カリブの海賊は人を食わない
林田の葬儀は大手葬儀屋の一番小さな会場で行われた。
学校の教室程度の広さだったが、会葬者が少ないのでそれでも広すぎた。
会葬者は林田の家族と親戚と彼女、それと親しい友人──つまり俺だけだった。あまりにも寂しい葬儀だった。
医者は俺が葬儀に出席するのを止めなかった。
「やりたいことをやるのが体には一番大切ですから」という言葉は「残り少ない人生をどうぞ悔いなくお過ごしください」の言い換えだ。それくらいわかってる。
会葬者の中には俺のように顔があるのに見えない連中もいた。みんな、過去の辻褄を合わせるために林田によって作り出されたんだろう。
話しかけた瞬間に消えてしまいそうな人々。瞬きをした途端に消えてしまいそうな世界。何もかも非現実的で、自分一人が世界に組み込まれずに浮き上がってしまっている感じがする。ジグソーパズルのあぶれたピースになった気分。落ち着かない。気分が悪いのは腫瘍の進行を遅れさせる薬のせいだけではないと思う。
俺は椅子に座ったまま林田の遺影を見つめる。
遺影の中の林田は上機嫌そうに微笑んでいる。成人式の時に撮った写真だということになっているが、あいつは成人式に出てないんだ。
告別式が始まった。
林田の両親の嗚咽が響く中、葬儀場付きの司会者が棺の中に花や思い出の品を入れるようにと静かに告げる。
会葬者が一人ずつ林田の棺に向かう。林田のお母さんは一人では立ち上がれず、父林田が腰に手を回して彼女を立たせていた。
「指輪を入れたかったんだけどダメなんだって。金属は骨とくっついちゃうから」
隣の席に座っていた彼女が言った。相変わらず顔が見えないけど、最初に見た時ほどは怖く感じない。きっと新しくできあがった、彼女と過ごした日々の記憶のせいだろう。彼女には彼女の後付けされた人生がある。俺と同じように。
「だからこれ。アルバム。お気に入りの写真をいっぱい入れてきたんだ」
彼女は膝の上で小さなアルバムを広げた。俺と林田と彼女の思い出の写真。
後付けで出来上がった写真。バック・トゥ・ザ・フューチャー4だ。全ての思い出が見知らぬもの。
「生きてる人の写真を棺に入れるのって宗教的に問題あるのかな?」
「問題があれば誰かが止めるよ。指輪もさ、骨を焼いた後に骨壷に入れていいかどうか聞いてみればいい」
そうだね、と言って彼女は立ち上がり、大事そうにアルバムを抱えて棺へと歩いていった。
この『今』でも彼女のお腹に子供はいるんだろうか? 過去に聞いてみる。……いないようだが、それは良いことなんだろうか。可能性のあった命が消えてしまった。
俺も立ち上がって棺に向かう。
棺の側に置かれた背の高いテーブルから菊の花を手に取る。
棺を覗き込むと彼女の置いたアルバムや、林田のお母さんの置いた小学校時代の無遅刻無欠席を讃える表彰状、林田のお父さんの置いた大学卒業の記念写真が青白くなった林田の顔の周りに置かれているのが見えた。
どれもこれも、林田の世界の思い出の品じゃない。間違っている。
一度は立ち去った彼女が戻ってきて俺の隣に立ち、俺の背中を撫でた。
俺は自分が泣いているのに気がつく。
「こんなの間違ってる」
俺は服の袖で顔を拭う。彼女が「本当にね」と頷く。
何か持ってくればよかった。間違ってない思い出の品を。ちゃんとした林田の思い出の品を。俺の知ってる、俺の林田の思い出の品を。一つくらい。
俺は略式の数珠を握りしめる。これがあの、ルービックキューブなんだか知恵の輪なんだかわからない物だったらいいのに。そしたら、あいつが言っていたことが全部正しかったんだって、せめてもの慰めになっただろうに。
