Book 2-VII : 離脱

小屋は風通しの良い広々とした厩舎で、中には馬が十数頭いた。その馬達の背中からは豪華な羽飾りのついた大きなブランケットが……いや、翼が垂れ下がっている。これがペガサスという生き物か。神話の一編を切り取って具現化したようなその麗姿にレオは感嘆した。


「私はこの厩舎を管理しておりますキクリと申します」


青年が自己紹介した。


「ほらレグルス、お二人をごらん」


その声に応じて進み出てきたのは、一際立派な白馬だった。キクリの言う通り、そのペガサスはレオを認識した上でノスタルジーのような想いを抱いているのが見てとれた(王族が動物と心を通わせるにあたり、動物の鳴き声や吠え声を人間の言葉として解釈していると思い込んでいる一般人は多い。しかし、これは大きな誤解である。複数の動物種にとって発声は確かに重要なコミュニケーション手段の一種だが、実際には、表情や耳・尻尾の振り方、その他の部位の動かし方等がシニフィアンの大部分を占め、王族はそれを適切なシニフィエに結びつけて理解する能力を有するのだ)。


そしてそのノスタルジーの根源を悟った途端、レオは衝撃のあまり視界が揺らいだように感じた。


嗚呼、人間の記憶というのはなんて気まぐれで不完全なのだろう。


*********


レグルスは、物心ついた頃には宮殿にいたはずだ。仔馬ながらその時点でもうレオの目線では背中が見えないほどの体高だったが、確かに肩甲骨あたりから白銀に輝く一対の翼が伸びていた。


その翼が、ニムエがいなくなってしばらくしたある日、突然消えてしまったのだ。


レオは当然ながら従者達にそのことについて尋ねたが、誰も彼も話を逸らしたり、何やら小難しい言葉を並べ立てて幼い王子の頭を混乱させたりして、真相を教えてくれなかった。中でも当時の御者の出鱈目は酷いものだった。あの仔馬は常に背に白鳥の雛を乗せていたが、その鳥は成長して飛行能力を身につけたのでどこか遠くへ飛び立っていったと言うのだ。そもそも白鳥の雛は白くない。


今、13年越しに謎が解けた。レグルスはすり替えられたのだ。魔界の封印が決まってから、大人達は幼ペガサスのレグルスを元の世界に戻し、代わりにEquus caballusの仔馬を連れてきて同じ名前を与え、同一の馬だとレオが思い込むように仕向けたのだ。


よく見れば顔立ちや骨格から性格まで、あらゆる差異はあったはずだ。レオは怒りを覚えたが、それが従者達に対してなのか、彼らにまんまと騙されていた自分に対してなのか分からなかった。もしかしたら、信頼できる人物の欠如という状況に向けられたものなのかもしれなかった。


まだ秘密があるのではないか。


ニムエについても、自分の知らないことを知っている者がいるのではないか。


17年間、面倒を見てくれていたのが自らを平気で欺く者達だと分かった今、誰を信じればいいのか。


しかし、良い兆しも見えてきた。


この世界は案外、狭いのかもしれない。13年前に送還されたペガサスと偶然再会できるような世界なら、同じ頃に生き別れになった人間を見つけ出すのだって、夢物語ではないはずだ。


*********


「あの、リュサンドロスさん?」


姫奈の声で我に返った。ヴァルバリアの事情に精通している可能性のある人物の前でレオの本名を呼ぶのは憚られたので、彼が使用した偽名を再利用した次第だが、不思議なことに本名での呼びかけに付随する例の気まずさは誘発されなかった。


「ところでお二人は何しにこちらへ?」


レオが言葉を発する前にキクリが尋ねた。


「それは、えっと、人を、探しているんです。その人は、13年前に行方不明になりましたが、今は魔界のどこかにいる可能性があるんです」


「13年前ということは、あの封印の直前ということでしょうか?」


「そう、いうことに、なります」


「そうですか、なら旧ヴァルバリア大使館に行かれてみてはいかがでしょうか? ヴァルバリアからこっちに来た人々の記録が残っているはずです」


大使館!


