第2話 赤い竜 その1
竜は赤の界の聖獣である。伝説によれば、竜は神によって作られ、他の動物には無い力と使命を与えられたという。
どのような使命が竜に与えられたのか誰も知らないが、人を凌駕するような知恵を竜が持っていることは、良く知られている。竜は独自の言葉を持ち、自らの考えを持ち、それを一部の人々に伝えることもできる。竜は人より遥かに長い時を生き、人より遥かに多くの経験をしている。
さらに重要なことに、強い聖霊の力を持つ人々は、竜を召喚できるという事実がある。彼らは竜と深い絆を結ぶ。竜は彼らをその背に乗せ、大空に舞い上がることさえする。それでいて、竜は召喚者にさえ自らについて語らないのだ。
そういったこともあり、竜の生態の多くは分かっていない。彼らが眠る姿も、他の獣を喰らう姿も目撃されたことは無い。親の
生態の多くが謎である竜だが、現在知られているその色は七色である。特に、竜王が自らの鱗から生み出したとされる七色の竜は七聖竜と呼ばれ、それぞれ白、黒、赤、青、緑、紫、橙の鱗を持っている。七聖竜がさらに自らの鱗から子を生み出していき、それぞれの色の竜は増えていったとされている。
しかし、竜王自身が何色であるかはわかっていない。竜王が光輝いていたという伝承は多いが、それ以外にも黄色だとか白っぽいなどという説もある。竜王の色は現在でも特定されていないのだ。
『ソラクアル 聖霊と聖獣』より
ヴェルは不思議な場所の夢を見ていた。
小高い丘と、とてつもなく大きな樹と果てしない空しか存在しない場所。すべての色は淡く、丘に生える草や樹さえも虹のような淡い色をしている。それがどこなのか、ヴェルにはさっぱりわからなかったが、現実の世界でないことは確かだった。
そういう夢にヴェルは慣れっこだった。彼女の夢はどこかおかしかったから。普通ではない世界をいつも見せてくれるから。初めて見る光景もあったが、同じ景色や同じ場面を繰り返し見ることも多かった。だから、ヴェルは奇妙な世界の場所や登場人物の多くに
その時の夢に現れたのもヴェルがよく知る青年だった。最高の芸術家が作り上げた彫像のように完璧な造作の青年。ヴェルは現実のどこかで、彼に会ったことがある気がしていた。最近になって、その青年が弟のカイルに似ていることに気づいた。もちろん、青年はカイルではなかった。彼はカイルよりずっと年上で大人だったし、何より髪の色が違った。カイルは赤い髪だったが、その青年の髪は金色だった。
そもそも、ヴェルが暮らすスオウミ王国だけでなく、赤の界のどの国にも赤い髪の人しかいないと父は教えてくれた。老人は白髪になるが、それ以外は全員赤い髪だ。それもあって、この世界は赤の界と呼ばれているらしい。だが、ヴェルの夢の中では、金色だけでなく黒い髪や青い髪の人物もよく登場した。
夢の中の人物たちが現実と違っているのは、髪の色だけではなかった。彼らの話す言葉をヴェルはまったく理解できなかった。赤の界のことばを全部知っているわけではないが、彼らの言葉がそのどれでもないとヴェルは確信していた。話している内容が分かったらどれほど面白いだろうと、いつもヴェルは残念に思うのだった。
その時の夢に現れた青年はひとりだった。だから、彼は何も話さなかった。不思議な色の大きな樹があるその丘を少し降りて、青年は左手を大きく空に掲げた。「ケナス」とだけ言った。
その言葉をヴェルは何度も聞いていた。それは名前だと思っていた。青年がそう言うと、必ず竜がやって来るのだから。自ら光を放ち、
ヴェルは、赤の界のどこかに竜がいることは知っていたが、本物の竜を見た記憶はなかった。現実の竜がこの金色の竜と似ているのか、ヴェルにはわからなかった。だが、これほど厳かな生き物は他にはいないだろうと、夢の中の竜を見てヴェルはいつも思うのだった。
大空のどこからともなく金色の竜は突然現れ、丘の上空を大きく一度回ってから青年の前に降りてきた。一度だけ大きく広げた後、翼をたたみ、竜はまるで王にかしずくかのように青年の前で
