕事に出ると、今までは林田を遠巻きに見て「あの子のお父さん、怖いよね」と陰口を叩く程度だったクラスメイト達が、大胆に林田を虐めるようになった。

 例えば。

 ノートを破った小さな紙に『林田についてのアンケート』の文字。その下にはこう続く。

 『林田をどう思う? これだと思うところに線を引いて『正』の字を作ってね。複数回答オッケー。書いた人は前の席か、隣の席の人に回してね』

 『キモい:正正正正一』

 『ウザい:正正正正正正一』

 『死んだ方がいいと思う:正正正正』

 これが授業中に生徒の席に回り、授業が終わる直前に林田の席に投げつけられる。

 林田はメモを読まないで捨てるようになったが、そうすると今度は林田のジャポニカ自由帳が机の中から抜き取られ、その中に『アンケート』が書き込まれるようになった。

 ああいうことが起きる前に「可哀想だから止めなよ。赤ちゃんだっているんだから」とクラスメイト達に意見したのは林田だけだったし、全生徒の中でピアニカを1度も吹かなかったのも林田だけだったから、クラスメイト達は余計林田を憎悪した。いい子ぶりっ子って。

 こうして林田は学校が嫌いになり、度々サボるようになった。

 学校をサボった林田が足を向けたのは、例の雑木林だった。

 犬の糞だらけの道は通らずに、道のない林の中を歩いて時間を潰した。蚊や蠅が多いのは動物園に続く道だけで、道を外れた林の中はほとんど虫がおらず、涼しくて快適だと林田は気がついた。間もなくして、動物園から少し離れた林の中に沼があるのにも気がついた。沼の側にある大きな石に腰掛けて、その週発売のジャンプを読むのが林田の習慣になった。沼は静かで、眺めが良く、串にソーセージを刺したような形の面白い草が一杯生えていた。

 林田はそこでぼーっと過ごす。たまには石の上に寝転がって、木々の合間から見える空を見た。そこでは林田は自由だった。

 こうしてこの物語は終わる。

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