第3話 赤い竜 その2

 王はただひとり、湖の小舟の上で燃え上がる王宮を見つめていた。沈んでいく夕陽の最後の輝きのように、王宮は炎の中に浮かび上がっている。じきにすべては燃え尽き、漆黒の闇に飲み込まれるのだろう。そして、それとともに何もかもが消え去るのだ。彼自身も、彼自身の思いもすべて。


 その湖は彼にとっては庭のようなもので、子供の頃は夏になるとよく水遊びをした。どれだけ遠くまで泳げるか、どこまで深く潜れるか、友人たちと競い合ったものだった。その友人たちの多くは、その後彼に仕えるようになり、そのほとんどがその日、命を落とした。


(みんな死んでしまった。私に仕えたが為にみんな死んでしまった…。すべて私のせいだ…)

(こうなった上は、おめおめ生き残ることなどできない…)

(私もすぐに行く。お前たちのもとへ…。すぐに…)


 王の視線は、ふと湖に面した崖にある王家の墓所にとまった。消されることがない墓所の入り口の松明が、小さな光の点として湖上からも良く見えた。


(あそこは荒らされていないのだな)


 王はそのことを名もなき神に感謝した。亡くなった両親が思い出された。


(父上、母上。お許しください)

(私は、受け継いだこの歴史ある国を守ることが出来ませんでした)

(そして、今日という日が、私とこの王国の最後の日になってしまいました…)

(その罰なのでしょう。あなたがたのおそばで私は眠ることは出来ません)

(この底なしの湖が私の墓場になるのです…)


 彼の王国は、国土こそ広くはなかったが、赤の界では豊かな国のひとつだった。民は皆、幸福に暮らしていた。長いあいだ平和で戦はなく、これが永久に続くと誰もが錯覚していた。湖を臨む高台にそびえる王宮は、赤の界一美しいといわれる名城で、はるか孤雲山脈を背景に浮かび上がる王宮の姿は、一枚の完璧な絵でありひとつの芸術作品だった。


 だが、かつて王宮の美しさよりも脆弱さを指摘した軍師がいた。


『陛下、一度ひとたび国内に攻め込まれてしまえば、この王宮で防御することは無理でございます。城の改修が叶わぬのならば、せめて城壁を強固にする必要があります』


 軍師からそう進言された時、彼は王になったばかりでまだ若かった。彼には、頑丈かもしれないが醜い城壁で王宮を囲うなど耐えられなかった。周囲の国々は友好的であり、隣国が条約を破棄して彼の国に攻め込むことなど考えられなかった。彼は自らの洗練された外交手腕に自信があった。軍師の進言は無視された。厳しい表情で彼を見つめていたあの軍師を思い出すと、深い後悔と自責の念にさいなまされた。あの青年には、いつかこういう日が来ることが分かっていたのだろう。


 軍師の美しい横顔を王は思い出した。「カイト。お前にはこうなることがわかっていたのか?」

「このような日が来ることが…、わかっていたのか?」


 王の口元は歪んだ。「そして今、お前は私をあざ笑っているのか?」

「愚かな私を…」

「自分の国を守り切れなかった私を…」

「すべてを失ってしまった私を…」


 その責任はすべて王である彼にあり、彼はそれを否定するつもりは無かった。ただ、彼は自らの判断力の甘さ、特に人を信じすぎたことを悔いた。彼のために命を落とした者たちをいたんだ。しかし、どれだけ悔いても時間は巻き戻せなかった。彼の王国は消えようとしていた。そのことが何よりも彼を苦しめた。その苦しみを終わらせてくれるのならば、死さえ甘美な逃げ場所だった。


 王を乗せた小舟は、すでに湖の中央にあった。彼を湖に逃すために多くの者が犠牲になった。それでも彼には絶対敵に渡してはならないものがあった。今、彼は自らとそれを葬るために、この場所まで来たのだ。彼は焼け落ちていく王宮を見つめていた。そのすべてが崩れ去った時、みずから命を絶つと決めていた。嵐のような苦悩は過ぎ去り、彼の心は穏やかだった。