どこへ行くのだろう? 今日こそは、行く先を見られるのだろうか? ヴェルはわくわくしながらその後を追った。
「ヴェル。起きるんだ」
楽しい夢は緊迫した声と冷たい手の感触で破られた。ヴェルは身震いして上体を起こした。目の前にカイルがいて彼女を揺すっていた。ヴェルは思わず目をこすりながら尋ねた。
「カイル、どうしたの?」
「急いで着替えるんだ。動きやすいものがいい。走れる靴と…。それに外は寒い」
途中から、その言葉は侍女へ向けられていた。侍女が、慌ただしくヴェルの衣裳部屋に駆け込んでいく。
普段ならば聞くことがない怒声やざわめきが、部屋の外から聞こえてきた。ヴェルは、彼女の部屋だけでなく王宮内が異様な空気で満ちていることにすぐ気づいた。
「カイル、何があったの?」ヴェルは飛び起きた。
「キルドランが攻めてきた」カイルは冷たい怒りを込めて答えた。彼はすでに身支度を済ませており、腰には剣を帯びていた。それは去年の誕生日に父が彼に贈った剣だった。おもちゃではなく、本当に人を殺せる剣。父はスオウミ一の名工にそれを作らせた。
「え? だってキルドランは友好国のはずよ?」
「キルドラン国王モルセンは条約を破って、軍をスオウミに侵攻させた。すでに国境沿いのソラルスの砦は落とされた。奴らがここまで来るのも時間の問題だ。父上は、水晶宮を脱出するようにと僕たちに命じられた」
その時、野太い声が響いた。「殿下、御仕度はできましたか?」
スオウミ一の勇者と名高い守護隊長のミケアルだった。彼は動きやすい軽鎧に身を包み、普段の王宮内では考えられないほど武装をしていた。ヴェルの部屋の入り口に立っている。
「ヴェル、急いで」カイルは急かした。
侍女が服を持ってきて、ヴェルは急いでそれに着替えた。
カイルはミケアルのほうへ歩み寄った。「これから、どうする?」
「リヒトニアに脱出いたします」
「馬で行くの?」とヴェルもミケアルに尋ねた。
「途中までは。しかし、白夜の森を抜けたら馬は捨てます。石剣の谷を越え、ケナウの洞窟を経由してリヒトニアに出ます。敵に追いつかれた場合は、一旦ケナウに身を隠します。あの洞窟は敵にとっては永遠に出られない迷宮ですが、我々にとっては庭です。ヴェルメリナ様。歩けますか?」
「私は大丈夫よ。走るのだってカイルより早いわ!」ヴェルは自分を奮い立たせるように言い切った。すでに着替え終わっていた。侍女が薄手の上着をさらに着せかけてくれた。ヴェルは、ミケアルに尋ねた。「父上は?」
「ミオル管内の兵力を結集して、モルガス砦の防衛に向かわれました」
「ミケアル、どうして父上に付いていかないの?」
ミケアルは厳しい表情のまま答えた。「国王陛下には、命に代えてもアルカイル様とヴェルメリナ様をお守りし、リヒトニアまでお連れするよう命じられております」
「そんな…。あなたがいなかったら父上は…」
「ヴェル、母上のお守りは?」
カイルに指摘されて、ヴェルはその存在を思い出した。あわてて鏡台の前に置いてある小さな宝箱から母のお守りを取り出した。他に何を持って行こうか迷っていると、カイルが急かした。「ヴェル、急いで」
ヴェルは、父が誕生日にくれたルビーのペンダントをお守りとともに取り出した。
彼らは水晶宮を脱出した。
ミケアルの目論見は当初から外れた。白夜の森に入ったところで、彼らはキルドラン兵に追いつかれ、襲われた。十数人いたスオウミ最強ともいえる精鋭部隊の半数がそこで命を落とし、ヴェルたちは馬を失った。複雑に入り組んだ森の小道を熟知している地の利だけが彼らの味方だった。それでも圧倒的に数で勝るキルドラン兵の執拗な追跡と急襲に、ヴェルたちを守る兵士たちの数は少しずつ減っていった。パルムの水門を抜けたところで、残っていたのはミケアルだけだった。
