Book 1-XVII : Alea iacta est(前編)

次世代を担う若者達には、魔力ではなく科学の力で未来を切り開いてほしい。そういう願いを込め、今から11年前、魔界への入り口の跡地にこの学院は建てられた。


開かずの扉がある驚異の部屋は、四方を廊下に囲まれており、収容人数30〜40人ほどの教室として設計されている。しかし、机や椅子、黒板はなく、代わりに豪勢な装飾が施されたアンティークの棚が壁沿いに何台も並んでいる。そしてそこには、深海や新世界から持ち寄られた動植物の標本や化石、異国情緒ある美術品や工芸品、そして独特な形状の楽器の数々が詰まっている。それらの貯蔵品は、魔力のない世界にも驚嘆と賛美に値するものが溢れていることを後世に伝える役割を果たしていた。


吹き抜けになっているこの部屋には、天窓からまだほのかな日光が差し込んでいた。


いとも簡単に魔界の封印を解く手筈が整った上、それを直ちに実行せねばならない状況に陥ってしまった。レオは後悔の念を抱いた。これからどんな冒険が待ち受けているか皆目見当がつかないが、食料を持ってくるとか、もっとちゃんと旅支度を整えてくればよかった。だが今更後戻りはできない。


開かずの扉は、まさに夢で見た通りの観音開きの扉だった。レオが鍵を握り締めたまま膝立ちになると、鍵穴がちょうど目線の高さになった。穴の中は真っ暗で、決してすぐ反対側に異世界が存在している訳ではないのが窺えた。言うまでもない。物理的には本館内の別の部屋に繋がっているはずのこの扉の裏に何か異様な光景が広がっているのが目視できたら、興味本位で穴を覗き込んだ生徒達の間でとっくの昔に騒ぎになっているはずだ。


レオが深呼吸して気持ちを落ち着かせ、鍵を掲げたその時––––。


トン、トン、トン。


くぐもったノック音が後方から響いた。


続いて、他の3人が落胆と焦燥の入り混じった吐息をついたのが聞こえた。


万事休す。


瞬く間に、真空状態のようになったレオの脳内にその言葉だけが形成された。

驚異の部屋自体の入り口も開かずの扉と同じく両開きだが、より簡素な設計だ。鍵は掛けられず、両側のドアに細長い金属製の取っ手が縦向きに取り付けられているのみだ。


ギィー。


歯軋りのような耳障りな音が響き、外側からゆっくりとドアが開けられた。ノックを無視したので無人だと思われたに違いない。


アンブローズがすかさずドアの前にスライディングし、入ってこようとする誰かと対面した。


ブルーグレーのロングジレを纏い、腰から長いサーベルを下げた二人の青年だった。もう本館内の調査が始まっていたのだ。


「うぃ〜っす! なんか用っすか?」


教頭と対面した時と同様、平静を装った。


「君、まだここにいたのかい? 他のみんなは帰ってしまったよ」


「あ〜それなんすけど〜」


アンブローズは咄嗟に左右を見て、言い訳のネタになりそうなものを探した。先輩達は、入り口のすぐ脇の、標本の入った瓶が並べられた棚の陰に身を潜めていた。その棚には、箒とモップが一本ずつ立てかけられており、床には水を張った大きなバケツもあった。きっと新学期前の清掃が予定されていたのに、このような事態になったので、当番だった誰かが用具を置いたまま帰ってしまったのだろう。箒に手を伸ばした。


