第20話 旅の空の下 その1
「応援を待ったほうが良いのでは?」と黒竜のマヒロが言う。
「それを待っていたら、あの娘、一生泣いて暮らすことになるぞ」とコウヤ。
「炎で脅してやろうか」
「馬鹿、娘も焼け死んでしまう。俺が行くしかない」
「だが、相手は十三人もいるぞ」
「大丈夫、矢はちょうど十三本ある」そう言うと、コウヤはマヒロから飛び降りた。
「一」娘に覆いかぶさっている男を射る。「二、三」次は娘を押さえている男たち。
「四、五、六」彼を見つけて襲い掛かってくる奴ら。
「後ろ!」マヒロの声がする。
「七、八、九」振り返りざまに射る。馬車の裏から飛び出してくる連中。
「十、…十三」
もう襲ってくる奴はいない。
「どうやら矢は足りたな」コウヤは呟いた。
『メネラオス 必中の射手』より
カイルが同行した隊商は、召使なども含めれば総勢五十人以上から成り、毎年同じ時期に聖竜の神山とカラグロイを往復していた。そもそもはカラグロイとボタニア間を行き来していたのだが、ルーベルニアの豊かさに目をつけた商人たちは、ボタニアからさらにルーベルニアまで足を延ばすことを考えるようになった。彼らが国境を越える際の手続きでいろいろ便宜をはかってやったこともあり、エシュリンはその隊商の主だった商人たちと懇意にしていた。
エシュリンは隊商の商人たちに、カイルの父親はリヒトニアで貴族の祐筆をしていたが、病に倒れたため治療のため親子で聖竜の神山に滞在していたと話していた。父が亡くなったので、身寄りがないカイルは母の親族がいる北砂諸島に行くことになったという、まことしやかな話を作り上げていた。エシュリンの依頼ということもあり、カイルは隊商の客人として遇され、上等なテントと商人たちと一緒に食事ができる待遇を得た。隊商の進行を妨げたり、隊商に迷惑をかけたりしない限り何をしていてもおとがめはなく、カイルは生まれて初めて体験する長旅を楽しんでいた。
旅の当初、隊商の中でカイルを気にかけていたのは護衛隊長のシュウレイだけだった。この実直な青年は、神山の政の長から頼まれた仕事を生真面目に果たしていた。彼は隊商の隊列を守るだけでなく、常にカイルにも注意を払っていた。仕事がひと段落して余裕があるときは、必ずさりげなく、「坊ちゃん、疲れていませんか? 何か不都合なことはありませんか?」などとカイルに話しかけて来た。カイルがひとりで寂しい思いをしないように、シュウレイなりに心を配っているようだった。シュウレイがカイルを『坊ちゃん』と呼ぶので、いつの間にか隊商の人々もカイルを『坊ちゃん』と呼ぶようになっていた。
隊商が移動している時は、カイルはシュウレイからつかず離れずの位置で馬を進めたが、どこかの宿場や町に停まって商人たちが商売を始めると、カイルは商人たちのそばにいることが多かった。隊商の隊長でもある商人のザイツ親方の行動をカイルは観察していた。初めのうち親方は、親方をじっと見ている少年を怪訝に思っていたが、商売が邪魔されることもなかったので、そのうち気にしなくなった。しばらくすると、少しずつ商いというものについて、カイルに教えてくれるようになった。それまで商いの現場をカイルはまったく見たことがなかったので、商人たちの取引に興味津々だった。その機会をできるだけ逃さず観察するようにした。親方がいろいろ教えてくれることもあり、商いのコツが少しわかったような気がしてきて、カイルは愉快になった。
夕食の後は、商人たちは大きなたき火を囲み、よもやま話に花を咲かせた。それは商売の話から武勇伝、女の話にまで多岐にわたった。少年がその場にいることなど彼らは気にしなかった。カイルはたき火の片隅に陣取り、じっとその話を聞いていた。話題に興味がない場合は炎をみつめてぼんやりしていた。
そのような時、考えまいとしても、彼はヴェルのこと考えてしまうのだった。
ヴェルと彼が王家の子供たちという立場から一転、すべてを失い聖竜の神山へ逃れた後、カイルはいくつか重大な決断をしなければならなかった。彼は自分のことよりも、ヴェルの将来を案じていた。
それまでも、彼はいつもヴェルを守ろうと考えていた。明るくてわがままで、すぐに泣いたり怒ったりするヴェルを、自分が絶対守らなければならないと考えていたし、自分にはそれができるとも思っていた。
だが、あの夜すべてが変わってしまった。キルドランに攻め込まれたあの夜、白夜の森を逃げ惑った時のヴェルの怯えきった表情。だが、彼は彼女に何もしてやれなかった。彼にミケアルのような体力があったら、彼女を抱き上げて風のように森を走り抜けただろう。だが、彼にできたのは、彼女の手を引くことぐらいだった。その挙句、あの男に襲われた。ヴェルの助けを借りて何とか男を倒したものの、その後の彼は、彼女のお荷物でしかなかった。彼はヴェルを守るどころか、ヴェルに救われたのだった。そして、さらに彼を惨めにしたのが、ヴェルを守ったのは、あの赤い竜だということだった。かつて母の竜だった赤い竜。彼が絶対召喚することができない竜。
その後もカイルは、自分がいかに思い上がっていたか思い知らされた。王宮にいたときのヴェルは、可愛いだけで特に優れたところがある少女ではなかったが、神山に行ってそれは一変した。ヴェルは母から受け継いだ強い聖霊力を持っていた。エシュリンやユズリハの言葉から推測すれば、今の神山でヴェルを上回る力を持つのは、あの英雄、炎の長ナカルのコウヤぐらいなのだそうだ。それに比べて自分はどうだろう? まったく聖霊力を持たない彼は、神山では誰からも
