第17話 別れ その2

 朝早くに約束もなく訪ねて行ったのに、ユズリハは嫌な顔ひとつせずにヴェルを迎えてくれた。「どうしたのですか? 夢日記がたまったのですか?」


「いいえ。そのことではありません」


 ヴェルは、自分の決意がくじけないように、挨拶もそこそこに一気に言い切った。


「ユズリハ様、私はここに残って、夢見の勉強を続けたいと思います」

「まあ」


 唐突なヴェルの宣言にユズリハは驚いて、それを受け止めるのに少し時間がかかっていた。ヴェルもユズリハが次に何を言うだろうと待ち構えていた。


 ややあって、ユズリハはいつもと同じように、ヴェルに静かに尋ねた。「それでタツトはどうするのですか? 彼もここに残ると決めたの?」


「いいえ。タツトはここを出て、白鴉はくあの谷で白カラスになるそうです」

「白カラス、ですか…」ユズリハは少し複雑な表情を浮かべた。

「そうです。白カラスって軍師のことです。白いカラスのことではありません」ユズリハが白カラスを知らないのかと思い、ヴェルは説明した。


 ヴェルの言葉に、ユズリハは初めて少し微笑んだ。「わかっていますよ。白鴉の谷の訓練所を修了した軍師のことですよね。修了するのは、とても難しいと聞いていますよ。白カラスは誰にでもなれるものではありません。でもタツトならば、きっと大丈夫でしょう」


 ヴェルは、ユズリハも白カラスを知っていたので少しつまらなかった。


 ユズリハはすでにいつも通りの穏やかな表情に戻っていた。ヴェルが神山に残ると言ったことをユズリハは心から喜んでいた。「でもクレナ、よく決意しましたね。彼と別れてここに残ることを。勇気ある決断です。きっとあなたのお母さまも、あなたを誇りに思うでしょう」


 ヴェルは褒められて少しだけ気持ちが慰められた。彼女はユズリハに打ち明けた。


「ユズリハ様。実は私、母とあなたの夢を見たのです」

「レイカと私の夢?」ユズリハは驚きを露わにした。今までヴェルが彼女に話した夢はみんな、いつの時代の誰のことかもわからない荒唐無稽なものばかりだったからだ。「どんな夢だったのですか?」


 ヴェルは、前夜に見た母とユズリハの夢の話をした。


 聞き終わるとユズリハが尋ねた。「その夢の中に、それまであなたが知らなかった事実はありましたか?」


「母上に双子のお兄さんがいたことも、その人が白カラスになろうとしていたことも知りませんでした。でも、本当に私が夢で見たようなことはあったのですか? 母には双子のお兄さんがいたのですか? ユズリハ様とそんな話をしたのですか?」


「あなたが夢で見た日のことをはっきり覚えているわけではありません。でも、確かに訓練生の頃、レイカと私はよく雲海の丘に行って、おやつを食べながらおしゃべりをしていました。本当にいろいろなことを話しましたよ。その中にはもちろんカイトの、つまりレイカの双子のお兄さんのこともありました。彼は白カラスになろうとしていて、実際に何年か後には白カラスになったのですよ。私は彼に会ったこともあります。あなたの夢は間違っていません。その内容は全部正しいわ」


「まあ、それをタツトが知ったら、きっと勇気づけられると思います。伯父様が白カラスだなんて。伯父様にできたのだから、自分にもできると思えるのではないかしら。それで、その伯父様は、今どうしているのですか? 母上のお兄さんということは、北砂諸島にいるのですか?」


 ユズリハの表情が曇った。「いいえ、カイトは亡くなったのですよ。あなたやタツトが生まれる前に。だから、誰もあなたたちにカイトのことを話さなかったのかもしれませんね」


 確かに、自分たちが生まれる前に亡くなった人のことならば、ヴェルがまったく知らなくてもおかしくはなかった。それ以上、その話をしてもあまり意味がないと思い、ヴェルは話題を少し前に戻した。


「ユズリハ様は先ほど、私の夢は正しいとおっしゃいましたよね? 夢も間違うことがあるのですか?」


 ユズリハはため息まじりに答えた。「ありますよ。間違った夢、実際にはなかったことをあったように見せる夢を『偽夢』と言います。的に当てようとすればするほど、偽夢も多くなります。夢に対する思い入れが強すぎると、そうなってしまうのかもしれませんね」


「では、偽夢と正しい夢と、どうやって区別するのですか?」

「慣れてくれば、見分けるのはそれほど難しくありません。偽夢の映像はどこかあいまいなのですよ。おそらくそれは、本当にあったことではなく、自分の頭に思い描いたことを夢で見ているからでしょう。その点を注意深く見ておけば、偽夢であるかどうかすぐにわかります」


