林田の世界
千葉まりお
クジラかイルカか
※動物に人間の食べ物を与える描写があります。真似なさいませんよう。
「度を越している」
窯出しされた直後の土器みたいに乾いた口からやっとのことで声を絞り出した。
林田は「だから言ったじゃないか」と言いたげな顔を俺に向け、実際に「だから言ったじゃないか」と言った。
「薄々、これはもしかすると度を越しているんじゃないかって気はしていたんだ」
林田は首の後ろをさすりながら頭を横に振る。中年になると自然と身につく参ったなぁのポーズだ。
「薄々ってお前……」
俺は視線を林田からソファーに寝転がる非現実の塊に戻した。
「それで、何だと思う?」
林田が俺に尋ねる。
俺も参ったなぁのポーズだ。
日本国。東京都。豊洲。
2LDKデザイナーズマンションの13階。
ミニマリズムの上澄みだけを掬った中途半端にシンプルなリビングの真ん中。
大きなソファーの上に非現実は猫の姿で仰向けになって寝息をかいていた。
雑種。成猫。短毛。今は瞼を閉じているけど、瞳は金色。
ひと月くらい前にマンションのエントランス前で死にかけていたところを林田に保護された雌猫──だったはずだ。
数時間前に起きた大騒ぎなどなかったかのようにリラックスして、クークーといびきをかいている。騒ぎまくったのは俺だが、元凶はこいつだ。俺は悪くない。
猫のようなそれはソファーの肘掛けを枕がわりにして体を伸ばしている。前足は胸の前、後ろ足は軽く交差してもう一端の肘掛けに乗っていた。
ソファーは3人掛けサイズだ。
「デカい」
戸惑いしかない。
「体高85センチ。体長2メートル30センチ。平均的な虎よりやや小ぶり」
「測ったのか?」
俺がそいつを指差して尋ねると、林田は「じわっと染み出すように大きくなり始めた時から」と頷いた。バターじゃないんだからじわっと染み出されても。
「世界1デカい猫の体長は1メートル20センチなんだって。だからそれさえ超えなければこれは猫なんだって納得できると思って。でも1メートル50センチ超えたあたりからあれ? って思い始めて、あれ? って思ってる間に気がついたら2メートル超えてて、それで……ご覧の通りに」
林田は「で、何だと思う?」と切迫した顔でまた俺に尋ねた。
……何って。
「俺は猫だと思うんだ。お前にも同意して欲しい」
「嘘だろ。バカなのか」
反射的に答えてしまった。
林田がムッとした顔で「嘘じゃないし、バカじゃないもん」と言い返してくる。
「ちょっと待て、熟考する。お前はこれを猫だと思っているんだよな? これを?」
林田が頷く。俺も頷く。
「バーカッ!」
「なんで2回も言うんだっ!」
「猫のわけないだろっ! バーカッ! 見てみろ! このビックリサイズ!」
「デカさの問題を別とすれば、普通に猫じゃん!」
「デカさが問題になってる時にデカさを別にする奴があるか! バーカッ! 警察に電話するからなっ! 警察に機動隊なり、動物園の職員なり、マタギなり呼んでもらうんだ!」
スマホを取り出した俺に林田がしがみついてきた。
「通報すんな! これは俺の飼い猫だぞ! せっかく懐いてきたのにそんな突然の別れ、可哀想だろ! 俺が!」
お前がかよと思ったのが顔に出ていたらしく、林田は「自分を哀れんで何が悪い! 俺はお前以外に友達のいない引きこもり予備軍なんだぞ! 猫まで奪うつもりか!」と怒鳴った。
「外に出て俺以外にも友達を作れば済む話しだろ!」
「ハハ、無理」
んの野郎。
「お前が責任持って飼えんのか? こんなに大きな……猫もどきを! ちょっとじゃれつかれただけで即死確定だぞ! 飼い慣らせる野生の範囲超えてるだろ! せめて檻に入れろ!」
「じゃれたりしないもん。お行儀いいもん。飼えるもん。ただの猫だもん」
語尾に「もん」をつけるな。「もん」を。昔のキョンキョンみたいな口調で喋りやがって。
「あのなぁ、林田。イルカだって何メートルか以上になったらクジラって呼ぶだろ? その理屈で言うとそいつは明らかに猫じゃないやつだ。せめてそれは認めていこう」
林田はムーッと唸りながら頬を膨らませる。なんだ。不服か。もやし野郎。
「大体、どうしてこうなったんだ? 前に見た時はこんなじゃなかっただろ?」
俺は先月、遊びに来た時のことを思い返しながら聞いた。
あの時、この猫もどきは「助けてやったんだから鶴の恩返しみたいに人になって嫁にくればいいのになぁー。お前も猫より人間の方がいいよなー? にゃー?」と頭の悪いことを言い出した林田の