カイルは悟った。ヴェルは聖竜の神山で、ひとりで十分やって行ける。むしろ彼などいない方が良い。彼がいれば、彼女は一事が万事、彼を頼ってしまい、自発的に何もやろうとしないだろう。彼の存在は彼女の益とならないばかりか、害になるだけだった。
神山を離れることは、カイルにとっても悪いばかりではなかった。それ以上惨めにならなくて済むし、ひょっとしたらヴェルのことを忘れられるかもしれない。だから彼は、彼女と別れ神山を去ることを決断した。
その決断が正しかったのか、彼にはわからなかった。神山を離れて確かに惨めさは減ったが、ヴェルを忘れることはできなかった。
ヴェルのほうはどうだろうと考えることもあった。だが、きっと彼女は、彼のことなどすぐに忘れて神山で楽しく暮らしているに違いない。もちろん、たまには弟を思い出すだろう。彼が彼女の弟である限り、完全に彼のことを忘れることはないだろう。たまに会うことがあれば、再会を喜んで涙してくれるかもしれない。彼を弟だと思って、少しばかりの愛を恵んでくれるかもしれない。
そして、彼はずっと彼女を
(僕はヴェルに本当のことが言えなかった…)
だが、それを彼女に伝えるべきか、よくわからなかった。父さえそうしなかったのに、どうして彼の口からそんな事実を彼女に告げることができただろう? 彼が、本当は彼女の弟ではないという事実。
カイルがその事実を知ったのは、ヴェルと彼の十歳の誕生日が過ぎて三日ほど経った日のことだった。彼らの誕生日を祝う数日間にわたる舞踏会や晩餐会にヴェルは大はしゃぎで、それに疲れ果てたのか珍しくカイルに構うことなく自分の部屋に引き上げていた。そんな時、彼だけが父に呼ばれた。何だろうと思いながら父の部屋へ行くと、父はスオウミのレガリア、氷の剣を取り出して眺めていた。彼が近づくとその剣を彼に渡し、『これは将来お前の物になる』と言った。カイルはレガリアの意味も、彼が父の後を継ぐということも知っていたので、それを当然のこととして受け取った。むしろなぜ、改めてそのようなことを言われるのか訝しく思った。
父は改まった表情で彼を引き寄せた。腰を落とし、彼と目の高さを合わせた。
『いいか、何があってもお前は私の息子だということは忘れないでほしい。私がどれだけお前を愛しているかということも』
カイルは首を傾げた。父の中に何か躊躇があるのが見て取れた。
父は一呼吸おいてから言った。『私は、お前の本当の父親ではない』
言葉は理解できたが、その意味をカイルは理解できなかった。
(ホントウノチチオヤデハナイ?)
その言葉だけが頭の中でぐるぐる回った。しばらく父を凝視した。ようやくその意味が理解できたとき、彼は
彼の声は、彼の心と裏腹にまったく平静だった。
『カイトだ。レイカの双子の兄の』
彼は言われた言葉を噛みしめた。母に双子の兄がいたとは知らなかった。彼はさらに尋ねた。『では、母上も僕の本当の母親ではないのですか?』
彼があまりに冷静なので、父はむしろ戸惑っているようだった。『お前の本当の母親は、私の妹のルリナだ』
父に妹がいたということは、カイルは知っていた。王宮の長い広間の片隅で、その肖像画を見たことがあった。だが、すぐには顔が思い出せなかった。彼にとって、その人はそんな程度の存在だった。その人が彼の母親? 実の父親だというカイトにいたっては、そのような人物がこの世に存在したことさえ彼は知らなかった。
『父上の妹のルリナという人は、ずっと前に亡くなっていますよね? では、母上の兄だというカイトという人は、今どこにいるのです? イエエトにいるのですか?』
『カイトも亡くなっている。二人とも亡くなっている。カイトはお前が生まれる前。ルリナはお前が生まれた日に』
カイルの本当の両親は、彼が生まれた日の夜にはすでにこの世にいなかったのだ。生まれた翌日には、彼はもうすでに孤児だったのだ。なんと彼は、運に見放されているのだろう。
彼はふと気づいた。彼は持っていた『氷の剣』を見つめてから父に返した。『ならば、これは僕の物じゃありません。ヴェルの物です』
『いいや、これはお前の物だ。お前が十四歳になったら立太子の儀を行い、お前が私の正当な跡継ぎであることを世に示すつもりだ』
『なぜですか? ヴェルがいるのに』
『これはレイカと二人で決めたことだ。嫌なのか?』
それまで当然だと思っていたことを、突然嫌かどうか訊かれても彼は即座に返答できなかった。ただ、『ヴェルは、このことを知っているのですか?』とだけ尋ねた。
父はため息をついた。『あれには話していない。しばらく話すつもりもない。あれはまだ子供だからな』
それを聞いてカイルは
だが、ヴェルが本当の姉でないということを知って、彼の心は一瞬舞い上がった。これで、ひょっとしたら自分の願いは叶うかもしれない。絶対叶わないと考えていた思いが叶うかもしれない。その喜びで、他のことはすべて吹き飛んでしまうほどだった。
しかし、すぐに彼は気がついた。今更その事実がわかったところで何も変わらない。たとえ彼が本当の弟ではないにしても、ヴェルにとって彼は弟以上の存在にはならないだろう。そのこともあって、彼は彼女に本当のことを打ち明けることができなかった。
(このままで良いのだ。ただの弟で…)
彼は自分にそう言い聞かせるしかなかった。彼は無言で炎を見つめ続けた。
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