Book 1-I : エメラルドグリーンの瞳
紺碧の布に無数のダイヤを散りばめたような大海原の向こうに、うっすらと陸地が見えてきた。ということは、日没までには帰れる。王家専用の帆船の甲板から水面を眺めていたレオは、遥か彼方にヴァルバリアの港を見つけてそう思った。
今こそ祝わん 溟海のリズム 盟友と共に
夢幻の碧い
レオは人知れず祖国の民謡を口ずさんだ。あれから13年の月日が経ち、17歳になった彼はダーティブロンドの髪と青緑色の瞳が印象的な凛々しい少年に成長していた。
今日は、レオが所属しているヴァルバリア王立バレエ団の団員がヨーロッパでの5週間のダンス留学を経て帰国する日だった。このバレエ団は、東欧の某国からヴァルバリア王室に嫁いだ前国王の王妃によって設立され、現在はその娘にあたるイネッサ女王が名誉団長を務めておられた。王家や貴族の子女が多く所属するこの団体の夏季短期留学は、上流階級出身者の避暑地での慰安旅行も兼ねていた。
**********
翌朝。
ボーン、 ボーン。
時を告げる鐘の音が神殿から響き渡り、レオは目を覚ました。長旅の疲れが出て身体が重い。脚に錨をくくりつけられて海溝に沈められているようだ(勿論そんな経験はないのだが)。天蓋から下がるカーテンの隙間から一条の日光が差し込んでくる。残念ながら二度寝する時間はなさそうだ。でも今は一体何時だ?
ボーン、ボーン、ボーン、 ボーン、ボーン、 ボーン。
もう8時を過ぎている。いつもは7時起床なのに。
ボーン。
9時過ぎ? まさか。時差ボケで大寝坊してしまった。
ボーン。
鐘よ、お願いだからもう止まってくれ…。
ボーン。
11時! 一瞬にして焦燥感の波が倦怠感を洗い流した。
しまった。遅刻する。…でも何に?
数秒後、今日唯一の公務が始まるのは日没後だったと気付き、胸を撫で下ろした。誰しも経験したことのある、悪夢から覚めた直後のあの安堵感に近いものを感じた。今日は王立歌劇場で今シーズンの演目『ハムレット』が開幕する日で、レオも母上と共に観劇する予定だった。
窓の外を見ると、まだ新学期まで一週間あるにも関わらず、少年少女達が国で唯一の学校、ヴァルバリア王立学院に歩いて行くのが見えた。2日後に予定されている新入生歓迎会の準備をするためだ。来年度に生徒会長になるレオも責任を感じて登校することにした。
3ヶ月ぶりに正門をくぐると、生徒達が忙しなく活動していた。ガーデニング部は校庭の手入れをし、社交ダンス部はエキシビションの練習をしていた。実のところ、バレエ団での活動一筋で学校ではいわゆる帰宅部のレオには、これといってすることがなかった。彼は、とりあえず校舎裏の倉庫に行ってみた。
「わーマジ悩むわー」
倉庫の中ではレオの同級生、マルチェッロが複数の絵画を前に頭を抱えぶつぶつ独り言を言っていた。彼はレオと同じく帰宅部だったが、美術品や骨董品に興味があり、放課後に国立博物館でアルバイトをしていた。主な職務は閉館後の清掃であり、数々の胸像や肖像画に囲まれて孤独に作業するうちにモチーフの人物達に語りかける癖がついてしまったのだ。
「絵がどうかしたの?」
「おっ殿下が帰国しとる! いつの間にー?」
「昨晩だよ」
「マジかー。姉貴も一昨日帰ってきたばっかなんよね。ほら、グランドツアーの話したやん?」
「そうなんだ! さぞ実りある旅だったんだろうね…」
「グランドツアー」という言葉はレオにとってはクラゲの触手のようだ。ヴァルバリアの若者たちは二十歳前後で数ヶ月〜一年ほどのグランドツアーに旅立ち、複数の国と地域で見聞を広めるのが慣わしとなっていた。近隣諸国との交流が不活発で地図にも載っていないような小国に籠ったまま教育課程を終えれば、視野の狭い人間になってしまうからだ。しかし、一流の教育を受けられる環境にいるはずのレオは…。
女王陛下はあの事件以来、同じ悲劇を繰り返すまいと過保護になっていた。レオは学校とインターン先以外の場所へ一人で赴いたことがなかった。母上や親族が同伴しない海外旅行なんて夢のまた夢だろう。
「でさー会場に飾る絵がまだ決まってないんだわ。なんか先公は『なんでもいい』とか言うんだけどさー。いやそれ一番困るパターンやん」
「そうだよね(そう、立憲君主制が敷かれた国家を治める上で一番困るのは、参政権を行使せず意見を明確にしてくれない国民が多いことだ)。じゃぁ…これは?」
レオはアルチンボルドの模作を指差した。
「いやーこいつは時代先取りしすぎでアカンやつや。ヴァルバリア国民にはまだ早い」
「そうなのかな?」
マルチェッロは、ヴァルバリア国家元首の息子の前でさもこの国は芸術後進国であるかのような物言いをする無神経さの持ち主だったが、レオは生来大らかな上、平民からの批判的意見にも冷静に耳を傾けるよう教育されてきたので(18世紀の革命の戦火がヴァルバリアに飛び火しなかったのは王家のこの方針あってのことだ)、これくらいで気分を害することはなかった。
それに、ヴァルバリア人は確かに保守的で前衛的な芸術作品はなかなか受け入れられないのだった。
