あかんやつ

 人なのか猫なのかもわからないものが部屋に入ってくる。

 奴が足を踏み出すと水を含んだ毛がフローリングの上で潰れて音を立てた。

 視線を下げる。

 奴の足が見える。膝頭が膨らんでいる。指もある。

 視線を上げる。

 ヘッドライトサイズの目が俺を見下ろしている。白目の部分が広がっている。

 あれは人間の目だ。奴が笑う。歯が増えている。丸い歯。人間の歯茎。

「なう」

 数日前と同じように奴の手が俺の顔を叩く。濡れた毛が顔に張り付く。

 肉球がない。濡れた毛の中に人間の掌がある。生暖かい。

 奴の指先が毛ごしに頬を撫でた。

 これ、あかんやつや。


「これ、あかんやつやー!」

 一歩早く硬直がとけた林田が叫んだ。

 俺も体の自由を取り戻す。

 林田の手を掴み、人類最速の男ウサイン・ボルトとなって玄関に向かって走り出した──つもりだった。恐怖のあまり足がもつれる。腰を抜かさずに歩くだけで精一杯だ。水の中にいるみたいにのろっちく進む俺たちの横を、元猫もどきが淀みない足取りで通り過ぎ、バスルームへと消えてゆく。

 尻尾が俺の腰を掠めた時、心臓が止まるかと思った。鮫とすれ違ったダイバーの気持ちだ。

 お互いを引っ張っりながら俺たちは進む。体は思うように動かない。

 林田が泣く。俺も泣いてる。

 バスルームから足音が戻ってくる。バスルームからリビングに。リビングから廊下に。俺たちのすぐ後ろに。

「なう」

 毛で覆われた手が林田の肩を軽く叩く。

「イーッ!」

 林田は悲鳴を上げながら体を傾け、そのままトイレのドアにぶつかった。あのバカ、失神しやがった。

 俺は慌てて後ろを向き、廊下に崩れ落ちそうになっている林田の体を抱きとめる。

「イーッ!」

 奴の姿をばっちり見てしまった。濡れて色が濃くなった毛がバナナみたいに房になって重なり、先端から水滴が床に垂れ落ちている。男の体から男らしさを、女の体から女らしさを抜き取った体が、濡れた毛の下で呼吸していた。幸い、バスタオルで顔は隠れている。

