ようこそ、お前の新しいソラリスへ
こうして。
こうして今までの世界は現実ではなくなり、降り注ぐ銀色の破片になった。
頭の中に新しい過去が出来る。
ここには最初から何もなかったし、何も起きていなかったという過去。
最新の過去は全ての過去に繋がり、それぞれの末尾にこの言葉を付け足してゆく――『最初からそんなものは存在しなかった』。
そういうことになってしまった。
降り注いできた破片が背中や腕に突き刺さる。俺は悲鳴をあげ、しゃがみこんで目を閉じる。
冷凍庫から出したばかりのシャーベットにスプーンを突き立てているような音が肉に響いた。
後頭部で手榴弾が爆発し、衝撃で呼吸が止まる。身体中の臓器という臓器が胡桃大に縮み、鈍痛が後頭部から首、肩へと広がってゆく。
頭を掴み、吹き飛ばされてもいなければ肉片にもなっていないと確認する。
大きな破片が落下してきて、その腹の部分が頭にぶつかったんだと思う。
今のが最後にして最大の衝撃であればいいのにと願ったけど、降り注ぐ破片達がその願いをあざ笑う。衝撃。痛み。衝撃。痛み。止まることはない。
このままではいずれ破片に切り刻まれて、俺は死ぬ。
俺はいつも取り返しがつかなくなってから「あれが運命の分かれ道だったのか」と気がつくんだ。
まるで銭形警部に怒鳴られてからようやく、金庫の中に招き入れた銀行支配人こそがルパンだったのだと悟る脇役だ。間抜け面を晒して、空になった金庫の前で膝をついて、それでバイバイさよならお役御免。もう物語には関われない。
「回避する方法もあったはずだ」という後悔が酸になって胸に垂れ、肉を溶かしながら心臓に向かう。
その痛みに意識を持っていかれていたせいで、俺はいつの間にやら欠片の雨が止んでいることに気がつかなかった。気がついた後もしばらくの間は体を丸めたまま動けなかった。
自分の呼吸音と鼓動だけが耳に届く。
両膝の間に頭を突っ込んだ状態のまま、恐る恐る目を開ける。
自分の足しか見えない。
フローリングの床はない。
ただ白い空間が広がっている。
雲ひとつない空を見つめていると、自分が空に吸い込まれていく感覚に囚われることがある。どこまでも続く青に遠近感を狂わされるからだと思うけど、本当の理由はわからない。俺はヤフー知恵袋の回答者でもウィキペディアの編集者でもない。
今、足元に広がる白はそういう空みたいだった。白く見えているだけで実態のない白。頭がクラクラする。
俺は長いこと同じ姿勢でいたせいで固まった体を無理矢理動かして立ち上がる。関節が軋む。背中が重い。きっと破片が背中いっぱいに突き刺さって、ハリネズミみたいになってるはずだ。軽く体を揺すると肉に刺さっていた破片が一斉に抜けて体が軽くなった。痛みが背中を駆け回る。血が滝になって背中から尻まで流れ落ちてくるのを感じる。
目眩を覚えて倒れかけたが、踏みとどまって耐える。何に踏みとどまったのかはわからない。
大体、俺は何の上に立っているんだ。何にもないのに。
俺が立っていると思うから、立てているのか?