「せっかく見た夢が偽夢だったら困りますね」

「そうですね。でも的に当たらないことも、同じぐらい問題でしょうね」


 以前カイルの病室で、ユズリハとカイルが的の話をしていた。その時もヴェルは違和感を覚えたが、今もそうだった。『的』を立てて夢をみるということが、ヴェルにはどうにも理解できなかった。


「私、的をたてたことなどありません」


 ヴェルは何かを見たいと思って夢を見ることはなかった。いつも夢のほうが一方的に彼女の元にやってきて、見たこともない世界や物語のようなものを見せてくれるのだった。


 ユズリハはヴェルを安心させるように言った。「必要がなければ、的など立てなくてよいのですよ。テラコダイのアンジュは明示的な的は立てなかったでしょう。的詞まとことばなど絶対使わなかったでしょう。それでも、自分の望むものを夢で見ることができたのです。彼女はきっと直接聖霊に語りかけたのかもしれませんね。そして、聖霊もそれを聞きいれたのでしょう」


「アンジュって誰ですか?」この前もその名前が出てきたなと思いながら、ヴェルは尋ねた。


「大災厄の時代に生きたとされる夢見です。神山を作ったひとりとも言われているのよ。空前絶後の夢見の力を持っていたとされ、彼女の力は神の領域、神さえも一目置くとさえ言われていたそうです」


「そんなすごい人がいたのですか?」


「ええ、でも伝説ですから、どこまでが本当かはわからないわ。でも、その伝説のせいもあって、一般の人たちが、夢見の力をとてつもなくすごいものだと誤解しているのは困ったものですね。実際のところ、私たち普通の夢見の力はたいしたことはないのですが…」


「そんなことはないと思います」ヴェルは心からそう言った。その頃には、ユズリハが神山の中でどれほど偉いのかも少しわかってきていた。「やはり、私も的を立てて、夢を見たほうが良いのでしょうか?」


「ここに残ると決めたのならば、少しずつその練習をするのも良いでしょう。でも、それにこだわることはないと思うのですよ。アンジュではないにしても、あなたにはあなたのやり方があるのかもしれません。何でも人と同じことをする必要はないような気がするわ。的のことなど考えていなかったのに、あなたはレイカと私の夢を見たのですよね? それにより、あなたはここに残ることを決断できたのですよね? そのことのほうが、私には重要に思えるわ」


 ユズリハの言葉にヴェルは聞き入った。ヴェルなりのやり方があると認めてもらえて嬉しかった。


 ユズリハはさらに話を続けた。「夢見のことも大切ですが、ここに残るならば、他にもやらねばならないことがたくさんありますね。クレナ、まずあなたは学舎に通わなければなりませんよ」


 学舎と言われてヴェルはどきっとした。神山にいるヴェルと同年代の少年少女が学舎といわれる場所に通って勉強していることは知っていたが、その瞬間まで、それはヴェルにとって他人事ひとごとだった。どこか自分に関係ない人たちの話だと思っていた。だが、今やそれは、彼女自身に関わるものになっていた。自分の決断によって一気に物事が動き出したとヴェルは実感した。しかも、その速さは彼女の想像を超えていて、彼女は不安になった。


 ユズリハはすぐにそれに気づいた。「もちろん焦る必要はありませんよ。あなたはそういった場所には慣れていないでしょうし。学舎に行くのならば、どの講義を取るかといったことも、あなたが今まで勉強したことを考慮しながら決めなければなりませんからね」


「あの…、できれば学舎に行くのは、タツトがここを出た後にしたいのですが…。今は彼との時間を大切にしたいのです。別れてしまったら、次にいつ会えるかもわかりませんから」


「そうですね…」ユズリハの表情からは、彼女がヴェルの考えにあまり賛成していないことが見て取れた。しかし、しばらくヴェルを見つめた後、ユズリハは言った。


「確かにタツトとの時間は大切にしたほうが良いかもしれませんね。それでも、彼がここを出たらすぐに学舎に通えるように、準備だけは今からしておきましょう。まずは学びの部に行って手続きをしなければなりませんね。それに…」


「何でしょう?」まだ何かあるのかと、ヴェルは身構えた。

「クレナ、ルーベルニアに残ると決めたのならば、あの竜をもう一度召喚してみては?」


 そう言われる可能性をヴェルはどこかで予想し、怖れていた。「でも、私にできるのでしょうか?」


「できると思うし、やらなければなりません。でも、これも急ぐ必要はありませんよ。もう少し気持ちが落ち着いて、やってみようと思えるようになってからで良いのです。気持ちが固まったら、私に知らせてくださいね」


 それを聞いて少しだけヴェルは安堵した。とはいえ、それが単に先延ばしでしかないことも彼女にはわかっていた。学舎に行くことも竜を呼ぶことも、そしてカイルと別れることも、ヴェルはすべて先延ばしにしたかった。永久にそれらが起きなければ良いと思っていた。気持ちのどこかで、まだ自らの決断を受け入れていなかった。

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