第23話 旅の空の下 その4
旅の終点はカラグロイの北西部にあるガダルカという町だった。商人たちの多くはガダルカかその近郊に住居を持っていた。さらに北に二十里ほど進めば、虚海に面した港町ジブリスがある。そこから北砂諸島までは船で一日ほどの距離だった。ちょっとした小競り合いはたまに起きるというものの、ここ十年ほど北砂諸島とカラグロイの関係は良好だった。
ガダルカに到着すると、皆それぞれ言葉を掛け合って、隊商はまたたくまに解散した。そこには寂しい別れの光景はなかった。また次の年、さらにその先も、彼らは変わらず同じ季節に同じように集って旅を続けるのだろう。
だが、カイルにとって、おそらくもう二度と彼らには会うことのない別れだった。商人たちを見送った後、その場に残っていたのはシュウレイだけだった。シュウレイは、カイルを親族に渡すまでそばにいると、エシュリンだけでなく、ザイツ親方にも約束していた。
「シュウレイさん、ここまで来たら、僕はもうひとりで大丈夫ですよ」とカイルが言っても、
「いいえ、坊ちゃん。私は神山のエシュリン様からも、ザイツ親方からも頼まれています。坊ちゃんを確実に親族の方にお渡しするまでは、ご一緒します」シュウレイはそう言うばかりだった。
「親族の方と待ち合わせの場所は『砂漠のオアシス亭』という宿屋ですよね?」
「ええ」
「ガダルカではかなり上等な宿屋です。あそこは飯がなかなか美味い」シュウレイは砂漠のオアシス亭を知っているようだった。「あれですよ」
シュウレイが指さす方向を見ると、古めかしいが、かなり目立つ建物があった。そこにイエエトの伯父の使いが迎えに来てくれているはずだった。
「親族の方とは会ったことがないのでしょう? どうやって、それとわかるのですか?」シュウレイが尋ねた。
「カイト・ロウアンという名で宿を取るように言われています。それから、合言葉もあって『虚海は今日も穏やかか?』と尋ねるのです。先方が『こんなに穏やかな日は、大災厄以降一日もなかっただろう』と答えることになっています」
そんなことを話しているうちに、カイルとシュウレイは『砂漠のオアシス亭』の入り口に近づいた。一階は食堂になっているようで、中から賑やかな声が聞こえてきた。
「食事時ですね。中で何か食べますか?」シュウレイが言った。
「そうですね」伯父の使いはもう来ているのだろうかとカイルは考えながら答えた。
シュウレイが『砂漠のオアシス亭』の扉に手をかけたとき、扉が突然開いて中から人が出てきた。シュウレイは素早くよけて道を開けた。
「若いの、悪いな」
先頭に立っていた男がシュウレイにカラグロイ語で声をかけた。その男はシュウレイよりもさらに大柄で、後ろに何人かの男たちが従っている。男たちは何かしゃべっていたが、それはカラグロイ語ではなく、北砂諸島で主に使われているエイヌ語だった。カイルは思わず男たちを見た。
先頭を歩いていた男は背が高いだけでなく、がっちりとした筋肉質の体で、むき出しの腕はカイルの足よりも太そうで毛深かった。赤というより金色に近い毛が腕をびっしり覆っている。カイルはその腕を見て熊を連想した。
カイルの視線に気づいたのか、男もカイルに視線を向けた。すぐに表情が変わった。
「お前!」その男は大柄であるにも拘わらず、驚くほど
その勢いに、カイルは本能的にあとずさった。男とカイルの間にシュウレイが素早く割り込んだ。
「坊ちゃんに何か御用でしょうか?」シュウレイは公用語で熊のような男に尋ねた。
「坊ちゃん? お前、この坊主の何なのだ?」男は、今度は公用語でシュウレイに尋ねた。
「聖竜の神山の政の長エシュリン様から、坊ちゃんをご親族にお引き渡しするまでお守りするように命じられている者です」
「そうか、エシュリン殿に頼まれたのか。ご苦労だった。俺がその親族だから、お前の役目は無事終わったよ」
「お待ちください。あなたが坊ちゃんの親族の方だとおっしゃるのならば、まず坊ちゃんのお名前を言って下さい。それから合言葉もお願いします。虚海は今日も穏やかですか?」