そこでもキルドラン兵は、彼らが到着するのを待ち構えていたかのように襲い掛かってきた。ミケアルの声が響き渡った。「カイル様! ヴェルメリナ様を連れてお逃げください。ここはミケアルが食い止めます」
そして、二人だけになった。
スオウミ一の英雄の獅子奮迅の戦いにより、しばらく追っ手の気配は感じられなかった。しかし、敵がいつ襲ってきてもおかしくはなかった。それを怖れて二人は走り続けた。
「スメラ川沿いは多分敵に抑えられている。だが、ロス支流沿いに行けば、ケナウの迷宮までたどり着けるかもしれない」カイルはヴェルを励ました。「もう少しだ。ヴェル、頑張って」
気持ちに反して、ヴェルは思うように走れなかった。獣以外通ることもない木々の間のわずかな空間は、下草や突き出た小枝で簡単には進めなかった。
そんな中をカイルは、小鹿のように軽やかに駆け抜けていく。「見つかったらおしまいだから、少し遠回りをするよ。大丈夫だ。この辺りのことは、僕は良く知っているから」
ヴェルは、彼に付いていくのがやっとだった。口から心臓が飛び出しそうなほど呼吸が苦しかった。一度ヴェルが転んだ後、カイルは彼女の手を取った。ヴェルはカイルに引きずられるようにして、かろうじて前に進んだ。自分たちがどこにいるのか、ヴェルはすでにわからなくなっていた。いつもヴェルの後ろに控えていた物静かな弟だけが、彼女の命綱だった。
カイルの表情も今まで見たこともない程、厳しかった。二人を守るのは、もう彼の剣しかなかった。誰よりも彼自身がそれをわかっていた。
(ちょっと前までは私より小さかったのに。ちょっと前までは剣術だって私より下手だったのに…)
絡まり合う枯れた低木に足を取られて再び転んでしまった後、ヴェルはもう立ち上がれなかった。「駄目、走れない。休ませて」
「ここで立ち止まったら、連中に捕まるぞ。立って走るんだ」カイルはヴェルを立ち上がらせようとした。
「もう無理」
「ヴェル、死にたいのか。立って…」
カイルは最後まで言い終えなかった。何かの気配を感じて、彼は反射的に飛びのいた。それと同時に敵の雄叫びが聞こえた。
ひとりの兵士がカイルに襲い掛かっていた。カイルは素早くそれを避け、自らも剣を抜いた。次の一振りをカイルはかろうじて剣で受け止めたものの、彼は圧倒的に不利だった。相手は武装した兵士で、頭ひとつカイルより背が高く、体重は彼の倍ぐらいありそうだった。十二歳の少年が渡り合える相手ではなかった。カイルは簡単に追い詰められていった。彼がバランスを崩しよろめいた瞬間、敵の剣は彼を切り裂いていた。鎧を身に着けていない少年の体は、まったく無防備だった。
カイルはかすかなうめき声をあげた。思わず抑えた傷口から、瞬く間に血がにじみ出てきた。どうにか立っていたが、今にも倒れそうだった。敵は次の一振りで、カイルにとどめを刺すだろう。
「いやあー!」
このままではカイルは殺されてしまう。何としても止めなければと、ヴェルは必死で男の足にしがみついた。
ヴェルに両足を取られ、男は一瞬バランスを崩した。
「この小娘」男は、足にしがみついているヴェルを振り払おうと、カイルから目を離した。目の前の少年は、もはや敵ではないと思ったのだろう。
次の瞬間、カイルは信じられない速さで動いた。残された力を振り絞って、彼は屈み込もうとしている男の首に剣を突き立てた。その場所が、鎧を身に着けた戦士のほとんどただひとつの弱点だった。
男は振り返り、何が起きたかわからないという表情をした。こんな子供に殺されるなど夢にも思わなかったのだろう。わずかに身もだえした後、そのまま倒れて息絶えた。
男が倒れると同時にカイルもその場にくずおれた。
「カイル!」ヴェルはカイルに、にじり寄った。「カイル、しっかりして」
カイルは突っ伏したまま起き上がれなかった。何とか顔をヴェルのほうへ向け、途切れ途切れに言った。「逃げろ…ひとりで」
「いやよ」
「向かう先はケナウ…だ。わかるね?」
「ひとりじゃ行かない。あなたも一緒じゃなきゃ、いや」ヴェルは彼を抱き起そうとした。
