第15話 夢見 その5

 宿舎に戻って、ヴェルはカイルとのやり取りを思い返した。


 ヴェルは、自分が以前と変わってしまったと自覚していたが、カイルまで変わってしまったとは思っていなかった。だが、その日の言動を見れば明らかだった。彼は変わってしまった。以前は何よりもヴェルを大切にしてくれていたのに、彼女のためならば何でもしてくれたのに、今、彼は彼女よりも自分のことを優先させていた。


 一方で、それを責める資格が自分にないことも、ヴェルにはわかっていた。彼女が神山にきて変わらざるを得なかったように、彼も変わらざるを得なかったのだ。すべてはあの夜、彼らがそれまで持っていたものを、全部失ったことから生じたのだ。おそらくカイルは、以前の余裕が無くなってしまったのだ。姉の面倒をみている余裕などないのだ。自分の事だけで精いっぱいなのだ。


 それに、どう考えても彼の言っていることは正しかった。北砂諸島の伯父を頼るよりは、ヴェルはここに残るほうがよいのだろう。伯父のもとへ身を寄せれば、暮らしも身分も安泰かもしれないが、その先はカイルが言った通りだ。ヴェルを溺愛していた父だったら、彼女のわがままを許してくれたかもしれないが、伯父にそれが通用するはずもなかった。どこかのハゲでデブの老人と、否応なく結婚しなければならないかもしれないのだ。


 一方聖竜の神山へ来てから、ずっとヴェルは王女として扱われない生活をしていたが、慣れてしまえば、それは彼女にとってさほど苦痛ではなかった。面倒なこともあったが、それ以上に自由だった。礼儀や行儀をうるさく注意されることもなかった。注目されない分、くつろぐこともできた。自由で気ままな生活には捨てがたい魅力があった。


 問題は、カイルが神山に残らないということだった。彼女を置き去りにして、カイルが白鴉はくあの谷に行ってしまうということだった。ヴェルは、ひとりになることが耐えられなかった。自分の素性も明かせない、以前の知り合いが誰もいない場所に取り残されるのが嫌だった。


 カイルが白カラスになりたい理由も、ヴェルにはさっぱりわからなかった。スオウミが取り戻せるのならばまだしも、価値云々というのはヴェルにとって意味不明だった。何もしなくたって彼には十分価値があるのだから、これ以上それを高める必要が、どこにあるというのだろう? 彼さえ一緒ならば、ヴェルの神山での生活は申し分ないものになるのだから、彼が神山に残ればよいのだ。彼女はどこかでそう考えていた。


 ヴェルは、自己中心的な考えから抜け出せなかった。カイルの気持ちを理解できなかった。彼が彼女の願いを叶えてくれないものか、それだけを考えていた。

 そしてまた、彼に言われたことを思い出した。彼は間違っていないとわかっているのに、覚悟を決めて彼と別れる決断はできなかった。


 しばらく悶々としているうちにヴェルは眠ってしまった。そして夢を見た。





 ひとりの少女が丘を上がってくる。顔はよく見えないが、聖竜の神山の訓練生が着る辛子色の着物を着ていて、髪も訓練生のようにおさげに編んでいた。彼女は両手に何かを抱え丘を上がってきた。そこが聖竜の神山の竜舞台の上の雲海の丘であることに、ヴェルは気づいた。ヴェルはあたかも、自分が高台からその少女を見下ろしているような気がした。


 少女はどんどん上ってきて、その顔がはっきり見えるようになった。その顔をみてヴェルはぎょっとした。(カイル?)


 その時、丘の下から声がした。「レイカ。待ってよ」

 その声に、レイカと呼ばれた少女は振り返った。


(レイカですって? まさか、この少女は母上なの?) 


 ヴェルは母の顔をほとんど覚えていなかった。父の寝室や広間に飾られた肖像画から、母の姿を知っているだけだった。赤の界一の美女と言われていた母。その母の肖像画に、少女は少し似ていた。だが、それ以上に、少女はカイルにそっくりだった。


 吊り上がり気味の眉とやや切れ長の灰色の瞳、整った鼻筋、きりっと締まった口元。確かに彼女は美しかった。しかし、それ以上に、強さと年齢に似合わない威厳をヴェルは感じた。夢の中の母は、もちろんヴェルの存在に気づいてはいなかった。


 レイカは振り返り、追いかけてきた少女を待った。「ユズ、遅いじゃない」


 ユズと呼ばれた少女も何かを手に持って、丘を小走りに上ってくる。息を切らしながら走ってきて、ようやくレイカに追いついた。その少女の顔を見て、ヴェルはすぐわかった。(この少女はユズリハ様だ)


 ユズがレイカに追いつくと、二人は腕を組んで歩き出した。丘のてっぺんにたどり着くと、二人で並んで腰をおろし、それぞれの戦利品を見せ合った。


「これは桃とゴマもち」

「こっちはサクランボと、キイチゴのパイ」


 少女たちは笑いながら戦利品を分け合った。足を延ばし、おやつを食べながらおしゃべりをしている。おやつを食べ終わると、レイカは高台からはるか遠くを見つめながら言った。「ここに来ると、北砂諸島が見えるような気がするの。いつもカイトと遊んでいた海が見え、港の潮の香がするような気がする。遥か何百里もかなたにあるのにね。その間に果てしない砂漠や草原、赤い岩の大地が広がっているというのに、荒々しい虚海の白波が見えるような気がするの」