手の中で突然、乾いた砂の塊が崩れるような感じがした。
俺は反射的に悲鳴をあげて自分の手を見る。彼女や周りの視線が集まっているのがわかるけど、俺は自分の手から目を離せなかった。
そこにもう数珠はなかった。
あのなんだかよくわからない、石鹸だか知恵の輪だかルービックキューブだか石鹸だかわからない途中の物が掌の中にあった。
「ふぁーっ!?」
「ちょっ」
「ふぁーっ!?」俺はそれと彼女の顔を交互に見つめる。
「ちょっと、変な声ださないでよ! どうしたの、もう!」
彼女が俺の口を塞ぐ。
「棺に入れるんでしょう? 思い出の品だから持って行くって言ってたよね? 大丈夫?」
塞いだ手をどけて欲しくて俺は頷いた。彼女は「もう叫ばないでね」と念押ししてから俺の口を塞ぐのをやめた。
「これ、俺、俺は、さっきまで数珠を、これじゃなくて、なんでこれ。俺のお数珠はどこ?」
「何言ってるの? 今日はそれを探すのに必死でお数珠持ってくるのうっかり忘れたんだってさっき言ったじゃないの」
彼女の言う通りの記憶が頭の中にできていた。そういうことになったんだ。
俺は手の中にあるそれを見つめる。
「大丈夫?」
彼女には答えず、それの表面をゆっくりと撫でた。林田がやっていたように。
「……これが」
俺は唾を飲み込んでから言葉を続けた。
「知恵の輪だったらいいのに」
砂を撫でているような感触がしたかと思うと、そこに知恵の輪があった。
「……嘘だろ」
知恵の輪はそこにある。
最初っからずっと俺の手の中にあったのだというようにふてぶてしく輝きながら。
「ルービックキューブだったらいいのに」
震える声で呟き、願い、撫でる。砂が崩れるような感触。
この感覚を知ってる。猿だった俺を林田が撫でた時、いつもこの感覚に襲われた。粒子的な何かが組み替えられてるってことなのか?
手を退けるとルービックキューブがここにあった。
そして俺がルービックキューブを林田の部屋から持ってきたという過去が出来上がる。口が乾き、体は冷たい汗で湿る。どっからどうみても普通のルービックキューブだ。重さも。質感も。当然、ガチャガチャと動かすことも出来る。
他の物は? 林田が変化させなかった物も出せるのか?
「……サイコロ」
そこにサイコロがある。
……。
でたわー。きたわー。
スーパーボール、お手玉、ウルトラマンの人形、腕時計、手鏡――俺は元々は数珠だった物を思いつくまま色々な物に変えてゆく。
変える度に新しい過去が影のようについてきた。どんな過去が出てくるのか、予想もコントロールも出来ない。夜店の紐くじみたいだ。
「……お金」
ずっしりとしたお札の束が手の中に現れた。
おっ! っと興奮したのもつかの間。左頬に彼女の平手打ちが飛んできた。容赦のない一発だった。いっってぇ。
「最低! 何考えてんの!」
もう一発、右頬をグーで殴られる。すっげぇ痛ぇ。舌かんだ。痛ぇ。
混乱しながらも記憶を探ると、俺が林田の香典を盗んだことが彼女にバレたという過去が新しく出来上がっていた。
……そりゃー殴るよね! そーだよね!
彼女がもう一度俺を殴ろうと手を振り上げたので、俺は慌てて札束を数珠に戻した。
その瞬間に香典泥棒の過去は遠のき、殴られた頬の痛みは消えて、彼女が手を振り上げたのはどこからか入り込んでいた蝿を追い払うためだという理由に変わった。
間違いない。これは林田の力だ。でもなんで俺が?