カイルは弱々しく首を振った。「無理だ。僕はもう歩けない…」傷口を抑えている彼の指の間から、血がしたたり落ちていた。
「私が支える。だから、一緒に行くのよ」
「ヴェル、よく…聞くんだ」彼は息も絶え絶えに言った。
「この男の仲間が近くにいると…考えたほうがいい。だから、君ひとりで…逃げるんだ」最後の気力を振り絞って、カイルはヴェルを説得しようとした。
「絶対いや。一緒に行くのよ」ヴェルはカイルを立たせようとした。カイルはうめき声をあげた。
「頼むから…ひとりで行ってくれ」カイルは懇願した。
「いやよ。私たちは一緒に生まれてきたの。だから死ぬ時も一緒よ。さあ立つのよ、カイル。私を死なせたくないと思うのなら、さあ立って。歩いて」
カイルは無言でヴェルを見つめた。それ以上言っても無駄だと彼は悟った。彼はヴェルを説得するのを諦めた。ヴェルに支えられ、何とか立ち上がった。力を振り絞って足を前に踏み出した。一歩進むたびに彼は小さなうめき声をあげた。その顔は苦痛にゆがんでいた。彼は傷口を手で押さえていたが、すでに彼のチュニックは、元の色がわからないほど朱に染まっていた。彼を支えているヴェルの上着にまで、少しずつ血が染み込んでいった。
どこかに身を潜めようとヴェルは考えた。
(カイルをこれ以上歩かせることはできない。どこか敵の目に留まらないところに、身を隠そう。あいつらが居なくなるまで待つのよ。でも、どこで?)
辺りには
「もう少し、もう少しだけ歩いてね。そこで休みましょう。そうしたら、きっとまた歩けるようになるわ」
ヴェルはカイルを励ましたが、彼は答えなかった。彼の目はうつろで、彼女の声も耳に入っていないようだった。ヴェルの肩に
「カイル、しっかりして」ヴェルは上体を起こして、倒れているカイルを揺すった。
答えはなかった。彼は完全に意識を失って地面に突っ伏していた。ヴェルがいくら揺すっても何も反応がなかった。「カイル…、返事をして。カイル」
カイルは死んでしまったのだとヴェルは思った。受け入れがたい現実に、ヴェルの頭の中は真っ白になった。その場にへたり込んでしまい、しばらく動けなかった。それから我に返って、再び弟を揺すり始めた。「カイル、しっかりして。こんなところで死なないで。私をひとりにしないで…」
だが、彼はピクリとも動かなかった。ヴェルは呆けたように繰り返した。「カイル、死なないで。ああ、誰か…、誰か助けて…。私たちを助けに来て」
耳を澄ましても、何の音も聞こえなかった。誰も助けに来なかった。ヴェルはきっと顔をあげ、不毛な言葉を口走った。「私が命令しているのよ、どうして誰も来ないの? 後で父上に言いつけてやる。誰も来ないなんて、なんて役立たずばかりなの? 誰か来なさい。今すぐに。馬を引いて今すぐにここへ…」
しゃべっているうちに、少しだけ冷静さが戻って来た。
(誰も来ない。誰も来るはずもない。だって、みんな死んでしまったのだから…)
(そうよ、誰も助けに来ない…。私は独りぼっちだ)
(ひとりでこんなところに取り残された…)
(それどころか、私はひとりでは何もできない…。これからどうしたらよいのか、わからない。どこへ逃げればよいのかも全然わからない…)
(このままでは、キルドラン兵に捕まって殺されてしまう…)
非情な現実に涙がこぼれ落ちた。
(でも、カイルは違う)
(いつもカイルは私の言いなりだったけど、私より、
(どこへ逃げればよいのか、カイルはわかっていた。あの男から私を守ってくれたのもカイルだ)
(でも、そのために彼は死んでしまった。私が、彼の言う通りに走っていれば、こんなことにならなかったのに。カイルは死ななかったのに…)
(カイル、ごめんね)
後悔しても遅かったが、彼女は改めて弟の体を抱きしめた。(ごめんね、カイル。許してね)
彼の体はまだ温かかった。彼女はさらに強く彼を抱きしめた。(カイル、教えて。私はどうしたらいいの?)