「寂しいの?」ユズは少し心配そうに尋ねた。

 レイカは優しい眼差しでユズを見た。「寂しくないと言ったら嘘になる」


「私も時々寂しくなる」とユズも言った。「でも、私は休みの時には家に帰れるし、レイカとは全然違う。北砂諸島は遠いものね。私が寂しいなんて言ったら、レイカに申し訳なくって」


「そんなこと気にしないで」レイカは後ろ手をつき、深呼吸をした。「北砂諸島の女は強いの。男は海でも戦でも、すぐに命を落とす。ひとり残されても女は生きて行かなければならない。強くないとやっていけないの。寂しいとか泣きごとは言っていられないの」


 そこでレイカは言葉を切り、ユズに微笑みかけた。「と、偉そうなこと言っているけど、やっぱり寂しいかな。特にカイトがいないことに、なかなか慣れなくて」

「カイトってお兄さんでしょ?」


「お兄さんと言えばその通りだけど、双子だから、お兄さんというより自分の分身かな」


(双子ですって? 私とカイルの関係と同じじゃない)ヴェルは母にそのような兄がいたとはまったく知らなかった。


 夢の中のレイカは言葉を続けた。「だから彼がいないと寂しい。今でもふと手を伸ばすと彼がそこにいる気がするの。でも手が何にも触れないとわかって、どれだけ私たちの距離が離れているかと改めて感じてしまう」


 ユズは無言で友の話を聞いていた。彼女は優しい目でレイカを見つめている。


 レイカは続けた。「でもね、私たち約束したの。どんなに寂しくっても、お互い頑張ろうって。お互いの夢を実現しようって。カイトは三男坊だからお父様の家督はもちろん継げないし。だから、自分は白カラスになるって言っていた。赤の界全土に知れ渡るようなすごい軍師になるんだって。そして、いつも私を励ましてくれた。『レイカもルーベルニアで夢見の司になれよ。竜を召喚して、名もなき神の姿を見るんだ。伝説の英雄王や真の王の夢を見るんだよ』って。だからくじけそうになると、いつも彼の言葉を思い出すようにしているの。私は絶対夢見の司になるって」

「レイカなら絶対なれるわ」とユズは励ました。


「もちろんユズも一緒よ。一緒に夢見の司になろうね」とレイカが言うとユズも頷いた。二人は再び手をつなぎ、お喋りをしたり笑ったりしていた。


 そこで夢は終わった。




 ヴェルは目を覚ました。


 夢の中の母の声がまだ頭の中で響いていた。『私たち約束したの。どんなに寂しくっても、お互い頑張ろうって。お互いの夢を実現しようって』


 ヴェルはそれまで、母に双子の兄がいたとは知らなかった。双子の兄に対する母の態度と、カイルに対する自分の態度の違いにヴェルは愕然とした。ヴェルと同じぐらいの年齢で、母は双子の兄と自ら別れ、自分の夢を実現しようとしていた。どんなに寂しくても彼らは互いの判断を尊重し、互いに励まし合っていた。自分の都合で相手を縛ろうとはしていなかった。それなのに、ヴェルときたら彼女の為に、カイルが自分を犠牲にするのが当然だと思い、それを彼に要求しているのだ。


 ヴェルは初めて、他人が今の自分を見たらどう思うだろうかと考えた。特に母が今の彼女を見たらどう思うだろう?


 考えるまでもなかった。カイルのことを何ひとつ思いやらず、自分の事しか考えないヴェルに母は呆れるだろう。情けないと思うだろう。軽蔑されるかもしれない。


 ヴェルの中に、自分の考えがしっかりあるわけではなかった。彼女はいつも、その時の感情や気分でものごとを決めていた。だが、母の夢を見てヴェルははっきり自覚した。


(母上が呆れるようなことをしてはならない。誇りに思っていただくのが無理だとしても、母上に軽蔑されるような行動をしてはならない。)


 そう考えると、自分が何をしなければならないか、何をしてはならないか、はっきりしてきた。少なくとも自分の都合でカイルを振り回してはならない。できれば母がカイト伯父にそうしたように、ヴェルもカイルを応援しなければならない。カイルの望みを叶えてやらなければならない。それは、彼を白鴉の谷へ送り出すことであり、彼との別れを意味した。それは、ヴェルにとって耐え難い苦痛だった。彼らはいつも一緒にいたのだ。一日以上離れていたことなど一度もないのだ。だが、どれほどつらくても耐えなければならない。母だって、きっとそうだったのだ。それでも母は兄と別れたのだ。母に出来たのならば、絶対自分にもできるはずだ。ヴェルは自分にそう言い聞かせた。


(そして、私はどうする?)


 北砂諸島へ行くか、聖竜の神山に残るか。そのどちらかを選ぶのならば、躊躇なくヴェルは神山に残ることを選んだ。彼女にとって、自由な生活はそれほど魅力的だった。夢の勉強も続けたかった。もちろんここにいても夢見の司になれる保証はない。だが、父も故郷も失った今、会ったこともない伯父がいる、行ったこともない北砂諸島より、聖竜の神山のほうがヴェルには身近な場所になっていた。なんといっても、あの赤い竜が彼女をここにつれてきてくれたのだ。竜がこの場所を選んだのだ。


(私はここに残る)

(カイルと別れて、ここに残る)


 明日、朝一番に自分の決意をカイルに伝えようとヴェルは心に決めた。

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