第4話 赤い竜 その3
その夜、コウヤはなぜか寝付けなかった。何度か寝返りを打ったのち、彼は諦めて寝床から抜け出した。妻を振り返ると、彼女はぐっすり眠っている。その寝顔は穏やかだった。
(ユズリハは何の夢をみているのだろう? 楽しい夢なのだろうか。それとも夢見で何か探っているのだろうか?)
妻を起こさないように、彼は忍び足で寝室を出て着替えた。どこへ行くかは決まっていた。見晴らしの塔だ。彼が突然現れたら、若い候補生たちは慌てふためくだろう。その光景を想像すると少し可笑しかった。彼が訪れれば若者たちは煙たいだろうが、それは我慢してもらうしかない。
コウヤの家から目と鼻の先に見晴らしの塔はあった。それに油断して、コウヤは上着をはおっていなかった。初春の深夜の空気は思いのほか冷たく、彼の体はすぐに冷え切ってしまった。彼は白い息を吐きながら塔へと急いだ。
塔の入り口には当番兵が立っていた。どこかぼんやりしている。人の気配を感じてその背筋がぴんと伸びた。さらに訪問者が誰だかわかると当番兵は硬直した。
「
「当直、ご苦労。通らしてもらうぞ」彼は塔の中に入った。もう若いとはいえない年齢なのに、ここへ初めて来た少年の頃のように階段を二段飛ばしで駆け上がった。さすがに最上階に着いたときには息が少し切れた。
最上階の管制室に顔を出した時、彼の予想通り、当直の炎の使い手と候補生は飛び上がった。
「長、何かありましたか?」若い炎の使い手は、恐る恐る彼に尋ねた。
「何もない。ちょっと眠れなかっただけだ。ここにしばらく、いさせてもらうぞ。気を使う必要はないからな」
何を言っても若者たちの緊張は解けないと、コウヤにはわかっていた。だが、彼は気にしていなかった。
コウヤは、小さなテーブルの前に部屋の中で一番ましな椅子を持ってきて、腰を下ろした。候補生が茶を持ってきてくれたが、気を使う必要はないと軽く手を振った。彼は足をテーブルの上に乗せくつろいだ。両腕を頭の後ろで組み、窓の外の夜空を眺めた。そこからの見晴らしは最高だった。
(今日は新月か)
塔から月を眺めるのも、竜の背から見るのとは違う味わいがあった。そのまましばらく、彼はぼんやりと外を見ていた。若者たちの緊張が徐々にほぐれてくるのがわかった。
その時だった。マヒロの声が頭の中で響いた。「そちらにカイトが向かっている」
(カイト?)
「赤の七聖竜だ。何年か前まで、夢見の
説明されなくてもコウヤにはわかっていた。あまりに意外だったので、思わず問い返してしまったのだ。(だが、どうして?)
コウヤは立ち上がり、窓の外を凝視した。彼の目には竜の姿はまだ見えなかった。
「赤の界中央部がきな臭いな。それはともかく、竜舞台に行ってみろ。お前が着く頃にはカイトも着くだろう」マヒロが答えた。
「わかった」ここで初めてコウヤは声に出して答えた。
長が突然しゃべったので、若者たちは驚いて彼を振り返った。
コウヤは説明した。「マヒロから連絡があった。俺は竜舞台に行く」
若者たちはすぐに納得した。炎の長の黒竜マヒロの名を知らない者は、この聖竜の神山にはいなかった。
一方コウヤは、マヒロの言葉が気になった。当直の炎の使い手に尋ねた。「偵察部隊から何か報告は上がっているか?」
「いいえ、特には」
「シュリオかニカラギは、ここにいるか?」
「ニカラギ様が下にいます」
「では、中央部の状況を偵察部隊に確認するように、ニカラギに伝えてくれ」
「了解です」候補生が慌てて立ち上がり、階下へ向かった。
コウヤもそれに続いて部屋の外へ出た。彼はカイトのことを思い出しながら、竜舞台へ急いだ。
カイトは、かつてこの神山の夢見の司に召喚されていた竜だった。しかし、彼女が死んだ後、カイトはオゾ山に帰った。その後、飛んでいる姿をたまに見かけることはあっても、カイトが神山に来ることはなかった。
(カイトは何をしに神山へ来る?)
