ノーインティライミ・ノーフューチャ

 彼女はボールペンをテーブルに投げつけた。ひゃぁ。怖い。

「あのさぁっ! そうやって乱暴な言葉遣いをしたり、物に当たったり、投げたりするのも暴力だからな! DV! DV! 病人相手にDV! DV! やーい! やーい!」

DV家庭内暴力ではないでしょ! 意味わかってないで言ってるでしょ!」

「じゃぁ、暴力! やーい! やーい! 暴力! 暴力!」

 彼女は苦しい時のはだしのゲンみたいな声をあげる。グギギ。グギギ。

「だってこんなの、どう反応すればいいのかわかんないんだもん! どういう話だよ! 戸惑いしかないよ! ねぇ、ほんっとうに、ほんっとうに、今の話を本当の話だと思ってるの? 自分の幻覚だとは思わない? 薬の副作用か何かだって思わなかったの? 私、生まれてから一度として猫だったことなんてないからね! 客観的になってちょっと冷静に考えてみようよ。自分がどれだけ変なこと言ってるかわかるでしょう?」

 まるでちょっと前の自分を見ているようだ。

「このマンションに住んでる人をみたでしょ。誰も行方不明になってないよ。それに」

 彼女は手品師がジャジャーンとやるように両手を広げる。

「私の顔、目の前にちゃんとあるじゃない」

 ないよね。

「どの方向から見ても後ろ姿しか見えない人間なんて、存在するわけないじゃん。怖いよ。そんなのいたら」

 怖いよね。

「……その仏像みたいな笑顔をやめてちょうだい。バカにされてる気分になるから」

「『こういう時期、俺にもあったなぁ』って思ってただけで、バカにしてるわけじゃないから。微笑ましいなって思ってただけだよ」

「そういうのをバカにしてるっていうの。ほら、こっち」

 彼女は自分の隣の席をぽんぽんと叩き、「ここ座って」と言った。俺は言われるがままに彼女の隣に座る。

「はい。どーぞ」

 彼女は頭を俺に向かって傾けた。

「撫でたいんでしょう? どーぞ」

「いや、そうだけど」こんなにあっさり。

 最初からこうするつもり出来たのに、俺は彼女の頭の上で掌を彷徨わせてしまう。

「どうしたの?」

「いや、だって……わかってるの? 消えちゃうんだよ? あなたが人間だったって世界が全部消えちゃうんだよ? それでいいの?」

「いいのも何も、そもそもあなたの話、信じてないもん。満足するまで撫でさせて、あとは病院に連れてこうって思ってるだけ。ほら、早く。変えれるもんなら変えてみんしゃい」

 彼女はぐいぐい頭を前に出してくる。俺の手は彼女の上で彷徨い続ける。見えない何かに阻まれているように、俺は彼女に触れることが出来ない。

 俺はちゃんと説明した。全部打ち明けた。それでも信じないのは彼女の判断だ。

 消せ。

 俺は誠実にやったんだ。いいじゃないか。彼女を消して、林田が帰ってくる。何を迷うことがある。彼女は元々いないんだ。それにマンションの連中だって、元いた場所に帰ってもらうだけだ。俺のせいじゃない。俺が気にすることじゃない。

 首が石になったように重くなり、俺は深く項垂れる。

 ダメだ。出来ない。

 俺の手は俺の膝の上に落ちる。情けない。なんて情けないんだ。ここまできて。

 そのまま動けないでいると彼女の冷たい手が伸びてきて、俺の顔を優しく包んだ。

「苦しい? 大丈夫?」

 俺は彼女の手の中で顔を横に振る。目が熱い。

「どうして泣くの?」

「人の存在そのものを全部消すんだぞ。それも、俺にしかわからない理屈で」

「私の頭を撫でて、猫にしたいんでしょう? ほら、やっていいってば」

「何にもわかってない。本当に消えるんだ。人生が、家族が、過去が、最初から全部なかったことになるんだ。ほんの少しでいいから俺を信じてくれよ。そして、自分勝手な奴だって罵って、責めてくれ。そうする権利があるんだ。この世界の人達全員にそうする権利があるんだ」