その時、ヴェルは彼の心臓の鼓動をかすかに感じた。(カイルはまだ生きている?)
絶望のどん底に沈み込んでいたヴェルの心は一気に浮き上がった。ヴェルは彼の胸に手を当ててみた。間違いなく彼の心臓はまだ動いていた。ヴェルは空を仰ぎ見た。
(名もなき神よ。感謝します。私から彼を取り上げなかったことを)
わずかな希望の光が見えたような気がした。しかし、それもつかの間だった。どこかから人の声が聞こえてくる。犬の吠える声もする。
(追っ手だ)ヴェルは再び凍りついた。
(このままではすぐに見つかってしまう。どこかに身を隠さなければ。でもどこに隠れたらいいの?)
ヴェルは素早く辺りを見回した。そこは森の中にぽっかり空いた空間で、昼間だったら太陽の光がさんさんと降り注ぐような場所だった。周囲に少し背丈のある枯草が茂っている草むらがあるものの、隠れる場所としては最悪だった。
(せめてあそこまで行こう。ここでは丸見えだ)
ヴェルは立ち上がるとカイルの
ヴェルは動きを止めなかった。一歩ずつ着実に後ろへ下がった。そのまま草むらに身を隠せると思った瞬間、階段を踏み外したような感覚になった。彼女とカイルの体はそのまま宙に浮き、後ろにのけぞって落ちて行った。すぐに地面に激突し、さらに止まることなく斜面を滑り落ちていった。時々、何かにぼこぼこぶつかった。悲鳴をあげそうになるのをヴェルは歯を食いしばって
痛みのため、しばらく起き上がることもできなかった。どうにか、ヴェルは歯を食いしばりながら体を起こした。目の前に崖があった。どうやらその崖を滑り落ちたようだった。かなりの斜度がある崖で、大怪我をしてもおかしくなかった。だが、ところどころに灌木が生えていて、ヴェルたちはそれらのおかげで落ちる速度が弱まったのだろう。地面に打ちつけた体は痛かったが、怪我はしていなかった。ヴェルはしばらくぼんやりと崖を見つめていた。
崖の上から再び人の声と犬の鳴き声が聞こえた。ヴェルは我に返った。
(どこかに隠れなければ)
ヴェルは首だけ動かして、周囲を探った。崖の下の方に小さな窪みを見つけた。その手前に木が一本生えていて、少しだけ目隠しになっていた。その窪みに入れば、少なくとも崖の上からは見えないだろう。
辺りをさらに見回したが、それよりましな隠れ場所はなさそうだった。ヴェルはどうにか立ち上がるとカイルの体を再び引きずった。まず彼の体を窪みに押し込み、次に自分も身を屈め、カイルの体をさらに押し込みながら、自分も入り込んだ。彼女の体もぎりぎり窪みの中に納まったが、目の前の木がわずかに視線を
声はどんどん近づいてきた。ヴェルは窪みの中で恐怖に震えていた。ぐったりしたままぴくりとも動かないカイルの体を強く抱きしめた。その時、首にかけていた母のお守りがかすかに音を立てたような気がした。
それは何年か前に母が亡くなったときにヴェルに遺したものだった。
『これを身につけて。特に危険な時は必ず身に着けて。きっとあなたを守ってくれる』
そう母から言われたにも
だが、このような状況になって、母の言葉が
(母上、私を守ってください。私とカイルを守って! これからはいい子にします。わがままもいいません。だから私たちを守って! どうか、あの連中に見つかりませんように。ここから無事に逃げられますように。母上、私たちを助けて!)