召喚者を持たない竜が、聖竜の神山に来ることは滅多にない。よほどの理由があるはずだ。
コウヤは上空を見上げた。すでにカイトの姿は肉眼でも確認できる大きさになっていた。何人かの人々が、深夜にも
「炎の長殿」背後から女の声が彼を呼び止めた。
声だけで誰だかわかったが、彼は足を止め振り返った。「これは、これは。
彼の問いに政の長、エシュリンは頷いた。彼女は寝巻の上にガウンを羽織っていた。二人はすでに光炎台まで来ていた。彼らと同様に何人かの人々が竜舞台に向かっている。コウヤが見る限り、ほとんどが炎の部の連中だった。竜と縁深い聖竜の神山にあっても炎の部と竜のつながりは特別だったし、何よりも竜を愛している者が多かった。彼らはコウヤと目が合うと、軽く一礼した。
(皆、久しぶりに赤の七聖竜の姿を見たいのだな)
「みな、竜舞台に行くようね」とエシュリンは言った。彼女は彼をじろじろ見て続けた。「ところで、炎の長殿は随分、準備がよろしいこと。こんな深夜にきちんと身づくろいして。あらかじめカイトが来ることを察知していたのか、それともユズリハに寝床を追い出されたのか」
コウヤはわずかに笑みを浮かべただけで、言葉は返さなかった。聖竜の神山きっての切れ者である政の長に、言葉で勝負を挑んでも勝ち目がないことはわかりきっていた。おまけにエシュリンは、彼が
エシュリンは独り言のように呟いた。「なぜ、カイトは来たのかしら?」
(エシュリンは、中央部の状況を知らないのだろうか?)
コウヤはそれを口にはしなかった。マヒロを信頼していないわけではなかったが、炎の長であり、赤の界最強ともいわれる聖竜部隊の最高司令官である彼が発する言葉の重みについては、十分承知していた。「行けばわかるでしょう。急ぎましょう」とだけ言った。
炎神門をぬけると竜舞台が見えてきた。すでにカイトは竜舞台に降りている。聖なる炎を背景に大きな翼が浮かび上がった。赤い鱗はみずから光を放つかのように輝いていた。カイトはわずかな時間、竜舞台に留まっただけで、再び飛び立とうとしていた。
「カイト、待て!」コウヤは呼びとめた。
カイトはそれに答えた。「久しぶりだな、コウヤ、エシュリン。あとは任せたぞ」
それだけ言い残して、カイトは飛び立ってしまった。
コウヤはしばし竜を目で追った。カイトはあっという間にオゾ山のほうに消えて行った。コウヤとエシュリンは思わず顔を見合わせた。
「何を任せるというのでしょう?」とエシュリンは
「行ってみるしかありませんね」
竜はすでに去ってしまったが、コウヤは何か胸騒ぎを感じ、やや足を速めた。長身の彼の早足に付いてくるのに、エシュリンが苦労しているのがわかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
竜舞台は彼らがいる場所よりかなり高い位置にあった。コウヤでさえ、端のほうはともかく、竜舞台の中央がどうなっているかわからなかった。ある程度近づき、ようやく竜舞台の中央が見えてきた。聖なる炎でぼんやりと照らし出されている舞台の上に人影が見えた。「子供だ。子供がいる。ひとり、いや二人」
彼の肩までしか身長がないエシュリンには、まだ何も見えていなかった。「子供ですって?」
「ひとりは横たわっている、怪我をしているのかもしれない。急ぎましょう」
エシュリンは彼に付いてくるために小走りだったが、ようやく竜舞台のすべてが見えたようだった。「ひとりは女の子ね。私が話しかけてみるわ。あなたみたいな大男が話しかけると、
二人は端の階段から竜舞台へ上がった。エシュリンが一歩先に立ち、舞台の中央にいる子供たちに近づいた。ひとりの少女が、横たわった少年を抱き抱えてしゃがみ込んでいた。
(何歳ぐらいだろう。訓練生ぐらいの年齢か?)
エシュリンが赤の界の公用語で少女に話しかけた。「こんばんは、お嬢さん」
コウヤはエシュリンの指示に従って彼女のやや後ろにいた。子供たちに近づいたとき、血の匂いが強烈に漂ってきた。反射的に彼は横たわっている少年に走り寄り、その上に屈み込んだ。少女がそれを
コウヤは思わず少女を押しのけた。血の匂いはさらに強くなった。少女は一旦押し倒されたが、すぐに彼から少年を奪い返そうとした。
「さわらないで!」 叫んだ少女の言葉は、赤の界中央部の国々に多い、スラキア語だった。
コウヤは少女の手を振り払い、少年の体を調べた。少年は右肩から左胸にかけて、目を覆いたくなるほどの深い傷を負っていた。刀剣で切られたことは一目瞭然であり、それが致命傷だということもすぐわかった。少年の体は冷たく、すでに死んでいるのではと思った。念のため首筋に手を当てると、わずかに脈が感じられた。泣き叫んで少年にすがりつこうとする少女を片手で押しのけ、コウヤはエシュリンを振り返った。少女にわからないようにウィログ語で言った。
「この少年は死にかけている。急いで医術師に診せないと、間違いなく死ぬ」
エシュリンは無言で頷いた。少年を奪い返そうとする少女を後ろから抱き留め、公用語で何か話しかけている。
彼はそのすきに少年を抱きあげた。(癒しの診療所へ急がねば)