「こんくらいだったじゃん。原因に心あたりは?」
俺は両手の指をピンと伸ばして前ならえをし、両掌の間の距離であの時の猫の大きさを表現した。
林田は「原因」と呟いて『バッファロー66』のポスターみたいな顔で俺を見てきた。怖ぇよ。
「……なんだ、その面は」
「別に」
「じゃあそのギャロっちい顔はやめろ。怖ぇから。とにかく心あたりはないんだな?」
林田はまだ何か言いたげに俺をみていたが、俺が「ないよな?」と聞くと肩を竦めて「うん」と応えた。
「なんでこんなになるまでほっとくんだかな。信じらんねーよ」俺はため息を吐く。
「ちょっと待て。いきなり大きくなったら俺だってわかるよ? でも毎日少しずつの変化はわかりにくいんだよ! 抱っこしにくくなったなー? とは思ってたんだよ。でも、まさかここまでデカい猫になるとは」
「猫じゃねーからな」
林田は大げさにため息を吐き、やれやれと言う様に顔を横に振った。
なんで俺の方が聞き分けが悪いみたいな空気を出してくんだよ、お前。
「堂々巡りだぜ。もう一旦保留にしようぜ。疲れた」
「同意。そこらへんに適当に座っててよ。スーパードライ? エビス?」
「冷えてる方で。つか、座るってどこに? こいつ襲ってきたりしねぇの? 本当に? 本当に、本当に?」
「平気だって。大人しい猫だって知ってるだろ?」
「まぁ、時々死んでんじゃねぇかってくらい動かない猫ではあったが……」
猫じゃらしにも無反応。猫タワーにも無反応。あまりにも無反応なので、俺が林田に代わって病院に連れて行ったこともある。獣医は「こういう性格ですね」と慈母の様に微笑むばかりだった。
「そうそう。へーきへーき」
……ミネラル麦茶のCMの人も現地の人に「ヘーキヘーキ」って言われた結果、ライオンに襲われたんじゃなかったっけ?
……。
いや、考えないようにしよう。こいつはライオンじゃないし、俺もミネラル麦茶のCMの人じゃないし。
俺は上着を脱ぎ、恐る恐る猫もどきの向かいのソファーの端に座った。
万が一、猫もどきが襲いかかってきた時、すぐに逃げられるポジションだ。いざという時は林田を囮に使おう。そういうのは飼い主の責務だから。
林田はリビングと仕切りなしで繋がっているキッチンに歩いて行った。
あいつが冷蔵庫を開けたり閉めたり、食器を出したりしている音を背中で聞きながら俺はもう一度、猫の後ろ足のつま先から耳の先までを眺める。
一体、何なんだろうか、これは。
猫もどきは呑気に眠り続けている。鼻のピクピクがいかにも猫らしくて可愛いが、可愛いからって何もかも許されるわけじゃない。
「逆に、他の猫が極端に小さいって仮説もありなのでは?」
俺と猫らしきものの間にあるテーブルにスーパードライと先ほどの騒ぎを生き残ったグラス、チー鱈やらピスタチオやらが入った皿を並べながら林田は言った。なぜか手元にちゅーるを置いている。
「……ねーよ」
「いや。それがそうでもないんだよ。ティーカッププードルってさ、本当は存在しないんだよ」林田は俺の隣に腰掛ける。
「ペットショップに行けばいるとこにはいるじゃん」
「そういうんじゃなくて、品種の話。そういう品種は元々ないんだって。餌を減らして小さいままにしとくんだってさ。小さいままのやつをそういう名前で呼んでるだけなの」
「うぇー。なにそれ、可哀想」
俺達はグラスを軽くぶつけ「うぇぃーっす」と声をあげる。「今夜は長くなりそうだから、ここからがスタートってことで区切りつけときましょか」という意味だ。ザッツ大人の省略言語。
林田は一口ビールを飲んでから話しを再開した。
「一般流通している猫はミニ猫で、このデカいのこそが本当の猫って可能性もあるでしょ? 俺たちが猫だと思っているものは、実は俺たちが飼いやすいように知らず知らずの内にサイズ調整してきたものなんだよ。どうよ! この仮説!」
「ねーよ」
林田が「ねーかなぁ」としょんぼりと肩を下げたその時。
斜め切りにしたトーストサイズの耳が羽ばたくように動いて、猫もどきが目を開けた。
「なー……なっ!?」
猫もどきは俺を見て変な声を上げ、そのまま固まる。車のヘッドライト並みの大きさの目が俺を見ている。
「びっくりしちゃったんだな」と林田。
「びっくりしちゃってんのは俺の方なんだけどな」と俺。
猫もどきは林田に向かって「なー」と鳴いた。もうびっくりするのはやめたようだ。切り替えが早い。猫は執念深いんじゃなかったか。