俺は包帯に包まれた左手を見つめる。
思い当たる点があるとすればこの傷だ。怪我をした時、林田の血が流れ込んだ。手からも口からも。
……いいのか。神的な力がそういう、なんか、血液感染的なアレで拡散しちゃって……。
いや、せっかくだから貰えるもんは貰うし、使えるもんは使うけど。俺、そういうところあるから。
俺は林田の棺に向かって足を踏み出す。
この力があれば猿を人に変えたり、猫を人に変えたり出来るんだから、死んでいる林田を生きている林田に変えることだって、勿論出来るはずだ。
そうだ。いけるいける。絶対いける!
願って、撫でて、戻せばいいんだ。林田に出来たんだから俺にだって出来るって。
やれる。やれるって。気合いだ。気合いだ。気合いだー。京子ー。
俺の脳内アニマル浜口が、何とも言えない表情を浮かべている浜口京子を肩車して走り回り始める。
京子ー。京子ー。京……あ、なんか違うのも出てきた。
アニマル浜口親子が頭から消えて、黒いレザーを超格好良く着こなした超格好いい外国人が脳内に姿を現した。外国人は全身にじんわりと汗をかき、脇腹に包帯を巻いた姿で俺の頭の中に横たわっている。
その日焼けした肌。その黒い巻き毛。そのエキゾチックな顔つき。
『ジュラシックパーク』に出てくる超格好いい人だ。俺のこういう人になりたいラインキングでベスト5に入ってる人。だって誰かがティラノサウルスに襲われていたら、発煙筒を手に囮になれるような人間になりたいじゃん。あと黒いレザーを着こなしたいし、哲学的で難しくて抽象的な言葉で
俺の脳内で憧れの彼が言うじゃん。
――どっかで蝶々が羽ばたくと、遠いどっかでなんか起きる――。
俺の記憶頼りだからか、あまり格好良くない。ぼんやりしてる。
――カリブの海賊は人を食わない――。
全然関係ないところだけははっきり思い出せる。
――カオス理論だ――。
格好いい人がキリッと言う。格好いい。超格好いい。
俺は棺に向かっていた足を止める。
……もしかしたら、ちょっとした変化が思わぬ惨事を生むかもしれないから、軽率に何かを出現させて変な過去を生まない方がいいって、俺の無意識の警告が憧れのあの人の姿を借りて浮かび上がってきたのかもしれない。
……。
知ったこっちゃねぇっすわー。
アニマル浜口が京子ーと叫びながら超格好いいあの人にタックルをかまし、俺の頭から放り出した。鍛え上げたマッスルは格好良さを上回るのだ。
林田が死んだんだ。
あいつの身に起きてることを誰にもわかってもらえないまま。
これ以上の惨事なんてあるもんかよ。
俺は棺に向かいながら数珠を撫でる。
林田を撫でる前に、物質と同じように生命も出せるのかどうか試しておかないと。
何を出せばいいかを考える。ここで出しても騒ぎにならない生き物。虫は却下。気持ち悪いから却下。哺乳類オンリー。そうだな。ハムスター。ハムスターでいこう。
願い、撫でて、砂が崩れる感触。
「キュッ!」
あまりにもあっさりとハムスターが出現した。ハムスターは頭だけを俺の手から出して「キュッキュッ!」と体の割に大きな声で鳴いた。毛並みや顔付きは例のごとくぼんやりしてよく見えないけど、めっちゃ生きている。手の中でハムスターの手足が忙しく動く。くすぐったい。温かくて、心臓が脈打っているのが伝わってくる。
ハムスターが出現すると同時に、辻褄あわせの新しい過去も記憶の中に出現した。
俺は振り返り、ハムスターが出現する今のために後付けで出来た過去に目を向ける。
俺の数歩後ろに小さな女の子とその両親が立っている。さっきまで存在すらしていなかった彼らは、たった今付け足された記憶によると林田の親戚の夫婦とその娘さんだ。
女の子は蓋の空いたプラスチックのカゴを胸の前で抱えている。どうしてもハムスターと離れたくなくて葬儀に連れてきたのだ。そして葬儀に退屈して蓋を開けてしまい、ハムスターは逃げ、こうして俺に捕まった――そんな、辻褄あわせの新しい過去。
このハムスターを元の数珠に戻せば、彼らはどうなるんだろう?
