時にはショッカーの声で

 「先日はららぽーとにて、軽率にはしゃぎ過ぎてしまったが為に、あのようなディザスターを引き起こしたことを大変申し訳なく思っております。私には昔から楽しくなると歯止めが利かなくなる悪癖がございまして、再三の林田様の『そこまですることないって。もうお家帰りたい』の制止を振り切ってしまったのも、この悪癖が原因でございました。今後はこのようなことがないように努めますので何卒よろしくお願いいたします」的な長々とした畏まった謝罪の後に、ちょっとしたユーモアで高田純次の『気づいちゃった? そう言い訳だよ』スタンプを付け足したのが、林田の逆鱗に触れてしまったのだ。


 「なぜ高田純次! 送ってきた! なぜ!」

「……ユーモアがあった方がいいかと思いまして」

 LINEやり始めのころにテンションの赴くままに買ったはいいけど、完全に持て余していた音声付き高田純次スタンプを使うチャンスがついに巡ってきたのではないか? という興奮が背中を押していたのも多少ある。

「真面目な話してた! ユーモアいらない! なんで高田純次! 今まで一度も! 俺とお前の間で高田純次の話したことない! なんで高田純次! 突然の高田純次! 高田純次を俺に送っていい場合は俺が高田純次のすっごいファンだった場合だけ! 俺、違うでしょ! 俺、高田純次の話したことないでしょ! バカか!」


 林田からの「今すぐ! 俺の! 家に! 来い! 説教だ!」電話に召喚された俺は、かれこれ小1時間、「お前はいっつもそーな! 俺の感情を軽く流そうとするよな! もっと真剣に俺の気持ちを考えたらどうなんだ!」と怒られ続けている。

 ららぽの件は2日も前の話だし、電話でもメールでもラインでもツイッターでもフェイスブックでもずっと謝り続けているんだから、いい加減怒りを収めて欲しいし、ブロックも解除して欲しい。リア友ブロックってちょっとひどすぎると思う。

 ……まぁ……怒りが収まりかけたところで俺と高田純次が再度、林田を爆発させてしまったわけだから自業自得なんだけど。いや、俺の責任が3割で7割は高田純次かな。……いや、俺が2割。純次が8割。……俺1、純次9。これだな。これだわ。納得の結論。

 向かい側のソファーに座っている林田の眉間の皺はV字型を通り越し、W型を通り越し、WW型をも通り越して、いまだかつて見たことがないWWW型へと進化していた。

 ワイルド・ワイルド・ウェスト皺。

 そうだ。ワイルド・ワイルド・ウェスト皺と名付けよう。

 本編は見てないけどウィル・スミスが『ペケワーワー、ペケペケワー、ペケワー、ペケペケーワーワーウェイ、ワーワーウェイ』って言ってるミュージックビデオは覚えてる。あの超格好いいやつ。

 ワーワーウェイ、ワーワーウェ――。

「お前、また別のこと考えてるなーっ!」

 林田がテーブルを叩き、俺をうろ覚えのパンクな西部劇世界から連れ戻す。

 頭の中の俺・スミスがベルトのバックルを超格好いい角度で抑えながら、超格好いい男たちを超格好良く引き連れてワーワーウェイって歩いてる途中だったのに。気持ちいいところだったのに。

「なぜ! 真面目に! 話し! 聞けないかっ!」

 怒りが林田の言葉から接続詞を消す。新しい方『猿の惑星』のシーザーみたいだ。

 エイプス! ドゥーノッキル! エイプス! ニンゲン! シーザー! ウッタ! テキ!

「また! 別のこと! 考えてる! 顔! みれば! わかるんだよ!」

 2発めの拳がテーブルに炸裂し、林田の怒りを宥める為に持ってきた築地銀だこの箱がジャンプする。

 ハヤシダ! ドゥーノットイート! テリタマ! ニンゲン! タベモノ! ソマツニスル! ニンゲン! テキ! マタギ! オレノカーチャン! コロシタ! ユルスマジ! ニンゲン! ……猿の惑星にマタギって出てきたっけ?