そんなものの存在は、少なくとも宮廷では知られていない。いや、それとも……。


「これならちょうどいい」


キクリは天窓越しに屋根の風見鶏を見上げながら言った。


「あなた方にぴったりの交通手段をご案内できます」


まさか、目の前の神話生物に乗れというのか?


その場合はレオと顔馴染みのレグルスを選ぶのが筋だと思われるが、キクリは彼の脇を通り過ぎて厩舎の突き当たりまで行き、そこに保管されていた物体に手を掛けた。


「こちらです!」


キクリが麻のカバーを取り払うと、それは鳥を模った木製の人工物だった。布が張られた横幅1.5mくらいの翼が両脇から伸び、その後ろに人が二人は座れそうな台座が取り付けられている。


『Ornithopter X』


尾翼に掘られているのがこの物体の名称に違いない。


オーニソプターといえば、確かダ・ヴィンチが考案した飛行装置だ。驚異の部屋か理科室に一時期、設計図が貼られていたような気がする。いずれにせよ、姫奈の名前の頭文字が付いているというだけで、レオはこの装置を気に入った。


「僕は以前、ペガサスの飼育と販売を生業としていたんですが、昨年の暮れにマスター・ミランダ・ケイモンという方と取引をしましてね、この子達を皆、大切に終生飼養することを条件に、このオーニソプターをタダで貰ってレンタル業を営む許可を得たんです」


「その方は、修士号保持者なの?」


姫奈が質問した。


「いえいえギルドマスターですよ。彼女のギルドは、今まで動物が担ってきたあらゆる仕事を人力で済ませられるよう、新たな魔術や技術テクネを開発してるんです。これは彼女達の最新の発明品で、まだ世界に3機しか存在しません」


その人物の苗字がギリシャ語の「ケイモン(χειμων)」に由来するなら、先述の「X」は恐らくカイであり、残念ながら姫奈の頭文字ではないということになる。しかし、それでレオの関心が削がれることはなかった。今度は、件のギルドの試みが、かつてのヴァルバリアが辿った変遷と真逆であることに興味が湧いてきた。


*********


ヴァルバリアには畜産動物は存在しないが、魔術が合法だった頃は使役動物も利用されていなかった。労働はクラトスの館の貴族達が担い、人力では不十分な場合は魔術師達の協力も仰いでいた。例えば、人の移動や物資の輸送には、軽量の素材で作られた、馬車に似た車両を箒に跨った魔術師達が牽引する「飛行車」が用いられていた。


魔術の違法化に伴い、その伝統が消滅した後は、身体能力に優れた者達の貢献がそれまで以上に重宝されるようになった一方、輓獣としての馬や驢馬の利用が習慣化したのだった。


*********


「レンタル料は1日10シェケルです。乗馬の基礎を心得てる方なら乗りこなせます」


幸いなことに、レオは王族の嗜みとして幼少期から乗馬を習ってきた。


「二人乗りで、前に乗った人が機体の両脇を軽く蹴るだけで離陸できます。先端から伸びてるこの紐を手綱だと思ってください。それで速度と高度を調整できます。ただこの技術はまだ開発段階でして、一つだけ致命的な問題があります。風属性でないと向きが変えられなくて、それ以外の人はただひたすら風の吹く方向に向かうことしかできないんです。でも今日は心配ご無用です。今の風向きと風速なら、ここから風下に向かえば5分もしないうちに旧大使館に着くでしょう」


キクリは慣れた口調で一気に説明を終えた。


「同じ方向にしか進めないなら、返却時はどうするの?」


姫奈が問うた。


「風向きが変わるまで、24時間ごとにプラス8シェケルでレンタルを延長していただくこともできますが、用がお済みの頃に飛行車をチャーターして郵送でご返却いただく方がお安くなります。送料は島内一律7シェケルですから。こちらにご一報いただければ発送手続きは代行いたします」