俺は前方を見つめる。壁も天井もない。ずっと遠くまで白い空間が広がっているように感じるが、本当に遠くがあるのかもわからない。
空間そのものがマッキントッシュでアップルい。
今にもお馴染みの格好をしたお馴染みのジョブズが「私はこの日を待っていました」と言いながら顔を出しそうだ。
スタイリッシュな虚無的な空間――虚無そのものではない。
これは見せかけだ。
虚無であるための虚無だ。虚無ではない。物が多すぎる。
大小様々な鏡の破片に似たものがスノードームの銀紙みたいに中空を漂っている。さっきまで俺に降り注いでいた世界の破片達だ。
近くに浮いている掌程の大きさの破片に目を向ける。
破片の中にはどこかの海岸の波打ち際があった。小さな蟹が波打ち際を歩いている。テレビみたいに映像を映しているんじゃない。これはどこかの海辺の空間そのものだ。
俺は指を伸ばす。
指は破片の中に何の抵抗もなく入りこんだ。早朝の海岸のひんやりとした空気を感じる。俺は蟹を摘もうとしたが、指は蟹を通り抜けてしまった。砂にも触れない。
俺が指を抜くと、破片はふわふわとまた空中を漂い始めた。
他の破片達も様々な風景を映している。空。海。道路。街。森。川。ビル。家。公園。無数の見知らぬ誰かが破片の中で何事もなかったかのように生活を続けている。
これはきっと、さっきまで俺がいた世界のログだ。
みんな、死んではない。生きてる。
生きてるんだ。よかった。
再び眩暈に襲われて体が揺れ始めた時、俺は視界の端に動くものを見つけた。
浮遊する銀色の破片達の向こう側に、林田が立っていた。
血だらけで憔悴しきっている俺と違って、あいつはかすり傷すら負ってない。
空中を浮遊していた破片が轟音を立てながら俺と林田の周りを回転し始める。
1つ1つが白く輝き出し、とても目を開けていられなくなった。意識すら光にかき消されてゆく。
林田の嬉しそうな声が聞こえた。
「ほら、やっぱり世界が間違ってたんだ。きっとこれで、本当の世界に行けるはずなんだ」
そして、光が。
*************************************
俺。
俺が。
まず俺が。
俺が在る。
ここに。
俺は。
俺は立っている。
どこに。
床。
俺が立った時に在った。
どこの。
廊下。
床が出来た時に在った。
俺。
俺は。
俺は歩いている。
どこを。
廊下。
どこの。
建物の。
廊下が在って、次に建物が在った。
どんな建物なのかはわからない。全体を認識出来ない。
ここは病院で、俺の部屋で、林田の部屋で、ショッピングモールの通路で、小学校の体育館だ。
10階建てであると同時に平屋で、リノリウムの廊下であると同時に木製のタイル張りで、窓は規則正しく並んでいると同時に1つもなく、たこ焼きが並ぶカウンターであると同時に病院の診察室で人がいない映画館で、天井は天井であると同時に地下に続く階段だ。
あの何かと同じだ。石鹸のように白くて、ルービックキューブのように四角くて、知恵の輪のように丸くて、金属のようにプラスチックだった何か。
まだ何になるか定まっていない建物。非現実が現実になる途中。
俺はそこにいる。霞みがかった頭が徐々にはっきりしてくる。
世界にヒビが入り、砕け、割れて、全て消えたことを思い出す。
俺はふらつく。倒れそうになり、もたれかかる。
何に。
もたれかかった時に、そこに在ったが、もしかしたらないのかもしれない壁に。
壁が在るのならば、そこに窓が在るということになり、窓が在れば、外が在り、外には空と太陽が在る。廊下に光が差し込んでいる。大昔からそうしてきたように。
ここは。
ここはまるで昔からあったように振舞おうとしている、新しい世界だ。
最初からあったことになろうとしている、出来かけの現実。
俺の少し前を誰かが歩いている。誰かはたった今できて、ずっと前からいる。男で女で子供で老人で日本人で外国人で背が高くて低くて痩せていて太っていて美しくて醜い。
「あの」俺は声をかけたが、誰かは無視して歩いていく。
「あの、すいません」
俺はもう一度呼ぶ。無視出来ない程はっきりした声で。
でも誰かは振り返らない。誰かは曲がり角の先へ消えた。誰かは他にも何人かいて、廊下の途中途中に置かれた長椅子に座ったり、窓の外を見ていたりする。
彼らはこれから最初から誰かだったことになるだろう誰かだ。
