Book 1-IV : 招かれざる客

ヴァルバリアの民族衣装は、比較的シンプルで自由度が高いのが特徴だ。ほとんどの女性は膝が隠れる長さのワンピース(それより長いドレスを身につけるのは王族と世襲貴族の婦人達の特権だ)を、男性は階級を問わず襟付きのシャツに長ズボンをまず着用する。その上に、袖もボタンもないロングジレを着て、鳩尾から腰骨まで届く幅広のベルトを巻くだけで完成だ。


宗教的な儀式参列時の装いや団体組織の制服といった一部の例外を除いては、上記のすべてのアイテムの色は好きに決めていいし、リボンや花やヴァルバリア名物の針金細工で装飾を追加してもいい。


レオは落ち着いたオリーブ色や亜麻色を自分の色と決めていた。まだあまり世間の目というものを気にしていなかった頃、特に何のこだわりもなくこの配色の服でとある祭典に出席したところ、その装いと黄昏時の砂浜のような髪色、そして深い青緑の瞳が相まって、「地中海を擬人化したようだ」と全国紙に書かれたことがあった。その表現がとても気に入ったので、以降、意識的にこれらの色を選ぶようになったのだった。


ジレの長さは階級と地位によって決まる。平民のものは短く、ベルトの下からかろうじて裾がのぞく程度なのに対し、メリストクラットを含む貴族や騎士、聖職者のものは太ももまで届く。現時点では10人足らずの王族のものは原則、膝丈だが、女王陛下のものは床まで届く長さだ。王太子であるレオは他の王族達と陛下の中間的な位置付けにいる訳だが、彼の場合はそれを反映してふくらはぎあたりまで届く長さと定められている。


そして、王室お抱えの職人が届けてくれた新しいベルトは期待を遥かに上回る出来栄えだった。布は一切使用されておらず、糸のように細い針金をラタン張りの如く器用に編み込んで作ったのだった。貝やイルカをはじめとする海洋生物を模した飾りが独創的で、緑みの強いターコイズもいくつか埋め込まれていた。


このベルトを巻いたら、あとは父が遺した冠を被ればレオにとっての正礼装が完成し、新入生歓迎会に臨む準備が整う。


**********


学院本館内の会場には在校生、同窓生、そして新入生とその親族が詰め掛けていた。開会の挨拶は彼の生徒会長としての最初の職務だった。


「本日はご来場いただき誠にありがとうございます」


スピーチの内容は予め暗記していたため、原稿は持っていない。数百人の出席者一人ひとりに語りかけるような気持ちで話し続けた。見覚えのある顔ぶれ————。


その間を縫って小走りで会場を横切る幼い少女がいた。未就学児は出席できないはずなのに。レオの立ち位置に左後頭部を向けたまま遠ざかっていくので顔は確認できないが、明るいブロンドの髪がシャンデリアの灯りに照らされ小刻みに揺れている。


ニムエ、君なの?


参加者たちは、少女にぶつかられそうになっても無反応だ。まるでレオ以外の人々の目に彼女は映っていないかのように。謎の少女に気を取られ、レオは数回スピーチの言葉を言い間違えたり飛ばしたりしそうになったが、なんとか持ち直して話し終えた。


次は青少年オーケストラの演奏をバックにダンスが始まった。社交ダンス部によるエキシビションの後、過半数の参加者も踊りに加わった。その間に少女を見つけるべく、レオは自らと同じく連れのいない参加者たちが集まって談笑している会場後方に向かった。


嗚呼、何事もないまま丸一日が経過したと思ったのに。


一度寝て目覚めた頃には、入眠前まで心を揺さぶっていた憂悶と懐疑の荒波はすっかり沈静化していた。前日の出来事がまるで聴き飽きた戯曲の一編のように感じられ、もはや自分の身に本当に降りかかったことのようには感じられなくなっていた。枕元に飾ってあるマトリョーシカを開けて、中に隠しておいたあの小さな靴をその目で確認するまでは。


それでも、起床時から開会までは、スピーチ内容の最終チェックと、苦手意識の対象が参列者に混じっていた際の対処法を練ることで頭がいっぱいで、次第に妹を取り巻く怪異への意識は薄れていったのだった。ただの偶然の連鎖が喪失感と罪悪感のレンズを通過して、何かのお告げのように自分の目に映っていただけかもしれない。そんなふうにさえ感じ始めていたのに……。


「えっ先輩もぼっちっすか? 意外〜!」


少女が駆け込んだと思われるパティオにいよいよ手が届きそうになった時、アンブローズに呼び止められた。彼にもエスコートする女性がいなかったのだ。仕方なく後輩と当たり障りのない世間話をしながら、レオはパティオの方に気を取られていた。


