聖霊の守護王Ⅰ 竜の召喚者
翠川 あすか
第1話 プロローグ
少年は、黒い竜に乗って空を飛んでいた。
その日、面白いことは何もなかった。知っている場所にしか行かなかったし、何の発見もなかった。わくわくすることもなかったし、ドキドキすることもなかった。代わり映えしない、つまらない一日だった。
すでに夕方だった。ふと見ると、オゾ山の山際に日が沈もうとしている。自然の美しさに感銘を受けることなど滅多にない少年だったが、その日の夕暮れは言葉にならないほど美しいと感じた。いくら飛んでも太陽に近づけないとわかっているのに、夕陽を追いかけて、いつまでも空を飛び続けたかった。
太陽を追いかけようとオゾ山に差し掛かった時、それまで全然気づかなかったものに目が留まった。オゾ山には、何百年も前の噴火でできた大きなこぶがある。主峰とそのこぶの間に何か見えたのだ。
彼はいつもよりずっと山の斜面ぎりぎりに高度を落としながら竜に尋ねた。「あれは何だろう?」
竜は答えなかった。その間に、彼らはその場所を通り過ぎてしまった。
「マヒロ」少年はもう一度竜に話しかけた。「あれは何だろう?」
少年は振り返って通り過ぎた場所を指さした。こぶと主峰が交わるあたりに、小さな虹の輪のようなものが浮かび上がっているのが見えた。その輪の中は蜃気楼のように揺らいでいて、はっきりとは何も見えなかった。奇妙な空洞になっているだけでなく、その場所にはどこか周囲とは異質な空気が漂っていた。
竜は返事をしないだけでなく、その場所からどんどん遠ざかっていった。
「マヒロ。なんで返事しないんだよ?」少年は少し苛立っていた。
「あんなものは気にするな。そろそろ神山に戻ろう」ようやく竜は答えた。
「急いで戻ったって、また仕事を言いつけられるだけだ。それより、今の場所に引き返そうよ」少年は主張した。
「引き返してどうする?」
「そばに行って、あれを良く見てみたいんだ」
「見てどうする?」
なぜか、その不思議な場所が彼を呼んでいるような気がした。好奇心が彼を駆り立てていた。「面白そうだから行ってみたいんだよ」
言い訳がましく付け加えた。「あそこは何か揺らいでいるみたいに見えるよ。変だと思わないか? 火山の噴煙でもあるまいし。行って調べてみようよ」
少年の言葉を無視し、竜はまっすぐ飛び続けた。彼らが飛び立ってきた聖竜の神山に戻ろうとしていた。
「マヒロ!」少年は叫んだ。「俺は神山に戻るなんて言っていないぞ」
竜は淡々と答えた。「私はお前の召使いではない。お前の命令に従う義務はない」
「命令なんかしていない。頼んでいるんだ。行ってくれたっていいじゃないか。なぜ駄目なんだよ? いつも、どこにだって行ってくれるじゃないか」
だが、竜は引き返そうとはしなかった。そのままオゾ山を背に飛び続けた。
「そうか、ならばいい。お前は神山に戻れ。俺はここで降りる。高度を落とせ」少年は装備を外し始めた。もう命綱を解きかけている。
竜は少年の性格を知り抜いていた。「馬鹿な。飛び降りるつもりか? この高さから飛び降りたら死ぬぞ」
「お前が俺の頼みを聞いてくれないからだ」少年はすでに命綱を外し、どこか飛び降りられる場所はないかと下方を注視していた。だが、さすがの彼も飛び降りられないほど彼らは高い場所にいた。もう少し高度が下がれば彼は躊躇なく飛び降りるつもりだった。
「高度を落とせ。俺は降りる」少年は竜に命令した。
「コウヤ…」竜はため息をついた。少年が言い出したら聞かないことを竜は良く知っていた。彼の言う通りにしなければ本当に飛び降りかねなかった。わかっていて少年を危険に晒(さら)すことは、竜にはできなかった。
竜はしぶしぶ言った。「わかった。戻ってやる。その代り、遠くから見るだけだぞ」
「もちろん見るだけさ」少年の機嫌はあっという間に治った。彼は素直に喜んでいた。
竜は旋回し、再び例の場所に近づいた。山の斜面に着地せずに、やや上方からその場所を見下ろした。
「もっと、そばに行ってくれよ」
竜は少年の言葉を無視して、その場で羽ばたき続けた。
少年は舌打ちすると、あっというまに装備を外して竜から飛び降りた。幸い彼のすぐ下にオゾ山の斜面があった。少年は少し斜面を滑り落ちたが、すぐに立ち上がった。竜を仰ぎ見て笑顔で言った。「大丈夫だ、ちょっと行ってみるだけだから」
「よせ、コウヤ。あれに近づいてはならない」
少年は竜の言葉を聞いていなかった。どんどんその場所に向かって歩いていく。大小のごつごつした岩がところどころにあるだけで、他には何もない斜面にそれはあった。穴のようにも見える輪が、斜面からわずかに浮き上がっている。まるで空から大きな透明の幕が下りていて、そこにぽっかり穴が開いているようにも見えた。穴は大人でも立ったまま通れる大きさだったが、その内側は、近づいてみてもはっきり見えなかった。ただ、何かが揺らめいていた。
少年は一旦止まった。最初は約束通りにその場で眺めていたが、突然吸い込まれるようにそれに向かって歩き出した。
「よせ、コウヤ! 行くな!」竜は叫んだ。
だが、少年は足を止めなかった。すでに手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいていて、彼の目前にそれはあった。少年はそれを覗きこんだ。
「コウヤ! 行くな!」
竜の声に少年は振り返り、にっこりした。すぐに正面に向きなおると手を伸ばしてそれに触れた。躊躇することなくその中へ踏み込んで行った。
少年の姿は輪の中に消えた。
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