さらに追っ手の声は近づいてきた。ヴェルたちの真上にいるようだ。震えで歯がガチガチ鳴った。その音があまりに大きくて、彼らに聞こえてしまいそうな気がした。彼女は思わず自分の口元を手で抑えた。心の中で必死に祈り続けた。
(母上! いいえ、誰でもいいから助けに来て。お願い、こんなところで死にたくない。誰か助けて)
彼女は目を閉じ、可能な限り体を縮こませ、ますます強くカイルを抱きしめた。今にも『ここにいたぞ、見つけたぞ』という声が聞こえそうで、生きた心地がしなかった。
(お願い、誰か助けて。母上…。誰か…。お願い。)
ヴェルは心の中で何度も叫んだ。彼らを探す声はまだ聞こえていた。時間の進みは残酷なほど遅く、この恐怖が永遠に続くような気がした。
その時だった。犬の声が高くなり悲痛な鳴き声が響き渡った。「わー」という人の叫び声。何かが燃えているような煙のにおい。それから悲鳴がはっきり聞こえた。人々が逃げ惑っているような物音。その中に
「竜だ、逃げろ!」
「竜だ! 焼き殺される!」という叫び声が入り混じっていた。
(竜ですって?)ヴェルは耳を疑った。
ヴェルは夢の中でしか竜を見たことがなかった。本物の竜がどのようなものか、まったく知らなかった。空を飛び、炎を吐く恐ろしい生き物ということぐらいしか、彼女の知識はなかった。
悲鳴や叫び声は彼女の頭上でしばらく続いていたが、やがて静かになった。ヴェルはカイルを抱きしめたまま固まっていた。心臓だけが、バクバクと激しく動いていた。
(本当に竜がいたのかしら? 静かになったということは、竜はいなくなったのかしら?)
崖の上で何があったのか、ヴェルにはわからなかった。だが、見てもいないのに、竜は本当にそこにいたと確信していた。
しばらくたっても、何も物音はしなかった。どうやらヴェルたちを追っていた兵士たちは、いなくなったようだった。でも竜は? きっと竜も兵士たちと共に去ったのだろう。彼女に危害を加えるものは、みんないなくなった。ヴェルはそう思いたかった。
(でも、なぜ竜がここに来たのだろう? 竜はお腹がすいていたのかしら? だから竜は兵士たちを食べにきたのかしら?)
その考えにヴェルはぞっとした。
(竜が全部兵士を食べてしまったのだ。だから、兵士の声が聞こえなくなったのだ。でも、それならば、私たちも竜に食べられてしまうかもしれない!)
兵士たちに捕らえられるのと、竜に食べられてしまうのと、どちらがましだろうとヴェルは真剣に考えた。すぐに結論は出た。どちらもいやだ。
(今ここを出たら竜に見つかってしまうかもしれない。もう少しここに隠れていよう)
そう考え、ヴェルは身じろぎもせず目を閉じて、じっとしていた。恐ろしくて、外がどういう状況なのか確認しに行く勇気はなかった。
その時、どこかから声が聞こえた。「愚かな娘だ。竜は人など喰らわない」
彼女は目を開き、窪みの外を恐る恐る振り返った。誰の声だかわかった時、ぎょっとして腰を抜かしそうになった。
そこには竜がいた。真っ赤に輝く鱗で覆われた竜。翼は折りたたまれていたが、それでも
竜の声がはっきり頭の中に響いてきた。竜と目があった。大きな金色の目。その目に見据えられて、ヴェルは完全に固まってしまった。それは恐怖を超えていた。ヴェルは竜から目を離すこともできず、声を出すこともできず、逃げ出すこともできなかった。竜のほうは興味深げに、じっとヴェルを見つめている。
しばらくして竜は言った。「どうやらお前が私を呼んだようだな」
(竜なんか呼んでいないわ。どうしてこんなものが、ここに居るの?)
ヴェルは心の中で呟いた。竜は、彼女の考えを読み取ったかのように答えた。「お前は呼んだ。助けてくれと何度も私を呼んだ。だから、私はここに来た。ここに来て、お前に危害を加えようとしている者たちを排除した」
「排除した?」ヴェルは初めて口に出した。
「そうだ」
「あいつらを追い払ってくれたの?」
「そうだ」
「どうして?」
「どうしてだと? お前は私の召喚者だ。私にはお前を守る義務がある。だから、ここに来たのだ」
「どうして? どうして『召喚者』だと守ってくれるの?」
「それは
「どうして竜王はそんなことを誓ったの?」ヴェルはどこまで竜を信じて良いのかわからなかった。
赤い竜は面倒くさそうに答えた。「それが知りたければ竜王に直接尋ねてみるのだな」
そう言うと、竜は伸びをするかのように折りたたんでいた翼を大きく広げた。その姿を見てヴェルはあることに気づいた。
(この竜は、夢の中の竜とまったく同じ姿をしている。色は違うけど、あの夢の竜とまったく同じだわ!)