「つか、パティオになんかあるんすか?」


あっけなく感づかれてしまったようだ。


「あ……えっと、少し蒸し暑いから空気入れ替えようか」


ひょっとしたら、魔力を持つアンブローズは何か超自然的なものを察知できるんじゃないだろうか。そう思いながらレオはパティオのカーテンを一思いに開けた。


「あら、レオ様ぁ! やっと迎えに来てくださったのねっ!」


そこには先程の少女ではなく、派手に着飾った、色彩学には精通していないことが明らかなティーンエイジャーがいた。レオの幼馴染のジザベルだった。彼女は、レオとは直接血の繋がりのない貴族、メラノガスター男爵のご令嬢だった。レオたちが十代を迎えた頃から、男爵夫人のドーナ・ドロスフィリアは一人娘を王家に嫁がせようと躍起になっているという噂が流れていた。ジザベルはプラチナブロンドにスカイブルーの瞳を持つ器量の良い少女だった。学校のミューズ的存在であるため複数の男子生徒から誘いを受けたのだが、王子にエスコートされることを念頭に置いて断ってきたのだと思われる。


「ねぇどうしてもっと早くに誘ってくださらなかったのっ?」


ジザベルが上目遣いで甘えた声を出しながら迫りよってきたので、レオは胃のあたりに不快感を覚えた。彼は媚びを売る女性が大の苦手だったし、そんな女性は王家には相応しくないと分かっていた。


「あら、ベルちゃん! ここにいたのねっ!」


ドーナ・ドロスフィリアも小走りで参上した。母娘揃って一体感のない無数の安物の宝石を全身に纏っていた。


「ねぇレオくんママはどこなのっ?」


ブルジョワ階級からコネを利用して男爵家に嫁いだ元平民の分際で国家元首即ち女王陛下をママ友扱いするそのデリカシーの欠如は、彼女が「エセ貴族」と呼ばれる所以だった。それでもレオは、今朝まで入念に頭の中で練ってきた自作プロトコルに則り大変礼儀正しく応対した。非常識な人間の非常識な言動を真に受け、負の感情を露わに反撃しようものなら、自分もその人間と同等のレベルまで堕ちてしまうのだ。


「母は諸事情により出席できなくなりました」


「あら残念! まぁよろしく言っといてネッ! そんなことより早くしないとダンスの時間が終わっちゃうわよ!」


レオは強制的にダンスフロアに押し出され、ジザベルと共にワルツを踊らされた。それを後方で監視するドーナ・ドロスフィリアが大袈裟に咳払いした途端、


「きゃー。あのお二人、お似合いのカップルねー」


「あの子はお妃候補だわー」


群衆の中から感情のこもっていない叫び声が聞こえてきた。ドーナ・ドロスフィリアは平民を雇って予め考えさせておいたセリフを言わせ、印象操作を目論んでいたのだった。


依然として「ぼっち」状態が続き、仕方なく立食形式の軽食に手を伸ばしていたアンブローズは、その様子を横目で見ながらレオの心境を的確に察していたたまれない気分になった。先祖たちの読心能力が中途半端に遺伝したのが災いし、日頃から極度の共感性羞恥に悩まされていた彼だったが、このような気まずいシチュエーションは何度遭遇しても慣れられるものではなかった。


レオは一刻も早くこの辱めが終わることを祈った。あの天井の豪華絢爛なシャンデリアを点灯するのにどれくらいの時間を要するのだろうとか、マルチェッロが選定したミロのヴィーナスの模倣作はなぜ後頭部から腰にかけての部分が割とぞんざいに作られているのだろう(これは現物にも当てはまることである)とか、どうでも良いことを考えて気分を紛らわした。


やがて、思いがけないタイミングでダンスタイムの終了が訪れた。


「おい見ろよ、なんかキッショいのがいる!」


「マジだ! キモス、キモテロス、キモタトス!」


この「キモテロス、キモタトス」とは、「気持ち悪い」を表すスラング「キモス」に古典ギリシャ語の比較級、最上級を作る接尾語「〜テロス(-τερος)」「〜タトス(-τατος)」を足して造られたクリエイティブな若者言葉で、レオが海の向こうにいる間に流行り始めていたのだった。


会場の隅で誰かが声をあげた。続いて参加者数人の悲鳴が聞こえた。人だかりの中央では、比較的年長の男子生徒の集団が何かを取り囲んでいた。彼らは黒をチームカラーとする不良少年達だ。


「つかこーゆーのってよぉー、栽培飼育部の責任じゃね?」


番長ドン・カタリノンが態とらしく言い放った。


それを聞きつけ、ゴシック風のドレスに身を包んだ少女が、長いフリル付きジレを他者の装飾品に引っ掛けないよう注意しながら人混みを掻き分けて進み出てきた。姫奈だ。彼女の目線の先にいたのは……。


見る者に原始的な嫌悪感を抱かせる、不気味なまだら模様の蛇だった。


姫奈は一瞬にして青ざめ、その場に硬直した。どんなに気味の悪い奇蟲にも愛着を持つ彼女が苦手とする唯一の生物は、他でもない、蛇だったのだ。幼少期に枝だと思い込んで掴んだら、グニャっとねじれた蛇。その手の感触が十数年の時を経て鮮明に蘇ってきた。