その時、竜舞台の下にソドルがいることにコウヤは気づいた。ソドルも赤の七聖竜を見に来ていたのだろう。
「ソドル」コウヤが呼ぶとソドルはすぐに彼の元に来た。コウヤの腕の中の少年を見て、はっと息を呑んだ。
「俺は、この坊主を診療所へ連れて行く。お前は俺より先に診療所に行って、医術師たちに準備をさせておけ。一刻を争う重傷者をこれから運ぶと伝えるんだ」
「はい、長」
泣く子も黙る聖竜部隊の中でも、その名を
コウヤが診療所に着いた時には、癒しの長以外の司や使い手たちが、コウヤを待ち構えていた。彼らはコウヤから少年を受け取り、治療室へと運んでいく。コウヤも付いていった。今にも少年が死にそうな気がして、彼はその場を離れられなかった。
そうこうしているうちに、癒しの長のサダクが治療室に入ってきた。こんな時間にたたき起こされたにも拘わらず、いやな顔ひとつしていなかった。コウヤをちらりと見てから、屈み込んで少年の傷を見た。「ひどいな、こりゃ」
サダクは振り返って、コウヤに問いかけた。「コウヤ、この子は君の知り合い?」
「いいや」コウヤは首を横に振った。サダクに近づき彼にだけ聞こえるように囁いた。「赤の七聖竜が連れてきた」
いつもほとんど物事に動じないサダクが「え?」と一瞬動きを止めた。「どういうことなんだ?」
「わからない」
一瞬考え込んだ後、サダクは自らを励ますように言った。「だが、七聖竜がわざわざ助けようとした少年ならば、我々も全力を尽くして助けないとな」
「助かりそうか?」
「うーん」サダクは再び少年に視線を移した。「普通に考えれば厳しいかもしれない。でも、できることはやってみよう。竜血石を、いや、古き竜の血を惜しみなく使えば何とかなるかも…」
「頼む。できることは全部やってくれ」コウヤはもう一度少年を見た。
少年は治療台に横たえられ、助手たちが治療の準備に取り掛かっていた。顔から血と泥が拭き取られている。その顔を見てコウヤはぎょっとした。「レイカ?」
もう何年も前に死んだ女。彼の妻の親友だった女。小さな美しい国の王に見初められてこの地を去った女の少女時代とそっくりだった。髪がもう少し長かったら、見分けがつかないぐらい少年はその女に似ていた。その瞬間、コウヤには少年の素性がわかった。
(おそらくこの少年はレイカの…)
(だがなぜ、彼はこのような大けがをしている? なぜカイトは、彼をここへ連れてきた?)
(まさか?)
コウヤはマヒロの言葉の意味を完全に理解した。
彼は治療室を飛び出した。彼がそこに居たところで、何もできることはない。あとはサダクの腕だのみだ。赤の界一の医術師で助けられないならば、諦めもつくというものだろう。それよりも彼には、やらなければならないことがあった。
部屋を出たところでエシュリンに鉢合わせした。エシュリンは尋ねた。「どう、あの子は?」
「まだ生きていますが、彼はレイカの息子かもしれない」
「あなたもそう思う?」エシュリンも気づいていたようだ。
「娘のほうは?」
「とりあえず来客用宿舎に連れて行って、着替えをさせているわ。ひどく取り乱しているけど、大きな怪我はしていないから大丈夫よ」
「エシュリン。俺は
「わかっている。それから、今夜竜舞台では何も起きていないことにしたからね。竜も誰も来ていない。あそこにいた連中には、その旨、申し渡しておいたから。このことについては、関係者には完全に
コウヤはいつもながらのエシュリンの手回しの良さに感嘆した。「もちろんですよ。さすが政の長殿。何事にも抜け目ない」
「あそこにいたのが、ほとんど炎の部の連中で良かったわ。それ以外の者も、制御できる範囲だったから」
エシュリンが制御できないのは誰なのだろうとコウヤは興味を覚えたが、そのようなことに
立ち去ろうとするコウヤに、エシュリンはさらに一声かけた。「そのままで行くと、皆、驚くわよ」
エシュリンに指摘されて、コウヤは、自分も血だらけになっていることに気がついたが、気にしている暇はなかった。コウヤはエシュリンに軽く会釈すると診療所を飛び出した。炎の部の本部がある紅蓮の塔に急いだ。
作戦指令室へ行くと、彼の予想通り、その時間にしては考えられない人数がそこに集まっていた。緊迫感が漂っている中に彼が現れたことで、皆、わずかにほっとしたようだった。皆、彼が現れるのを待ちわびていたに違いない。ソドルもすでにその場に戻っていた。聖竜部隊の副隊長で炎の第二の司シュリオもすでにそこに来ており、偵察部隊に指示を出していた。
シュリオは血だらけのコウヤを見て眉をひそめた。「どうしたんですか。その血は?」
「俺の血じゃない。それより、何かあったか?」
「いま偵察部隊から緊急連絡が入りました。あなたにも連絡しようと思っていたところです」
「スオウミか?」
シュリオは珍しく驚いた表情を見せた。「よくお分かりですね」
「詳しく聞かせてくれ」
どうやら怖れていた通りのことが起こったなとコウヤは思った。夜明けまでには、まだ時間がある。長い夜になりそうだった。
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