林田はちゅーるの口をあけると中腰になって猫もどき口の前に持っていく。猫もどきは舌先でちゅーるの先端を何度か舐めてから袋を噛み、パスタを吸うように飲み込んだ。一瞬でちゅーるの袋がぺしゃんこになる。
「なーん」
満足げな顔だ。喉を鳴らして目を細めている。
「図体の割に少食だな」
「今のはおやつだから。1日に食べる総量は人間と変わんないよ。エンゲル係数がかなり大変なことに。我が家の経済は追い詰められているのだ」
「何が追い詰められているのだだ。株で稼ぎまくってるくせに」
「昨日は400万くらいしか稼いでないよ」
「俺の年収軽く超えてくんじゃねぇよ」
このキャピタリズムのハイエナ、ウォール街の1%め。
「で、飯は何あげてんの? キャットフード?」
「今朝はコーンフレークと卵サラダ」
「優雅」
「だって食べたがるんだもん。カリカリもカンカンも食べなくなっちゃってさぁ。ちゅーるだけは食べてくれるけど……流石だよね、ちゅーる」
「人間と同じもの食わすからこうなっちゃったんじゃねぇの? つか、ダメだろ、人間の物食わせちゃ」
「餌減らせば縮むかなぁ」
「無理無理。俺らだって断食したからって子供に戻ったりしないだろ」
猫もどきはあくびをすると、ソファーから下りてどこかに向かって歩き出した。寝てても歩いててもデカい。
俺は立ち上がってあいつがどこに向かうつもりなのかを目で追う。
猫もどきは玄関に続く廊下を進むと、途中にあるトイレの前で上半身を起こし、前足でドアノブを挟んでうまいことドアを開けてみせた。そして中へと消えていく。ドアは開けっ放しだ。
「おぉ。すげぇ」
「だろー?」
うん。なんでお前が自慢げなんだ。林田。
「放っといていいのか? トイレの水、飲んじゃわねーの? あとトイレットペーパーにじゃれたりとか」
「しない、しない。あいつ、猫砂の上でトイレしないんだよね。洋式トイレですんの」
え。
「え? え! 何それ、見たい! 超見たい! 超見てくる!」
俺は音を立てないようにつま先立ちになって素早く廊下を駆ける。
トイレを覗き込むと、猫もどきが便座に腰掛けているのが見えた。前足にトイレットペーパーを巻きつけようとしている。
おー! 本当だ! すげぇ! トイレットペーパーも使うのか! すげぇ!
猫もどきはまたヘッドライトの目で俺を見たが、今度は硬直しなかった。
「シャーッ!」
猫もどきは牙をむき出しにして俺を威嚇すると、こちらに向かって前足を伸ばしてきた。爪が出てウルヴァリンみたいになってる。
引っ掻かれるんじゃないかと思って身構えたが、猫もどきは伸びた爪でドアノブを掴み、ドアを閉めただけだった。
「最近は恥じらいも覚えた」
林田の声がリビングから聞こえた。ドアを閉める音から察したらしい。
「……恥じらわれてもなぁ」
俺はリビングに撤退する。
「やっぱ、猫ではねぇと思うわ」
俺が断言すると林田は眉間に皺を寄せ、子供じみた口調で「もっとこう、偏見のない曇りなき
「なー」トイレから鳴き声が聞こえた。ドアをカリカリと引っ掻く音も。
「はーい」と言って林田が立ち上がり、リビングから出てトイレへ向かった。
トイレのドアを開ける音と、水を流す音が聞こえた後、猫もどきがリビングに戻ってきた。その後に林田が続く。
猫もどきは林田に向かって一言「なー」と鳴いてから、寝室へと去っていった。
「時々、自分でドアを開けられなくなっちゃうんだよねー」
言いながら林田はさっきまで猫もどきが寝転がっていたソファーに腰を下ろした。
「大抵の猫は時々じゃなくてもドアは開けられねぇからな」
その後。
俺達はだらだらビールを飲みながら、あーでもないこーでもないと議論を重ね、ほろ酔い気分で結論を出した。
「グーグルによると世界で一番大きい人の身長は2メートル74センチ。もしも宇宙人が俺達とその人とを見比べたら、俺達とその人を同じ動物には分類しないだろう。俺達はイルカ。その人はクジラだ。大きい人と俺たちは別の標本棚に陳列される。だが、地球に存在するのは人間だけではない。宇宙人たちは標本を増やすうちに気がつくだろう。『これとこれってサイズ違うだけで同じじゃない?』と。そう。物事を大小で分類するのは無理があるのだ。曇りなき眼で見るとそういうことになるのだ。つまりあの猫もどきは、かなり大きめな猫の1種なのだ。ただの大きな猫が、たまたま動物おもしろ動画的な芸が出来るだけなのだ。あれは猫。以上」である。
解決した!
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