第6話 竜護国 その2

 少女の言葉通り、茶を飲み終わる頃に部屋の外から声がかかった。「入りますよ」


 それに続いて、エシュリンが部屋に入って来た。彼女の印象は前夜とはかなり異なっていた。少し白いものが混じる赤い髪はきっちり後ろで結い上げられており、黄色の着物に金色の帯を締めている。エシュリンの後ろから、やや細身の、エシュリンよりはずっと若い、エシュリンよりもはるかに美しい女が入って来た。どういうわけか、二人の背後はぼうっと明るく見えた。自分の目がおかしくなったのかと思い、ヴェルは思わず手で目をこすった。


 室内の中央まで進むと、エシュリンのほうからヴェルに声をかけてきた。


「ゆっくり休めましたか? ヴェルメリナ」


 ヴェルはぎょっとした。(私はこの人に、名前を教えたかしら?)


 ヴェルは記憶を探った。(カイルの名前は叫んでしまったかもしれない。でも私の名前は言っていないはずだわ。どうしてこの人は知っているのだろう?)


 ヴェルは警戒した。「なぜ、そんな名前で私を呼ぶのですか?」ヴェルは慎重に相手をうかがった。


 エシュリンはわずかに微笑んだ。「あなたが誰だか、私が知っているからですよ。あなたたち姉弟の状況を考えるのならば、用心深く振舞うのは良いことでしょう。でも私やユズリハを警戒する必要はありませんよ。昨夜も名乗りましたが、改めて自己紹介をしておきましょう。私はエシュリン。そして、ここは竜護国ルーベルニアの聖竜の神山です。私はこの聖竜の神山でまつりごとおさをしています。ルーベルニアは普通の国とは少し違いますが、そうですね。普通の国で例えるならば、宰相か政をつかさどる大臣と言えば、私がどういう立場なのかおよそわかるのではないかしら?」


 あの少女たちが言っていたように、エシュリンはこの場所ではかなり偉い人物のようだった。そのような地位の人間がわざわざ自分の様子を見に来たことは、ヴェルのプライドをくすぐった。一方、そんな人物と自分が上手く渡り合えるのか不安だった。(カイルならば…。カイルがここに居れば、誰が出てこようが絶対に大丈夫なのに…)


 エシュリンは続けた。「どうして私たちがあなたを知っているかと言えば…。それはあなたの母親レイカ・ロウアンが結婚する前にここで暮らしていたからです」エシュリンは後ろに控えていた女の手を取り、少し前に引き出した。「ユズリハを紹介しておきましょうね。ユズリハはこの神山の夢見のつかさですが、レイカの親友だったのですよ。ユズリハとレイカは、レイカがスオウミに嫁ぐまでずっと一緒にここで過ごしたのです」


 ヴェルは目を見開いてユズリハを見た。


 ユズリハは内気そうな微笑を浮かべた。「エシュリン様のおっしゃる通り、私とレイカは実の姉妹よりも仲が良かったのですよ。あなたは覚えていないでしょうけど、私は水晶宮にも何度も行っています。レイカが生きていた頃は、あなたと弟の誕生日には、必ず招待されていましたから」


 エシュリンやユズリハの言葉はヴェルを驚かせた。(この人たちは本当のことを言っているの? 母上は、父上と結婚する前、本当にこんな場所に居たの?)


 ヴェルはまじまじとユズリハを見た。ヴェルの記憶にユズリハはなかった。(ああ、カイル。この人たちは本当のことを言っているの? 信用できるの? 私は何と答えればいいの? あなただったらどうする?)


 どう対応すれば良いのかわからず、ヴェルは沈黙した。だが、すぐに気づいた。彼女たちが言っていることが本当であろうがなかろうが、すでにヴェルとカイルの正体は知られているのだ。それは違うと主張したところで、彼女たちがヴェルの言葉を受け入れるとは思えなかった。


(とにかく今は、カイルに会うことだけ考えよう。それを最優先にしよう。それから、あまりしゃべり過ぎないように気を付けよう。この人たちが絶対に信用できるという保証は無いのだから)


 ヴェルはユズリハには答えず、エシュリンに向きなおった。

「弟はどこにいるのですか? 怪我は大丈夫なのですか? 彼に会わせてください!」


 エシュリンは小さくため息をついた。「あなたの弟の容体は良くはありません」

 エシュリンの言葉にヴェルは心臓が止まりそうになった。受け入れたくない現実に、ヴェルは再び引き戻された。「彼は…、死にそうなの?」

「まだ生きていますが、絶対に助かるとは言えません」


 ヴェルは目の前が真っ暗になった。倒れそうになった彼女をユズリハが支えた。

「エシュリン様! そのようなことをこの子におっしゃるなんて」ユズリハの声音には非難が込められていた。だが、それによって、エシュリンの態度が変わることはなかった。


「いいえ、ユズリハ。ヴェルメリナは我々が想像もできないほど恐ろしい体験をして、ここまで逃げてきたのですよ。確かに、気休めを言うこともできるでしょう。でも、現実が情け容赦ないものだということは、この子ももうわかっているはずです」


