前回までの林田の世界は
俺はサザエとカツオの喧嘩に挟まれたマスオさんくらいオロオロしていた。
「違うんだってば! そういうことを言いたいんじゃなくて、っていうか、そこは本題じゃないんだって!」
縺れる舌を動かして必死に弁解する。
「そういうことじゃないなら、どういうことなの! 言ってみなよ! ほら! 言ってみろってんだ、この野郎!」
彼女は両手でテーブルを叩く。言葉遣いが荒い。怖っ。
「だーかーら! 辻褄あわせの過去のせいで林田が死んじゃったから、そうなった原因である君を元に戻そうかと」
「ほらー!」
どどん波ぱみたいに俺を指差して彼女は叫んだ。
「ほら! 違くないじゃん! 言ってんじゃん! 丈一郎君がし、し、し、し」
水中で限界まで息を止めていた人が水面に顔を出した時に発するようなゴヴァゴヴアァした音を立てて彼女は呼吸した。今にも興奮のあまり倒れてしまいそうだ。
「ちょっ、ちょっと、落ち着いて。一旦落ち着いて。俺の言い方が悪かった」
「しーっ! しーっ! しーっ!」
彼女は胸――の、位置にある肩甲骨の真ん中――に手をやり、「しーっ!」と繰り返す。餅を喉につっかえたみたいに苦しげだ。「んがぐぐ」だ。これが例の「んがぐぐ」っていうやつなんだな! どうしよう。水? こういう場合、水飲ませればいいのか? あ、あれか、か、紙袋? 紙袋を口にかぶせればいいの? 水を飲ませてから紙袋を渡せばいいの? 紙袋を飲ませてから水を渡せばいいの?
俺は「どうしよう」と言いながらソファから立ったり座ったりしてしまう。
「死んだ!」
遂に彼女の喉につっかえていた言葉が飛び出した。
「丈一郎君が死んだっ!」
彼女はまたテーブルを叩く。スーパードライとコーラが跳ねる。
俺も気圧されてビクッと跳ねる。
「死んじゃった! 死んじゃったの! 何、突っ立ってるの、座んなさい!」
「いや、あの水か、紙袋を、あの、苦しそうだから」
「座んなさい!」
「はい」
俺はソファーに腰を下ろす。びびったわけではなくて、素直ないい奴だからだ。
「私だって、すっごく辛いのに! でもあなたの前で泣き言いっちゃいけないって、しっかりしなきゃいけないって思ってきたのに! それを、それを、私のせいで丈一郎君が死んだなんてよくもっ! このクソ野郎! 最低だ!」
彼女は見えない顔をごしごしと拭う。うわあー。泣かせちゃった。
「あなたは何にも悪くないんだよ。本当、これは本当に」
「私のせいで丈一郎君が死んだって言った! 言った! 言った!」
「違うってば!」
「言ったじゃん! 言ったじゃん! 誤魔化してんじゃねーよ! 最低! 大嫌い!」
彼女はクッションを掴んで俺に向かって振りかぶったかと思うと、また元あった場所に戻す。周囲を見回し、コーラの入ったグラスを手に取りかけては止め、ペットボトルを手に取りかけては止め、テッシュの箱を手に取り、それを俺に向かって振りかぶったかと思うと、やっぱり止め、中からテッシュを1枚、1枚引っ張り出しては俺に投げつけ始めた。
「言っていいことと悪いことの区別もつかないの! バッッカじゃないの!」
ティッシュは俺には届かず、ひらひらと空中を舞いながらテーブルに落ちてゆく。
何してんだろう……。
「病人相手に物投げれないでしょ! そんなこともわかんないの!」
気を使わせていた。
「本当なら引っ叩いてやりたいんだから!」
彼女は空になったテッシュ箱をテーブルの縁に叩きつける。
「こうして! こうして! こうして! こうして! こうだよ!」
ぺしゃんこになったテッシュ箱は壁に飛んでゆき、ぶつかって床に落ちた。
彼女はテーブルの上や周りに散らばったテッシュを何枚か掴むと、それで俺には見えない顔を押さえて「うあー!」と更に激しく泣き始めてしまった。
ど、ど、どう、どうしよう。
「違うんだよ! 泣かせるつもりじゃなかったんだって!」
「じゃぁ、どういうつもりで『お前のせいで林田が死んだ』なんて言いにくるの! バカなのかな? バカなのかなぁーっ!」
「待って! そんなこと言ってないから! 俺が意図していたところとは違うところにひっかかりができてしまったというか」
「言ったじゃーん! うわー!」
「言ってないってば!」
「言ったー! 言ったー! ひーどーいー! ひぃーどーいぃー!」
彼女は子供みたいに俺を指差し、両足をばたつかせる。
「言ってない! そういうことじゃないんだ!」
「うわー!」
「あー。もぉーっ!」
この後――サー! ――10分程――サー! ――中国の凄い選手達の間で行われる――サー! ――凄い卓球の試合みたいに――サー! ――言った言わないのラリーが――サー! ――凄い続いた――サー!