「なう」

 幸いは去った。奴はバスタオルを乱暴に動かし、濡れた頭を拭き始めた。

 バスタオルの隙間から奴の顔の一部分だけがチラチラと見える。

「あかんやつやー!」

 俺は叫び、林田の頭をバチコーンと引っ叩いた。林田は意識を取り戻し、俺の視線を追って後ろを向いた。

「あかんやつやー!」と、林田も叫ぶ。

 関西に行ったことはないが、世の中には関西弁じゃないと表現出来ないタイプのあかんものが確かにあるのだ。

 俺はトイレのドアを開け、林田を引き摺るようにして中へ逃げ込んだ。

 ドアを閉める。鍵をかける。ドアノブが左右に揺れる。

「なうー、なうー」

 ミモーとマモーの音程で奴が言う。ノブの揺れが激しくなる。

「あかんやつやー! あかんやつやてー!」

「なう」

 奴がドアに体当たりする。水が飛び散る音がする。

「なう」

 もう一度。

「なう」

 もう一度――からの静寂。

 何の音もしない。何の音も。あいつが歩き去る足音もだ。

 そっとドアに近づき、耳をくっつけて何か聞こえないか探る。

 水が落ちる音が聞こえた気がしたが、恐怖のあまり俺の頭が作り出した音かもしれない。頭の中の想像の音か、本当に向こう側から聞こえている音なのか、判断がつかない。

 ドアノブが今にも外れ落ちるんじゃないかと思える程に激しく揺れた。

「ヒイーッ! ヒィイーッ!」

 反射的にドアノブを握る。手の中でノブが暴れる。

 ドーンっとドア全体が揺れる。奴がドアに体当たりしたのだ。

「ちょ、も、ちょ、やめ、やめてー! やめんしゃい! やめんしゃーいっ!」

 音が止む。静かになる。今度こそ、完全に。

 あらゆる種類の汁を顔から噴出させながら、俺たちは泣いた。この種目でなら織田信成に勝てるくらい泣いた。顔面ナイアガラ男子ペアフリー。

「……何あれ怖い」

 混じりっけのない素直な気持ちを口に出すと、「うん、うん」と林田が頷く。

 林田はトイレットペーパーを引っ張り、あらゆる汁でぐしゃぐしゃになった顔を拭う。

 またしても巨大な濡れたティーバッグをぶつけたような音がドアから響いた。

「イーッ!」

「なう?」

 俺は震える人差し指を口の前に立てて、「イーッ!」ではなく「シーッ!」と言う。

 林田は両手で自分の口を塞ぎ、悲鳴をこらえる。俺も両手で自分の口を覆う。

 また濡れたティーパックの音。奴の手が――もう前足じゃない。手だ――ノックする音だ。

「なうなう? なーう?」

 ガンッとドアが揺れる。奴がドアを蹴っ飛ばしたのだ。足グセ悪い。

 なうーっと不機嫌に唸る声と足音が遠ざかって行く。

 俺は音を聞き逃すまいとドアに耳をくっつける。

 リビングに続くドアを開ける音。濡れた足音。そしてテレビの音。

 ――マベイベー・ダザ・ハンキパンキー――ドゥダダダン――。

 この曲は――。

「……今日は『さんま御殿』の日だったか」

 『さんま御殿』の陽気なオープニング曲を聴きながら、俺は額ににじみ出た汗を拭う。

「今のうちに玄関までダッシュするか?」と林田が聞いてくる。

「そうだな……」

 トイレから玄関まで一気に走れば、仮にあいつがリビングから追いかけてきたとしても逃げきれ――脳裏に宗教団体から全力で逃げる俺達の前を、後ろ向きで笑いながら走っていたあいつの姿が浮かぶ。

 ……。無理だ。絶対に途中で捕まる。

 ドアの向こうから聞こえてくる『さんま御殿』の観客の笑い声にバカにされているように感じた。

「まずはそーっとドアを開けて、様子を伺ってみるっていうのはどうだろう? あいつがリビングから出てこなそうなら、そのまま行っちゃおう。もし出てきそうなら、もうちょいここに閉じこもってよう。そのうちまたアケボノポーズでいびきかき始めるかもしれないし。寝たら起きないだろ?」

 俺の提案に林田は頷いた。それから、小さく首をかしげる。

「それで、どっちが様子をみるために、こっから出てくの?」


 俺達の運命をかけたじゃんけんデュエルが、今、始まる。

 

 「私は断固抗議します!」

 俺は力強く言った。

 今。ここはアーバンリゾートシーサイド豊洲の13階の1室のトイレじゃない。

 ここはアメリカの超格好いい法廷で、俺はアメリカの超格好いい弁護士だ。俺は上半身裸で縁の部分に醤油の染みたジーンズを履いているような格好はしていない。トム・フォードとか着てるんだ。

「いいから早く行けよ」

「何を持って勝ちとするのか、定義が曖昧ではありませんか!」

 ゲイやエイズへの偏見に負けずに裁判を戦い抜いたトム・ハンクスこと、俺!

「いいからやれってば」

「相手を破壊すれば勝ちだと彼は主張しますが、それは真の勝利とは言えないのです!」

 巨大企業相手に史上最高の和解金を獲得したジュリア・ロバーツこと、俺!

「やれってば」

「例えば私のパーが意味するのがただの紙ではなく、基本的人権を記した文書、リンカーン的な文書だとしたらどうだろうでしょう?」

 恋にも仕事にも一生懸命、キュートな弁護士、アリー・マクビールこと、俺!

「やれ」

 トリッキーな手腕を見せつける俺カーン弁護士こと、マシュー・俺ノヒーこと、俺!

「確かにミスター・林田のチョキことハサミはリンカーン的な文書をプリントしたA4サイズの藁半紙を切り刻むことが出来るでしょう! しかし、それは勝利と言えるのでしょうか? こんな粗末なハサミで」

 俺は指でチョキを作る。

「人民の人民による人民のための合衆国を、星条旗の精神を、切り刻むことは決して出来ないはずです! こういった暴力的な行いは我々の自由への闘志を燃え上がらせるばかりではありませんか! つまり、チョキがパーを切り刻んだ時点で、大きな目で見ればチョキの負けなのです!」

「やれ」

「陪審員の皆さん、外を見てください!」

「俺しかいねぇからな」

「見えますか? 裁判所を取り囲む人々が! 彼らが掲げているプラカードが! リンカーン的な文書の文字が書かれた、様々なプラカードが! あれぞ紙です! ハサミでは切り刻むことが出来なかったパーです!」

