Book 2-V : 利他精神
アンブローズとジョヴァンニは既にアゴラの反対側の出口を通過し、港町に通ずる一本道を南下していた。右手にはまばらな民家が、左手には緩やかに流れる川が見える。
もう地図は不要なので、ジョヴァンニは、貴重な財産を投げ打って入手したパスヴェラの有能ぶりを確かめようと、適当に表面を擦ったり叩いたりしてみた。やがて地図は消え、また規則正しく並べられた象形文字が浮かび上がった。その中から最初に選んだのは、横長の長方形の中に一回り小さい円が描かれた記号だった。触れてみると、たちまちパスヴェラは鏡に様変わりした。
そこに映るいつも通りの自分を見て安堵した。黄金比率と完璧に合致した、科学的にも非の打ちどころのない顔だ。魔界の美的基準は多少異なるかもしれないが、さほど気を揉むことはないだろう。あとはこの半乾きの髪に変なクセがついてしまわないよう、今後小一時間は注意が必要だ。濡羽色の髪というのは、実際に濡れている間は神秘的に青光りしてくれるのだが、それが乾く段階でのメンテナンスに手間がかかる。
それと同時に心配すべきなのが旅費だ。現金が1シェケルも残っていない今、手元にある最も高価なものは……。
自然と視線が左下に移る。
そこで、左側を歩いていたアンブローズが何やらこちらを見ているのに気づいた。
「なに?」
一房の横髪を指に巻き付けて軽く引っ張りながら言った。
「いや顔面偏差値いくつかな〜って」
「いくつだと思う?」
ジョヴァンニは手を止め、アンブローズに正面から顔が見えるように向き直った。
「え〜100超えっすか?」
「113」
「うわマジか〜100超えとか神話の域だと思ってたんすけど!」
七色に光るアンブローズの瞳がさらに輝きを増した。
「それお兄さんのせいでヴァルバリアの平均顔面偏差値上がってるっしょ〜」
「まぁそうだろうな」
「エヘヘへへ」
「つか俺お前のお兄さんじゃないから」
「え〜じゃあ『
「もう引退したし」
「じゃあ『先輩』で」
「もう呼びたいように呼んでいいよ」
ここに来るまでの間に、アンブローズは自身の学歴についてジョヴァンニに話して聞かせていた。高等部から学院に通い出したアンブローズが中等部までしか修了していないジョヴァンニを『先輩』と呼ぶのは不自然な気もしたが、ジョヴァンニは自身の美しさを正当に評価できる人に対しては案外おおらかなのだった。
「つかおn……先輩ってガチで唐璜なんすか?」
「え? 一応、戸籍上は」
「ヤッバいっすね。つかそれってイケメンだから唐璜なんすか? それとも唐璜だからイケメンなんすか?」
「哲学的だなお前」
「ヘヘへへ。で〜こんなときにナンなんすけどぉ〜」
アンブローズは眉間に手を伸ばした。緊張したときにはそうしてずり落ちた眼鏡を直す癖があるのだが、そこで今日は眼鏡が不要になったので襟元にぶら下げて携帯していたことを思い出した。
「なんだよ」
「サインとかって書いてくれたりします〜?」
「えっサイン?」
「ちょっとシャツにお願いしますよ〜」
アンブローズはカーディガンを脱いで、鼠色のシャツの身頃を露わにした。
「この杖、ペンになるんで!」
次に杖を取り出し数回振った。すると、『Σ』がついている方とは反対の端からインクのような濃紺の液体が滴り落ちた。
「何それ有能」
「これで背中側に書いてくれません?」
言いながら杖をジョヴァンニに手渡し背を向ける。
「え」
ジョヴァンニはオリジナルのサインなど考えたこともなかったので、取り敢えず筆記体でフルネームを書いておいた。
「これで……いいのか?」
「うぉ〜おn……先輩! てぃびぐらっす! 一生洗いませんこのシャツ!」
「いや洗えよ」
「えム〜リっすよ〜そんなの! 消えちゃうじゃないすか〜」
「消えたらまた書いてやるから」
「えマァジっすか〜?」
「つかそれ既に洗ってなくね?」
「洗ってるっすよ〜! もともとこ〜いうヘンなくすんだ色なんす」
アンブローズはジョヴァンニが返した杖を強く数回振ってインクの滴を落とし、再びポケットにしまった。
「その杖、親の?」
その様子を見ていたジョヴァンニがどことなく物憂げな声で尋ねた。
自身と同じように魔力を持つ少年が、一般社会に馴染んで友人に囲まれて生活しながらもどういう訳か魔術の腕を磨いてきたらしいと分かって、複雑な気持ちになったのだった。
法律で禁止されている魔術用具をいとも気楽に、簡単に使いこなしているのを鑑みると、どうもさほどの抑圧や葛藤に苛まれてきたようにも見えない。どういう家庭環境で育ったのか甚だ疑問だ。
「え? おじいちゃんのっすよ……ってあ〜! うわ〜!」
アンブローズが突然、絞り出すような叫び声を上げて頭を抱えた。試験中に解けなかった問題の答えが試験終了の合図とともに導き出せたときのリアクションを彷彿とさせる。
“¿Qué?”