それがわかった瞬間、ヴェルはその赤い竜を信じていた。
(この竜は嘘を言っていない。誓約とか、何を言っているかよくわからないけど、私たちを本当に守ってくれるのだわ!)
恐怖と緊張で硬直していたヴェルの体からようやく力が抜けた。希望の光がわずかだが見えてきた気がした。
「つまりあなたは、あなたを呼んだ私を守ってくれるのね?」彼女は念を押した。慌てて付け足した。「私とカイルを」
竜は頷くように首を少し曲げた。「そうだ。どうして欲しい?」
「だったら、私たちをどこか安全なところに連れて行って」
竜はわずかに目を動かし、カイルを見た。「望み通りの場所に連れて行ってやろう。早く私の背に乗りなさい。急がないと彼は死にかけている」
竜の言葉に、ヴェルの体は急速に活力を取り戻した。窪みから這い出て立ち上がると、カイルの体を窪みから引きずり出した。彼の体が、先ほどよりはるかに軽く感じられた。
外に出てみて、ヴェルは改めて竜の大きさに目を見張った。竜の背は彼女の頭上遥か上にあった。
(どうやってあそこまで登ればいいの?)
竜はヴェルの考えがわかったのか、翼を広げ、一方を地面に接触させてくれた。竜の背まで緩やかなスロープができあがった。「翼を上るのだ。出来るな?」
「出来るわ!」
ヴェルは叫ぶように答えると、後ろ向きにカイルの体を引きずりながら翼の上を一歩ずつ上って行った。ようやく背の上にたどり着いた時は汗だくで、肩で息をしていた。
「
ヴェルはカイルを抱きかかえたまま竜の鱗にしがみついた。空を飛んだらどうなるのだろうかと、少し不安になった。
「さあ、行くぞ、しっかりつかまっていなさい」
「どこへ行くの?」
「ここよりは安全なところだ。行けばわかる」
(安全ならばどこでもいいわ。竜に任せよう)
竜は静かに飛び立った。どんどん舞い上がっていく。今まで経験したことのない、空を飛ぶという感覚。少し前まで逃げ惑っていた森も谷も、すべてが眼下に収まるほどの高さまで竜は達していた。月と雲だけが、竜とともに暗闇の中で浮いていた。
ヴェルは思わず身を乗り出して、はるか下方を見た。わずかな月明かりにルリ湖の湖面が光っていた。さらに視線の先には…。
そこには水晶宮の姿が見えた。本来ならば、暗闇の中でほとんどその形がわからないはずの王宮が、くっきり浮かび上がっていた。水晶宮は炎に包まれていた。ヴェルとカイルが生まれ育った王宮。赤の界一美しいといわれた王宮は炎上していた。
上空から見渡すと、王宮以外のあちらこちらの場所からも火の手が上がっていた。それらの場所がどこなのか、ヴェルにはだいたい見当がついた。王宮だけでなく国の拠点となる場所のほとんどが、攻撃され炎上しているのだ。ヴェルは思わず竜に尋ねた。
「父上がどこにいらっしゃるかわかる? 父上はご無事かどうかわかる?」
「わからない」竜は冷ややかとも思えるほど淡々と答えた。
「でも、私がどこにいるか、わかったじゃない」
「それはお前に聖霊の力があり、私を呼んだからだ。竜とて万能ではない。聖霊の力のない普通の人がどこにいるかなど、わからない」
聖霊の力が何なのかヴェルにはわからなかったが、竜の言葉にはなぜか説得力があった。ヴェルはそれ以上何も言えなくなってしまった。彼女は眼下に広がる炎を見つめた。
(父上! ご無事なのですか? どこにおられるのですか? 私は父上にまたお会いすることができるのですか?)ヴェルは心の中で叫んだ。
ヴェルの叫びも空しく、父からも、誰からも答えはなかった。
赤の界の宝石といわれたスオウミ王国はこのとき、まさに消滅しようとしていた。
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