林田の世界


 キンキンに冷えたスーパードライを飲みながら、俺は暇を持て余していた。

 暇で、暇で、暇。俺が暇を持て余しているというよりは、暇が俺を持て余している。

 せっかくの休日だというのにやることが何もない。やりたいこともない。

 だからこんな天気のいい土曜日の真昼間から酒を飲んでいるのだ。

 完全にダメ人間。

 あいつがいなくなってから自分のダメさに目が向くようになり、色々きつい。

 あいつがいた時は、俺よりは大体あいつの方がダメ度が高いから「俺、普通だよな」って思えたけど、1人になったからわかる。俺は俺でダメだと。

 俺はため息を吐き、天井を仰ぎ見る。

 ここ数ヶ月、本当に慌ただしかった。

 主にあいつのせいだ。

 いや、あいつのせいではないのかもしれないけど。

 発端はこうだ。

 あいつの家族、朝倉一家は今時珍しいものすごく仲のいい家族で、月に一度の映画ファン感謝デーに揃って新作映画を観に行くのが習慣になっていた。

 その日、あいつは何か急な用事ができたとかで――どんな用事だったのか本人も覚えていないのだそうだ――1人だけ約束の時間に遅れていた。

 このままでは映画の時間に間に合わないと、全力で映画館に向かって走るあいつを、突如空から降ってきたカジキマグロが直撃したのだ。


 意味がわからない。

 当時も意味がわからなかった。

 今も意味がわからない。


 最初にあいつの母親である南さんから連絡を受けた時も、本当に何を言われているのか全然わからなかった。

 病院に駆けつけて、泣き崩れているあいつの妹の七実ちゃんから「空からカジキマグロが降ってきてお兄ちゃんにぶつかった」と聞かされた時も、本当に本当に何を言われているのか全然わからなかった。

 でも、言われた通りだった。

 どこか遠い海の上で発生した竜巻が、たまたま海面付近を泳いでいたそのカジキマグロを吸い上げ、遠くへ運び、また別の竜巻がそれを吸い上げ、遠くへ運び、また別の竜巻が……そしてついにカジキマグロは日本の上空にまでやってきて、落下し、あいつに激突したらしい。

 そんなバカな話があってたまるかと思うが、今の所、一番可能性が高いのがこれなのだとあいつの父親である義彦さんは言っていた。

 蛙や魚の群れが時々、どこかの村に降り注いだりする怪現象と同じ理論だそうだ。

 それにしちゃぁ、ピンポイント過ぎる。

 神様とかそういう超次元的な存在に滅茶苦茶嫌われたかしたとしか思えない事故だ。

 一体あいつは前世で何をしたんだろうか。

 

 幸いにもカジキマグロはあいつの肩の骨をそれはもう綺麗に砕いただけで、それ以外は特に後遺症が残るような怪我はなかった。意識もすぐに戻ったし、俺は安堵していた。

 あいつがすごくキリッとしたイイ顔で、「俺のことはサッター・ヤシュリナーダ・ラボリラボリ。そう呼んでくれて構わないんだぜ」――と言い出すまでは。

 

 雷に打たれたのがきっかけで神に目覚める人がいると聞いたことはあったけど、カジキマグロに打たれて神に目覚めるとは予想外だった。

 最初は「あんなことがあったんだから仕方ないよな」と見守っていたのだが、退院許可が出てからもあいつはやれガンジスがどうの、やれ世界の認識がどうのと話し続けた。

 しまいには「これは俺が考えた架空の神の話なんだけど」と、2時間くらい想像上の神の話を聞かされた。

 サッター・ヤシュリナーダ・ラボリラボリというのはあいつが自分で考えたあいつのインドネームだそうだ。

 なんだよ、インドネームって。絶対そんな名前のインド人いないだろ。

 

 それでも俺は楽観視していた。

 あいつとは長い付き合いだ。どういうきっかけで知り合って仲良くなったのかあまりよく覚えていないが――本当になんだっけなぁ。気が付いたら一緒にいるなぁ――あいつがどういう奴かは大体把握しているつもりでいた。

 一度こうだと思い込むと満足するまで突っ走るし、調子に乗るとしっぺ返しを食らうまで止まらないのだ。

 それでいてものすごく飽きるのが早い。

 製麺機と馬鹿でかい鍋を買って「究極のラーメン」を作り始めたかと思えば3日で飽き、燻製機と桜チップとカマンベールチーズを買って「俺は今日から燻製師になるんだ。オシャレなバルに燻製を下ろすんだ」と息巻いたかと思えば3日で飽きる。

 だからきっと「こいつは神様を作りたい時期なんだな」と思って放置していた。その内に飽きて、今度は生ハムの原木を使ったピザ作りとか、あるいは真田紐作りとかにハマるだろうと思っていた。

 

 だが、そうはならなかった。

 3日前。

 あいつはとうとう旅立ったのだ。インドに。

 自分が考えた想像上の神様を――現実を認識するハイルーラーとかそんなの――崇める宗教を布教するために。


 「マジで行くとは思わなかった」

 独り言は思ったより大きく部屋に響いた。

 俺はスーパードライを一口飲み、ため息を吐きながら目頭を指で揉んだ。

 成田空港で別れた時、あいつはそれはもうイイ笑顔で俺とあいつの家族にブンブンブンブン手を振った。

「俺ー! 絶対ー! 絶対にー! ローラ・マクガナンにも負けない立派な教祖になって帰ってくるからー!」

 ローラ・マクガナンはミネソタに住んでいるアメリカ人の女性で、既にお亡くなりになったのだそうだ。全部あいつが考えたんだけども。

 好奇心も手伝って名前でググってみたら同姓同名の人がミネソタに14人いて、そのうちの1人の孫がフェイスブックをやっていた。これがまたすごい美少年で、変態のフォロワーがいっぱいついてた。俺はちょっとだけ他人の濡れた靴下を掴んでしまったような嫌な気持ちになった。

