慌てるような時間

 林田丈一郎じょういちろうによる、ハイパー俺悪くないもんタイムが幕を開けた。

「俺だってまさかなーって思ったよ? また頭が変になっちゃったのかもしれないなって焦ったし! けど猫がどんどん大きくなってきてさ! 思ったんだよ! 『もしかしたら、俺の頭は最初から少しもおかしくなかったのかもしれない。俺が正しくて、みんなが間違ってたんだ』って! だって前と違って今回はお前という目撃者がいるわけだしさ! 俺はおかしくないんだっ!」

 林田は洗面台に置いてあった石鹸を手にとり、指先でいじり始めた。

「もし俺の頭がおかしくないのなら、今起きていることに全部説明がつく! 外にいるあれが何になろうとしてるのかも、これから何が起こるのかにもさ! だって、これは2回めなんだから! 1回めは、知ってるだろうけど、お前だったんだからさ!」

 目がいっちゃってる。グルグルしてる。

「お前は人間じゃないんだよ! お猿さんなんだ! 妄想じゃなかったんだ!」

 ダメだ。グルグルしてる。

「残念ながら人類だよ、俺は。一体いつから俺をそういう目で見てたんだ? いつからぶり返した?」

「あいつにお前の妹ちゃんの服を着させてあげた日。もしかしたらって思い始めてて……。だってさ、すごいデジャビュ感あったんだよ!」

 ――お前だって元は猿じゃん――。

 あー。そういえばなんかみょーな目で見てたね。俺のこと。

「じゃぁ、何か? お前はこの俺が元々はマンドリルの赤ちゃんで、ある時突然進化して、最終的にこの俺になったと言いたいわけか? 小4の時に思い込んだみたいに?」

「うん」

 ――まだ慌てるような時間じゃない――。

 記憶の底から顔を出した『スラムダンク』のキャラが顔を横に振りながらそう繰り返す。

「で、外にいるアレも間もなく人間になると言いたいわけだな?」

「うん!」

 グルグル目のまま元気一杯に頷かれた。

 ダメだ。完全に壊れてる。

「人間になった後は自分が動物だったことを忘れてると思う! お前みたいに!」

 ――まだ慌てるような時間じゃない――。

 顔を横に振る速度が上がる。俺の慌て度に首振り速度が比例している。

「お前は覚えてないかもしれないけど、でも本当にお前は元々動物園のマンドリルなんだよ!」

 ――まだ慌てるような時間じゃない――。

 いよいよ首振り速度がレッドゾーンに突入した。だが名前が思い出せない。俺、完全版もジャンプ単行本も持ってるし、黒板も見に行ったのに。ど忘れだ。モヤモヤする。喉まで出かかってんのに。せ……せん……あき……せきぐ……福ちゃ……違う。せん……あ、魚住! 

「仙道な。湘南のエース」

 ぶすっとした顔で林田が言う。

「……勿論、知ってたぜ!」

 俺は両手の人差し指で林田を指差す。ゲッツ!

 林田は無言で俺のゲッツ指を掴むと、関節を1つ増やそうとするみたいにメリメリと力を込めてきた。俺は悲鳴をあげて指を引っ込める。

「何すんだ!」

「真面目な話をしている時に別のことを考えるのやめろ! さっきそれで喧嘩したばっかだろ! 小声でぶつぶつ『慌てるような時間じゃない……せん……魚住!』とか言いやがって!」

「俺にはどの話題を真面目に聞いて、どの話題を聞き流すか決める権利がある!」

 そう! 人間には生れながらに自由意志というものが備わっており! 何人たりともそれを奪うことは出来ないのだ! パワー・トゥー・ザ・ピーポーライトン!

「まさかな、林田。まさか、十数年の時を超えて、またしてもお前にマンドリル扱いされると思わなかったぜ! あーあ、がっかりだ! お前にはがっかりですよ、林田君! なんだよ、マンドリルって!」

「お前のことだよ!」

「俺は! マンドリルじゃ! ないだろっ! 俺のどこをどう見たらマンドリルに見えるんだっ! 大昔、お前のその妄想が原因で大喧嘩しただろうが! またあれを繰り返すのはごめんだぞ! あの時は大変だったんだ! 指は折れるし、夏休みのディズニー行きは取り消されるし、変な奴用のサマーキャンプに参加させられて、夏の思い出が不穏なのばっかりになるし!」

 雪太君が焚き火に手足をもいだトカゲや、串刺しにした野鼠を投げ込んでいた様は今でも体調が悪い時に夢に見る。あの変な替え歌も。

 ヒグマがみていたかくれんぼー。弱った奴から食べてゆく。村人来たりて熊を撃つ。返ーりー討ーちー。うーまーし、うーまーしー。にーんげーんってうーまーしー。おいしいご飯だ、男は後回しー。妊婦の腹から齧って食べる。右と左に子供がいるよ。手と、足、もいだあとでも、生きてるね――っていう。……雪太君、いい奴なんだけど事件性を帯びた性格だと思う。どういうアレで小学校の先生になれたんだろう。大丈夫なのかな。彼。彼とその生徒。特にその生徒。

