第7話 竜護国 その3

 エシュリンが部屋を出て行った後、ヴェルはユズリハに向きなおった。「弟のところへ連れて行ってもらえますか?」


 ユズリハは躊躇しながら答えた。「彼の意識はまだ戻っていないのよ。でも午後になれば…。上手く行けば少し話せるかもしれないわ」少し考えてから付け加えた。


「それまでの間、温泉に行ってみるのはどうかしら? ここはオゾ山に近いから、温泉があちこちから湧き出ているのよ。この宿舎にも浴場があるのよ」


 入浴する気になど、ヴェルはなれなかった。押し黙っていると、ユズリハは優しく微笑んだ。「せっかく彼に会うのだから、綺麗になってからのほうが良いのでは? 腕にも少し泥の跡があるわ」


 そう言われて、ヴェルは思わず自分の腕を見た。前日着替えた時に、体を拭いてもらっていたが、確かに腕には泥や血の跡がかすかに残っていた。ヴェルはユズリハを見上げた。「温泉に連れて行ってもらえますか?」

「それがいいわ。とても気持ちが良いですよ」


 ヴェルはユズリハに伴われて部屋を出た。渡り廊下の先に大きな入浴施設があり、その中は大きな共同浴場から個人や家族向けの少し小さなものまで、何部屋にも分かれていた。ユズリハは個人向けの小さな浴室にヴェルを連れて行った。


「ひとりで大丈夫?」というユズリハの問いかけにヴェルは「大丈夫です」と答えた。実のところ、ひとりで入浴したことなどなかった。王宮では、必ず侍女がつきっきりでヴェルの体や髪を洗ってくれていた。(でも、ここではそんなことを期待しても駄目。ひとりでやらなければ…)


 ヴェルは、体に付いていた汚れを取るのに専念した。髪の毛にも、血や泥が残されていないように、できるだけ丁寧に洗い流した。どうにか体と髪を洗い終えて浴室から出ると、ユズリハが更衣室で待っていた。新しい着物や履物も準備してくれていて、着るのを手伝ってくれた。


 神山の人々が着ている衣服は、ヴェルから見るととても奇妙なものだった。ボタンもリボンも付いておらず、前合わせで重ねた衣を、ベルトというにはかなり太めの帯を結んで留めている。衣の色は地味で柄もなく、生地も少しごわごわしていた。


 ユズリハはヴェルが身に着けていた『お守り』に目を止めた。「これは、どうしたの?」

「亡くなった母が『お守り』だと言って残してくれたものです」


 ユズリハは手に取ってそれを見ていた。それからヴェルに向きなおって言った。


「これは神山では、夢見の力を持つ者が身に着ける『夢見の壁』とか『壁』と呼ばれているものですよ。普通の意味のお守りではありませんが、ある意味、あなたを守ってくれるものです。とはいえ、これはかなり珍しいものですね。普通は石をつけたりはしないのよ。しかもこの石は…、これは普通の竜血石ではないわ。竜玉ね」


「竜血石? 竜玉?」


「ええ。竜血石というのは、竜の血と似た色をしているところから、そう呼ばれている石なのよ。竜の血の色は淡紅色で金属のような光沢があるの。竜の血には色々な力があるけど、竜血石にも聖なる力が宿ると言われているのよ。聖霊の力を強める効果があるとね」ユズリハはヴェルのお守りの中の木の珠ではなく、赤い石の珠を指差した。「この石は竜玉と呼ばれていて、竜血石の中でも最高の品質のものなのよ。色も竜血石より濃くて、淡紅色ではない。深紅でしょう?」


「この石はそんなに貴重なものですか?」 ヴェルは驚いた。


 ユズリハは微笑んだ。「そうね。竜血石だって簡単には手に入るものではないけれど、竜玉は下手な宝石より遥かに貴重でしょうね。これを作ったのはあなたのお母様でしょうけど、どこで竜玉を手に入れたのかしら? これを集めるのは大変だったはずよ。そのことを考えただけでも、あなたのお母様がどれほどあなたのことを案じていたのか良くわかるわ」


 ユズリハはお守りを再びヴェルの首からかけた。「少なくともここにいる間は、これを常に身に着けておいた方が良いでしょう。神山には多くの夢見がいますからね。誰かがあなたに興味を持たないとも限りません」


 ユズリハの言っていることの大半はヴェルには意味がわからなかった。わかったのは、お守りの赤い石が宝石よりも貴重だということぐらいだった。


 ユズリハはヴェルの髪も結ってくれた。しかし、美しい巻き毛を作ってくれるわけでもなく、きれいに編み上げてくれるのでもなく、単に三つ編みにしただけだった。ヴェルはそれが不満だったが口には出さなかった。ユズリハのほうは、出来栄えに満足しているようだった。


「とても可愛くなったわ。時間もちょうど良いし。診療所に行ってみましょう」

(こんな変な格好で、カイルに会いに行くなんて)ヴェルは内心思ったが、ユズリハに『可愛い』と言われたことで満足せざるを得なかった。


 そんなヴェルの手をとって、ユズリハは外に出た。


 二人は歩き出した。ヴェルは初めて聖竜の神山という場所を目の当たりにした。そこは小さな町のようだったが、ヴェルが知っているスオウミの町とは雰囲気がまったく違っていた。スオウミは石造りの家が多いが、神山は木造の家が多かった。壁も白っぽく少し光っているように見えた。屋根の形も独特で、少しり返っている。真直ぐな石畳の道は規則正しく交差していた。その角に診療所はあった。


