クレオス・アパリション

ヴァルバリア王立図書館員M.K.

プロローグ・脱魔術化へ

Alea iacta est——賽は投げられた。


運命の分岐点を告げる先人の言葉がレオの心に木霊する。さあ、ルビコンを越えよう。


***13年前のある日***


太陽と月の永遠の愛撫と

感涙にむせぶ空

碧海の永遠の恩寵と

響き渡る子守唄


国家元首たるもの、国歌はもっと誠意を込めて歌わねば。ただでさえ混沌としたイネッサ女王陛下の胸中に微塵ながら新たな自責の念が渦巻き始めてしまった。


時は19世紀初頭。イオニア海に浮かぶヴァルバリア王国は今夏、史上最悪の干ばつに見舞われ、平民はおろか貴族や王族までもが飢饉に苦しんでいた。国歌斉唱に合わせてなんとなく口を動かしているだけの陛下の視線の先–––草木が干からびて薄茶色になった野原の中央–––には、魔術師会総長のマーリン・シルヴェスターを取り囲むようにして他の魔術師たちが立っていた。複数の飢饉対策がことごとく失敗に終わったのち、国家の危機管理部は、絶大な魔力を持つ彼らに雨乞いの儀式を執り行うよう要請したのだった。


女王の脇では彼女の長男にして王位継承順位第一位のプリンス・レオニード(略称レオ)と彼の双子の妹、プリンセス・ニムエが、幼さ故に状況が理解できないながらも不安げな面持ちで目の前の光景を眺めていた。野原には雨乞い執行人たちの親族のほか、様々な身分の見物人が続々と集まってきた。


儀式の開始時刻。太鼓の鼓動に合わせた斉唱が終わり、野原は水を打ったように静まり返った。見物人が固唾を呑んで見守る中、マーリンは一羽の鷲を空へ解き放った。鷲は力強く羽ばたき、鋭い鳴き声をあげながら滑空して行く。程なくして魔術師たちは呪文を唱え始めた。レチタティーヴォの様な呪文の掛け合いが数十分続いた。やがて–––。


ピシャッ!


魔術師たちの頭上に閃光が走り、雷鳴が轟いた。そして、再び静まり返った野原に一滴、また一滴と雨粒が落ちてきたかと思うと、瞬く間に滝の様な雨が降り出した。雨乞いは成功したのだ。群衆は歓喜と安堵の混じった声を上げた。


**********


それから1ヶ月後。


ヴァルバリア国民の顔からは笑顔が消えていた。30日間も降り続いた豪雨が一向に止む気配を見せないのだ。王国全土に暗雲が立ち込め、川は氾濫し、国民は落雷に怯えながら生活していた。


沿岸部に聳える宮殿のバルコニーからレオとニムエは退屈そうに外を眺めていた。


「あしたになったら、おそとであそべるかなぁ......あっ」


ニムエは外の光景に気を取られているうちに、手に持っていたお気に入りのフランス人形を落としてしまった。人形は1メートル程下の木の枝に引っかかった。そのすぐ下には土石流が轟音を上げて流れている。


「おにいさま、とってぇ」


ニムエは涙目になりながらレオに訴えかけた。レオはバルコニーの柵の間から精一杯腕を伸ばしたが、人形に手は届きそうになかった。


「ごめんね、てがとどかないや。でもだいじょうぶだよ。ちょっとまっててね」


そう言ってナーサリーを後にしたレオは、宮殿が伽藍堂になっていることに気づいた。いつも面倒を見てくれる召使い達は、国家の危機に直面して激務に追われ、幼い兄妹に構っている時間はないのだった。


レオが広い宮殿を横断して母上の部屋を訪ねると、陛下は望遠鏡で沖をご覧になっていた。外国船籍の帆船が荒波に揺られ、今にも転覆しそうだったのだ。帆柱に幾度も雷が落ちるのが見えた。


嗚呼、誰かが船から投げ出されたわ! いえ、あれは人にしては小さすぎるかしら…。


ついに異国の人々を巻き込むほどの大事に発展してしまった–––。


そうお考えになり、陛下は身を切り裂くような罪悪感を感じておられた。というのも、雨乞いを決行しようという最終決断を下したのは、他でもない陛下ご自身だったからだ。しかし、そこに愛息子が来て事情を話すと、陛下は、御心労とは裏腹に、いつも通りの慈愛に満ちた笑顔をお見せになった。


親子が子ども部屋に着くと、そこにニムエの姿はなかった。バルコニーに置かれていた椅子の台座には、小さな足跡が付いていた。


まさか......。


陛下はバルコニーの外をご覧になると、言葉を失って床に倒れ込まれた。レオが母の元へ駆け寄ると、柵の向こうにはニムエの群青色のドレスの切れ端が木の枝から力なく垂れ下がり、風に煽られているのが見えた。


直ちに王女の捜索活動が始まった。嵐の中、衛兵や水夫が総動員された。しかし、三日三晩の捜索の結果、見つかったのは王女の左足の靴だけだった。


**********


魔術とは本質的に危険を伴うものであり、いかなる魔術も災いの種となりうる。どれほど有能な魔術師であっても、魔力を完璧に使いこなせるという保証はない。故に魔力の不始末による事故を防ぐため、今後はヴァルバリア王国において人類が魔術を利用することを固く禁ずる。魔界に通じる扉は永遠に閉鎖されるものとする。


これが、ヴァルバリア政府の出した結論だった。雨乞いの儀式を執行した魔術師たちに至っては、その行動が干ばつ解消に繋がって多くを救ったという事情が考慮され、豪雨に起因するあらゆる被害に対する責任を問われることはなかった。それでも以降、人目を憚って生活することを余儀なくされ、多くは自身のルーツを辿って国外に移り住み、やがて魔術に関するあらゆる事物は負の遺産としてタブー視されるようになった。


魔界で隠居生活を送ることを決めたマーリンは、移住後、内部から魔界とヴァルバリアを繋ぐ扉を封印した。


そして、ヴァルバリアでは魔力に頼らない国家創りが始まった。

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