さっき札束を消した瞬間に過去が消えたけど、それと同じようにハムスターが消えたら彼らは丸ごと存在しなかったことになるんだろうか?
「その子、私の!」
女の子の顔は認識出来ないけど、彼女の瞼が赤く腫れていることや、頬に涙の筋が残っていることはわかった。透明なのにニヤニヤだけを残す猫みたい。
「どうしても連れていくってきかなくて……非常識だとは思ったんですが」
両親が頭をさげる。彼らも記憶にとどめておくことが出来ない顔をしていた。
俺はハムスターを握る。
よし。消そう。
命を出現させられるっていう確認は取れたんだ。この人達はどうせ今さっき、ハムスターがここにいるって都合で出来たおまけの存在なんだ。心なんてないんだ。気にするようなことじゃない。いないはずの奴らがいるなんて気持ち悪いしな。
――もしかしたらお前は、俺が望むままに作りあげた、人間じゃない何かなんじゃないかって気がしてならないんだ――。
俺はハムスターを撫で消そうとしていた手を止める。
――お前は傷ついたような表情をしてるけど、それがお前の本心なのか、それとも俺がお前に傷ついてほしいと思ったから傷ついているように見えるのかも、俺にはわからないんだ――。
存在しない女の子が存在しない顏で俺を見上げている。俺がハムスターもろとも彼女をなかったことにしようとしてるなんて想像すらしてないだろう。
俺は握っていた手を少し緩める。ハムスターが顏を出した。
女の子と目線を合わせるため俺は少し腰を屈める。
……彼らに心があるかどうかは、俺が決めることじゃないよな。
それは彼らが決めることだ。
俺に心があるかどうかも俺が決めることだ。俺を作った林田ではなく。
「もう外に出しちゃだめだよ」
女の子はハムスターを受け取ると、嬉しそうにカゴの中に入れて蓋を閉めた。
蓋にはキラキラしたシールが貼ってあり、そこにハムスターの名前が書かれていた。子供らしいくねくねした文字だということはわかるのに、読むことが出来ない。病室の札に書かれていた俺の名前が読めなかった理由と同じだ。名前なんかないから。
ハムスターはおが屑の中に身を隠した。俺は軽くコツコツとカゴの側面を指で叩く。
「幸せに生きろよ、俺のお数珠ちゃん」
ハムスターの大福を思わせる尻が左右に揺れておが屑の中に消えたかと思うと、同じ場所からひょこっとハムスターの顔が出てきた。
「わぁ!」
思わず悲鳴をあげて飛び退く。会葬者の非難がましい視線が俺に突き刺さる。
「どうしたの? 虫でもいた?」
彼女がカゴを覗き込む。カゴの中ではおが屑から飛び出したハムスターが忙しく口を動かしながら小さな手で自分の顔を撫で回していた。
ハムスターの大きさはコンビニのおはぎくらい。黒くて丸い模様が首の周辺をぐるっとまわっていて、ネックレスをかけているように見えた。存在がぼんやりしていたさっきまでとは違う。もうどこからどう見てもただのハムスターだ。
「ただの可愛いハムちゃんじゃないの」
「ハムちゃんじゃないよ。おじゅずちゃんだよ」
女の子が蓋に貼られたシールが彼女によく見えるようにカゴを掲げて見せる。
さっきまで読めなかった文字が読めた。おじゅずちゃん。はっきりとそう書いてある。
……俺が呼んだから、そういう名前になったのか?