「あれが診療所よ」ユズリハは指さした。それは二階建てで、周囲の建物より目立って大きかった。ユズリハは勝手を知っているようで、その中にずんずん入って行く。

「弟はどこにいるのですか?」


 ユズリハはそれには答えず、診療所の木の廊下をさらに奥へと歩いて行った。入り組んだ廊下の先に部屋があり、部屋の前には少年が立っていた。ヴェルたちが近づくと少年は一礼した。


「サダク先生はいる?」ユズリハの問いに少年が答えようとした時、部屋の中から男が出てきた。男は明らかにユズリハよりも若かったが、少年は男に最敬礼した。かなり高い地位にいる人物のようだ。


 そのまま立ち去ろうとする男をユズリハは呼び止めた。「サダク」


 サダクは彼女たちを振り返った。呼び止められなければ、彼女たちに気づいていなかった。少し呆れたように言った。「ユズリハか。また来たのか」


 サダクはヴェルに視線を移した。「その子は誰?」

「彼の姉よ」とユズリハが答えた。


 サダクの視線が鋭くなった。「君が彼の姉さんなの?」


「はい、弟は大丈夫ですか?」すぐ先の部屋の中にカイルがいるのかと思うと、ヴェルは今すぐ中に入りたかったが、ユズリハがしっかり彼女の手を握り締めているので、それは叶わなかった。


 サダクはヴェルを真直ぐ見て言った。「今、意識は戻った。弟に会いたいという君の気持ちはわかるけど、会って話ができるような状態じゃない」

「意識が戻ったのならば、もう会っても大丈夫でしょう?」ヴェルは思わずサダクに詰め寄った。


 サダクは厳しい調子で答えた。「確かに意識は戻っている。だが、君の弟は、死んでもおかしくないくらいの重傷だったんだよ。今は休ませなければならない。私が言っている意味がわからないかい?」


 ヴェルより先にユズリハが言った。「お願い、サダク。あなたの言うことも良くわかるけど、彼女を弟に会わせてあげて。少しだけでいいのよ。一目会えば、彼女も納得するわ」


 サダクは二人を交互に見つめて、ため息をついた。「少しだけだよ」


 ようやくヴェルとユズリハは部屋の中に入ることができた。部屋の中央には寝台があり、そこにカイルは横たわっていた。上半身に痛々しく包帯がまかれている。ヴェルはカイルの傍に走り寄った。彼の目は固く閉ざされ、顔色も死人のように青ざめていた。かすかに上下する胸がなければ、生きているとは思えなかった。


「カイル!」思わずヴェルは叫んだ。


 カイルの眼がわずかに開いた。視線はしばらく宙を彷徨さまよったが、やがてヴェルに目を留めた。「姉さ…ん。無事だったの?」


「私は大丈夫。あなたは? 傷は痛むの?」ヴェルはカイルの手を握った。その手はまだ氷のように冷たかった。

「守れなくて、ごめん…」その声はかすれていて、消え入りそうに小さかった。

「何、言っているの。十分守ってくれたわ」

「ここはどこ?」


 咄嗟とっさにヴェルは、さっき聞いたこの場所の名前を思い出せなかった。思わず後ろにいるユズリハを振り返った。


「ここは聖竜の神山よ」ユズリハは静かに答えた。


 カイルはヴェルからユズリハに視線を移した。しばらくじっとユズリハを見つめた後、ぽつりと言った。「あなた、ユズ?」


 その言葉にユズリハもヴェルも驚いた。


「カイル、覚えていてくれたの?」

「カイル、この人を知っているの?」ユズリハとヴェルは同時に叫んでいた。


 カイルは頷き、ヴェルに視線を向けた。「ユズは母上の親友で、水晶宮にも何度も…来てくれたじゃないか。母上の葬儀のときも、その後も何度か…」


「おお、カイル、覚えていてくれたのね」ユズリハは感激のあまり泣きだしそうだった。


 カイルはヴェルにだけ聞こえるようにささやいた。「安心して。彼女は、ユズは…、母上が誰よりも…信用し、愛して…いた人だ。彼女も母上を…。彼女は…母上と同じように…君を守って…」


 サダクの声が後ろから聞こえた。「もういいだろう? これ以上無理をさせないでくれ」

 サダクが部屋に戻ってきた。


「もう行きましょう。今日のところはこれで十分でしょう?」


 ヴェルとユズリハは追い出されるように部屋の外に出た。


 部屋の外でユズリハはヴェルに教えてくれた。「今の人が癒しの長のサダクです。若いけど、赤の界一の医術師と名高いのよ。いつもは陽気で子供好きのとても気さく人なのだけど、患者を治療する時のサダクはとても厳しいの。だから今日はこれで我慢してね。あとは彼に任せておけば大丈夫よ。きっとすぐにカイルは良くなるわ」ユズリハは優しくヴェルに語り掛けた。


 ヴェルはユズリハを見上げた。(カイルは彼女を覚えていた。彼女は母上の親友だったんだ。母上が誰よりも信用していた人だったんだ。彼女は嘘をついていなかった。彼女は信用できる。だって、カイルがそう言っているのだもの)


 ユズリハの横顔は美しいだけでなく、慈愛に満ちていることにヴェルは気づいた。見知らぬ地に来て、初めてヴェルは心から信用できる人を見出した気がした。


 カイルと話が出来たことも彼女を安堵させていた。彼は死んだりしない。彼女を置いて逝ってしまうことなど絶対ない。ヴェルにはわかっていた。


 ユズリハはヴェルの手を引いて、どこかに向かって歩き始めた。ヴェルはユズリハに言った。「ユズリハ様、私、お腹がすいてしまいました」

「まあ」と言ってユズリハは微笑んだ。「そうね、お昼の時間はとっくに過ぎてしまいましたね。では、私の家に行ってお昼をいただきましょう。何かあなたの好きなものを作ってあげるわ」

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