 ヴェルは泣きそうになった。認めたくはなかったが、心のどこかでエシュリンは正しいとわかっていた。「カイルは死んでしまうの?」


「そうならないように、今、神山の診療所が全力で彼を治療しています。希望は十分ありますよ。ここの癒しの長サダクは、赤の界一の医術師だともいわれています。その彼が全力を尽くしているのですから、あなたの弟が助かる可能性は十分ありますよ」エシュリンは静かだが強い視線でヴェルを見た。「あなたの弟に対して私ができることは、名もなき神に祈ることぐらいです。でもあなたに対しては、いろいろなことをしてあげられると思います。だからここに来たのです」


「だったら、彼に、カイルに会わせて!」

「ヴェルメリナ、あなたの気持ちはわかるけど、今、診療所に行っても治療の邪魔になるだけです。だからもう少し我慢して待って。うまく行けば、午後には会えるでしょう」


 自分の願いを聞き入れてもらえず、ヴェルは、王宮でそうしていたように泣き叫びたかった。だが残されていた理性は、彼女にささやきかけた。(昨日は取り乱してしまったけど、今日はそんな姿を見せては駄目。私は父上の娘なのだから。スオウミ王国の王女なのだから。こんなところでみっともない真似なんか絶対しては駄目)


 ヴェルは自分の感情を、何とか抑え込んだ。「わかりました」

 ヴェルは顔を上げた。「午後まで待ちます」


「それでよいわ」エシュリンはうなずいた。「さて、あなたの今後を相談する前に、いくつか確認しておきたいことがあるのよ」


 エシュリンは部屋の中央にあるテーブルの前の椅子に腰を下ろした。ユズリハとヴェルはその正面に座った。エシュリンはゆっくり話し始めた。「ヴェルメリナ。先ほども話しましたが、ここは聖竜の神山という場所です。ルーベルニアにある聖竜の神山なのです」


 それが何を意味するのかヴェルにはさっぱりわからなかった。それが赤の界のどのあたりに位置するのかもわからなかった。(こんなことならば、地理の先生の話をもっときちんと聞いておけばよかった…)


 彼女の様子を見てエシュリンは尋ねた。「オゾ山は知っていますか?」

「赤の界で一番大きな火山ですよね?」

「そうです。ここからそれほど遠くない場所にオゾ山はあります」


 ようやくヴェルは、聖竜の神山がどこに位置するのかわかった。神山は赤の界の西端のほうにある。そして彼女の祖国であるスオウミは赤の界のほぼ中央部にあった。あの赤い竜は、何と遠くまでヴェルたちを連れてきたのだろう。


 エシュリンはさらに彼女に尋ねた。「ところで、あなたたちをここへ連れてきた竜を以前から知っていましたか?」


 エシュリンの問いにヴェルは戸惑った。(なぜ、竜のことなど訊くのだろう?)

「いいえ」

「昨晩初めて会ったの?」

「はい」

「どうしてあの竜はあなたたちのところへ来たのですか?」

「わかりません。でも『私を召喚したのはお前か』と言っていました」

「あなたが召喚したのですか?」

「召喚って何なのですか?」ヴェルは逆に問い返した。

「簡単に言えば、竜に来てほしいと思い、竜を呼ぶことです」

「私、竜なんて呼んでいません」

「呼んでないのに竜は来たのね? 竜は何か言った?」

「『お前が私の召喚者だ』と言っていました」


 エシュリンとユズリハが顔を見合わせた。エシュリンが続けた。「あの竜は、他にも何か言いましたか?」


「自分には召喚者を守る義務があると。それから、安全な場所に連れて行ってくれると言っていました。でも、どうして、そんなにあの竜のことを気にするのですか?」

「それは、あの竜が七聖竜で竜王の子だからです。滅多なことでは召喚できないからですよ」

「だからって、それが私に関係あるのですか?」

「あります。昨夜あなたたちを連れてきた竜は、かつてあなたの母親レイカが召喚していた竜なのですよ」


(母上が召喚した竜? だからあの竜は助けてくれたの?)

