第18話 別れ その3
ユズリハに連れられて行った学びの部の手続きに、予想よりはるかに時間がかかってしまい、ヴェルがカイルの病室に戻ったのは午後になってからだった。戻った病室には彼の姿はなかった。
また散歩にいったのかと思い、ヴェルは雲海の丘まで行ってみることにした。診療所を出て雲海の丘へ急いだ。だが、そこに着く前に思わぬところで彼を見つけた。
カイルは雲海の丘の下方にある竜舞台の上にいた。彼は、竜舞台の奥にある大きな火台に赤々と燃える炎を食い入るように見つめていた。
ヴェルは竜舞台に上がりカイルのすぐ後ろまで歩いていった。初めて神山に来た夜を思い出した。あの夜、この竜舞台に連れてこられた時、カイルとこのような形で離れ離れになろうとは、彼女は
炎の勢いは強く、そばに近づくと心地よい暖かさを通り越して、火傷をしそうなほど熱く感じた。だが、カイルは何事もないようにそこに立っていた。
「何をしているの?」ヴェルは問いかけた。
彼は振り返った。「クレナ、この炎のことを知っているかい?」
「いいえ」
「見てごらん」彼はヴェルの腕を取り、良く見えるように炎の近づくことを促した。
あまりの熱気にヴェルは思わず腕をかざして、熱風を避けようとした。そこには燃え盛る炎があるだけだった。
「よく見てごらん。この火台には炎以外何もない。薪も油もない。わかるだろう?」
ヴェルは熱さを避けるようにして、炎を覗きこんだ。「本当だ。火台の上には何もないわ。どうしてこれは燃えているの?」
「これは聖なる炎と呼ばれている。大災厄以前からこの火はずっと燃え続けていると言われている。何も燃料がないのにね。それだけじゃない。これは一度も消えたことがないそうだ。そんなことってあるのだろうか? これを見ていると、名もなき神は確かに存在したのだとさえ思える…」
カイルの言葉を聞いていると、まるで彼は名もなき神の存在を信じていないようにも聞こえた。ヴェルは彼を探るように見た。だが、彼が何を考えているのかわからなかった。相変わらず彼は炎を見つめ続けていた。
突然カイルは振り返った。「クレナ、頼みがあるのだけど。聞いてくれる?」
「何なの?」
「あの竜を、あの夜君が呼んだという赤い竜を、もう一度呼んでくれないか? 僕はここを去る前に、どうしてもあの竜が見たいんだ」
カイルにまであの竜を呼んでほしいと言われ、ヴェルは途方にくれた。
(もう一度呼べるのかしら? 呼んだらあの竜は来るのかしら?)
「嫌なの?」カイルは尋ねた。
ヴェルは首を横に振った。「嫌じゃない。でも自信がないの。やり方もわからないし」
彼には彼女の不安が手に取るようにわかったようだった。「君ならできるよ。前にやったのと同じようにやればいいんだ」
「でも、あの時は普通じゃなかったから。必死だったから。あの竜は母上の竜だった。だから助けに来てくれただけなのよ」
「でも、竜は言ったのだろう? 君が召喚者だと」
「そうだけど…」
「ならば、君が呼べば、あの竜は絶対来る。それでも心配というのならば、君が少しは安心できることを教えてあげる。普通の人が竜を初めて召喚する時、どうするか知っている?」
「知らない」
「ここにいる訓練生や候補生は、竜舞台の上で竜笛を使ってやるらしいよ。竜舞台というのは、もちろん今、僕たちがいるこの場所だ。僕にはわからないけど、ここの上では聖霊の力が強まるらしい。だからこの上で竜を呼ぶんだ」
「そうなの? でも私、竜笛なんて持っていないわ」
「聖霊力の強い人は、竜笛や竜舞台を使わなくても竜を召喚できるらしい。君もそうだけど、君以外にもそういう人は結構いるみたいだよ。万が一召喚できなくても、また試せばいいだけだ。一回で呼ばなければならないという決まりはないし、一回で召喚できる人は意外と少ないらしいよ」
カイルの説明で、ヴェルは少しずつその気になって来た。
「そうなの。でも、どうしたらいいんだろう?」
「心の中で赤い竜を思い浮かべて呼んでみればいい」
ヴェルの経験では、カイルの言う通りにやっていれば間違うことはなかった。ヴェルは目を閉じ、あの赤い竜を思い出した。暗闇の中で見ただけだったが、あの赤い鱗の輝きは忘れられなかった。
(私のところにもう一度来て!)