「用心深い奴だな。だが自分の仕事をきちんと果たそうというその心意気、感心したぞ。俺の甥はカイト・ロウアンという名でこの宿に来ることになっている。それから合言葉の答えは、『こんなに穏やかな日は大災厄以降一日もなかっただろう』だ。これでよいかな?」
シュウレイは満足そうに頷いてからカイルを振り返った。「坊ちゃん、どうやらこちらは間違いなく坊ちゃんの親族の方のようです。この方のおっしゃる通り、私の役目は終わったようですね」
突然来た別れに、カイルはしんみりした。「シュウレイさん、本当に今までありがとう」
「坊ちゃんもお元気で。聖竜の神山にお越しの際は、ぜひ地上部隊を覗いてみてください。私もいるかもしれませんから」
シュウレイは一礼してその場を去ろうとしたが、熊のような男がその手に小さな袋を握らせた。「さすがは神山のエシュリン殿だ。信頼がおける者に仕事をまかせている」
シュウレイは辞退しようとしたが、男は強引にそれを握らせた。
「坊ちゃん、さようなら」シュウレイも名残惜しそうだったが、カイルとその男に一礼して去って行った。
カイルはしばらくその姿を見送った。シュウレイの姿が見えなくなって、カイルは改めて横にいる男を見た。
「さっきあなたは僕を甥と言いましたね? あなたはタクト伯父上なのですか?」
その言葉に、その男も後ろに控えていた男たちも爆笑した。何かおかしいことを言ったのだろうかとカイルは訝った。
男はにやにやしながら言った。「お前の伯父はひとりだけじゃない。タクトしか名を知らないかもしれないが」
「僕が知っているのは、タクト伯父上以外はマサト伯父上と、ヒロト叔父上だけです」
男は嬉しそうに言った。「そうか、俺の名前も知っていたか。俺はマサトだ。お前の父親カイトのすぐ上の兄だ」
「あなたが、虚海のシャチと勇名を馳せているマサト伯父上でしたか。僕がカイルです。伯父上ご自身がここまで迎えに来てくださり、ありがとうございます」
言い終わらないうちに、カイルはマサト伯父に抱きしめられていた。あまりに力強かったので、窒息しそうな気がした。
「甥がはるばる神山からやってくるというのに、迎えに来ない奴がいるものか。しかし、驚いたな。レイカに似ていると聞いていたから、カイトにも似ているのだろうと思ってはいたが。いやはや、似ているなんてものじゃない。お前はカイトそのものじゃないか? カイトが生き返ったみたいだ。これなら誰が見たってわかる。それに顔だけじゃない。如才ないところもカイトそっくりだ」
カイルは伯父を見上げた。マサトにとっては、カイルはスオウミの王子ではなく、弟カイト・ロウアンの息子なのだ。それはカイルにとって、とても奇妙な感覚だった。
「さてこうして無事に我が甥に会うこともできたから、これ以上ここに留まる理由もない。早速イエエトへ戻るとしよう」
伯父は後ろにいた男たちに言った。男たちも当然とばかりに頷いた。伯父は取って付けたようにカイルに尋ねた。「お前、船に乗ったことがあるか?」
「はい」
「ほう、どこの海で?」
海と言われて、カイルはドキッとした。「海ではありません。ルリ湖で遊覧船に乗ったことがあります」
再び伯父も男たちも大爆笑した。伯父は涙が出るほど笑ってから、カイルに言った。
「湖だって? そんなところに浮いているものは船じゃない。小舟というのだ。俺が言っているのは、荒海を渡る帆船のことだ。お前は本物の船に乗ったことはないのか?」
「いいえ、ありません」
「そうだろうと思っていたさ」伯父はまだにやつきながら続けた。「だが、運のよいことに、夏の虚海は穏やかだ。
伯父は豪快に笑い飛ばしたが、カイルはそれどころではなかった。どうにか微笑もうとしたが、それは引きつっていた。そんなカイルを見て、さらに伯父たちは笑いこけた。
カイルはその瞬間、自分がそれまでいた世界から切り離され、まったく異質な世界に投げ込まれたことを自覚した。名前だけは知っていても、まったく見知らぬ人々、まったく見知らぬ土地。そんな中で、これから彼はひとりで生きていかなければならないのだった。
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