「レイカはかつて、ここで『夢見の司』をしていましたが、スオウミのグレン国王に見初められてここを出て行ったのです。だから昨夜、亡くなったレイカの竜カイトがあなたたちをここへ連れてきた時、あなたたちが彼女の子供たちだとすぐにわかりましたよ」


(そうだったのね)


 それでも、ヴェルはまだ完全にエシュリンたちを信用しきれなかった。無駄とは思いつつ、言い張ってみた。「でも偶然ということもあるでしょう? たまたまその竜が、私と弟をここに連れてきただけかもしれないではありませんか。そうでないと言い切れるのですか?」


 エシュリンは答えた。「聖竜の神山には聖竜部隊があるのですよ。その偵察部隊は、赤の界全土の情勢を常に監視しています。昨夜報告が入りました。スオウミ王国が隣国のキルドランに攻め込まれたこと。水晶宮は炎上・陥落し、スオウミはキルドランに制圧されたこと。国王も王子も王女も行方不明。その夜に、数年前に亡くなった王妃の竜があなたたちをここに連れてきた。これが偶然でしょうか? しかもあなたの双子の弟は、レイカに生き写しですしね」


 ヴェルは何も言い返せなかった。思わず、ずっと気になっていたことをエシュリンに尋ねた。「父は、父はどうなったかわかりますか?」


 エシュリンは厳しい表情で頸を横に振った。「グレン国王は見つかっていません。わずかな慰めは、国王がキルドランに捕らえられてはいないということです。そのようなことになれば…」


 ヴェルは目を背けていた現実を直視せざるを得なかった。「父は亡くなったのでしょうか?」

「わかりません。グレン国王は見つかっていないのです。消息がまったく掴めないのです…」


 ヴェルはどこかでわかっていた。父が生きているならば、あの誇り高い父は決して逃げ隠れなどしない。行方がわからないということは、おそらく父は…。


「あなたにはつらいことだと思うけど、昨夜何があったか話してくれますか?」


 ヴェルは泣きたいのをこらえ、頷いた。キルドランの横暴を、多くの人に知ってもらわなければならない。条約を一方的に反故ほごにし、友好国に攻め込んだ非道の国を知ってもらわなければならない。その気持ちだけで話し始めた。


 とはいえ、ヴェルに話せることはほとんどなかった。キルドランがどこからどのようにスオウミに攻め込んだのかも、どのように侵略を推し進めたのかも、父がどうそれに対したのかも何もわからなかった。わかっているのは自分たちのことだけで、リヒトニアに脱出するはずが、それすら叶わなかったことだった。ヴェルたちに付き従っていた兵士たちが皆、殺されたことだった。もしあの赤い竜が助けてくれなかったら、逃げ惑った挙句にカイルは死に、ヴェルも殺されるかキルドランに捕らえられていただろう。


 ヴェルの話を聞き終えたエシュリンの表情は厳しかった。エシュリンは重々しく言った。「あなたたちは、何としても生き延びなければなりません。亡くなった人たちのためにも、何があっても、キルドランの手に落ちるようなことがあってはなりません。そのためには十分用心をしたほうが良いでしょう。十分すぎるほどの用心を」


 エシュリンは何かを考えながら言葉を続けた。「ヴェルメリナ。これからあなたがここに居る間、あなたのことはクレナと呼ぶことにしましょう。あなたの弟はタツト。あなたたち姉弟二人だけの時でも、この名で呼び合うようにしなさいね」


「そんなに用心しなければならないのですか?」ヴェルは驚いた。


「ここには大勢の人がいて、いろいろな人の出入りもあります。キルドランの関係者が絶対いないとは言い切れません。後で後悔するよりは、用心し過ぎぐらいのほうがよいでしょう」エシュリンは言葉を切って静かにヴェルを見つめた。「クレナ、わずか一日のあいだに、あまりにいろいろなことが起きて、あなたも混乱しているでしょう。でも私たちは、できるだけあなたの望みを叶え、力になってあげたいと思っています。何か私たちにして欲しいことはありますか?」


「ありがとうございます。でも、今は考えられません」

「あなたの弟が回復したら、行きたい場所はありますか?」


 ヴェルは首を横に振った。「それも、わかりません。カイルと相談しないと…」

 待っていれば、必ず彼は回復するのだろうか? そうでなかったら? その考えにヴェルは身震いした。


 エシュリンの声も沈んでいた。「これだけは覚えておいてください。もしここにいたいのならば、いつまでも好きなだけいて良いということを。その間、私もユズリハもあなたたちを全力で守るということを。とはいえ、ひとつだけあなたに言っておかなければなりません。私たちは、あなたたちを王子や王女に相応ふさわしく遇することはできません。そんなことをすれば、あなたたちは誰なのだろうと余計な詮索をされてしまいますからね。あなたたちの警護に大勢の人間を割くこともできませんし、あなたたちに召使をつけることもできません。そういった事に我慢できますか?」


 ヴェルは驚いてエシュリンを見上げた。にわかには信じられなかったが、エシュリンの言葉は当然だった。突然転がり込んできたヴェルたちを、かくまってくれるだけでも十分以上なのだ。そのうえ、王族にふさわしく遇するように要求するなどできなかった。「これで十分です。十分感謝しています」


 エシュリンは立ち上がった。「もう少しあなたの気持ちが落ち着いたら、またゆっくりお話ししましょうね。少し休んだら、ユズリハに診療所に案内してもらうとよいわ。そこで弟に会えるはずです」


 エシュリンはユズリハに軽く目配せすると、そのまま部屋を出て行った。

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