Book 1-III : To go, or not to go
バシャーン!
盛大な水飛沫が上がった。レオが宮殿2階にある自室の窓から目下の海にダイブしたのだ。
彼はプロの水夫顔負けの泳ぎ手であった。夏の間、公務やヴァイオリンのレッスンがない日はこうして自邸のプライベートビーチで遠泳や素潜りをして楽しんだ(実際には、かつての愛妹のように水難事故に遭った人を発見したら自ら救助に向かえるよう心身を鍛えておこうという無意識の義務感に追われていたのだが、彼自身がそれを自覚する日は来るのだろうか)。
1ヶ月以上ぶりに触れた地中海の水は心地良い。魂が浄化されるようだ。
しかし、ネプチューンの恩恵を以てしても彼の雑念が完全に洗い流されることはなかった。海の生き物達と戯れながらも(王族の血が流れている者は、中枢神経の複雑さが一定のレベルを上回る動物と心を通わせられるのだ)レオは前日の出来事を思い返していた:午後は雑草と格闘しつつ、脳裏では涙に濡れる妹の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えるのを無視できずにいたのだった。日が暮れて宮殿に戻るとすぐに御者に出迎えられ、ふわふわした頭のまま劇場へ連れて行かれた。
『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』
観劇中は、この世を去った父親の幻影に心を支配されてゆく主人公の姿に自分の現状を重ねていた。この演目を観るのは人生で数回目だったが、今になってやっと悩める王子の心情が理解できるようになった気がした。
妹の命を奪ったであろう水。どこかにまだ彼女の亡骸を隠しているかも知れない海。その海をこよなく愛していることに、レオは罪の意識を覚えるのだった。
どこにいるんだ、ニムエ。返事してくれ。亡霊としてでもいいから戻って来て、今、何を思っているのか伝えてくれ。
平穏な昼下がりの海の中でレオはそう強く念じた。
その直後、数メートル下の海底に輝くものを見つけた。形状からして人工物に相違ない。更に深く浸水してその煌びやかな何かを拾い上げると、それは女児用の靴だった。右足のみ。宝石をあしらった、かなり高価なものだった。レオの近い親戚に女児はいないため、恐らく下級貴族か裕福なブルジョワの令嬢のものだろう……。
いや。違う。
レオは思わず、肺に溜めていた空気を一気に吐き出してしまった。息が持たない。直ちに上に戻らなくては。海底を力強くひと蹴りし、水面まで上昇した。拾った靴をもう一度、日光に照らして、よく見てみる。
これだ。
間違いない。あの運命の日に妹が履いていた靴。捜索活動の末に見つからなかった方の靴だ。
やはり彼女は自分に何か伝えようとしているのか?
そう思った時、
「レオニード! 新しいベルトが届きましたよ。お戻りなさい」
海岸が一望できる窓から母上の声が聞こえ、レオはとっさに靴を懐に隠した。
お母様にはこれをお見せできない。従者達にも。見つかったら取り上げられてしまうだろう。
それだけは絶対に避けたかった。この靴は兄妹を再び結びつける媒体になるかも知れない。でも、どうやって?
その晩、レオは眠れぬ夜を過ごしていた。海外生活で体内時計の歯車が噛み合わなくなったからではない。二人用の寝室にたった一人で横たわり、ブレインストーミングをしていた。
もしニムエがもう……本当に……この世にいないのなら、その魂の年齢は幼児のままであるはずだから、思うように意思の疎通が図れないだろう。かなしい気持ちを伝えるのに泣いて見せるのが精一杯だろう。そして靴は——。「わたしはまだここにいる」とでも言いたいのだろうか。それにしても、13年に渡り彼女が発見されなかったのは実に不可解だ。彼女が落ちた川は口の狭い湾へと続いている。いくら海が荒れていたとは言え、彼女の身体が湾の外へ流されたということは考えにくい。湾内には人間を丸呑みするような生物も生息していない。
レオは視点を変えてみた。これが人為的なものだったら……。途端にこのヴァルバリアで何かが腐っているような気がしてきた。
双子の兄である彼は、やがて有名な『鉄仮面の男』の伝説を思い出した。ヴァルバリアの王族には、性別を問わず王位継承権が認められている。兄妹が後に権力争いをすることを恐れ、誰かが片割れを発見した後も彼女を監禁または隔離しているということはないだろうか。
だとしたら、彼女はまだ生きている!
それにしても、レオはこの事件について無知すぎた。王室でタブー視されていたことだから無理もなかった。
事実を知らないまま妄想を膨らませても埒が明かないじゃないか。どうしたらお母様や従者達の目を掻い潜ってあの日に関する情報を入手できるだろう。そうだ、図書館に歴史書があるじゃないか! 貴重資料だから自由に閲覧できないかも知れないけど、うまく言い訳しよう。たとえ王族という立場を利用することになろうとも。倫理的には褒められたものではないのだろうが、もうそんなこと気にしてはいられない。愛する妹が待っている……かもしれないのだ。
熟考の末、レオの意識は鑑賞したばかりの悲劇に舞い戻ってきた。もし……もし、これが全て思い過ごしだったら——いや、そうでなかったとしても——自分は狂人と化してしまうのではなかろうか。
行くべきか留まるべきか、それが問題だ。
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