あまりにも話が前に進まないので「はいはい、俺の言い方が悪かったです。ごめんなさいね。はいはい。これで満足でしょ!」と投げ槍に白旗を括り付けてぶん投げたのがよくなかった。
ちゃんと謝ったのに彼女の怒りは激しさを増し「あなたのそういうところが! 性格が! 生き方が! 他人との向き合い方が! 心のありようが!」と俺の内面全てに対するダメ出しが始まってしまった。
ダメ出しはかなり長く続いた。父系家族至上主義的な思想がいかに女性を苦しめてきたのか的な近代社会の罪まで俺が背負わされたし、2週間以内に「未来を花束にして」を見ること、そしてその映画のことは原題の通り「サフラジェット」と呼べと言われた。なんでだ。
怒るだけ怒って精神的に余裕が出来たのか、彼女は「あなたも反省しているようだし、これくらいで勘弁しといてあげる。じゃぁ、もう一度ちゃんと話して」と俺に続きを促した。
かなり複雑で面倒な話だから、出来るだけわかりやすく伝えないといけないだろう。俺はどう話すべきかを今一度頭の中で順番を組み立ててから、改めて語り始めた。
俺と林田に見えている世界のことを。
「実はこう見えても、この俺は元々動物園の赤ちゃんマンドリルで――」
30分後。
「……こういうわけなんだけど、わかった?」
恐る恐る聞いてみる。彼女からの答えはない。
「……だからね、もう1回言うね。まず、この俺がマンドリルなんだけど、それは遠い昔のことで、マンドリルだった俺はもう死んでいて、そこから人間に個人的に進化したのね。猿としての俺の死を経ての俺誕生なのね。それで俺という存在の過去ごと変わっていて、人間としての過去と家族が自動的に出来上がってね。俺としてはマンドリル時代の記憶は赤ちゃんの時の記憶みたいなものでそんなにははっきりしてないっていう感じではあるんだけど、覚えてはいるし、それが林田の方の過去と噛み合ってることもわかってはいて、でも俺としてはやはり人間としての過去の方が捨て難いというか……あ、待って、その前にあなたの猫としての生活から話した方がいいよね。まず猫がいるだろ、これがデカくて、人懐っこいんだけど、その猫を林田が撫でてるわけなんだけど、林田は彼女が欲しくて君を猫から人に変えたんだけど、それは不可抗力で……あ、林田の超能力の話を忘れてた。あのね、林田はすごくて、超能力が」
「やめなさい! 一旦、全部やめなさいっ! 一回黙れ!」
「ん? なんかわかんないところあった?」
彼女は両手を膝の上に置き、背筋をすっと伸ばした。そして人差し指で俺を真っ直ぐ指差す。なんだろう。またどどん波ぱかな。
「何言ってんのか全然わかんない! 説明へたっぴかっ!」
え。
「え、なんでわかんないの……?」
引くわぁ……。え、なんなの。ちょっと怖いんだけど。え。
「30分! 30分も話し聞いてるけど、話しはあっちこっちに逸れるし! 途中まで話しては『これ言うの忘れてた』って後出しで付け加えてくるし! なんなの!? 新しい拷問なの!? もう嫌! これ以上任せておけなない! ちょっと待ってて。紙とペン持ってくるから!」
彼女は「こんなに説明下手な人初めて! へたっぴ! どへたっぴ!」と文句をいいながら寝室へ姿を消した。開きっぱなしのドアから引き出しを開けたり閉めたりするような音が聞こえる。しばらく待っていると大きめのリングノートとボールペンを手にした彼女が戻ってきて、また俺の正面に座る。
「よくそれで係長になれたよ! 人材不足なのかな!」
「元々複雑な話なんだ! これでもすごくわかりやすく話してるんだぜ!」
彼女はペン先を俺に向けると「無自覚、超へたっぴ!」と語気を荒げる。
超までつけることないじゃん。傷つくわ。
「私なりに頭の中でまとめたことを書くから、間違ってたら教えて。そっちの方がイライラしないで済むから」
「俺は別にイライラしてないよ? 理解出来るまで何時間でも話すけど」
俺、案外忍耐強い方だし。そこ、俺のいいところの1つだし。
「わーたーしーがー! イライラしてるのです!」
「それはそっちの都合だろ!」
「黙れ!」
「はい」
彼女はテーブルの上にノートを広げ、そのページの真ん中に棒人間を描いた。