「真面目に! 聞いてるか! お前!」

「あ、はい」

 林田は見えない何かの高さを測るように右手を高く掲げる。

「これ! 元々の! お前の! 信用!」

 林田は頭上に掲げていた手をおでこのあたりまで下げる。

「これ! お前! 『いいね』! 思ってないのに! 『いいね』! 押した! 信用! 下がる! ここ!」

 まだ根に持ってんのかと思ったのが顔に出たのだろう。林田は手を顎のあたりまで下げて「ここ! お前! 態度悪い! もっと下がる! わかったか!」と怒鳴る。

「お前! ららぽーと! 入った! 俺! 反対した! お前! 楽しくなる! お前! 忘れる! 引き際! 節度! 羞恥心! お前! 昔から! 楽しいと! 他! どうでもよくなる! やりたいこと! やり放題! 信用ここ! さがる! 底抜け!」

 更に林田の手が下がる。お前だって途中から楽しそうだったじゃんと反論したくなるが、感情が荒ぶっている林田と話し合いをしようとすると酷いことになるのを、実体験から思い知っているので口を閉ざしておく。


 そう。あれは忘れもしない1998年。小4の夏。

「あ! お前! また! 別のこと! 考えてる!」

 何の予兆もなく、林田が俺に対して攻撃的になったのだ。

「聞いているのか! お前!」

 遊びに行っても居留守を使うし、ひどい時は窓から石やら文鎮ぶんちんやらすずりやら、小学生が持っている殺傷能力の高いものを投げられた。

「その目! やめろ! 過去! 思い出してる! 懐かしい目! やめろ!」

 学校で話しかけようとすると椅子やコンパスを投げつけてきた。酷いもんだ。

「心ここにあらず! 心ここにあらずか! お前!」

 先生や親は「喧嘩したの?」と心配して聞いてきたけど、俺も何が原因でいきなりああなったのかわからなかったので「よくわかんない」としか答えようがなかった。

「お前! なんで俺! 無視する!」

 林田は俺が近づくと逃げるくせに、いつも遠くから俺を睨みつけていた。あいつは俺の動向を常に探っていた。

「お前! 話! 聞け!」

 それだけじゃない。林田は俺の悪口をあちこちに言いふらしていた。やれ俺が人間に化けた猿だとか、やれ俺が超能力でみんなを洗脳しているだとか、俺と友達だったことなんか一度もないだとか……。

 当時のあいつは完全にクラスで孤立していたので、あいつの言いふらす俺への悪口は広がらなかったし、逆に林田の方が「あいつ頭おかしいんじゃないか」扱いになって更に孤立していっていたけど、引っ越してきたばかりの町で出来た1番仲の良い友達に突然意味のわからない敵意をむき出しにされて、俺はかなり傷ついた。

「聞こえてるか! お前! 俺! 声! 聞こえてるか!」

 傷ついた後は腹が立った。俺のことが嫌いになったなら嫌いになったで、理由はちゃんと言うべきだと思ったし、絶交するなら絶交するで、悪口を言いふらしたりしないのが筋だと思った。

 『けじめをつけないと』と思った俺は、あいつがクラスのボール当番の日に勝負に出た。

「お前! いい加減に! しろ! 殴るぞ! 本当に殴るぞ! この野郎!」

 ボール当番は持ち回り制で、放課後に体育倉庫にあるバスケやバレーやサッカーのボールを磨き、紛失してないか数えるのが役割だった。つまり放課後、林田は倉庫で1人になる。

