Tさんは就活を何とか終えて、大学を卒業し、働き始めたのだがすぐに心が折れそうになっていた。そんな時期の話だ。
「親父は死んでますしね、母親だけで大学まで出してもらったのは感謝していますよ。ただ、仕事はどうしてもキツかったですね、就活でもっと本気を出さなかったからでしょうか、帰宅が午後九時とかざらで、朝は早出も付かないのに新人は一番早く出てこいと言われまして、ハードな職場でした」
そんな職場で少しの間働いたあと、初任給をもらい、実家にいくらかを送ったのだが、残りは自分の自由になる。もちろんインフラに払う光熱費や家賃はあるのだが、ハードワークに見合っただけの金額だったのでまだ余裕はあった。
「余裕があったのがよくなかったんでしょうね、帰り際に寄ったスーパーで弁当を買って帰ろうとしたときに酒の棚が目に入ったんです。学生時代は酒に使う金がもったいなかったので一切飲まなかったんですが、ついつい一本カゴに入れちゃったんです」
それから先はよくある話だった。当然のように帰ったらビールを飲む、度数高めのビールに移るのもあっという間のことで、帰るなり数本の酒を飲むのが習慣化してしまった。
よくないと分かりつつも酒を飲めば忘れられるのでついつい飲んでしまう、一本飲むと抵抗が薄れて二本三本と飲んでしまう。そうして体を壊すのも時間の問題かと思われた。
「会社で健康診断の日付を指定されたんです。健康診断なのでその機会に酒をやめようと、その時だけは思ったんです」
しかし自宅に帰るなり、冷蔵庫を開けいつものビールを開けようとしてしまう、手にビールの缶を持ってしばし悩んでいると、頭に強い衝撃が走った。
「痛え!」
思わず叫んだものの、何かがぶつかったわけでもなさそうだ。そこに『馬鹿かお前』という言葉が聞こえてきた。その声はとても懐かしいもので、まだ彼が幼かった頃に亡くなった父親のものだったそうだ。気のせいとか似たような声ではなく、間違いなく本人の声だったとTさんは自信を持っているそうだ。
「それからは結構苦労しましたけど、酒はやめました。健康に悪いってのもありますけど、死んじまった親父にいつまでも心配をかけるわけにもいきませんから。
そうして彼はなんとか健康体を保っているそうだ。ただし時折、あの懐かしい声をもう一度聞くために酒を飲みたくなることはあるそうだ。