「はい! これが、林田丈一郎君」
彼女は棒人間の頭の部分の丸の中に「林」と書いた。
「丈一郎君はとにかく凄い」
彼女は棒人間改め棒林田の横にフキダシを描き、その中に『俺がこうだと思えばこう! って出来るマン!』と書いた。
「もうちょっとこう……書き方ってものが」
「説明超へたっぴマンは黙ってて」
変なあだ名つけられた。
「そしてこうでしょ」
彼女は棒林田から離れた所に一回り小さい棒人間を描き、尻尾を生やした。丸の中に「サ」と書く。棒猿の出来上がり。
「そんでもってこう」
彼女は棒林田から棒猿に矢印を伸ばし、矢印の上に『友達だったらいいのに』と書いた。
「そしてこっからはこう」
今度は棒猿から棒林田に矢印を伸ばし、『オッケー! 全然大丈夫ダヨー』と書く。
……ノリが軽い。なんでそんなローラみたいなノリでまとめるんだ。
「ここまでが……ようするに『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の最初の世界。うだつの上がらないお父さんと覇気のないお母さんと意地悪な兄姉の世界ね」
彼女は棒林田と棒猿を丸で囲む。
「そんでこれが『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の最後の世界。売れっ子作家なお父さん、元気なお母さん、優しい兄姉。同じ世界、同じ町、同じ人達だけど全然違う」と言いながら『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最初の世界』の丸と一部分だけ重なるように『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』の丸を描いた。2つの楕円が重なるその一部分に場所に棒林田がいる。
「最初の世界は最後の世界が出来た瞬間に、全部なかったことになる」
彼女は最初の丸の上に大きくバツを書いた。それから棒林田の周りに新しい棒人間を描き、頭部の丸の中に何か文字を書いた。文字が読めない。ってことはあれは俺か。棒俺。
「最初の世界から全然違う形になった人もいれば、あまり変わらない人も、そもそも人ですらなかったのに人になっちゃった人もいる。あなたとか」
彼女は棒猿から棒俺に向かって線を引き、その両端に矢印をつける。
「マーティー・マクフライこと丈一郎君は、世界が急に変わっちゃって大パニック。残念なことにデロリアンは持ってないし、状況を共有出来るドクもいない。彼だけが世界の変化に乗り遅れちゃった」
彼女は『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』の丸の中に棒人間を並べ、フキダシを描いた。その中に大きな文字で『あいつどうかしてるぜー!』と書いた。
「その内、丈一郎君はこう思い始める」
彼女は棒林田の横に新しく丸いフキダシを書く。
「『最初から『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最初の世界』なんてなかったんだ。そういうことにしておこう。それでいいじゃないか。『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』の方が素敵なんだから!』って」
彼女は棒俺の周りに星と『キュピーン!』という文字を書いた。
一々、軽くないか。扱いが。
「そして時は流れ、丈一郎君自身も完全に世界の書き換わりを忘れた頃」
彼女は『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』の丸の中に小文字の「n」に尻尾と頭をつけたような、簡単な猫の絵を描いた。
「丈一郎君はうっかり飼い猫に願いをかけちゃう。無自覚でノーコンな創造主ね。自覚してないだけでうっかり創造はいっぱいありそう。丈一郎君が『こんなのがあればなぁ』って願った途端、丈一郎君にとって都合のいいものができて、その都合のいいものが出来るたびに、世界が組み替えられてる。ちょっとずつ。ちょっとずつね」