「オレ今日掃除当番なんすよ〜」


「ん? まだ聞いていないのかい? 今日は緊急事態だから君たちには一旦帰宅してもらいたいのだが」


「いやオレちょっとヘマしちゃって〜100日連続罰当番なんすよ〜。だから今日も帰れなくて〜」


「そうかい。それは困るんだがね。最も調査が必要なのは、まさにこの部屋なんだ。10分くらいしたら戻ってくるから、それまでには切り上げてくれたまえ」


「うぃ〜っす」


事なきを得た。やはり開かずの扉が主な調査対象にされているようだが、10分もの猶予を得られたのだ。解錠して裏側の世界に忍び込むには十分すぎる。


「おっしギリギリセ〜フ」


言いながらアンブローズは放り投げるようにして箒を元あった場所に戻そうとした。


バシャ。


穂先が思い切り当たって大きく揺れたバケツから、貯めてあった水が勢いよく溢れ出た。


「あちゃ〜まいっか自然乾燥で」


「待って、後で騎士の人が戻ってきた時に床が水浸しじゃ怪しまれちゃう」


「あ〜確かに」


「これは私達でなんとかするから大丈夫」


姫奈はバケツの縁にかけてあった雑巾を手にしながらレオに言った。


その言葉を受け、レオは再び扉の前に跪いた。鍵を持つ手が震える。ついにこの時が来た。もうすぐ愛する妹と再会できるかもしれない。彼女は、一体何を伝えようとしているのだろう。扉の向こうの世界は、一体何を隠しているのだろう。お母さま、お許しください。これがどんなに危険なことかは承知しています。それでも僕は構いません。これは全て彼女のためなのです。彼女のためなら、お母さまだって同じことをされるのではありませんか?


期待と不安と罪悪感で指先の感覚が麻痺して、鍵を鍵穴に差し込むという単純な動作が行えない。


「ハイ残念時間切れ」


そうこうしているうちに背後から鍵を引っ手繰られた。声の主は振り返らなくても分かった。


「あ」


「お前のようなヘタレには荷が重すぎるんだ!」


芝居掛かった口調で言いながら、ジョヴァンニはレオに憐憫のこもった眼差しを注いだ。「ヘタレ」が何を意味するのかはレオには分からなかったが、これが相手に劣情を抱かせる常套手段なのは理解できた。


「水を差すな」


「まぁいいから後は俺に任せろ」


「鍵を返せ。これは命令だ」


無論、誰が扉を開けても同じことなのだが、この鍵を過去に遊び半分で盗んだことのある人物の手にもう一度渡らせるのは危険だと直感し、緊急時のみ目下の者に対して発して良いと母上から教えられてきた「命令」を使用した。


「うっせ〜なテメェ何様のつもりだよ。童貞は下がってろ」


ジョヴァンニは、この逼迫した状況でぐずぐずしているレオに苛立っていた。それと同時に、今になって一連の出来事の理不尽さに対しても不快感が渦巻いてきた。自分がやれば体罰を受けるに値する悪事を、今まで善い子を演じてきたレオや姫奈が平気でやってのけた上、そのさらに延長線上にある重罪を犯そうとしているのだ。幼少期に引き離された家族と再会するという共通の目的はあれど、これ以上レオと足並みを揃えて前進する気は無くなった。


「返してって言ってんの! ヴァルバリア語分かります?」


姫奈が背後からつかつかと歩み寄ると、ジョヴァンニは咄嗟に彼女の手の届かない高さに鍵を持ち上げた。姫奈は、直前の彼の発言の含意とその大人気ない行為とのギャップに呆れながら、精一杯背伸びをして鍵に手を伸ばしたが、掴もうとした瞬間に誤って床に叩き落としてしまった。そして、あろうことか鍵は扉の下の僅かな隙間を通って向こう側まで滑っていった。