みな、胸の前で両手の親指と人差し指をあわせて三角形を作っている。
あのポーズには見覚えがある。設定だけを作った新興宗教の祈りのポーズ。存在するかどうか曖昧な者たちが、作り物の神に祈ってる。
俺は、作り物の神の創世記の中にいる。
俺は歩き続ける。歩くたびに床ができて、歩くたびに廊下が出来る。
進んで、突き当りを曲がり、歩き、床ができ、廊下ができ、突き当り、曲がり、歩き、床、廊下、突き当り、曲がり、歩き、床、廊下、突き当り、ずっとそれが続く。
散々振り回したコーラの蓋をひねってしまった時みたいに、恐怖と混乱の泡が外に飛び出そうと開きかけた蓋の間から息を吐いた。
だからコーラをそうするように、泡が飛び出さないように蓋を締め直す。
今はダメだ。今、パニックになるわけにはいかない。
歩く。考える。歩いているから、歩いている床ができて、歩いている床が出来ると廊下が出来る。
考える。あべこべなんだ。アリスみたいに、ケーキを食べてから切り分けなきゃいけない。
この世界は出来立てで、現実のラインすらが固まってない。
俺は足を止める。
確認のためだ。
逆転して考えないといけない。どこかに行きたいのなら、すでに到着していなければいけない。到着しているということは、歩いていないということだ。足を止めれば、そこが目的の場所になり、そこが目的の場所ならば、そこにドアがあるから。
だから足を止める。
なぜ。
目的地についたから。
その通り。目的のドアが壁に出来る。目的地に続くドア。
ドアを開ける。
顔をあわせる前から俺はそこに林田がいるとわかっていた。
そして、林田がいる。
洗った皿の裏にしつこくこべりついていた汚れを見るような目で、俺を見ている。
その目を前にして、口の中にあった「この世界をどうやったら元に戻せるんだ?」という疑問が消えて、全く別の言葉が出てくる。
「俺たち、友達だろ?」
返事はなかった。
俺が足を踏み出すと、床が蜘蛛巣状にひび割れた。床が割れているのではなく、空間そのものが割れている。ヒビは壁や天井に広がってゆく。
「お前は最初からどこにもいなかった」
電球が破れるような音がして、天井の一部分が割れ落ちた。
林田の目が親指の爪で皮膚を強く押した時に出来る痕みたいな弧を描く。
「俺はもう2度と、本当は存在しないものを俺の世界に受け入れたりしない。そんなもののために傷ついたりしない。こんな世界には何1つ価値がない。存在する意味がないんだ。この世界も本物じゃない。本当の世界にはお前なんかいないんだ。俺は騙されないぞ! 今度こそ! 絶対に!」
林田はそう言って、エルサ姉さんみたいに床を思い切り踏みつけた。
衝撃で世界が一気に破れる。破片が降り注ぐ。
そしてまた、全部最初からなかったことになった。
そしてまた、最初から始まる。
俺。
俺が。
俺がまた在る。
新しい世界が出来る度に、俺が在る。
ある世界で。
林田はどうしょうもないヤク中だった。
林田は俺をみると、大麻の植えられた鉢を投げつけて世界を壊した。
ある世界で。
林田は交通事故により植物状態になっていて、今までのことは全部夢だということになっていた。
俺が病室に現れると林田は世界を壊した。
ある世界が在り。ある世界に俺が在る。
俺が林田に会いたいと思えば、扉がそこに在り、扉は林田の元へ続く。
林田は俺を見る度に世界に見切りをつけて、次々と現れる世界を、次々となかったことにした。
「ここじゃない」
「ここも違う」
「偽物だ」
「現実じゃない」
「お前がいる」
「お前がきた」
「お前が邪魔をする」
「お前がまた俺の世界を偽物に塗り替える」
何度も、何度も、林田は降って湧いたような新現実もどきをレリゴーした。
エルサ姉さんなら城が建ちすぎて、雪山に都市ができてるくらいレリゴーした。
バージョン違いの世界が現れては粉々になり、また現れる。
見覚えのある部分と、見覚えのある部分が、違う形で組み合った世界だ。
砕けた世界と現実と過去の欠片をビーズ代わりにした万華鏡だ。
無限地獄の中に閉じ込められたみたいだ。
新しい世界もどきの中で林田を見つける度に、あいつの俺を見る顔つきが凶悪さを増しているのには気がついていた。
最初は嘲笑。嘲笑は徐々に苛立ちに変わり、怒りに変わり、憎悪に変わり、敵意で満ちていった。