あの竜とは言葉を使わなくても話ができた。何か返事があるかと思ったが、特に何も聞こえなかった。
(お願い、私のところにもう一度来て!)
ヴェルは心の中で祈り続けた。あの日、あの竜を呼んだ時と同じように。だが、しばらく待っても何も答えはなかった。時間だけが空しく過ぎていくように思われた。
「クレナ、見て!」
カイルの声にヴェルははっと顔をあげ空を見た。彼が指さすオゾ山の方向に何か点のようなものが見える。それは、みるみる大きくなった。翼も見える。
「竜だ!」いつも冷静なカイルが興奮して叫んだ。「クレナ、竜だよ。赤い竜だ!」
その時には、はっきり竜の姿が見えた。赤い大きな竜。それは竜舞台の上を一回旋回すると、静かにゆっくりと降りてきた。竜舞台に降り立つと、竜は輝く目でヴェルを見た。あの時と同じように竜の声が頭の中に響いて来た。
「娘よ、久しぶりだな」
(娘じゃないわ、ヴェルメリナよ)ヴェルも心の中で答えた。
竜は視線をカイルに向けた。カイルも食い入るように赤い竜を見つめていた。
「久しぶりだな、守護者よ」竜はカイルに向かって言った。しかし、その声はカイルには聞こえていないようだった。
「竜が、あなたにも久しぶりと挨拶しているわ」ヴェルはカイルに伝えた。
「竜が僕に?」カイルはヴェルを見た後、再び竜を見た。「偉大なる竜王の子、赤の七聖竜よ、久しぶりだな」
竜はじっとカイルを見つめるだけで、それ以上は何も言わなかった。
(ところで、あなたの名前は何というの?) ヴェルは竜に尋ねた。
竜は答えた。「お前の好きなように呼べばいい」
カイルがヴェルに尋ねた。「どうしたの?」
「竜に名前を尋ねたら、私の好きに呼べばいいですって。自分の名前を教えたくないのかしら?」
カイルは微笑んだ。「もちろん君が考えているように、竜にも親からもらった名前がちゃんとある。でも、竜の言葉は人には話せない。人には発音できないんだ。だから召喚した竜には、人が使っている言葉で名前をつけるんだよ」
「へえ」
「だけど、竜王だけは例外だ。竜王には親はいない。神が自ら作ったんだ。竜王だけは神から名を与えられた。だから竜王は人でも呼べる唯一の名前を持っているんだよ」
「何という名前なの?」
「それはわからない。あまりに古い話で、記録は何も残っていないんだ」
「ふうん」
「だからクレナ、君が好きな名前をこの竜につければいい」
ヴェルは少し考えた。「じゃあ、レイカと呼ぶわ」
ヴェルは竜にカイルと名付けたかった。しかし、本人を目の前にして、さすがにそれを口にするのは恥ずかしかった。だから、母の名前にした。ヴェルは声に出して話していたが、竜の声はカイルにはまったく聞こえないらしい。
「母上の名前にしたんだね」
「他に思いつかなかったから」
カイルは微笑んだ。「でも、それはいいかもしれない。この竜はこれから母上に代わって君をずっと守ってくれるんだ。本当に素晴らしいよ、こんな竜が召喚できるなんて」
それからレイカに向き直った。「君には僕が言うことがわかるのだろう? ならば約束してほしい。僕や母上に代わって必ずヴェルを守るということを」