 とはいえ、彼には一つだけ心残りがあった。


「レイカ…」彼は妻の名を呟いた。

「私はお前との約束も果たせなかった。お前は私を許してくれるか?」


 神々しいほど気高い妻の姿が、彼の脳裏に浮かび上がった。彼女はよく王宮の一番高い塔に上り、竜を呼んだ。彼女が手を差し伸べる先には、鮮やかな赤い鱗の偉大な竜が大空を舞っていた。竜王の子ともいわれるその赤い竜が、まるでかしずくかのように彼女のもとに舞い降りてくるのだ。彼はそんな光景を何度も見ていた。偉大な夢見だった彼の妻。竜を召喚する女。


 その妻の死の床で、彼は彼女と約束したのだ。


「子供たちを見守ると約束したのに。ヴェルメリナが無事に嫁ぐまで。そして…、カイルが守護王になる日まで見守ると誓ったのに、それが果たせなかった…」


 それだけが彼の心残りだった。


「許してくれ、レイカ。私は自らの民どころか、自分の子供たちさえ守ることができなかった」


 その時、どこからか妻の声が聞こえて来た。


 ― グレン


 彼は辺りを見回した。人の姿はどこにもなかった。周囲には人どころか、生命の気配すらなかった。だが、その声は、はっきり彼の頭の中に響いて来た。


 ― グレン、大丈夫よ。子供たちは、自分たちの力でやっていける。私たちがいなくても大丈夫。それに竜が…、カイトが彼らを守ってくれるわ


 彼は確かに妻の声を聞いた。それは彼の心を穏やかにし、安らぎを与えた。彼はかすかに微笑んだ。「そうだな、カイトがいれば…。赤の七聖竜がいれば…。あの子たちは大丈夫だろう」


 彼は視線を王宮に向けた。彼が愛した王宮はもはや存在せず、闇に包まれていた。何を見ても彼の心はもう揺らがなかった。


 彼は脇に置いてあった剣をおもむろに取り上げ、さやから抜いて掲げた。それは『氷の剣』と呼ばれる、スオウミ王国のレガリアだった。その名の通り、剣の刃は凍てつく夜空よりも冷たく輝いていた。わずかな月明かりの中で、その刃は周囲から浮き上がるように青白い光を放ち、自らが特別な存在であると無言で主張していた。


 王は呟いた。「カイル。できることならば私の手からこれをお前に渡したかった。名もなき神が御自おんみずかたずさえたとも伝わるこの聖剣を。これこそがお前に相応ふさわしいと。いにしえの守護王が炎の剣を携えたように、お前には氷の剣が相応しいと…。だが、それは叶わなくなった。これはモルセンになど絶対渡さない。あのような男に絶対渡してはならないのだ」


 剣はキラリと輝いた。聖剣が自らの考えに同意しているように感じて王は微笑んだ。「カイル、これがお前に必要なものならば、お前は必ず、この剣を取り戻せるだろう。お前自身の力で絶対取り戻せる。だから今は…」


 王は小舟の上で立ち上がった。小舟が激しく揺れた。しかし彼は躊躇しなかった。足を拡げて踏ん張ると、剣の柄よりやや下を両手でしっかり握りしめ、思い切り自らに突き立てた。王はうめき声ひとつあげなかった。わずかに満足げな表情を浮かべ、王は剣もろとも湖に倒れ込んだ。静寂の中、水音だけが響き王の体は湖に吸い込まれていった。


 乗り手が突然いなくなった反動で、小舟は大きく傾き、王の後を追うように転覆した。いくつもの波紋が何重にも湖面を伝わり、周囲をざわつかせた。しかしすぐに、何事もなかったかのように静寂は戻ってきた。後には夜のしじまと、船底を上にして浮く小舟だけが残されていた。

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