「お前のせいだ」
「お前のせいで」
「お前の」
「お前の」
それでも俺はあいつを追いかけるのをやめるわけにはいかない。
あいつ、止めないと。
世界が出来る。林田のところに行く。世界にヒビが入る。また世界が消える。
そしてまた、最初から。
俺。
俺が在る。
そして。
林田が目の前にいる。間近に眉間のWWW皺が見える。
「林――」
林田の両手が俺の顔を掴み、皮膚が破れそうになるほど強く撫でる。
「はや――」
林田が触れている部分が、砂のように崩れるのを感じた。
俺が崩れる。存在そのものが。
「うわぁーっ!」
俺は林田を突き飛ばす。
顔を抑える。指の間から目に見えない砂が溢れてゆく。
何かを別の何かに変える時特有のあの感触。
でもその感触が溢れて止まらない。俺は崩れるだけで、別の何かへの組み替えが起きない。
あいつの願いは明白だった。
「どうして」
恐怖のせいで力が入らず、唇からこぼれた声は眼鏡屋さんの店員みたいに優しい感じになった。
「消えろって願ったな」
強烈な不信感が俺の声を震わせる。
「消えてしまえって、今、願ったんだな。この俺に。どうしてそんなことが出来る!」
俺は膝をつく。足元には何もない。ただただ白い空間が広がっている。
ここは世界が崩れた時に最初にきた場所だ。実態のない白い世界。虚無もどき。
「やっと本物の世界で目を覚ましたと思っても、お前が出てくると世界は偽物になってしまう。『今までのは悪い夢だったのか』って思えたのに、やっと外に出られたと思ったのに、その度にお前が出てくる。それで、世界はひび割れて、またやり直しだ! いい加減、お前にはうんざりだ!」
俺は林田を見上げる。スズランの目が俺を見下ろしている。
ダメだ。全然通じてない。俺を人だと思ってない。
「だから、消えてもらわないと」
「嫌だ!」
俺は叫ぶ。
「俺はいるんだよ! 俺はお前の妄想でも、テレビの中のキャラクターでもないんだ! お前の友達だ! 今までずっとそうだったじゃないかよ!」
「そんな今までは、本当はない。1度もない」
皮膚が目の荒いメッシュになって、そこから絶えず俺という存在が砂のようにこぼれ出していると感じる。
「お前は空想の友達なんだ。だって、都合が良すぎるから。あまりにも」
「うるせぇよ! なんだよ、お前! うるせぇよ! いるったら、いるったら、いるんだ!」
俺はこれ以上自分が崩れないように、体を強く抱きしめる。崩れてゆく体を掌に感じて悲鳴を上げる。体の輪郭がぼやけている。
俺は両手で自分を抱きしめて撫でる。脳腫瘍をこうしてこの力で治そうとした時のことを思い出して一瞬躊躇したけど、このままでは俺そのものが消えてしまう。そんなのは嫌だ。
祈り、願い、声に出す。
「俺は、俺の思う、俺だ」
砂が零れる感覚がわずかに弱まる。
「俺は、俺の思う、俺だ」
ぼやけていた輪郭がはっきりしてくる。
「俺は、俺の思う、俺だ」
そう。俺だ。俺だ。これは俺だ。俺は俺だ。俺の思う、俺なんだ。
俺は立ち上がる。
林田は怪訝な顔をして俺を見つめながら、数歩後ろに下がった。
「ああ。そういえばお前にも使えるんだっけな」
「お前の都合で消えてなんかやるもんか」
俺は体のあちこちを手でこすりながら言う。
「消えてくれないと、いつまでたっても本当の現実が出てこられないじゃないか」
「何が本当の現実だ! 現実に本当も偽物もあるか! バカ! お前があの時、月を投げてあの世界を『現実じゃない』って思った瞬間に、現実じゃないってことになっちゃったんじゃないか!」
「どうやったら消えてくれるんだ。お前はどうやったら俺の現実から出て行くんだ。わかんないのか。俺はお前にいなくなってほしいんだ。消えてほしいんだ」
「うっせぇ! 消えろ消えろってうっせぇ! この粉々になった世界を元に戻せ! 俺の世界を元に戻せ! 全部だ! 勝手になかったことにしてんじゃねぇよ! 全部あったんだ! 俺の人生は全部そこにあったのに!」
林田は「そうだ」と言って両手を叩いた。
「話聞いてんのか、この野郎!」
「お前が自分から『もう嫌だ。こんな思いをするくらいなら消滅したい』って思うようにすればいいんだな」
なんか言い出しやがった。
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