「仏教ワンダーランドをー! 俺色に染めてくるからー! 俺、絶対に! 世界を救って帰ってくるから! それまでどれくらいかかるかわからないけど! 待っててくれよな! ハポーン! 絶対に、待っててくれよな、ハポーン! ハポーン!」

 あいつは胸の前で両手の指をくっつけ、「大宇宙支配者に栄光あれ!」と叫んだ。

 これもあいつが作ったオリジナルの宗教的な何かだった。

「ハポーン! ハポーン!」

 あいつの「ハポーン!」という声は、あいつの姿がゲートの向こう側に消えた後もしばらく続いた。

 勢いに負けて、俺は「インドはヒンズー教だからなー!」とか「ハポンはスペイン語だー!」とか、「お前、向こうで何かあって命を落としたとしても、面白ユーチューバーが死んだとしか思われねぇぞ」とか、そういう言葉を言い忘れてしまった。

 今でもものすごく後悔してる。

 

 正直に言うと、とても寂しかった。

 土日になると常時あいつが入り浸っていた部屋が、とても広く感じられる。

 ここでイカフライバリバリ食ってたなぁとか、よく銀だこのお土産買ってきたなぁとか、一緒に海外ドラママラソンしたなぁとか。

 あいつがいない時の方が、あいつの存在感が増している。

 寂しい。

 あいつ、ここにいてくれりゃいいのに。

 

 チャイムが鳴った。

「はーい」

 誰だろう。

 大家さんかな。あの大家さん、良い人なんだけど親戚に甘いんだよね。

 チャイムが連打される。うるさいなぁ。


 ドアを開け、俺は絶句する。

 あいつが立っていた。

 成田で別れた時とおんなじ格好で。

 俺は言葉を無くし、あいつの頭からつま先までを凝視する。

 あいつも、なぜか自分の手足をびっくりした顔で見ていた。そこに自分の体があるのを確認するように、両手で自分の腹やら胸やらを叩いている。

「お? お? お? ある? あるじゃん? 俺、在るじゃん?」

 へへへへーとあいつはそれはもう気持ち悪く笑った。

「え、お前、なんでここに」

 あいつは俺に何かを言おうとし、それから急に大声で「あの野郎ーっ!」と叫んだ。

 空を見上げて「ハイルーラアアアァァァァァァァァー! テンメェ、どういうエピソード追加してんだよ! なんだよ! カジキマグロって、なんだよ! もうちょっとマシな認識の仕方あんだろうがよぉ! どういう過去だよ! ははーん! ははーん! さては根に持ってやがるな! 器ちっちぇんだよ! それでも神か!」と怒鳴る。

「おい、大丈夫か?」

「まぁ。まぁ。全体的には? ハッピー的な? そういう感じか? お父さん存在よし。顔、名前、よし。お母さん存在よし。顔、名前、よし。妹存在よし。顔、名前、よし」

 へへへーとあいつは笑い、俺の肩を小突いた。

「やるじゃん。いい名付けセンスだ」

 ちょっと心配になってきたぞ……どうしたよ。お前。

「思ってたより、なんか……早かったな。まぁ、おかえり。入れよ、ビール冷えてるから。飲むだろ」


 俺はあいつの名前を呼んだ。

 

 なかったことにされた全てが瞬時に俺の中に湧き上がる。

 一箇所にしか光が当たっていない、暗くて広い物置をカメラのフラッシュで照らしたようだ。

 

 猿。沼。南さんの死。俺の親父。ピアニカ。巨大な猫。さんま御殿。黄色いワンピース。濡れた猫の気持ち悪さ。出現した彼女。殺人マンションと存在の不確かな住人。姿を変えるルービックキューブ。脳腫瘍。死。俺の発狂。俺のしたこと。こいつがしたこと。こいつがしてくれたこと。別れ際の言葉。名前。こいつに名前を。


 光は消え、物置は暗い闇に戻ったが、光が照らした様々なものが網膜に焼き付いている。

 もうそれが見えることはないだろうし、思い出すこともなくなるのだろうが、それらは決してなかったことにはならない。

 忘れたとしても。


 俺はあいつの顔を見る。

 俺の顔を見て、あいつは俺が全てを思い出したのを悟る。

「大丈夫」

 あいつは言う。

「忘れても消えない。全部ここにあるんだから」

 トトトトトトトトと軽い足音が聞こえたかと思うと、あいつの後ろで閉まりかけていたドアから、何かが部屋の中に入ってきた。

「なーう、なーう」

「ああ、悪い悪い。お前も一緒に来たんだよな」

 あいつは猫を抱きかかえ、顎を指先でくすぐるように撫でながら「やっぱ猫はこのサイズだよ。変な鳴き声はなおんなかったなーう?」と笑った。

「おかえり」

 俺はもう一度言った。

「お前がいてくれて、本当に嬉しい。俺、お前のいる世界が好きだよ」

「彼女かよ」

 あいつは笑う。


 唇の下にホクロがあるのを初めて知った。

 想像していたのとは、ちょっと違う顔だった。

 

 いや。

 見慣れたいつもの顔なんだ。

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林田の世界 千葉まりお @mario103

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