「なんだ。また別のこと考えてるのかよ!」

「ちょっと思い出に浸ってただけだよ! とにかく、あの時はお前のせいでほんっとに散々な夏だったんだ! でもな、俺は夏休み明けに謝りにきたお前を喜んで許しただろ! 普通あんなわけのわからない因縁つけられたら絶交パターンだからな! せっかく俺が慈悲深い心でお前とまた友達に戻ってやったっていうのに、また蒸し返すのか!」

「何が喜んで許しただ! 嘘吐き! 菓子折り持って謝りに行った俺に、いきなり殴りかかってきたじゃん!」

「『良かった!』って思った次に『このクソ野郎。ぶっ殺す!』って思っただけの話だろ! 嘘吐いてねぇじゃんよ! お前もあのキャンプに参加すれば俺の反応に納得いくはずだ! すっげー心を削られるキャンプだったんだからな! 心がバッキバキだぞ!」

「キャンプならマシじゃないか! 俺なんかこっちの病院だぞ!」

 林田は自分の頭を指差した。

「ずっと検査とカウンセリングだ! 変な薬飲まされて! 変なテストをいっぱい受けさせられて! 完全に腫れ物扱いだったよ!」

 そうだったのか。キャンプかなんかに行ったんだと思ってた。

「けど……それは、仕方ないだろ。俺がお前の親だったとしても病院連れてくよ。普通じゃないだろ、昨日まで毎日一緒に遊んでた友達を猿の化物扱いして殴りかかってくるなんて」

 俺はため息を吐く。このままだとため息の吐きすぎで肺が擦り切れそうだ。

「お前は今、こんなわけわかんない状況に置かれているせいで、ちょっと不安定になってるんだよ。ちょっと落ち着け。この状況で正気を失わないでくれ。俺だって今、いっぱいいっぱいなんだから」

「俺は100%正気だし、安定してるし、落ち着いてるよ! 俺はおかしくなんかない! 俺は間違ってなんかないんだ! どうしてみんな俺ばっかり変人扱いするんだ!」

「林田、いいから」

「あの時だってそうだよ! 医者と親が結託して俺を丸め込もうとしたんだ! 夏休み中『君の記憶は間違いだ。妄想と現実の区別がつかないんだ。君の記憶は本当じゃない。君が記憶だと思っているものはただの思い込みなんだ』って言われ続けるんだぞ! 俺がどんなにお前が」

 林田は俺を指差す。

「化けマンドリルで、人間の振りして、俺以外のみんなを洗脳しているんだって言っても、誰も聞きゃしない!」

「そりゃぁ、そうだろうよ! 俺、生まれた時から人類だからな!」

「お前がそう思い込んでるだけなんだ! 気持ちとしてはあれだよ! ほら、あの、ほら」

 林田は何かを握りこむように右の拳を丸め、目に見えない何かを叩くように上下させる。

「ヘェロォォー! チャッキィィィー!」林田は喉を潰したダミ声で言う。

「……『チャイルドプレイ』?」

「そう! それ! あのキモい映画!」

 俺、あの映画好きなのに。

「それ、人形の名前がチャッキーで、男の子の名前はアンディだからな」

「どうでもいいよ、あんなキモいの!」

 俺、あの映画好きなのに。シリーズ全部好きなのに。

「あれってさ、人形が人を殺して回ってるって気がついた主人公が、周囲の大人に頭がおかしい子扱いされて精神病院に連れてかれちゃうだろ? 気持ちとしては完全にアレだよ!」

「……つまり、この俺はお前の命を狙うチャッキー人形だったと。お前的には」

 林田は頷く。頷くな。

「誰も信じてくれなかった! 本当のことを言えば言うほど、薬の量も入院期間も増えた。だから嘘ついて退院したんだ。『俺が間違ってた。あいつはマンドリルじゃない』って」

 お前が間違ってるよ。俺、マンドリルじゃねぇもん。

「じゃぁ、なにか。お前は今までずーっと俺のことそういう目で見てたの? ずっと?  10年以上も、お前は俺を『人間じゃない。マンドリルだ』って思いながら接してきたわけ?」