先程までヘラヘラと笑っていたアンブローズの豹変ぶりに、ジョヴァンニは直前までの気持ちの翳りを早くも忘れてしまった。
「いやなんでもっと早く気づかなかったんだろ〜」
アンブローズにとって、祖父とは『魔界に住んでいる人』である以前に『顔も知らない、おそらく一生顔を合わすことのない人』だったので、彼を頼るという可能性を無意識のうちに予め除外していたのは、単なる迂闊さ故ではなかった。
「おじいちゃんの千里眼エグいらしいんで〜おじいちゃんなら多分王女さんの居場所も分かるっすよ! あとスペインの行き方も」
「え何お前魔界に親戚いんの?」
「え当ったり前じゃないっすか! おじいちゃんマーリン・シルヴェスターっすよ!?」
「え? お前……そっか……Σって……」
ジョヴァンニは一瞬、耳を疑ったが、ようやく合点がいった。
「マジか」
それにしても、いくら多数の超能力を持っているとはいえ、こんなチャラくて落ち着きのないヤツが本当にあのマーリン・シルヴェスターの孫なのか?
「マジっすよ!」
「すげぇ」
ジョヴァンニはアンブローズをまっすぐ見据えながら、空気の込もった声で素直に感嘆の念を表現した。彼にしては珍しいことだ。
「いやいやいやいや唐璜の方がよっぽどスゴいっしょ!」
「そうか?」
「そうっすよ! だって……。ほら……あれっすよ。シルヴェスター家の子孫は何人もいますけど〜先輩はむいいつゆに……唯一無二の存在じゃないすか〜」
「あ〜そういう見方もできんのか」
「ってことでおじいちゃんの家さ〜がそ。あのさっきのGΠSとかいうヤツで」
「GPSじゃね?」
「つかその前に腹減ってないすか?」
「いや集中力皆無かよ」
やはりこの人物がマーリン・シルヴェスターの血を引いているとは考えにくい。
「お近くに、酒場が、5軒、見つかりました」
アンブローズが次の言葉を発する前に、どこからともなく抑揚のない声が会話に割り込んできた。
「誰だ今喋ったの」
二人は声の主を探すべく辺りを見回したが、誰も見えない。肉眼で確認できる唯一の生命体は、川で行水する小鳥達だった。
「透明人間的ななんかじゃないすか?」
アンブローズはいつも通り思いつきで発言すると、地面の砂を掴んで拾い上げ、四方八方に撒き始めた。
「透明人間てこうやると見つかるんすよ」
しかし、その砂は見えない存在に当たることなく再び地面に舞い落ちた。
それを傍観していたジョヴァンニはふと、手にしていたパスヴェラがちかちかと光っているのに気づいた。見てみると、鏡は消え、代わりに酒場の店名と思しきフレーズと、住所と思しき数字と文字の羅列が5つずつ現れていた。
「ちょ……これ見てみ」
再び砂を掴もうとしゃがんでいたアンブローズも立ち上がり、パスヴェラを覗き込んだ。
「えこいつが喋ったんすか?」
「なんかそうっぽい」
「えマジっすか? なんか石版の精霊的な?」
「何それキモ」
「やキモくはないっすけど。つかさっきの会話全部聞かれてたんすかね? ハッズ!
まいいや。じゃあ石版の精霊さ〜ん? 聞こえますか〜?」
アンブローズが精霊に語りかけた。
「私は、あなたの、パーソナルアシスタントです」
「うお〜」
二人は精霊からの返答に謎の高揚感を覚えた。
「例えば、こんな質問を、してください」
酒場の名前と住所が消え、代わりに質問の具体例がいくつか浮かび上がった。
『今日の日付は』
『ウィリアム・テルとは誰ですか』
『アトランティスまでの道順は』
「え何すかこの人めっちゃ親切じゃないっすか〜。つか赤の他人なのにいきなりパーソナルアシスタントとか利他精神最強っしょ」
「なんかこいつ……あれじゃね? あの……なんかずっとこの石版の中に閉じ込められててさ、俺らがこれ使い始めたから解放されたとか……。でなんか恩返し的な感じなんじゃね?」
「あ〜なんかランプの魔人的な?」
「そうじゃね?」
「お〜分かりみが深い」
アンブローズはジョヴァンニからパスヴェラをひったくると、川岸の岩に跨るようにして座った。ジョヴァンニも後に続いてすぐ隣の切り株に腰掛けた。
「あでもランプの魔人的存在ならやっぱあれなんすかね? なんか質問3つまでとか制限あるんすかね?」
「あ〜そういうのあるかもな」
「おっし。じゃあストレートに:ニムエ王女は、どこっすか?」
「すみません。よく分かりません」
「あ〜分かんないこともあるんすか。って今ので質問一つ無駄にしちゃったんすかオレ」
「いや今のは答え得られてないからノーカウントだろ」
「あっそ〜いうもんなんすかね」
「つか俺ら二人で6問くらいイケんじゃね?」
「お〜まぁそれでも少ないっすけどね」
アンブローズは肝を据えて石版の精霊との真剣な問答を始めるべく、深く座り直そうとしたのだが、どかっと腰を下ろした拍子に片方の靴が脱げてしまった。
ポチャ。
「うわなんでオレ今日しょっちゅう水にモノ落とすんだろ」
「疲労が溜まっていると、ケアレスミスを、連発してしまうことがあります。適度な休息を取りつつ、落ち着いた行動を、心掛けましょう」
「なに質問一つ無駄にしてんだよ〜」
「いやわざとじゃないんすよ〜」
気怠そうな物言いとは裏腹に、川下に流されていく靴目指して駆け出してくれたジョヴァンニの背を、アンブローズは片脚で跳ねながら追いかけていった。
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