「うそでしょ……」


「ねぇなんでいつもそうやって物事を複雑化すんの?」


ジョヴァンニは鼻にかかった、陰険そうな声で言った。


「そっちが余計なことしたからこうなったんでしょ!」


言い争う二人を背にレオは恐る恐る扉と床の間から向こうを覗いてみた。やはり真っ暗で内部の様子はよく分からないが、幸いにも鍵はまだすぐそこにあるのが確認できた。


「大丈夫だ。何か細いもので掻き出そう」


そう言うや否やこめかみ付近にすっと木の棒が差し出された。モップの柄だ。


「あぁこれじゃちょっと太すぎて……わっ!」


レオが振り返ると、そのモップはなんとひとりでに立ち上がって、濡れた床の上をジグザグに動いていた。


「何やってるんだ!」


「え何って……こうすれば手間が省けるじゃないすか」


アンブローズは得意げに言った。姫奈が目を離した隙にまた魔術の力を借りたのだった。


「それ拭けてなくね?」


ジョヴァンニが指摘した。確かにすでにモップは限界まで水分を吸収しており、床の水をより広範囲に広げているだけだった。


「お〜言われてみれば」


誇らしげな表情から一転、間の抜けた声で返事をすると、アンブローズは再び懐から杖を取り出した。


「じゃあ〜これうまくいくか分かんないすけど」


「Σ」の字が下向きになるように杖を床と水平に構えると、空気中の見えない何かをこねるように反時計回りに回し始めた。


すると、床の水はそれに合わせてゆっくりと弧を描きながら一滴残らず浮遊し、徐々に上昇していった。


レオは素早く部屋を見回し、入り口にも、廊下との間の壁にも、窓は付いていないことを改めて確認した。この状況で魔術の乱用という不法行為自体を止める理由はなかったが、第三者に覗き見られたら一巻の終わりだ。


水は天井に近づくにつれ、霧状に変わり、消滅するかと思われた。ところが——。


ぼて。


アンブローズの眼鏡のレンズに大粒の水滴が落ちてきて、視界が遮られた。


ぼて、ぼて、ぼて。


続いて部屋のいたるところに水滴が落下してきた。


ザザー。


原因はアンブローズ本人にも不明だったが、今の魔術には意図していたのと真逆の効果があったらしい。天井近くで凝縮された水分は雨雲に変貌していた。やがて、最初に溢した分の数百倍には及びそうな多量の水が降り注ぎ始めた。


「おかしいな、外は晴れてるのに雨みたいな音がするぞ」


「あっちから聞こえてこないか? なんだ、床が濡れてる!」


廊下から騎士達の声がした。


しまった。聞こえるはずのない音と存在するはずのない水が早くも廊下に漏れ出ているのだ。また誰かが入ってくるのも時間の問題だろう。


ずぶ濡れで横たわる箒を姫奈が掴み、入り口の二対の取っ手に差し込んで即席の閂にした。


その時点で既に床全体が浸水していた。


こうなったら、一刻も早くあの扉を開けなくては。


細い棒……。細い棒……。細い棒……。


レオは辺りを見回した。種々雑多なものが陳列されているにも関わらず、鍵を掻き出すのに適した棒がない。動物の標本から骨か角をへし折って使うというアイデアが浮かんだが、虫唾が走りその発想を慌てて頭から振り払った。


そうしている間にも、先刻の豪雨をも上回る量の水が絶え間なく降り注いでくる。その水が顔全体を濡らし、手を額にかざして下方を向いていなければ、呼吸するだけで鼻や口に流れ込んでしまう。


あっという間に膝下まで水が溜まった。廊下にも相当の量が流出しているはずだ。


バン、バン、バン。


複数人の手が外から入り口を叩いている音がした。閂代わりの箒と溜まった水の水圧で、内開きのドアが密閉された状態をかろうじて保っている。


「あ〜ヤ〜バいっすねもう。ちょと顔面貴族のお兄さん、ここは雷で扉をドカンと……」


「ダメそんなことしたらみんな死んじゃう!」


ヴァルバリアでの大気電気学の認知度は非常に低いものの、アテナの館にはこの分野に明るい者が数名いた。姫奈はその一人ではなかったが、水中では電気の影響が広範囲に広がると聞いたことはあった。


どのみち、ジョヴァンニは自らの意思で雷を発生させることはできなかった。恐怖心や憤りなど負の感情がコントロールできなくなると、無意識のうちにこの能力が発現してしまうのだった。裏を返せば、今の状況がさらに悪化して彼が平常心を保てないようなレベルに達したら、4人全員の命が脅かされることになる。


***後半に続く***

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