 彼女は「変なこと言わないの」と言って俺の顔をテッシュで拭く。

「覚悟してきたはずだったんだ。出来ると思ってた。簡単だって。だって、俺には林田を助けるって大事な、大事な目的があるから。酷いことだって出来るつもりだった。でも誰かが存在していいとか、いけないとか、そんなの俺が決めていいことじゃないんだ。誰であろうと決めていいことじゃないんだ。神様だろうと決めていいことじゃないんだ。でも、でも、それをしないと、林田は戻ってこない。俺の世界も戻ってこない。だから俺、やらなくちゃ」

 喋っているうちに何がなんだかわからなくなってきてしまって、俺は顔を抑えて泣いた。

「あなたが言った通りだ。俺、説明、へたっぴで、うまく言えない。こんなつもりじゃなかったのに。自分が、俺のお母さんを殺したあいつやアパートの大家と、何が違うのかわからなくなってきて。俺もスズランみたいな、人殺しの目をしてるんじゃないかって思えて」

「無理して喋らなくていいから」

 彼女は俺の背中に両腕を回し、肩甲骨のあたりを撫でる。余計に涙が出る。これから消す相手に慰められてどうするんだと思ったけど、どうしょうもない。そういえば林田が死んでしまってから初めて、俺の身に起きたバカみたいな話を誰かに聞いてもらったんだ。

 最初に言おうと思っていた言葉が――林田と世界を元に戻すために消えて欲しいとか、許して欲しいとか――舌の上で溶けてしまって、唇からこぼれる時には俺自身、言うつもりなんかまるでなかった言葉に変わってしまう。

「こんな風になった原因は俺なんだよ。林田が死んだ原因は全部俺なんだ。あなたのせいじゃないんだ。そもそもはあいつが俺なんかを受け入れたからこんなことになった。あいつ、林田、俺のために自分の世界を譲ったんだ。自分の現実を譲ったんだ。自分の世界を諦めて、俺がいる世界を現実にしたんだ」

 目を顔からこぼれさせようとでもするみたいに涙が出てくる。

「あいつ、1人で死んだ。俺はそれを笑ってみてたんだ。あいつが最後に見た俺は、死んでいくあいつを笑ってみてる俺なんだ。俺は林田を『こいつが感じてる苦しみは勘違いだ。だって、妄想なんだから。苦しくなんてないはずだ』って扱ったんだ。苦しいか苦しくないか、決めるのは林田なのに。酷いことをしたんだ。だから、もしあいつを取り戻せるチャンスがあるのなら、俺はそれがどんなことでもやらないと。でも、本当にこんなことはしたくないんだ。でも何度も、何度も、何度も考えても結論が変わらないんだ」

 彼女の手が子供をあやすように優しく背中を叩く。

「ごめん」

「大丈夫。大丈夫。ほら、ゆっくり呼吸して」

 耳元で彼女が囁く。彼女の胸が俺の胸に触れているのを感じる。俺が目を閉じていれば、彼女の体は後ろを向いていない。彼女の顎が俺の肩の上に乗る。

「あいつに俺の名前を呼んで欲しいんだ。だから俺はどうしても、あなたやマンションの人たちを消すしかない。その方法しか選べない。ごめん。ごめんなさい。本当に」

 ごめんなさいと繰り返しているうちに声がつまって、何も言えなくなってしまった。

「悪いけど、あなたの話はとてもじゃないけど信じてあげられないよ。でも、あなたが苦しんでいるのはよくわかったから」

 彼女の声にはからかうような響きはこもっていなかった。

「こう考えてみたらどうかな」彼女は俺を抱えたまま体を前後に揺らす。母親が赤ん坊を抱きしめてゆっくり揺らすような心地のよい動き。

「世界はね、枝分かれするの。あなたが私の頭を撫でて『猫になーれ』って願うと、私が猫になった世界と、猫にならない世界に分裂するんだよ。ほら、あの、パラレルワールドだよ。パラレルワールド」