「あのさ、怒るよ」

「ジョンとレノンも言っていたではありませんか! パーの『パ』は、パワー・トゥー・ザ・ピーポーのパだと!」

「なんでジョンとレノンにわけてカウントした」

「パワー・トゥ・ザ・ピーポー! パワー・トゥ・ザ・ピーポー! パワー・トゥ・ザ・ピーポー! パワトゥザピーポーライトン!」

「……そぉぃっ!」

 林田のグーが真上から降ってきた。俺は殴られた頭を抑えて呻く。

「まだグダグダ言うようなら、次はこれで目玉をガッとするからな!」

 ワイルド・ワイルド・ウェスト皺のペケペケパー林田が構えたチョキを俺の両目に向ける。勝ったからって調子に乗りやがって。俺が日本人初のアメリカ大統領になった暁には軍産複合体とCIAの本気を思い知らせてやるからな。

 俺は渋々ドアノブを握り、ドアに耳をくっつけた。

 耳覚えのある引き笑いが聞こえる。番組本編放送中だ。CM中じゃなければ奴はリビングから出てこないだろう。

 ……音量デカいな。まぁ、これだけ音がデカければ、俺達がトイレから出て行く音が聞こえないだろうから願ったり叶ったりなんだけど。

 張り詰めていた緊張の糸が少し緩む。どうやらあいつの知能はそんなに高くないようだ。

 イケる気がしてきたぞ! どんなにでかくても所詮は畜生だ!

 俺は意を決してトイレの鍵を開ける。カチッという金属の擦れる音が妙に大きく聞こえた。ドアの隙間から頭だけを出して、リビングに向ける。

 幸い廊下とリビングを仕切るドアは開きっぱなしだったのだが、ここからだとソファーの背もたれとテレビの端っこまでしか見えない。

 もしも奴がいつも通り床に寝転がってテレビを見ているとしたら、この位置からではソファーに隠れて姿を確認出来ない。近づいていって部屋を覗き込むしかない。

「どう? いる?」

 林田が小声で聞いてくる。

「わかんねぇよ。こっからだと見えない」

「きっといつもみたいに寝転がってるんだ。CMが始まらないうちに逃げよう」

「わかった。じゃぁそっとだぞ。そっと行こう」

 俺は頷き、玄関側に顔を向けた。

「なう」

 手を伸ばせば触れられる距離に奴が立っていた。驚きのあまり手がノブから滑り落ちる。

 奴の手がドアの外側のノブに向かう。体が動かない。

「ボーッとすんな!」

 林田が俺の肩を掴んで後ろに引っ張り、身を乗り出して内側のノブを掴んだ。

 外側と内側でドアの引っ張り合いが始まる。

「なう? 林田? ななななーう」

「いつまで固まってんだ! 手伝えって! 早くっ!」

 林田に怒鳴られ、俺は慌ててドアノブを握った。隙間から奴の肩が見える。腕が見える。胴体。足。顔の半分。ピンク色の可愛い鼻はなかった。毛に覆われた人間の鼻があった。

「もぉーいやだぁーっ! きーもーちーわーるいーぃぃーっ!」

 2人がかりでドアを引っ張ると、隙間が徐々に細くなっていった。

「なうなうなう」

 ドアが閉じた瞬間に、林田が素早く鍵を掛けた。吐き出した息が熱い。

 ドアは蹴られ続けているが、このドアは蹴破られる程薄くないし、あいつの脚力もそこまでは強くないようだ。俺達は振動し続けるドアから離れる。ドアノブが何度か揺れ、止まる。

 向こうから「なぁーう」という大きなため息が聞こえてきた。

 足音がリビングの方へと移動してゆく。少しするとまたテレビの音が大きくなった。

 本当にテレビを見ているのかもしれないし、この音で足音を聞こえないようにして、またドアの前に戻ってきているのかもしれない。はっきりとわかるのは......。

「頭いいじゃねぇかクソがぁっ!」

 俺はがああっと呻き、便座に座る。

 ズボンのポケットを叩いてみる。叩いたところでスマホは出てこない。わかってる。ジャケットのポケットに入れっぱなしだ。痛恨のミス。

「スマホ持ってるか? もう俺達だけじゃどうにもならない。警察を呼ぼう!」

「持ってないよ。ソファーの上に置いてきちゃった」

「クソッ!」

 俺は天井を仰ぎみる。普通のアパートなら壁を叩いてお隣に助けを求められるけど、生憎ここは普通のアパートじゃないし、お隣も、上の階の人も、下の階の人もいない。っていうか、俺たち以外ほぼ誰もいない。