 だから俺は体育倉庫内、入り口の側にる跳び箱の陰に隠れて林田を待ち伏せした。

 喧嘩をしようとしたわけではなくて、話し合うためだ。

「もしもし! もしもし! おい! 反応しろ! 反応しろ! おい!」

 やがて林田がやってきて、ボールの並んでいる倉庫奥に歩いて行った。俺は素早く跳び箱の陰から出て、体育倉庫唯一の扉を閉め、ついでに鍵もかけた。

 で、吃驚して振り返った林田に向かって言ったわけだ。「もう逃げられないぞ!」って。

 その後はもう悲惨としかいいようがない。林田は手がつけられない興奮状態になり、俺の話を聞こうともせず殴りかかってきた。

 俺は怒って殴り返し、林田も殴り返し、俺はまた殴り返し……。暴力が連鎖反応を起こして、子供の喧嘩と呼ぶには躊躇われるようなレベルの喧嘩になった。

「聞こえてるのに! 無視してるな! お前!」

 駆けつけてきた先生達が窓を割って倉庫の中に入り、興奮した俺たちを取り押さえて喧嘩は終わりを迎えた。窓ガラス2枚、跳び箱1つ、3角コーン3つ、蛍光灯2つ、得点ボード1つ、各種ボールそれぞれ2個ずつが犠牲となり、俺は右手の第3、第4、第5中手骨を骨折し、林田は左の奥歯が粉々に砕けた。2人とも身体中に粉々に割れたガラスが突き刺さって、膝や腕のあちこちの肉がべろっとなっていた。大惨事だ。

 俺と林田の家族は互いに『うちの倅が大変なご迷惑を。何卒、チャンスを与えてやってください』と土下座しあい、結果、俺は夏休みの間中、ユニークな子供達が森の中のバンガローで同世代の子供達と共同生活を営み、友情の大切さを学ぶ場所こと、『ともだちレインボーキャンプ・イン・秩父』に参加する羽目になったのだ。

 その時の俺の相バンガロー仲間は『泣きぼくろがあればキエちゃんが完璧になれるから』という理由で、クラスメイトのキエちゃんという女子の目尻に尖った鉛筆の芯を刺して泣きぼくろを作ろうとした翔君と、『思いついてしまったので、やらずにはいられなくて。やってからする後悔よりも、やらなかったことを後悔する方が怖かった』という理由で、割れたガラスや錆びた釘でいっぱいの落とし穴を公園に作り、ボール遊びをしていたアフガンハウンドの右足に全治2か月の怪我を負わせた雪太君だった。結構楽しくていい連中だった。今でも時々、一緒に飲みに行く。

 ただ、翔君がキエちゃんと結婚していて、キエちゃんの右目の下に泣きぼくろがあったことを思い出すと――結婚式の写真をスマホで見せてもらった――「あれ?」って気持ちにはなる。俺が思っているよりも怖い何かが出てきそうな気がするから、キエちゃんのことはなるべく考えないようにはしてる。家に遊びにおいでよーと誘われてはいるけど、なんだかんだ理由をつけて断っているのは、なんか怖いからだ。なんか。なんか怖い。触れてはいけないデロッとした闇が出てきそうな気がする。

 後から聞いた話だが、林田の方も俺と同じようなタイプのなんたらキャンプに参加していたんだそうだ。

 結構いいキャンプだったらしく、夏休みが明けて学校で再会した時にはいつもの林田に……つまりは変な風になる前の林田に戻っていた。

 最初こそギクシャクしたが、その内また元どおりの関係になって、今もこうして――。


 「もういい! 帰れよ! この野郎!」

 思い出に浸っていた俺を林田の怒号が現代へとつれ戻す。

「え、何? 帰っていいの?」

 やった! なんか思い出に浸ってる間に終わったっぽい!

 林田が俺を睨みつけたまま変な声を出す。沸騰したヤカンがあげるピーッ! みたいな。顔が真っ赤で、なんか涙ぐんでる。うーん。林田の情緒不安定なところには困ったもんだ。

「どっか痛いの、林田? 救急車呼ぶ?」

「真剣に話してるのに全然聞いてくれない! どうでもいいって思ってるんだろ!」

「いや、本当、ららぽのことは悪かったってば。ごめんて」

「ららぽのことで怒ってるんじゃない!」

 えー。なにそれ。

「じゃぁ、なんでそんなに怒ってるんだよ。お前、おかしいぞ」

 林田はまたピーッ! とヤカンみたいな声をあげる。

 言いたいことが沢山ありすぎて言葉が出てこず、感情だけが噴き出しているようだ。

「なんで怒ってるのかがわかってないことに怒ってるんだ! 帰れー! 絶交だ!」

 顔真っ赤にして泣きながら叫ばれても。

「そういう『私がなんで怒ってるのかあててごらんなさい』っていうの、正解がないんだろ? 相手を試そうとするやり方はよくないぞ、林田」

「別れてやるー!」

 彼女か。

「わかった。わかった。たこ焼き食べよう。な? 好きだろ、たこ焼き。ほら、冷めてても美味しいから。お腹空いてるからイライラするんだよ」

 俺は銀だこの箱を引き寄せ、蓋を開く。

「お前の好きなテリタマだぞ。美味しいから。一旦、これ食べてからにしよう。な?」

「俺はチーズ明太子が好きなんだ! どうして覚えてないんだ! 俺のことなんかどうでもいいんだろ! 別れてやる! 本気だからな! 後で後悔したって知らないんだから!」