レイカは輝く目でカイルを見ていた。「彼女は私の召喚者。何があっても必ず守る。ましてや、あなたの命令ならば、何に変えても必ず守ると誓う」
カイルにはやはりレイカの声が聞こえていなかった。ヴェルが言葉にした。「必ず守るって誓ってくれたわ」
「そうか、よかった」
二人の会話をよそにレイカがヴェルに言った。「今日は初めてだから、この辺りを案内してやろう」
「本当に?」
「今日は特別だ」
ヴェルはカイルに伝えた。「レイカがこの辺りを案内してくれるって」
「そう」カイルは目を見開いていた。「じゃあ、行っておいで」
「あなたは?」
「僕は…」
その様子を見てヴェルはすぐ、彼が竜に乗りたいのだと気づいた。彼に聞こえないように頭の中でレイカに尋ねた。「カイルも一緒でいい?」
「もちろん、構わない」
その答えに彼女は満足し、カイルを誘った。「レイカがあなたも一緒に行こうって。いいでしょう?」
「僕も?」
レイカはあの夜と同じように翼を地面につけて彼らが乗れるようにしてくれていた。ヴェルはカイルの答えを待たずに、彼の腕をとり竜の翼を上っていった。二人が上り終わるとレイカは言った。「さあ行くぞ、しっかり捕まっていなさい」
レイカはゆっくりと舞い上がった。
カイルは思わず歓声をあげた。「すごい! ヴェル。飛んでいる! 本当に飛んでいる!」
カイルは興奮していた。レイカはさらに高度を上げていく。
「ヴェル、見て! 家があんなに小さく見える。神山だって模型みたいだ。それにオゾ山も。この高さで見るとこんな風に見えるんだね。雲が下にあるよ」
こんなにはしゃいでいるカイルを彼女は見たことがなかった。
「すごい。どれぐらいの速さだろう。人を乗せているとこれ以上は無理かな」
レイカはカイルの問いに律儀に答えるが、彼には聞こえていなかった。仕方がないのでヴェルが伝えた。「人を乗せて飛ぶときは、これ以上の速度を出したいなら、お互い装備がいるのですって。人はゴーグルを付けたり、防寒用の服を着たりするんですって。それから、落ちないように命綱のついた鞍みたいな装備を竜につけるんですって」
「それって、聖竜部隊の装備だろう?」
「そう、でもそれをしても、人を乗せているときの速度はたかが知れているんですって」
そんなことを話しているうちに、海が見えてきた。
「ごらん、ヴェル。最果ての海だ。海岸線が地図の通りだね。こんな高いところからでも波が見えるんだ」
「今日は風があまりないからあの程度なんだって。風の強い日は、海に白い縞ができたように見えるんだって」
「素晴らしいなあ。ほら、雲が絨毯みたいになっている。その上に太陽の光があたって…」
カイルは恍惚として眼下の景色を見つめていた。そんなに空を飛ぶのが楽しいなら、もっと乗せてあげたいとヴェルは思い、こっそりレイカに訊いた。「明日も乗せてくれる?」
彼女はレイカが二つ返事で引き受けてくれると考えていた。しかし答えは意外だった。
「断る」
「どうして?」
「お前は『竜の義』を知らないのか?」
「何、それ?」
「では、それから学ぶのだな」
(何よ)ふと思った。(カイルは知っているのかしら?)