俺は女の子に視線を向ける。
……。
「君の言う通りだね。……静香ちゃん」
今までぼんやりしていた彼女の顔が見えるようになった。
定規で線を引いた様な眉毛。低いけど形のいい鼻。大きな前歯。クリクリした目。髪の生え際にある小さな黒子。俺がそうなってほしいと考えた顔じゃない。彼女の過去と同じように自動的に出来上がったんだ。
「じゅずちゃんはハムスターだけど、ハムスターはじゅずちゃんじゃないから、ちゃんとじゅずちゃんって呼ばなきゃいけないんだよ」
「しずちゃん、お兄さんに迷惑かけちゃだめでしょ。静かにしてなさい」
俺は静香ちゃんの後ろにいる顔の見えない両親に向き合う。
「いいんですよ」えーと「……新一さん、蘭さん」
両親の顔が出来上がった。蘭さんは四角い眼鏡をかけていて、新一さんはお洒落な口ひげを生やしている。2人とも名前のモデルにしたキャラには少しも似ていなかった。
俺の中の記憶が塗り変わる。最初からこの家族は俺の後ろに立っていて、最初からこの顔だったという記憶が出来る。
「ねぇ、お願いだから無理しないで。顔色が悪いし、さっきからちょっと変だよ」
彼女が俺の耳元で囁く。
「……大丈夫。本当、大丈夫だから。えーと」
美人っぽい名前。メーテル? いや、ない。ブルマ? ないないない。えーと。
「大丈夫だから、心配しないで。麗子さん」
彼女は後ろを向いたままだった。
「麗子さん? ……白鳥、麗子さん」
彼女は後ろ姿のまま黙る。顔は見えない。でも表情は伝わった。「何言ってんだこいつ」的な表情だ。
「休んだ方がいいと思う。私、部屋まで付き添うから」
彼女は俺の手をとって式場の外へ連れ出そうとした。案外力が強い。
「あ、あ、いや。本当、大丈夫だから。少しほら、ちょっと混乱しただけ。大したことないから。俺、俺、もう1回だけ、林田の顔を見てくるよ」
俺は彼女の手を振り払い、再び林田の棺に向かって歩き出す。
出現させた人が名付けないといけないのかもしれない。俺と彼女は林田が出現させた。だから林田自身が名前をつけないと、現実に馴染めないんだ。多分。クソッ。
「はい、すいません。ちょっと失礼しますよ。すいません。すいませーん。とおりまーす」
「おい、順番があるだろう」
「はいはい。すいません」
俺は棺の周りに集まっていた人々をかき分けて前にでる。
「タイムセールじゃないんだから」と文句を言われたけど、そんなのどうでもいい。林田救助が最優先だ。
俺は身をかがめて棺ののぞき窓に体を突っ込む。
「あの人どうしたの」的なざわめきが投げかけられるけど、気にしてる場合じゃない。
俺は生きている林田を思い浮かべながら、死んでいる林田の顔を撫でた。
氷みたいだ。死の温度にたじろぐけど、ここで止めるわけにはいかない。
「林田」
俺は呟き、願い、撫でる。砂が崩れたような感触があった。
でも林田は死んだままだった。
「林田」
もう一度撫でる。砂が崩れる感触。手が離れる。
まだ林田は死んだままだ。
「あなた。仏様の顔に触っちゃだめよ。詰め物がとれちゃうでしょう」
老齢のご婦人の諭すような声が聞こえてきたけど俺は無視する。
焦りで掌に汗が滲んだ。どうして生き返らない? 命だって出せるはずだぞ。猿を人に変えたり、猫を人に変えたり、数珠をハムスターに変えたりするよりも、死んでる林田を生きてる林田に変える方がずっと難易度低いんじゃないのか。
「林田ってば。丈一郎、起きろって」
もう一度撫でる。砂が崩れる感触。手が離れる。
林田の目が開いていた。煮詰めた黒豆を思わせる瞳が、確かに俺を見ている。
「っやったー!」