「ヴァニタス系の絵もなんか厨二病感強いやん?」
レオには「厨二病」が何かは分からなかったが、新年度の幕開けにmemento moriはそぐわないのは明らかなので、きっとそういう意味があるのだろうとコンテクストを元に推測した。
「ロココ様式は春ってイメージだから秋学期には合わないよね」
二人で頭を悩ませているうちに、レオは、埃を被った麻布が被さったままの絵が一点あることに気づいた。
「なにこれ」
「あっ、ちょま、それは……」
マルチェッロが止める間もなく、レオはカバーを取り去った。
それは、幼いニムエの肖像画だった。レオは今の今までこの絵の存在を知らなかった(いや、厳密には、忘れていただけだ)。それもそのはずである。王女を想起させるものは全て、悲嘆に暮れる陛下の精神的安定を保つため、陛下の目の届かないところに隠されてしまったのだ。
「…オ、オレやっぱ絵じゃなくて彫刻飾るわ」
気まずい空気が流れ、マルチェッロは何処かに歩いていってしまった。
レオは布を戻す前に妹の絵を間近で見てみた。彼女のエメラルドグリーンの瞳が彼を見返す。幼少期の幸せな思い出が一気に蘇ったのち、罪悪感が高潮のように押し寄せてきた。
あの時、僕が彼女の元を離れなければ…。
レオは、ニムエがバルコニーから転落したのは自分の軽率さが原因だったと考え、13年もの間、自分を責め続けていたのだった。
その時——。
「!?」
ニムエの左目の下に水滴がついていることに気づいた。雨漏りか…?
レオは天井を見上げたが、雨粒が滴り落ちたような痕跡はなかった。困惑したままもう一度絵に目をやったレオは、今度は妹の右目の目尻から大粒の水滴が滲み出てくるのをはっきりと見た。泣いているのだ。絵画の中の妹が。
レオは声にならない声を上げながら数歩後ずさりし、背後を歩いていた誰かにぶつかってしまった。
「あっ失礼しました」
「あっサッ、サーセンした」
レオより2歳年下の後輩、アンブロジウス・メイリン・シルヴェスター(通称アンブローズ)だった。
「王子先輩! ご無沙汰…っつか帰ってたんすね! や、別に先輩の陰が薄いとかゆーわけじゃないんすけどぉ」
燃えるような赤毛を持つ彼はどこにいても人目を引く。だが、彼が注目の的になる本当の理由は、彼があの大魔術師マーリンの孫であるからだった。彼は人気者である反面、問題児でもあった。彼はマーリンから受け継いだ魔力を持て余し、度々超常現象を引き起こしていたからだ。
とはいえ、彼のような未成年者が自身の魔力を利用した際は、補導の対象になることはあっても違法行為とは見なされない。魔術師の血を引くものは、個人差はあれど魔力を持って生まれ、それを完全に制御できるようになるのは思春期が終わる頃からなのだ。
ニムエの涙は、彼が…? レオの頭に一瞬、疑いの念がよぎった。しかし、アンブローズの太縁眼鏡の奥から覗く素直そうなヘーゼルの瞳を見て、彼がそんな不謹慎な悪戯をするはずがないと思い直した。
「つか先輩これ見てくださいよぉ。シルクローダーからヤバいの買ったんすけどこれがマジでパなくてぇ」
シルクローダーとは、ヴァルバリアのスラングで、シルクロードを通ってヨーロッパや地中海の諸島にやってくる人々を意味する。主に極東や中近東の商人を指す。
動揺を隠せないレオをろくに見もせず、アンブローズは抱えていた箱の中身をレオに見せながら早口で喋り始めた。
この後輩は「ヤバい」「パない」といった単語を多用する傾向があった。平民が創り出したと見られるこれらの単語は文脈によって意味が若干異なることをレオは知っており、その意味を正確に読み取れるよう努めながら聞いた。
アンブローズが所持していたのは、中国から仕入れた風水グッズだった。風水を始め、直接人類や人間界に影響を及ぼすことのない占術は魔術とは見なされないため、合法である。そして、アジア系移民の子孫である母方の親戚の影響で中国語を習得した彼は、難解な風水の教本を原文で読むことのできる、国内で数少ない人物の一人であった。
細身のドラゴンに似た生き物(正確には「龍」と呼ばれる)の置物や羅盤など種々雑多な代物が紹介され、その説明にレオの理解は追いつかなかったが、アンブローズが最後に取り出した黒い水晶玉の美しさには畏敬の念に似たものを抱いた。
「これが
アンブローズの手の中のその水晶玉は、日光を浴びて神秘的な妖光を放っていた。
一通りの説明が終わった時、チャイムが鳴り響いた。ランチタイムの終了時間の合図だった。
「うわぁぁ飯食い損なったんすけどどうしたらいいっすか」
「それは僕に言われても(君の方から話しかけてきたんじゃないか)」
「アゴラで買い食いして帰ろ」
そう言ってアンブローズは倉庫を後にした。
レオがもう一度妹の肖像画に目を向けたときには、既にあの涙らしきものは乾ききり、何の変哲も無い絵画に戻っていた。
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