「……根拠は?」

「これはただのお話だよ」

 つまり根拠はないのか。彼女は少し黙ってからまた話し始める。

「あなたの世界で私は大きな猫になって、マンションの人は全員消えてしまう。でも、その代りに丈一郎君が戻ってくる。あなたと私は丈一郎君を出迎えて、ハッピーエンド。そして私の世界では、私は私のままで猫にはならない。私はあなたの家族と病院に連絡して、あなたを病室まで連れて帰る。それから病院の人に頼んで、あなたが落ち着いて眠るまで側にいさせて貰う。ご家族も一緒に。明日の朝まであなたはものすごく気持ち良く寝るの。そして自分の人生をきちんと歩いていくんだよ。……ほら、超ウィン・ウィンじゃん」

「……そんなのでたらめな、ただの作り話だ」

 俺が彼女の腕から逃れようと身をよじると、彼女の方からそっと腕を離した。

「それでもいいじゃない。ただのお話でも、『もしもそうだったら』って思うだけで、気持ちがずっと楽になるし。あなたは、私を撫でて消さなきゃいけない。あなたの話しによると、あなたは大量殺人者にならなきゃいけない」

 彼女は「殺人者っていうのとは違う気もするけど。世界のことを背負い込みすぎじゃない? 神様じゃないんだからさ」と肩を竦めた。

「これはどうしても避けられないんでしょう。でも、私が別の世界に生きてるって思えば、それを想像さえできれば、現実は何も変わらなくても心の痛みは楽になるでしょう」

 彼女は静かに言葉を続ける。

「丈一郎君のお葬式が終わってからね、糸が切れたみたいになっちゃった時期があったんだよ。仕事も休んで、友達や家族にも会わないで、一日中テレビみてたの。観たいから観る番組じゃなくて、観ても観なくてもいい番組。そしたらナオト・インティライミが出てきてさ。私、あんまり好きじゃなかったんだよね。ナオト・インティライミ。何か理由があるわけじゃないの。むしろ、理由なんて1つもないの。それなのに嫌いだったんだ。でも、インティライミを見てる内にね、『もしも私が私インティライミだったら、どうするかな』って思ったんだよ。もし私がインティライミなら、きっと窓を開けて、空気の入れ替えをして、お風呂に入って、ジーンズとシャツの楽な格好で、海でも行くんじゃないかな? って。そんでね、行っちゃったの。海。1人で。湘南。そんでね、インティライミだったらこうする、インティライミだったらこういう、って、全てを私の頭の中にいるインティライミ基準でやってみたの」

 インティライミ基準。

「海岸走ったり、知らない人に声かけてサッカーやったり、ウクレレ弾いてみたり、服のまま海に入って、ミスチルの歌歌ってみたり。そしたらね」

「なに?」

「なんと、何も変わんないんだよ。何1つ変わんないの」

 何がおかしいのか彼女は声をあげて笑う。

「服も靴もビショビショ。泳いでるうちにお財布落としちゃったし、スマホもずぶ濡れ。自動販売機の周りをうろちょろして小銭集めて、実家に電話して迎えに来てもらったの。ノイローゼなんじゃないかって心配されるし、風邪ひいて寝込むし、相変わらず寂しいまんまだし。何にも良くなってないんだよ。何にも解決してないんだよ。よけい嫌いになったよね、ナオト・インティライミのこと」

 とばっちりもいいところだな、インティライミ。

 彼女は「でもさ、私、部屋から外に出られたんだよね。電車にのって、海まで行けたんだよね。ずっと閉じこもってたのにさ」と続けた。

「あの時私の頭の中にいたナオト・インティライミは、本当のナオト・インティライミじゃないし、私にとって都合のいいナオト・インティライミなんだけど、私の心は動かしたんだよね。っていうか、もう私の心は動いていて、インティライミはその心が作り出した、私の負けん気だったんだよね。そういうことじゃん。あなたのいう世界が存在するか、しないかは、私からいうと『存在するわけないじゃん』って感じだけどさ。『もしも本当に存在したら』っていう物語を思い描くことが出来たらさ。大きな猫と生きてる丈一郎君と猿だったあなたが楽しく生きてる世界がどこかにあるかもって物語を思い描けたら、私の世界は何1つ変わらなくても、私は部屋から出て、海に行って、ウクレレ弾いて、歩いていくことが出来るじゃない。だからあなたも、『どこかにこのマンションの人達が全員生きてて、私も人間のままで、あなたが人殺しになんかならない世界がある』って物語を思い描ければ、やらなきゃいけないことを、やれるでしょう」

