Book 1-II : 女王蜂の矜持

倉庫に取り残されたレオは暫しの間、呆然としながらたった今、目の当たりにした怪奇現象について思いを巡らせていた。我に返ったときには、当て所なく校舎の傍を歩いていた。


菜園や小動物の人工巣が並ぶ裏庭に出ると、すぐ近くから柔らかい木管楽器の音色が聴こえてきた。


演奏者はジパング人の血を引く藤原姫奈だ。


彼女の父方の先祖には、16世紀ごろにジパングからスペインに渡った移民達の子孫が含まれると考えられる。彼らのうちごく少数が、祖国独自の呪術を継承するにあたり、やがてスペインとも別れを告げ、魔術と関連分野の研究が盛んなヴァルバリアに移ってきたのだった。実際、彼女の父親は旧魔術師会の中でもとりわけ影響力の強い会員で、マーリンの右腕的存在だった。しかし、あの事件直後、妻と幼い娘が魔術への偏見により不当な扱いを受ける可能性を懸念し、親戚を頼ってたった一人スペインに拠点を移したのだった。


それ以来、政府の計らいもあり、残された母娘は魔術関係者と家族関係にあることを他者に知られることなくひっそりと生きてきた。


その家庭環境こそが今の姫奈のひととなりを形成したと言えるだろう。


彼女の母方の親族はドイツ系移民であり、彼女は「ズィビーラ」というドイツ語名を持っている。この名前は、母が祖国の著名な昆虫学者、マリア・ズィビーラ・メーリアンから取ったのだが、名前というのは不思議なものだ。彼女は物心つく前から昆虫や節足動物に強い興味を示すようになった。


一学年分飛び級してわずか16歳でレオと同じ最上級生になる早熟な優等生である彼女は、現在は飼育栽培部部長を務め、蜂の習性に関する大学レベルの研究に着手していた。というのも、父が残していったジパング産の横笛の音が昆虫や節足動物の行動に影響を及ぼすことに気づき、その習性を上手く利用すれば、現在は危険な害虫とみなされている蜂と人類とが安全に共生できるコミュニティを構築することも可能だろうと考えていたのだ。


彼女の家庭は決して裕福ではなかったが、学年で最年少でありながら常にトップクラスの成績を収め、高校卒業後は特待生としてヴァルバリア王立大学の動物学部昆虫学科に進学することになっていた。


そんな彼女についたあだ名は「女王蜂」だった。女王によって治められている国でしがない一国民にそのような二つ名を使うのは不謹慎だ、と当本人は言っていたが、本物の女王の息子であるレオはこのあだ名に対し不快感を覚えることはなかった。それどころか、母上の玉座に彼女が座っているところを無意識のうちに脳裏に思い描いてしまう自分がいることを認めざるを得なかった。


今日の姫奈は蜂刺され防止のため、真夏日にも関わらず露出の少ない長袖のドレスに身を包み、ベールのついたキャペリンを被って作業していた。普段は自身の知的な雰囲気によく似合う黒を基調としたドレスを着ることが多いが、研究作業中は蜂を刺激しやすい黒色を避け、上品なすみれ色を纏っている。彼女が東洋の皇女だと言われれば疑う者はいないのではなかろうか。


実際、彼女の父は、ヨーロッパで十字軍が台頭するより少し前くらいの時代にジパングで絶大な権力を握っていた貴族の末裔とも言われている。つまり、彼女は今でこそ平民として生きているが、その遺伝子には天が貴人にのみ与える気品と威厳が深く刻まれているのだ。だから、彼女が世襲貴族アリストクラットなのか実力貴族メリストクラットなのか、混乱してしまう人が後を絶たないのも何ら不思議ではなかった。


彼女は秀才として名が知れている反面、共通の趣味を持つ友人が少なく、いつも孤立していた(高知能を持つ人間が、周囲と会話が噛み合わないが故に疎外感を感じるのは別段珍しいことではない)。この日も飼育栽培部員の中でただ一人登校し、残り少ない夏休みを謳歌しようと浮かれている他の部員たちを尻目に蜂たちの世話に没頭していた。