 彼女か。

「わかったよ。わかった。じゃぁ、これは俺が食べるから」

 俺が爪楊枝をたこ焼きに刺した瞬間、林田がテリタマの箱をぶん取った。

「食べないとは言ってない!」

 俺は両手を上げて「もう降参です」のポーズをとる。林田は先ほど俺が刺した爪楊枝を摘み、長時間放置したせいで少ししぼんでいるテリタマたこ焼きを口に運ぶ。運んだだけ。口には出来なかった。あいつの口に入る前にたこ焼きが崩れ、爪楊枝から落ち、あいつの太腿を掠め、床に落ちたからだ。林田は無言で足元を見る。

 数秒の沈黙の後、林田は顔を押さえて肩を震わせ始めた。

「な、泣くなよ。ほら、まだ7個もあるだろ。なんならチーズ明太子買ってきてやるから」

「なんにもうまくいかない」うぐぇうぐぇとしゃくりあげながら林田は言う。

「ぜんっぜんうまくいかなーい!」キョンキョン口調。

「全身筋肉痛だし、靴は履き潰しちゃったし、スーツもシャツもネクタイもベルトもお醤油のせいで捨てるしかなかったし、猫はピンクの可愛い服は着てくれないし、全然縮まないし、お前は高田純次送ってくるし、真剣に謝ろうともしないし、俺が話してるのに聞いてないし、たこ焼きまで食べられない。何も思い通りに出来ない。世界が俺をいじめるんだぁ!」

 本格的に泣き始めてしまった。

 世界ときたか。随分デカい仮想敵持ち出してきたな。スコット・林田グリムVSザ・ワールドか。

「たこ焼きだ。たこ焼きを食べろ。カロリーが心を落ち着けてくれるから! 世の中の大半のことはカロリーがなんとかしてくれるんだ」

「なーう」

 林田の寝室から猫もどきが出てきた。

 妹の中学時代のジャージを羽織ってる。部屋着にしてるらしい。

「ほら、林田。お前を心配して見に来たんだ。誰もお前をいじめてなんかないだろ? な?」

 俺は猫もどきを手招きする。

「肉球を林田に触らせてやれ。な? 林田? 触りたいよな? 肉球触りたいよな? お前、暇さえあれば猫の前足の肉球触ってるもんな?」

 林田は泣き続けている。

「親父が南さんを撃ち殺した日から、俺の人生はずっとうまくいかないんだ! みんなが俺を嫌ってる! お前だって本当は俺のことが嫌いなくせに! 嫌いなくせに友達ぶって! 何が目的だ!」

 また始まった。被害妄想林田がまた始まった。

「目的もなにも、友達だろ」

 まぁ、上京してくる時に林田の両親からよろしく頼まれてるっていうのもあるけどさ。

「世界中の人間が俺を見てる! ジロジロジロジロジロジロジロジロ見てるんだ。もう外なんか行かないぞ、行かない、行かないんだから」

「なーう」

 猫もどきは俺達の横を通り過ぎてキッチンへ行き、調味料の入っている棚からお醤油を取り出し、大事そうに抱きかかえてこちらへと戻ってくる。……かける気だ。

 俺は奴が俺の横を通り過ぎようとした時に、お醤油を素早く奴の前足から抜き取った。

 奴は吃驚した顔で俺を見る。それから林田を見て、また俺を見て「林田、なーう」と鳴いて、両前足を俺に差し出した。「返して」というジェスチャー。

「あのな。お醤油は人にかけるものじゃないから」

「なーう」

 解せないという顔。うーん。写メってスマホの待ち受けにしたい可愛さ。

「人はお醤油をかけられると元気がなくなっちゃうから。わかる?」

 しばらくの沈黙の後、奴は例のスマイルを浮かべた。よし。通じた。

 俺はお醤油を奴に返した。奴はぎゅっと大事そうにお醤油を抱きかかえる。

「それを元あった場所に戻し」そこから先は頭上から降り注ぐお醤油に阻まれて、口に出来なかった。

 通じてなかった。俺はお醤油でひたひたになった。またしても。

 林田の泣き声が大きくなる。猫もどきは林田にもお醤油をかけようとしたが、寸でのところで俺がお醤油のボトルを再び奪い取った。

「お前は2度とお醤油に触るな!」

 猫もどきはシャーっと怒る。怖くないもんねっ!