 俺は考えてみる。

 ……。

 …………。

 ………………。

「......『俺の頭の中にある別の世界で君は生きてるんだから、ここで君が死んでももんだいない。死ぬがいい』って言われたら納得出来るの? それって超サイコじゃん」

「まーだーくーいーさーがーるーのーかー」

 ぼーくードーラーえーもーんー、みたいな間延びした声で叫ばれる。

「しーつーこーいー。くーどーいー。いーまー、いい話しーたーでーしょー、なっとくしーてーよー。もぉー」

 彼女はバンバン背中を叩いてくる。Vだ。やはりV癖がある。

「ふわっとしたいい話であることと、納得は別問題だろ!」

「あなたは、ほんっとうに意図がわからない人だね! 言葉の通りにしかとれないの! 私が言いたいことはインティライミの癒し効果についてだけど、伝えたいことは『絶対にやりたくないことでも、どうしてもやるしかないのなら、それをやるために自分用のお話を、物語をもちなさい! 物語があるからってやりたいくないことをやらないで済むわけでも、事態が変わるわけでもないけど、身動きはとれるようになる! どうしょうもないことをどうしょうもないのにどうしょうもなく悩むんじゃありません。ふぁーいと!』ってことと、『悲しんでないで元気出して! 気の持ちようだよ!』ってことだよ!」

 ……。

 …………。

 ………………。

「だったら最初っからそういえばいいじゃん! まどろっこしい!」

「最初っからそう言ったらどうせぐだぐだ悩むでしょ! あなたね、バランス悪い! ああじゃないか、こうじゃないかって、どうせ答えの出ないものをずっと考えて、ずっと1人相撲してる! 結局、何もしないためのいいわけじゃないの!」

「そんなこと」

「あるでしょ! あなたの心のティライミに恥ずかしいと思わないの!」

 俺の心はノーインティライミだよ。

 彼女は頭をさらに俺の方に突き出す。

「ちゃちゃっとやって。満足したら病院に行くからね」

 俺は深呼吸をしてから彼女の頭の上に手を置く。

 髪に触れる。ちょっと硬くて、ハリがある。ユーカリの甘い匂いがした。

「……あなたが猫に戻って、林田が帰ってきたら、ソフトクリーム食べさせてあげるから」

「あのさぁ。さっきも思ったんだけど、あなた動物飼ったことないでしょ? 猫にソフトクリームなんて食べさせちゃいけないに決まってるでしょ。お腹壊しちゃうよ」

「そうなの?」すっごい美味しそうに食べてたけど。

「人間の食べ物を平気で動物に食べさせちゃう人はね、どんなにいい人そうでも自分以外の命に対してすごく冷淡で切り捨てが早い人だよ。ダメだよ、そんな人が猫飼っちゃ」

 猫の私にはバランスのいい食ことをよろしく、あと丈一郎君のことは叱っといてね、と彼女は笑う。俺も笑う。笑って、それから笑うのをやめる。

「ごめんなさい」

 俺は言う。

「それから、ありがとう」

「どういたしまして」彼女が笑う。

「あと」

「何? まだ何かあるの? もういいでしょ。ちゃちゃっとやっちゃってよ」

「この世界の過去の俺ね、あなたのことずっと好きだったよ」

 彼女が小さく息を飲んだ。

「なんでこのタイミングでそういう」

「あなたが、大きな猫だったらいいのに!」 

 叫び、願い、撫でる。砂が崩れるような感触。

 うるさい花火の音が消える。人々の怒鳴り声が消える。彼女の髪の感触が消える。

 俺は目を開ける。


 「林田、なう」

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