彼女は棒林田から棒猫に向けて矢印を伸ばし、『婚期迫ってるし、そろそろ彼女欲しいわー』と書く。そして今度は棒猫から棒林田に向けて矢印を伸ばし、『オッケー』と書く。
「……もうちょっとシリアスにしてよ」
「わかりやすいんだからいいじゃん」
「だって、これじゃぁ怖さが伝わんないじゃん。なんか……面白い話になっちゃってんじゃん!」
「え! 怖い話だったのこれ? 嘘でしょ!」と彼女が声を上げる。
「過去が知らない間に書き変わったり、ずっと知ってると思っていた人が本当はいなかったり、怖いじゃん……。今の自分が、もしかしたら知らない間に自分じゃなくなってるかもってことじゃん。怖いじゃん」
彼女は首をかしげる。
「無自覚なら別に怖くないんじゃないの? だってほら、人間の細胞って入れ替わるんでしょ? 生まれた時の自分と今の自分だって細胞は全部入れ替わってるんだから、知らない間に作り変わってるようなもんじゃない? 自分が自分を自分だと思えば自分だよ」
「そんなのただの主観じゃないか」
「主観以外で物事を見られるわけないでしょ。人間なんだから」
くだらないことを聞くなというように彼女は言う。
「あなただって私のこと、あなたの視点でしかみれないでしょ。誰だってそうだよ。自分の主観と他人の主観が完全に一致したら、他人がいなくなっちゃうじゃん。全部自分になっちゃうじゃん。気持ち悪いよ、それ。ねぇ、説明に戻っていい?」
「あ、うん」
俺がノートに目線を向けると、彼女が再びローラナイズされた説明を続ける。
「こうして猫は丈一郎君の彼女こと、私に変わり、新しい世界がドーン!」
彼女は2つの丸の下に新しい丸を描く。3つの丸が棒林田の部分だけ重なっている。
「これが『バック・トゥー・ザ・フューチャー3』の最後の世界ね。これが出来たから、今までの『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』はなかったことになる」
「3なの? 2じゃなくて?」
「1の最初の世界では西部開拓時代に事故死してしまっていた女性を、死ななかったことにしちゃうのが3でしょ? 3で1の最初の世界も1の最後の世界も目立たないけど書き換わってるじゃない。一番最後に出来上がった過去が現在を変えちゃうんだから、3の方があなたの話にぴったりくるでしょう」
「あー……そうだっけ」3はあんまりよく覚えてないんだよな。
「そしてその3の世界で丈一郎君は」
彼女はテーブルを指で叩き始める。爪が割れるんじゃないかと思うくらいの勢いだ。
「丈一郎君は脳腫瘍のせいで幻覚をみている病人として世界に組み込まれてしまった。そして丈一郎君は……丈一郎君は死んでしまった」
彼女は口の中に流し込まれた毒を吐き出すような声を出した。
「丈一郎君の願いによりあなたは今はもうない『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』のあなたに戻った」
「戻っただけじゃない。俺は今までの世界のあらゆる俺なんだ」俺は付け加える。
「単に記憶を持ってるってだけじゃない。こう、なんていうか、時間とか世界とかそういうのとは別の部分で同一っていうか。うまく言えないけど、今はそういう感じなんだ」
「ふわっとした概念を持ち出すのやめてよ。また話がわかりにくくなるじゃん」
彼女は肩をすくめる。
「とにかく、丈一郎君から超能力を受け継いだあなたは、現在を変えれば過去が変わるはずだと予測をつけ、私を『バック・トゥー・ザ・フューチャーの最後の世界』が存在していた頃の巨大な猫に戻すつもりでここに来た。そうすれば丈一郎君がしななかったことになった世界が出来るから。あってる?」
俺は拍手する。あってる。あってる。
「……で、あなたが言うには」
彼女の声が低くなる。
「私こと、巨大猫は『さんま御殿』が大好きで」
そうそう。
「ソフトクリームも大好きで」
そうそう。
「オウムみたいな声で『林田、なう』って言う」
「そうそう! その通り!」
「……通るか、そんなもん!」
なぜそれが通ると思ったんだと、この後めちゃくちゃ怒られた。
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