普段は物怖じしない性格の姫奈が憔悴しきっているのを見て、不良少年達は声を殺して笑っていた。とは言え、彼らは姫奈に対してなんの恨みもなかった。ヴァルバリアの不良少年には、他の生徒の弱点を調べ、記憶し、仲間内でその情報を共有する習性があるのだが、そうして姫奈が蛇恐怖症であることを学習していた彼らは、才色兼備な彼女の気を引きたいという未熟な思考から悪戯を仕掛けただけだった。


「えっ何すか? マジ何すか?」


姫奈に続いて、アンブローズが野次馬根性を丸出しにして介入した。その後、立ち止まって目をほんの一瞬見開いたものの、あろうことか素手で蛇を捕まえた。魔術師の血を引く彼にとって、人間界に脅威など存在しない (と彼自身は自負していた)。


群衆が唖然とする中、次にジザベルとレオが野次馬達の最前列まで到達した。ジザベルは他の大勢と同じく興味本位で、レオは生徒会長として如何なるトラブルにも善処せねばという義務感から、状況を把握しに来たのだ。


何やら姫奈が巻き込まれていると知り、ジザベルはほくそ笑んだ。彼女はこういう瞬間を心待ちにしていた。彼女自身が毎日必死で外見を磨いている一方、女王蜂は磨き上げられた知性と、その内面の美しさに見合った気品溢れる容姿を兼ね備えていた。その現実のせいでジザベルの内面は外見と乖離の一途を辿っていた。学校のクイーンは自分でなければ気が済まないのだった。


「あんたのせいでせっかくのパーティが台無しじゃない! 責任取ってよね!?」


まだ硬直したままの姫奈に向かってジザベルががなった。その理不尽な叱責に、レオは反射的に言葉を発した。


「なんの根拠もないのに人を悪人扱いするな!」


レオが婦女に対して声を荒げたのは恐らくこれが初めてだった。いつも温和な王子が豹変し、群衆は静まり返った。レオ本人も動揺していた。姫奈を庇おうとするあまり、思わず語気を強めてしまったのだ。


レオの学友達は日頃、彼の特殊な身分を常に意識している訳ではないが、その他の多数の参加者にとって王子とは滅多にお目に掛かれない貴人だ。いくらこの国の政治体制が専制主義からかけ離れているとは言え、王族の言うことは絶対だと考える者は一定数いる。レオの言葉を受け、参加者達が一斉にジザベルに非難の目を向けた。


その頃ようやく身体のコントロールを取り戻した姫奈は、開口一番、


「ごめんなさい!」


と謝罪し、深々と頭を下げて会場を飛び出した。


待って! 


そう心の中で叫びながらレオもすかさず後に続いた。この時、彼を突き動かしていたものは何だったのか、彼自身にも分からなかった。歓迎会の主催者の一人である生徒会長が混乱状態に陥った参加者たちを見捨てて会場を後にするなんて、普通に考えればあってはならないことだ。なのに、なのに……。どうしても姫奈を放っておけない、そういう思いに呑まれてしまったのだった。


「ウ、嘘でしょ!? こんなのあり得ないわ!」


硬く口を閉ざすか、小声でヒソヒソ話すかの二分化が進んでいた参加者達の耳に、唐突に甲高い声が飛び込んできた。


「これは悪い夢よねっ? あ゛の゛小゛娘゛さ゛え゛い゛な゛け゛れ゛ば! いえ、これには訳があるんですのよ。オホホ。ほらねっ、下々の皆さん、ベルちゃんの言い分も聞いてちょうだい! ねっ? ねっ?」


周囲の凍てつくような視線が娘から母に移る。


「え、ダメ? ダメなのねっ!? もうせっかくの縁談がパーよぉ! どうしてくれるのォォォ……。いえ、でも、まだ遅くないわ! そうよ! ほら、ベルちゃん、あなた、今年も王子様とクラスメートになるんでしょ? 一年あれば挽回できるわ! プリンセスらしく振舞って挽回するのよ! あなたならできるわっ!」


ドーナ・ドロスフィリアは、頭の中に存在していた縁談が危機に瀕していることを嘆きながら、悲しみの5段階を一気に網羅した。その間、わずか30秒ほどだった。


一連の出来事を目撃したアンブローズは、再び共感性羞恥の拷問を受けていた。透明になる能力を持ち合わせていないことが悔やまれる。そう考えながら彼は、手の中の蛇が不自然なほど大人しいことに気づいた。死骸だったのか。いや、さっきは確かにうねうね動いていたはずだ。


頭部を軽く掴むと、蛇はパックリと口を開けた。ところが、その喉の奥には無数のバネが詰め込まれており、糸のほつれのようなものも見てとれた。


「……ってこれオモチャじゃないっすか〜。これ持ってきた奴出禁確定っしょ」


エセ貴族の道化的言動のお陰で緊張感が緩和され始めた会場で、アンブローズは誰にともなく言った。


程なくして、不良少年達が会場に不審な麻袋を持ち込んでいたとの目撃情報が寄せられた。言うまでもなく、全て自作自演だったのだ。彼らは悪事を暴かれ、新学期早々、停学処分を食らった。

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