「お前さ! なんでこんなとこに住むんだよ!」

「今更それ言うのかっ! こんなことになると思ってなかったんだから仕方ないじゃないかっ! 安いし、駅近いし、豊洲なんだぞ! 豊洲! 多少のことには適応しないと!」

 林田は便座の真正面にある洗面台の縁に腰掛ける。大きな鏡に林田の背中が反射した。

 このトイレは、アメニティがロクシタンの石鹸だったりするようなお高いホテルのトイレみたいな作りになってる。大人2人が床に寝転がれるくらい広いし、林田が今腰掛けてる洗面台は黒くてテカテカしたお高い石で出来ている。

 アーバンリゾートシーサイド豊洲は、成城石井で値段を見ずに買い物する人向けのマンションだ。海外旅行にパリやロンドン、ハワイではなく、クロアチアに行くような、あるいは夜中にシタールのレコードとか聞いてる系のそういう人たちのための住居。

 この規模のそういう系のマンションにしては家賃が破格中の破格なのだが、林田以外に長期に渡って住んでいる人がいない。

 このアパートの大家兼管理人が金と権力とコネを持った親の元でぬくぬくと自由奔放に育った、行動力だけはあるクソ変態クソバカ死んじまえクソ野郎であり、冗談抜きで全国民が「こんな奴、税金で養いたくないからさっさと死刑にすりゃいいんだ」と顔を歪めるような事件をここで、そう、まさにここで起こした挙句、親の金と権力とコネによって数十名の――もしかしたら数百になるかもしれない――被害者の遺族達にカメラの前で「法はいつも加害者を守るんです!」と唇をかませる勝ち逃げエンドをもぎ取ったからだ。

 つまりこのアパートの全ての階の全ての部屋が、なんというか、何かしらの現場だ。この部屋もそうだ。ブラックライトみたいなので部屋を照らしたら、多分、こう、飛び散った血の跡とかが、こう、プラネタリウムの星空かな? ってくらい浮き上がってくると思う。怖くてやったことはないけど。

 世間的には大家兼管理人はアメリカの金持ち用療養施設にいるということになっているが、普通にここに住んでる。この間も中庭掃除してんの見かけた。報道されてた時とだいぶ顔違うけど、間違いなくあれだ。

 俺はぐずぐずと涙を拭っている林田を見つめる。

 なぜ。

 平気で。

 住めるのか。

 俺は金払ってでも住みたくねぇ。こんな21世紀の死の館。

「お前って環境に適応するの得意だよな……ちょっとどうかと思うぞ」

 林田は鼻の下に練りワサビを塗られたような顔をした。

「適応しなきゃ頭のおかしい奴扱いされて、また病院に連れ戻されるじゃんか。このマンションにも、猫にも、それにお前にも、俺はちゃんと適応してきたんだ」

「いや、マンションと猫もどきと俺をなんで同列に……」

 俺は林田の言葉と、その鬱々とした声のトーンが意味するところを考える。

 ……。

 ……嫌な結論しか出てこない。

 鏡の中の俺は鼻の下にカラシを塗られたような顔をしていた。

「………まさか、アレがぶり返したのか?」

 林田は答えない。否定もしない。まさかか。まさかなのか。このタイミングで。

「ちょっと待て。勘弁してくれ。この状況で余計な面倒を増やさないでくれよ」

 俺は髪をかき回す。

「林田、お前もういい大人だろ。いい加減、妄想と幻覚と現実の区別をつけてくれよ。いいか、俺はな、人間だぞ。お前の頭の中でどうなってんのかしらねーが、俺は人間だ。マントヒヒじゃないからな!」

 俺は片手で顔を覆う。すんごい肩が重い。背中が折れそうだ。

「マントヒヒじゃないよ。マンドリル」

「知るか。猿は猿だろ。お前はガキの頃みたいに俺を猿の化け物だって思っているわけだ!」

「猿の化け物だとは思ってないよ。ただ」

 林田は何回か口を開けたり閉めたりしてから言う。

「ただ、元々は俺が隠れて飼ってたマンドリルの赤ちゃんが、進化してお前になったんじゃないかなって」

 俺は両手で顔を覆う。もぉー。


 林田が狂った。小学校の時みたいに。


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