手続き以外に関する疑問も山ほどある。


手綱は翼には直結していないように見えるが、どういう原理で制御できるのか。


途中で天候が急激に悪化したらどうなるのか。翼は濡れても正常に機能するのか。


何より、事前に飛行の実演を見せてもらえないのか(できれば重石などで成人二人分の体重を再現した状態で)。


パスヴェラ購入時のように進言を求められる可能性を見越して、彼女はあらゆる要素を考慮し天秤に掛け、批判的思考に基づいた判断を下そうとした。


ところが、レオは二つ返事でキクリの勧めに乗り、予算の4分の1に当たる金額を惜しみなく差し出してしまった。


それが向こう見ずな人間の行いだとは承知していた。しかし、当面は当て所なく彷徨うことになりそうだったこの旅路で、初めて明確な目的地が定まったのだ。その上、自然の力が彼をそこに導いてくれるという。厩舎の窓や壁の隙間から吹き込んでくるこのそよ風は、カンマルフィーリャでのあの豪雨の如く、出会うべき人物の居場所へ彼を誘っているのではなかろうか。その誘いに応えるためなら何も出し惜しみすることはないし、恐怖心や不安感で二の足を踏んでいる場合ではない。


一人っ子の姫奈には理解できない兄妹愛がそこにあった。理解できなかったが、彼女はその決断に異論を唱えなかった。理解できないなら、せめてその愛情の炎を数多の冷酷さから守り抜きたいと思った。


キクリは厩舎の裏口を大きく開き、裏手の空き地にオーニソプターを押し出した。


座席の高さは成馬の体高よりはだいぶ低く、レオはひらりと跨ることができたが、姫奈ほどの身長の女性がスカート姿で搭乗するには不便だったので、キクリが踏み台を置いてくれた。


レオは後ろに姫奈が横座りで着席したのを確認し、手綱を握り締めて両足の踵で機体を蹴った。


すると、先刻のアンブローズの箒のように、オーニソプターは二人諸共ふわりと浮かび上がった。二人は同時に息を呑んだ。


「お役に立てて光栄です。幸運をお祈りいたします! ではお気をつけて!」


キクリに見送られ、二人は順調に上昇していった。


行手には山並みが見える。ネピシュフィーリャに相当する地帯だ……が、東西の幅が狭い。そして西側には雄大な湖がある。それが、この島がヴァルバリアの単なる複製ではないことを示していた。


地図上では、旧大使館はその湖岸付近にあるようだ。


一段と強く吹いた風に乗ってさらに高度を上げると、島北部の丘陵地帯の向こうに海が見えた。


あれは、本当に海なのか。それとも、サファイアやエメラルドやダイヤモンドが敷き詰められた果てしない平原なのだろうか。この世界なら、後者だっておかしくない。


無論、未知の感覚だが、強いて言うならばロマン派音楽の壮大な調べが精神に、肉体に、響き渡るのに似ている。人間離れした想像力に恵まれたロマン派の音楽家達にレオは畏敬の念を抱いてきたが、彼らは実は人間ではなかったのかもしれない。彼らは皆、この狂おしいほど美しい光景を目にしたことがあるのかもしれない。


姫奈は象牙の塔から世界の広範囲を見下ろすことに慣れていたが、その日常は彼女に皮肉な閉塞感を与えるのみだった。彼女の16年間は、今のような開放感とは無縁の歳月だった。この瞬間が永遠に続いたら……! レオの肩に遠慮がちに掴まりながら夢想した。重力を無視して空間を自由に行き来できるなら、時の流れにだって従わずに済む術があるのではないか。もしあるなら、その原理などもうどうでもいい。


やがて、比類なき高揚感とは裏腹に、レオは息苦しさを覚え始めた。それが、口元に絶えず風を受けて空気が必要以上に気管に入り込んでくるからなのか、歓喜の泪が込み上げてきているからなのかは分からなかったが。


「息が苦しくなってきたら言ってね、姫奈さん!」


風の音に掻き消されないよう、そして涙声にならずに済むよう、喉に力を入れて叫んだ。


「私は、大丈夫! でも……」


これからは姫奈って呼んで!


今なら、言える。


「ねぇ、あの……」


それでも躊躇いが生じて俯いた。すると、ちょうど真下あたりに馴染みのある二人の頭頂部が見えた。


「あれ、アンブローズ達じゃない?」  

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