「シャーッ! じゃない! 見てみろ、林田を! 元気なくなっちゃっただろ! しょんぼりしちゃってるじゃないか! 2度とやるんじゃない!」

 猫もどきは右前足で口を押さえ、しょんぼりしている林田を見下ろす。

 「あらやだ、本当ね」のポーズ。

「もう肉球もお醤油もいいから、ちょっとどっかに行ってなさい」

 猫もどきは「なーう」と不満げに鳴いてから、テレビの方へ歩いて行った。

 てっきりテレビの前でゴロゴロするのかと思いきや、テレビを通り過ぎてベランダに通じる窓の前に行き、窓の鍵を爪で器用に開け、ベランダに出て窓を閉め、ベランダに置いてあるウッドチェアの上で丸くなった。……拗ねてんの?

 俺はお醤油がしみたシャツを脱いで丸めてテーブルに置き、キッチンの隅に積み重ねられていた古新聞の束を持ってきて、それをお醤油で濡れたソファーに敷く。

 林田はまだ泣いている。感情の高ぶりとともに色々な心の扉が開いてしまったようだ。

 小学校の時のあれこれとかも思い出していたんだろう。

「あのなぁ、林田」

 俺は顔や髪についたお醤油を丸めたシャツで拭いながら言う。

「ららぽーとの件は確かに俺が悪かった。調子に乗りすぎた。高田純次の件も悪かったよ。お前の話を聞き流してたから、お前が何で怒ってるのかわかんないのも、俺が悪いよな。十分わかったから、喧嘩はやめよう。またあいつがお醤油をかけにくる」

 林田はしゃくりあげながら頷く。

「許したわけじゃないんだからね」

 彼女か。

「わかった、わかった」

「その2回、言うのやめろよ。なんか上から目線で嫌だ」

「わかった、わ」俺は肩を竦めてから立ち上がり、壁にかけてあったジャケットを羽織る。素肌に羽織るとゴワゴワする。

「何? 帰んの?」

 帰らないでよって口調で言う。彼女か。

「チーズ明太子買ってくる。チャリ貸して」

 返事を待たずに俺は壁にかけられている林田のチャリの鍵を手に取る。あいつ殆ど使わないから実質俺のチャリの鍵だけどな。

 林田はやっと顔を上げた。瞼が腫れているけど、もう落ち着いたようだ。

「……別に一々買ってこなくてもいいよ。テリタマも嫌いじゃないから」

「嫌いじゃないもんより、好きなもの食べたいだろ」

「いいよ。遠いじゃん」

「飛ばせば往復10分かかんねぇよ」

 俺は靴を履き、玄関のチェーンを外す。

 林田が俺を呼んだので振り返る。林田はリビングのドアから顔を出して俺を見ていた。

「怒りすぎてごめんね」

 彼女か。

「俺こそ、お前の気持ちよくわかってなくてごめんな」

 彼氏か。

 

 林田の部屋を出てから、俺は小走りになって外廊下を進む。なんとなくキョロキョロしてしまうのは、ここの管理人兼大家と顔をあわせたくないからだ。

 通り過ぎてゆくどの部屋にも入居者募集の張り紙がある。

 この階だけじゃない。13階ほぼ全ての部屋が常時入居者募集中。近所ではここは正式名称のアーバンリゾートシーサイド豊洲ではなく、『殺人マンション』とか『幽霊マンション』と呼ばれている。

俺はエレベーターに乗ってエントランスホールに降りる。普通、この規模のマンションはどんなにこまめに掃除していても何というか、人間の匂いがするはずだが、ここはいつもワックスと洗剤の匂いしかしない。