藤原さんは僕が避暑地にいる間もこの炎天下で蟲たちの世話に勤しんでいたのか……。


彼女の勤勉さには、同じく優等生のレオ(文系の生徒の中では彼は学年順位トップ5の常連だ)もただただ敬服していた。歩調を緩めたレオはほんの束の間だったが、自分がそこにいる理由や、たった数分前の奇妙な体験を忘れていた。


しかし、彼女が作業の手を止めて帽子を脱ぎ、こちらを向いた瞬間、レオは反射的に早足になり、彼女に気づかないふりをして横を通り過ぎてしまった。昆虫の知識のない自分が話しかけたりしたらきっと迷惑がられるだろう……そもそもこの状況で彼女に話しかける必要性はない。そう自分に言い聞かせながらレオが裏庭を後にしようとすると、


「おーい、お前何ウロウロしてんだー。雑草抜きでも手伝えー」


と後ろから呼びかけてくる誰かがいた。


ガーデニング部の部員に違いない。恐らく、呼びかけた相手が王族だということに気づいていないのだ。レオは思わず笑みをこぼした。彼は身分を理由に特別扱いされることを嫌い、キャンパスではごく普通の生徒として扱ってもらえることが何よりも嬉しかった。


一方、類まれな注意力を持つ姫奈は、生垣の向こうの気配に気づかないはずはなかった。日々踏みしめる通学路から見える宮殿に昨日、5週間ぶりに国旗が掲げられたことも当然見落とさなかったし、そういう身の回りに溢れる点と点を繋ぎ合わせて不可視の事象について推測することにも長けていた。このような思考回路が彼女をメリストクラットたらしめるのだ。


おかえりなさい。


彼女は心臓の鼓動が僅かに加速したのを感じた。金属製のバケツに映った自分の虚像を一瞥し、頬が少し紅潮しているのも確認した。そして、これらの現象は長時間に及ぶ炎天下の作業に起因するものと結論づけた。これもまた実にメリストクラットらしい理由付けだった。


**********


メリストクラットとは


ヴァルバリアの国民は王族・貴族・平民の3つの階級に分類されるが、これとは別の身分階級制度が併存している。実力主義(meritocracy)と貴族制度(aristocracy)が融合した、「メリストクラシー」だ。


美、頭脳、運動能力のうちどれか一つの分野において秀でた者が、推薦又は試験と投票を経て実力貴族メリストクラットの地位を手に入れ、その特性に応じてアフロディーテ、アテナ、クラトスが司るとされる「パルナ」に属する者と認定されるのだ。身体的な美しさが才能の一種とみなされるのは、孤島で独自の変遷を辿ってきたヴァルバリア文化の特異性の一つだ。


メリストクラットの人口はアリストクラットとほぼ同じ、全人口の1%ほどだ。両者の大きな違いは、前者は必ずしも社会・経済的な特権を享受できる訳ではないという点だ。前述の3つの館は実存の建造物ではなく(各館の構成員を統率しその活動を管理する事務所は存在しているが)、同じ特殊能力を持つ者同士の共通のアイデンティティやコミュニティ意識、プライドといった抽象的概念を漠然と表す語にすぎない。メリストクラットたちのほとんどは平民に紛れ、一般家庭で平凡かそれ以下の生活を送っている。「それ以下」の生活を強いられるのは、個性の強さ故に上手く社会に適応できない者たちだ。


運よく社会でそこそこの成功を収められた一握りのメリストクラットたちは、自らの得意分野に興味を示す凡人を下働き兼弟子として従えることがある。かつてはその凡人を半ば奴隷のように扱う悪徳貴族が散見されたが、今ではその手の悪行は厳しく取り締まられ、師弟関係の健全さが重視されている。


とは言え、凡人を見下すメリストクラットが根絶やしになったわけではない。実のところ、態度や言動にこそ出さないものの凡人に対し強い優越感を覚える者が大半を閉めている。


メリストクラット達は、怠惰や自制心の欠如が原因でその特性を失ったり、不祥事を起こしたりすると地位を剥奪されてしまう。そうして凡人となり、凡俗の境地ミディオクリティに追いやられること——それは、彼らの多くが死よりも恐れていることなのだ。

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