「いや、ずっとじゃない! ずっとじゃないからな! ただ、退院した後はまだお前を疑う気持ちが強かったから、その」

 林田は言葉を濁す。

「何? 疑う気持ちが強かったから何だよ?」

「……時々、下駄箱の中にバナナを入れておいて、反応を見ていた」

 林田ゴン、あれはお前だったのか。

「それから、下駄箱の中に発情期の雌猿の写真を入れておいて、反応を見ていたりもした」

 お前だったのか。

「お前が正体を現すんじゃないかと思って」

 バツが悪そうに林田は言う。

「……それさ、お前に相談したよね? 誰かが俺の下駄箱に変なの置いていくから怖いって。相談してたよね、俺。お前、めっちゃ親身になってくれたよね? 職員室に一緒に行ってくれたりもしたよね? 下駄箱を見張ったりもしたよね? それ、お前がやってたの? お前が犯人なのに、怯えている俺の相談を、親身に聞いてたの?」

「うん」

 ひぃっ。

「なんだその被害者を最前列で見つめていたい的なのは! 怖ぇよ!」

「うるさいな! 切羽詰まってたんだよ! 俺の方がお前のこと怖がってたんだからな! いつ正体を現して、猿の化け物になって襲いかかってくるかわかんねぇし! かといってお前から逃げればまた病院に連れ戻されるだろうし! 俺は俺で戦っていたんだ! お前と2人きりになる時は常にクリップをつなげて作った鎖帷子を服の下に身につけていたし、ポケットにはもしもの時のためにナイフを入れてたけど、それは全部自衛のためだ!」

「サイコとバカの合わせ技か! 笑い飯みたいなことしやがって! ナイフって! ナイフってなんだよ!」

「刃物だよ! こう、これくらいの長さの! 切ったり、刺したりする鉄の!」

「知ってるよ! そういうことじゃねぇよ! なんでナイフ持ってんだって話だよ! 何を切ったり、刺したりするつもりだったんだ! 俺をか? 俺が対象か?」

 林田は黙り込んで目線を反らした。

「黙んなよ! 怖ぇーだろうがっ! あのな、お前の言い分は、事件を起こした奴が精神鑑定狙いで弁護士通して発表するタイプの声明だぞ! わかってんのか! 『相手は猿人間なので殺さなければならないと思っていた。ナイフは自衛のために持っていた。今は反省している。被害者のためにも、社会復帰して償いたい』系の、そういうのだぞ!」

「だから最後まで話を聞けって! そうやって過ごす内にお前に慣れてきたんだってば! 『本当に俺の勘違いだったのかな?』って思うようになったんだよ! だって、お前……なんか普通なんだもん! 普通にすっごい『前から友達だよな』って距離感で俺の周りにいるんだもん! 本当は1度もいなかったくせに!」

「そりゃ、普通なんだから普通に決まってんだろ」

「普通に俺ん家きて『ペルソナ2』やっては帰り、また俺ん家きて、『ヴァルキリープロファイル』やっては帰り、また俺ん家きて、『サイレントヒル』やっては帰り、また俺ん家きて『トルネコ』やっては帰りだったじゃん! 人ん家きて1人用ゲームのレベル上げしてくって普通だけど、普通の中でも嫌われる普通だからな!」

「家でやってると妹がリセット押したり、コンセント抜いたりして邪魔してくんだよ! 1人っ子にはわかんねぇんだ! そういう苦労が!」

「とにかく! お前がそんなだから、俺も俺の頭がどうかしてるのかもって思うようになってったんだよ! 念には念をで、しばらくは隠れてお前のこと、観察してたけど」

 まだ俺の知らない犯行があるのか!

「一体幾つ余罪があるんだ! クソ! 吐け! 全部吐けこの野郎っ!」

「お前が『ぬーべー』のエロい回が載ってる単行本だけを図書館裏の使ってない倉庫の影に隠すのを見たり、誰もいない教室でキレッキレのポーズで想像上のブルーアイズホワイトドラゴンを召喚してるのを見たり、帰り際に傘で牙突の練習したりしてんのを見てる内に、真剣にお前を警戒してるのバカバカしくなってきて」

 クッソ。どっから見てたんだ、この野郎っ。

「それで『みんなの言う通り俺の記憶は偽物なんだ。忘れよう。こんなバカが化物のわけないや』って思うようになったんだよ!」

「お前、どんだけ失礼なんだよ!」

「猫がああなるまでは、マンドリルのことなんて『そういえばそんな思い込みもあったな』くらいに思ってたし。あ! でも、今は! お前のこと! ちゃんとマンドリルだってわかってるから! お前がそれを覚えてなくてもな!」

「あああああもおおおおっ!」

 俺は立ち上がり、林田の頭を思いっきりひっぱたいた。

「お前の話を聞いてると脳みそがぐちゃぐちゃしてきて、気持ち悪くなるっ! もういい! 十分だ! 俺が考えを整理するまで、お前は黙って座ってろ!」

 林田は頭を撫でながら「もうそんなに時間がないし、俺の考えが正しいなら、何をしても全部無駄なんだ」と言った。

「黙ってろ!」

 林田はふてくされたように唇を尖らせ、手の中のルービックキューブをくるっと回した。

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