ガサッと木々が揺れる音が聞こえたので、中庭に目を向ける。……あー。いる。

ジャージ姿の中年の男が中庭の掃除をしている姿が見えた。熊手で落ちた葉っぱを穿いている。

こっちを振り向きそうだったので俺は慌ててマンションから出て行った。林田の奴、「前から豊洲に住みたかったんだ。ご近所づき合いは一切したくないから、俺以外に誰も住んでなくて大家さんもベタベタしてないマンション、余ってないかなーって思ってたら、どんぴしゃ物件が!」って言ってたが……幾らどんぴしゃでもよく住めるよ、こんなとこ。

 

 週前半の平日午後9時という微妙な時間だったからか道は空いてたし、店も空いてた。

 俺はチーズ明太子を2箱買って、元来た道を戻る。

 川沿いの道に植えられた桜の蕾を横目に見ながらペダルを漕いでいた時に、不意に稲光り。

 稲光からの、雷鳴からの、また稲光からの、雷鳴からの――ゲリラ豪雨。白い服着た修行僧が浴びてる滝。そんな感じ。並の人間ならこの世の雑念が清められて悟りを開くレベルだ。

 最初の稲光りの直後に「これは!」と思って全力立ち漕ぎしたおかげで、雨が降り始める直前にアパートに戻ってこられたのは、俺の日頃の行いが良いからだと思う。

 雨は1分経つか経たないかくらいで降り止み、後には濡れた街と、濡れてない俺と、濡れてないたこ焼きが残された。危なかったー。

 俺は自分の日頃の行いの良さを誇りながら自転車を駐輪場に止め、アパートの中に戻ってエレベーターに乗った。

 

 「林田ー。たこ焼き買ってき」

「イーッ!」

 林田の部屋のドアを開けた瞬間、甲高い悲鳴みたいな声が飛び出してきた。林田の声だ。

 さっきのヤカンが沸騰した時の言葉にならない声に似てる。いや、それよりもこれはあれだ。あれだな。仮面ライダーのショッカーの声。

「おーい。どうしたー?」

 たこ焼きの袋をぶら下げてリビングに入ると、林田の後ろ姿が目に入る。やはり林田の声だ。あいつはベランダへ続く窓の前に立っている。そして、叫び続けている。

「どうしたの? ゴキブリ?」

 俺はたこ焼きをテーブルに置き、ジャケットを脱ぎながら林田の方へ歩く。

 林田と窓ガラスの向こう側に猫もどきの顔だけが見えた。

 ずぶ濡れだ。さっきのゲリラ豪雨の直撃を受けたんだろう。

 ここ、海風強いからベランダにいても風が吹けば雨を避けられないし。

「あーあ。びしょ濡れじゃん。早く中に入れてやれよ」

「イーッ!」林田はまだ叫んでいる。

「なぁ、どうしたの?」

「イーッ!」

「無視すんなよ」俺は林田の横に並び、顔を覗き込む。驚きの白さ。血の気が完全に引いてる。目は窓の向こうに釘付けで全く動かない。

 俺は改めて視線をベランダに向ける。

 猫もどきがいる。いつも通り2本足で立っていて、こちらをみている。

「イーッ!」俺は悲鳴をあげた。

「イーッ!」林田も悲鳴をあげる。

 本当に怖いものを目にすると声が出ないとよく言うが、それは嘘だ。

「イーッ!」声は出る。

「イーッ! イーッ! イーッ!」仮面ライダーのショッカーみたいな声が出る。

「なう」

 猫もどきが首をかしげ、前脚を窓ガラスにつける。両前足には肉球がない。前脚は、人間の手の形をしている。毛むくじゃらで、爪の生えた、人間の、五本の指。

「イーッ!」

 俺は窓の鍵に向かって手を伸ばした。鍵を。鍵をかけないと。鍵を。

 骨を失ったように指に力が入らない。震えた指先は鍵の表面を撫でるだけで滑ってしまう。

 猫もどきが外側から窓を横に押した。カタカタと音を立てて、俺たちと猫もどきを仕切る窓が開く。

「イーッ!」俺達は叫ぶ。

 猫もどきがもう1度、今度は反対側に首をかしげる。

「なう」

 濡れた毛が猫らしきものの体に張り付いている。

 いつもは膨らんだ毛に隠れている、猫もどきの体の輪郭が見える。

 

 人間の輪郭だった。

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