俺は『ヒーローズ』のヤッターの人みたいに天に両手を突き上げて歓声をあげた。
「何をしてるんだ! やめなさい!」
誰かが俺の肩を掴んで乱暴に棺から引き剥がした。俺は棺の側に尻餅をつく。左手の傷跡を強く床に押し付けてしまい、思わず悲鳴が漏れた。
「乱暴しないで! 彼、病人なんです!」彼女が駆け寄ってきて俺の側に膝をついた。
「だからといって……よくないでしょう。こういう場なんですから」
俺を引き剥がした男が自分は悪くないと肯定してもらいたがっているように周囲を見回した。非難がましい目を向ける人が半分、よくやったと褒めるような目を向ける人が半分だ。
「大丈夫? 立てる?」
「俺より林田だよ! 生きてるんだ!」
男が棺を覗き込んだ。彼女も立ち上がって棺に駆け寄る。林田の両親も加わった。
「目を開けてるだろ! そいつ、生きてるだろ!」
棺を覗き込んでいた人たちは俺の声に返事をしない。それどころか、林田のお母さんが顔を抑えて泣き始めた。林田のお父さんが彼女の肩に腕を回して何か語りかけている。
「詰め物が外に出ちゃって瞼が開いただけだよ。全く。仏さんの顔にベタベタ触るなんて」
さっき俺を突き飛ばした男が非難を込めた声で言う。
「そんなわけない! だって、ちゃんと願ったんだ!」俺は立ち上がって叫ぶ。
「いい加減にしてくれ! 息子の葬儀だぞ!」
ベニチオ・デル・トロの目つきで、林田のお父さんは俺を睨んでいた。
「けど、俺、ちゃんとやったんです! 目を開けたんです! 俺を見たんだ!」
彼女が顔を横に振る。肩が小刻みに震えている。泣いているんだろう。なんなの、このアウェイ感!
俺はもう一度願いをかけるため林田の棺に駆け寄ろうとしたが、数人の男たちに腕を掴まれて阻止されてしまう。その中には俺がさっき実在にしてやった新一もいた。
なんて恩知らずなんだ、工藤! 苗字が工藤かどうかはらないけど!
「落ち着きなさい! 君!」
「林田っ! おい! 林田! 何やってんだよ! 起きてんだろ!」
俺はジャンプして棺の中を覗く。林田が目を開けていた。
でもピクリとも動かない。死んだままだ。そんな。
「もう一度やらせてください! もう一度だけ、林田の顔を撫でさせてください!」
「もうやめないか。みなさんの迷惑になるだろう!」
一段と強い力で腕を掴まれる。振り返るとそこには俺のお父さんが立っていた。
さっきまでいなかった! この葬儀には俺だけで来たのに!
新しい過去ができている。
俺の脳腫瘍が原因で起きる発作は近頃頻繁になっていた。幻覚や幻聴を見ることも多い。だから万が一の時のためにお父さんは俺と一緒に葬儀にでたのだ。
林田が目を開けたという俺の現実は、後付けの過去によって幻覚になってしまった。
「息子が大変ご迷惑をおかけいたしました。もう我々は失礼いたしますので」
お父さんは俺をぐいぐいと引っ張って行く。
「嫌だ! 帰らない! お願いです! もうちょっとでなんとかなるかもしれ」
突然、スカイツリーの頂上から一番下まで一気にエレベーターで降りたような感覚に襲われ、俺はその場に座り込んだ。スカイツリーには行ったことないけども。
視界が狭い。体が倒れてゆく。受け身を取ろうとしたけど、腕が動かない。
お父さんの声と、人々の悲鳴がどんどん遠くへ消えてゆく。
嫌だ。気絶したくない。
俺は顔を林田の棺に向ける。林田を取り戻さなきゃ。
暗くなる視界の中にドミノピザの広告が浮かぶ。
――致命的な脳腫瘍はいかがですか? ――
うっせぇえんだよ! 潰れちまえ!
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