「カイル、竜の義って知っている?」
彼は夢中で景色を見ていたが、ヴェルの問いにすらすらと答えた。「竜は可能な限り召喚者を守らなければならない。召喚者を支えなければならない。そのためには、時としてその炎の力を用いることも許される。しかしながら、竜は召喚者に従う義務はない。竜と召喚者は絆により結ばれているのであって、主従の関係には無い。竜は自由な意思を持ち、自らの行動は自らで決める。それを召喚者により妨げられることはない。ただ一人、竜王を召喚した真の王に対しては、竜は無条件でこれに従わなければならない。竜は真の王に仕えるために存在するのであり、真の王の命令は何よりも優先されることを忘れてはならない」
あまりの長さにヴェルはあっけにとられた。「何それ…」
レイカがくつくつ笑った。竜が笑うのかわからないがヴェルにはそう感じられた。
「お前の弟はよくわかっている。彼は本当に守護者にふさわしい」
(なによ、せっかくカイルのために頼んでやったのに)
ヴェルはふてくされたくなった。そうこうしているうちに、再び聖竜の神山が見えてきた。
カイルは相変わらず夢中だった。「すごい、遠望の崖ってあんなに切り立っているんだね」
「もうすぐ着くぞ」レイカの言葉をカイルに伝えると彼はため息をついた。
「そうか…。もう戻ってきてしまった…」彼はがっかりしていたが、彼女を振り返った時は笑顔だった。「ヴェル、本当にありがとう」彼女を強く抱きしめた。「素晴らしい体験ができた。これで何ひとつ心残りはない」
「心残り?」
カイルは慌てて言い足した。「いい思い出になったって意味だよ。それより、ほら見て。竜舞台に人が集まっているよ」
「本当だ。どうしてだろう?」
「みんな、レイカを見に来たんだ。レイカは七聖竜だからね。僕はもう行くけど、君はここに残っていたほうがよさそうだね」
その間に、レイカは静かに竜舞台に降り立った。
カイルは怪我人とは思えない身軽さでレイカから飛び降りた。ヴェルが止める間もなくその場を離れてしまった。ヴェルはカイルを追いかけようとしたが、そこにユズリハの姿を見つけ立ち止まった。それ以外の人たちは、ほとんど黒い服を着ていて、ヴェルよりもレイカに興味があるようだった。彼らはレイカのそばに行き、レイカに何か話しかけたりしていた。
ユズリハはヴェルのそばに寄ってきて、彼女を抱きしめた。「本当によくやったわ。クレナ。また召喚できたのね。それで何と名前を付けたの?」
「レイカです」
「まあ、レイカの竜がレイカ?」ユズリハは笑いをかみ殺していた。
どうやらとんでもなく間抜けな名前を付けてしまったことにヴェルは気づいた。
「ところで、ユズリハ様はどうして、ここにいらしたのですか?」
ヴェルの問いにユズリハは「私の竜、マサリが教えてくれたのですよ。あなたが再び赤の七聖竜を呼んだと。じきに竜舞台に戻ってくるだろうと。だからここに来てあなたを待っていたのよ。彼らもおそらく自分たちの竜に、赤の七聖竜が竜舞台に戻ってくると聞いたのでしょう」ユズリハは黒い服の男たちを目で指し示した。
ヴェルも視線を黒い服を着ている連中に向けた。「あの人たちは、誰ですか?」
「彼らは炎の部の人たちですよ。聖竜部隊の隊員もいるわ。あの人たちは、根っからの竜好きですからね。最近は、黒の七聖竜しか身近にいないから、こんな機会を逃さないのでしょう」
その頃にはヴェルも、『炎の部』とか『聖竜部隊』が何なのかわかっていた。あの人たちがそうなのだと、改めて黒い服の人々を眺めた。彼らは全員男で、竜に夢中だということは一目見てわかった。中には金色の帯をしている者もいた。それが司以上の位を示していることは、ヴェルにもわかっていた。(司なのに、まだ竜なんか見に来るの? 物好きな人たちね)
レイカが飛び立つと、彼らは三々五々引き上げていった。途中ユズリハに声をかけていく者もいたが、ヴェルに話しかけた者は誰もいなかった。
彼らを見送った後、ユズリハは提案した。「今日は私の家でお祝いをしましょう。タツトも呼んでね」
これがお祝いするようなことなのかヴェルにはわからなかった。ただ、ものごとがどんどん動き始めていることだけは感じていた。カイルとの別れは絶対避けられないものとなっただけでなく、もう始まっているような気がした。
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